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澄んだ空気が、肌に快い。
初冬の朝は、みずみずしい肉体を更に引き締め、精神を厳かなものにさせる。
雛乃はともすれば早足になってしまいそうな歩幅を自制して、もう通い慣れた道を歩いていた。
しかし、その心中は見た目ほど穏やかでなく、
家からここまで、ずっと小さな葛藤を繰り返している。
その原因である手にした荷物に目を走らせ、また後悔の念を抱いてしまった。
いくらあの人の頼みとはいえ、これを……これを、あのようなことに使うのは、
神への冒涜ではないだろうか。
幾度も繰り返した自問。
答えも幾度も繰り返し出ていて、そのどれもが同じ方向を向いていた。
その通り、冒涜にも程がある。
清められた装束を男の為に持ち出し、
あまつさえこのようなことに使うなど、許されるはずもない。
なのに、今自分は家を裏切り、姉を騙し、男の許へ行こうとしている。
龍麻と付き合っていることを姉が知ったら、どんな顔をするだろうか。
もう、巫女の資格などとうに失くしてしまっていることを伝えたら、やはり赦されないのだろうか。
心の迷宮に迷いこんでいた雛乃は、ふと足を止める。
余程考えこんでいたのか、気が付けば龍麻のアパートの前に立っていた。
抱えていた後ろめたさが、人目を避けるように中に入らせる。
静かに扉を叩くと、すぐに部屋の主が出迎えてくれた。
「おはようございます、龍麻さん」
「おはよう……待ってたよ、雛乃」
朗らかな笑みを浮かべる龍麻の後頭部に大きな跳ねを見つけ、雛乃は笑いを誘われる。
いつもいつも、朝に訪ねると必ず、
しかも毎回違う場所の髪を跳ねさせているのは、ある種の才能にすら思えた。
「ん? どうかした?」
「いえ……なんでもありません」
朝に訪ねてくると必ず最初に笑い出す雛乃に、龍麻は不思議な顔をしながらも招き入れる。
そのおかしな表情にまた笑みを誘われた雛乃は、
ここに来るまでに抱いていた不安を一時は忘れることができた。
部屋の中は居心地の良い香りが充満していた。
それは単にこのアパートが、自分の家と同じく古めかしいというだけかも知れないが、
とにかく、雛乃はこの部屋が好きだった。
あまり物の無い部屋の真ん中にぽつんとあるちゃぶ台の前に座ると、龍麻がお茶を淹れてくれる。
それは茶葉の質としては自宅で使っている物と較べるべくも無かったが、
自宅で飲むよりもずっと美味しかった。
もっともお茶受けを用意するまでには龍麻は気が利かず、
喉を潤したらそれでおしまいで、後は白々しい沈黙が部屋を覆う。
龍麻が考えていることは明白だったが、雛乃はそれを軽蔑するつもりは無かった。
龍麻は最初からそのつもりで荷物を持ってこさせたのだし、
それに応えた以上、雛乃も欲しているということだったのだから。
湯のみを手にしたものの、結局一口も飲まずに龍麻がちゃぶ台に戻す。
その時に立てたことり、という音が、いやにはっきりと雛乃の耳に届いた。
「……まだ、こんな時間だけど……」
口を開いた龍麻は、そこまでしか言わなかった。
雛乃が俯いたまま黙っていると、そっと後ろ髪に手が触れる。
それは自分を、世界で最も心安らぐ場所へと導く使者。
雛乃は静かに目を閉じ、ひそやかな期待に胸を焦がしながらその時を待ちうけた。
そして訪れる、口付けを交すことも出来ないほどのきつい抱擁。
龍麻の温もりがじんわりと伝わってきて、雛乃は少しの間自分を保つだけの力さえ失くした。
水にただ浮いているだけのような感覚の中で、龍麻の声が彼方から聞こえてくる。
それは、漂っていた雛乃の心をたちまちに現実に引き戻すだけの力があった。
「この間言ったやつ……持ってきてくれた?」
「は……はい」
「見せてくれる?」
雛乃がためらいがちに袋を差し出すと、欲望を剥き出しにした龍麻が奪い取るように中身を見る。
その中には下着に近いものもあったからあまり見せたくは無かったが、後の祭だった。
「これ……なに?」
偶然か、それとも故意か、龍麻が最初に手に取ったものこそが、
下着のかわりに着ける、裾除けと呼ばれるものだった。
「あ、あの、それ……は……」
しどろもどろになりながらなんとか説明しても着物など着たことの無い龍麻にはピンと来ないらしく、
広げたり透かしたりしている。
それがまた雛乃の羞恥を煽るのだが、余程気にいったのか、龍麻は中々手放そうとはせず、
散々に眺めた挙句、また折り畳んで袋に戻してしまった。
「うーん……これはさ、着ちゃうと大変そうだから、着なくてもいいや」
着なくてもいい、のは龍麻であって自分ではない。
大変なのも龍麻であって自分ではない。
雛乃は抗議するように少しだけ口を尖らせてみたが、龍麻には気付いてもらえなかった。
綺麗に畳まれた白衣と差袴を雛乃の前に置いた龍麻は、邪な好奇心を漲らせて告げる。
「それじゃさ……着てくれる?」
「あ、あの……着がえるところは、見ないで……頂きたいのですが……」
「うん……わかった」
消え入りそうな雛乃の声に龍麻は素直に頷き、真後ろを向く。
本当は家から出るか、浴室かトイレにでも入っていて欲しかったが、そこまでは言えなかった。
壁の方を向いている龍麻に背を向けた雛乃は衣服を脱ぎはじめる。
半襦袢だけを纏い、裾除けは着けないというのはどうにも気持ちが悪い。
それでもなんとか袴を履き、最後にもう一度乱れたところがないか確かめ、
誘惑に負けてしまったことに小さなため息をついて振り向くと──龍麻と目が合った。
「きゃっ!」
もう着がえ終わっていたにも関わらず、しゃがみこんでしまう。
裏切られた、という思いに涙が滲み、羞恥がそれをあふれさせる。
「ごめん……我慢できなくて」
「いえ……いいんです」
それなのに、口を衝いたのは正反対の言葉。
そう答えることで、かえって済まなさそうに頭を下げ、涙を拭ってくれる龍麻の指を期待して。
「本当にごめん。……でも、綺麗だった」
果たして、龍麻は角ばった指先で雛乃の頬を伝う雫に触れ、そう囁いて耳朶に口付けた。
更に一度顔を離すと、それを証明するように、
巫女装束を透かしてしまいそうな視線で遠慮無く舐め回す。
神社で、自分の家で着ている時は何とも思わないのに、今は熱のこもった視線が恥ずかしくてたまらず、
少しでも見られる面積を減らそうと雛乃が肩を寄せると、龍麻の吐息が近づいてきた。
耳朶に熱を感じて顔を覆う雛乃を、龍麻は無理にどかそうとはせず、
その姿勢の為に露になってしまっているうなじに口付ける。
「ん……っ」
意地が悪い──そう思って身体を固く縛めても、
うなじだけでなく耳や髪までを愛撫されてしまうと小さく身体が反応してしまう。
何度も何度も振りかかるキスの雨に根負けした雛乃が天の岩戸から出た瞬間、視界が大きく揺れた。
押し倒された、と気付いた時には唇が塞がれている。
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