<<話選択へ
<<前のページへ

(4/4ページ)

 身体にまとわりつく不快な重さに、葵は目を覚ました。
朦朧とする意識に映る天井に見覚えはなく、夢の中かと思ったほどだ。
だが、以前にも不快な夢を見たことがある葵は、すぐに違うと気がついた。
あの時は、こんな風に指先まではっきりとした不快さは感じなかった。
我思う、故に我在り――そんな風に心が肉体を形作っていたような、
記憶に残ってはいても、身体が覚えてはいないあの出来事は、なぜ始まり、なぜ終わったのか。
小蒔には勉強のしすぎだとからかわれ、保健室の教諭にも少し疲労が溜まったのだ、と言われ、
そんなものかもしれない、と再発しなかったので深く考えもしなかった唐突な悪い夢。
あれがまた始まったのか、とまだぼんやりとする視界を眺めながら考えていると、全身に痛みが走った。
やはりあの時の夢とは違う――あの時は、こんなはっきりとした痛みは感じなかったのだから。
 記憶が徐々に明瞭になっていく。
新宿中央公園で龍麻を待っていたはずが、佐久間が現れ、そして――
そこまで思いだして、葵は上体を跳ね起こし、身震いした。
恐怖に震えながら身体を見下ろす。
濡れた泥まみれの制服と、膝から下にかろうじて残っているだけにすぎないストッキングが、
恐怖を固形化させていく。
自分の身体に何が起こったか、全てを思いだしてしまった。
「あぁ、あ……!!」
 両腕に爪を立て、葵は咽ぶ。
あまりに巨大な絶望が肺を押し潰し、悲鳴さえあげられなかった。
均整の取れた肢体をきつく引き寄せ、しかかる絶望にひたすら耐える。
けれどもそれを支えるのに、葵の肩はあまりに細すぎた。
半ば狂乱に陥りかけて、葵は辺りを見渡す。
今いる場所に心当たりがなく、もしも悪夢が続いているのなら。
それは確かめるのが怖ろしい現実だったが、確かめないわけにはいかなかった。
 生活感のあまりない部屋は、それほど広くもなかった。
特別きれいなわけでも、汚れているわけでもない室内に、
住人を想像させるものはただひとつを除いて見あたらなかった。
 部屋の隅に、龍麻が居た。
葵に背を向け、そこだけが黒い染みになったかのように、ずぶ濡れの身体を昏くうずくまらせて。
一目見ただけで、葵は龍麻が自分と同質の哀しみを背負っているのだと判った。
葵が、自分で指定した時間より三十分早く来てしまったために起きた禍事を、
龍麻は自分の責任だと感じているのだ。
その認識は、葵が背負う絶望の、新たな重りとなった。
「緋勇……君」
 葵が声をかけると、龍麻は丸めていた長身をさらに縮めた。
そのみすぼらしさは、学校で誰とも口を聞かなくても平然としている態度からは程遠く、
葵は、龍麻が本当は孤高を欲してはいないのではないかと思った。
しかし、それを確かめる術は、もうない。
龍麻と心を通わせる機会は、永遠に喪われたのだ。
その事実を痛感したとき、葵の目から初めて大粒の涙が落ちた。
「……ごめん」
 壁を向いたまま、龍麻が呟く。
それが本心からの謝罪であるのは疑いようもなかったが、葵は同時に自分の想いが届かなかったことも知った。
もしも――もしも自分を好いてくれていたなら、せめて顔をこちらに向けてくれただろうから。
 葵の哀しみはいや増したが、奇妙なことに、龍麻への失恋が佐久間にされた事に対する哀しみを
吸いとってしまったかのようで、二つ分の重みとはならなかった。
頭の中は相変わらず、考えるのが面倒なくらい重く、痛かったけれど、
葵はようやく自分以外のことに目を向ける余裕が生じた。
「……」
 ベッドを降りた葵は、よろめく足で龍麻の許に行く。
彼の背中には不可視の針が生えていて、そうされることを望んでいなかったのが解っても、
今だけは、この瞬間だけは、そうしなければならなかった。
「救けてくれて、ありがとう」
 龍麻の肩に手を置いて囁く。
口がうまく動かなくて、声が届いたか不安になったが、掌から伝わる彼の気持ちを、葵は大切に胸にしまい、
彼の広い背中に、せめて顔だけでも押しあてたい衝動に懸命に耐えた。
もしそうしてしまえば、きっと全身ですがりついてしまっただろうから。
「シャワーを浴びてきた方がいい」
 小さく、事務的に告げる声に、葵は救われる思いだった。
何か指示を与えてもらわないと、何もする気になれない。
彼の肩に貼りついてしまいそうになる手を、葵は唇を噛んで剥がした。
 龍麻の言葉で急に寒気がよみがえる。
こんなときにも寒気を感じる身体に疎ましさを感じながら、
葵は龍麻が濡れたままの自分をベッドに寝かせてくれたことに気づいた。
他にどうしようもなかったとしても、彼の寝る場所をしばらく使えなくしてしまい、申し訳なく思う。
そして同時に、気を失っている間も龍麻は、自分が先にシャワーを使おうとはしなかったことにも気づいた。
 葵は立ちあがり、浴室へと逃げこむ。
そこでなら、思いきり泣ける――少なくとも、シャワーを出している間は。
蛇口を思いきりひねった葵はその場にうずくまり、感情を解放する。
涙はどれほど零れても、尽きることがなかった。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか、葵が浴室から出てくる。
壁に向かって座り、身じろぎもしていなかった龍麻は、小さな物音に大げさなほど首をすくめた。
おそるおそる振り向き、彼女の顔を見て複雑な思いに駆られる。
特に変わった様子はない――怒りや悲しみ、あるいはもっともおそれていた虚脱には陥っていないようだ。
けれども目には隠しようのない涙のあとがあり、しかもそれでいて異様な美しさを湛える表情に、
龍麻は慟哭せんばかりだった。
 なぜ彼女のような人間が傷つかなければならないのか。
なぜ自分はもっと早く死を選んでおかなかったのか。
これまで、龍麻が関わった幾つかの厄災の中でも、美里葵が穢されたという事実は、最も龍麻をうちのめした。
いずれマリアと共に、彼女を含む大多数の人間を、大破壊の地獄に落とすという役割を忘れたことはない。
龍麻に裁きの天使たる資格は与えられておらず、誰が死に、誰が生きるかを選ぶことなどできないのだ。
だから、誰にも関わらないよう、マリアがもたらす運命の日までを過ごそうと決めていたというのに。
人ならざる力を持っていながら、それを有効に用いることもできず、
ただ周りの人間を不幸にするだけの自分を、龍麻は呪った。
「緋勇君……?」
 底の見えない自己嫌悪に嵌っていた龍麻を、気遣わしげな葵の声が呼び戻した。
どうやら見てはいなくても眼球は彼女に向けて固定してしまっていたようで、声にはいくらか怯えも混じっている。
慌てて龍麻は目を逸らし、再び壁の方を向いた。
「あの、シャワーを……貸してくれて、ありがとう」
 礼を言う必要なんてない。
叫ぼうとして龍麻は止めた。
これ以上、どんな些細なことでも彼女が傷つく必要などない。
少なくとも彼女の想いを受けとめようとしなかった男には、そんな資格など微塵もないはずだ。
 意を決して、龍麻は葵の方を向いた。
そのためには精神に過大な負担を強いさせなければならなかったが、強引に突破した。
そんなものは罰ですらなく、ただ自分が嫌なだけだからだ。
葵の方こそ男など見たくもない、特に緋勇龍麻という男など、
佐久間と共に消えてしまえば良かったのにと思っているに違いなく、
さらに余計な世話によって家に連れこまれ、話したくもない男と話さなければならないというのに。
「……ごめん」
 そう言おうとして、龍麻は寸前でその愚かしい言葉を封じこめた。
なんと卑怯なことを自分は言おうとしたのか。
傷ついた女を前に、これからは一生護ってやるとすら言えない男が、
よりにもよって最も口にしてはいけない語句を恥知らずにも吐きだそうとするとは。
龍麻は拳を固め、床に強く、抉りぬかんばかりに押しつけた。
 龍麻が言いかけて止めてしまったので、部屋には沈黙が流れる。
重く濁った、息苦しさを感じさせる沈黙は、龍麻が振り払わなければならないものだった。
「……家まで、送っていくよ」
 泥濘の中で必死でもがいた龍麻がようやく見つけだしたのは、お世辞にも上出来とは言えない台詞だった。
こんな程度のことしか言えない自分にどうしようもない羞恥を覚えつつ、おそるおそる顔を上げる。
拒まれて当然、との思いは、だが裏切られた。
「ええ……ありがとう」
 笑顔でこそなかったが、葵の表情には感謝に近いものが浮かんでいた。
まだ残る恐怖に歪められていても、彼女の顔は龍麻を魅了した。
 立ちあがり、龍麻は玄関に向かう。
すでに手遅れだったとしても、葵を送り届けるのは、崇高な行いであるはずだった。
死しても許されるはずのない、罪を犯したのだとしても。
 雨はまだ上がってはいなかった。
葵のとなりを、すべての感覚をそばだてて歩く龍麻は、それが良かったのかどうか判らない。
ただ、夕方から少し強さを増した雨は、助けになってくれたのは確かだった。
雨音と、傘という微妙な距離がなければ、
彼女を見ることにさえ罪悪感を感じている龍麻は途方に暮れていたに違いない。
 並んで歩きながら、結局一言も会話を交わさないまま、龍麻は記憶のある道にさしかかる。
その角まで行けば、葵の家はすぐのはずだ。
以前はそこで挨拶を交わして別れたのだ。
けれども、今日は経過も結果も違う。
苦い既視感を飲み下した龍麻は、葵も同じ既視感に囚われているに違いないと思うと逃げだしたくなった。
 葵が先に立ち止まる。
龍麻も間を置かず立ち止まったが、背を向けたままの彼女にかける言葉はどうしても見あたらなかった。
そのまま何も言わず行ってしまってほしいとさえ思う龍麻の前で、葵が傘を畳んだ。
「……」
 途端に雨が彼女に降りそそぎ、シャワーを浴びた髪を、顔を、身体を汚していく。
息を呑むばかりの龍麻に、葵はゆっくりと身体ごと向き直った。
街灯が照らす彼女の、漆黒の瞳に龍麻は圧倒され、傘を手放してしまう。
飛んでいった傘がどこか遠くで何かにぶつかる音を立てたとき、葵が静かに口を開いた。
「お願いがあるの」
「今日のことなら言わないよ、誰にも」
 この状況で頼み事などひとつしかない。
葵の言いにくさをおもんぱかって先回りした龍麻の考えは、だが、違っていた。
「ううん、そうじゃなくて……お願い緋勇君、月曜日からもずっと学校に来て欲しいの。
明日も、明後日も、卒業するまで」
 龍麻は呆然として葵を見た。
吹きつける雨は彼女の美しい黒髪を顔に貼りつけ、半ばを覆ってしまっている。
その姿は彼女本来の美しさからは程遠かったが、彼女の瞳から龍麻は目を離せなかった。
 葵は望まぬ、そしておそらくは一生逃れることのできない重荷を背負わされながら、
なお未来を見ようとしている。
過去と、至近に迫った終わる未来だけを見据えていた龍麻は、
彼女のつよさに畏怖の思いすら抱いた。
 葵の約束が意味するものを理解しなかったわけではない。
けれども、龍麻は迷わず頷いた。
「ああ、約束する。俺はこれから毎日、絶対に休まない」
 たったひとつでも、彼女にしてやれることがあるのなら。
芽生えた想いは自身が望む死よりも、はるかに強い感情だった。
「ありがとう。……それじゃ、月曜日に」
 葵が頭を下げる。
龍麻は彼女を抱きしめたい、抑えがたい衝動に駆られたが、彼女までの一メートルは、
もう永遠に縮まることのない距離だった。
 身を翻し、小走りで角を曲がった葵を、吹きつける雨に身を晒したまま見送る。
十分ほどもそうして立ち続けていた龍麻はやがて、風雨に敢然とさからって歩きはじめた。



<<話選択へ
<<前のページへ