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電話は、八時ちょうどに鳴った。
重なった秒針が、誰からの電話かをはっきりと告げる。
それでも紗夜は、三回呼び出し音が繰り返すのを待ってから受話器を取った。
「もしもし。……あの、紗夜ちゃん?」
電話の主も、出る可能性が本人しか無いことを知っていて、なお控えめに尋ねる。
どういう訳か、電話で話す時は、二人は奇妙によそよそしかった。
その理由を、少なくとも片方は知っている。
「今」逢えないという、ただそれだけの理由。
けれど。
けれど、わたしはそれが判っているけれど、相手はどうしてこんなに冷たいのだろう。
切なさが、よそよそしさを加速させる。
本当は、もっとたくさん話したいのに。
本当は、今日起こったことをぜんぶ教えて欲しいのに。
「……うん。それじゃ、明日十時に」
「おやすみなさい」
「おやすみ、さやかちゃん」
しかし、二人を繋ぐ電話は無情に切れる。
受話器を置いた紗夜と、その向こうにいるさやかは、そこからしばらく手を離さなかった。
今度は自分からかけようかと迷っている間。
今度は向こうからかかってくるのではないかと思っている間。
二人はいつまでも、受話器から手を離そうとしなかった。
いつもの待ち合わせ場所に、紗夜は十分前に着いていた。
それよりも前だと声をかけてくる男達がわずらわしいし、時間ぎりぎりだとさやかが怒るから。
少しだけ背伸びして周りを見渡し、まださやかが来ていないことを確かめてから腕時計に目を落とす。
長針が短針と同じ場所にあることに安心して顔を上げると、
魔法でも使ったかのように目の前に待ち合わせの相手がいた。
「おはよう」
「あ……あの……うん、おはよう」
驚いて声も出せないでいる紗夜に、してやったりと微笑んで腕時計を覗き込んださやかは、
自分の髪の匂いに気を取られている、年上の恋人の手を両手でくるみこんだ。
そのまま一度だけ、親指で掌をすっと撫でる。
一瞬にも満たないその仕種が、はじまりの合図。
身構えていても、それよりもずっと膨大な気持ちがその指先には込められていて、
紗夜は態度に出してしまいそうになる。
自分達の周りに人はほとんどいなかったけれど、ここは外だし、
何よりさやかは今どれだけの人が知っているか判らないくらいのアイドルだから、
万が一にも変なことになってはいけない。
表情を隠すために微笑んだ紗夜に、さやかも微笑んでみせた。
それは、雑誌などで見る彼女の笑顔とはまるで異なる、仄い笑顔。
手中に収めたものへの支配を告げる、紗夜にしか見せない残酷な笑顔。
そして、紗夜はその表情が嫌いではなかった。
さやかが選んだ映画は封切りから二週間ほどが過ぎていて、もうそれほどの客足も無かった。
いかにも退屈そうな係員にチケットを手渡して劇場内に入ったさやかは、
素早く隅の席を見つけて座る。
人目につかず、不自然に離れてもいない席。
まるでずっと二人の為にとっておかれたような場所。
それでも、映画館に入ってから一度も目を合わせていない二人は、
よそよそしく館内の照明が落ちるのを待っていた。
開幕ぎりぎりに入った二人のまわりを、ほどなく、暗闇が覆う。
暗くなるとすぐに、紗夜は、膝の上に置いた手に何かが触れるのを感じた。
柔らかく、そして甘い感触が、優しく手の甲を撫でてくる。
そ知らぬふりをするのが二人のルールだけれど、
さやかの表情がどうしても知りたくて、椅子に背中を押しつけた紗夜は、
ほんの少しだけ顔をかたむけて横目で覗ってみた。
その途端、甲に小さいけれども鋭い痛みが走る。
ルールを破った罰として、さやかが爪を立てたのだ。
かすかな痛みに身を強張らせていると、三日月型に抉れている部分が幾度も撫でられる。
その、傷つけてしまったことを後悔しているような愛撫に、紗夜は再び力を抜いて受け入れた。
さやかの指先は揃えて置かれた拳をナイフの如く分かち、小指のがわから掌を絡め取っていく。
ひたひたと少しずつ染みいってくる指に、紗夜は気付かれないように手を少し開いた。
小指と薬指の間。
薬指と中指の間。
さやかの指は一本ずつ、念入りにさすった後、蛇のように絡みついてくる。
委ねるには甘美過ぎるその感触に、紗夜はふと思った。
もっと、もっとわたしに指があったら──そうしたら──
埒も無いことを考えて、一人赤面する。
もちろんその間にもさやかの指は留まることなく、紗夜の手首から先を我が物にしていく。
中指と人差し指の間。
そして──人差し指と、親指の間。
全ての指の間に、さやかの指が入り込んだ。
その瞬間、紗夜の心臓は大きく跳ねる。
いつも──いつも、何度経験しても、慣れることの無い感覚。
繋がれた手首から先が彼女のものになってしまったのではないかという、そら恐ろしいほどの気持ち良さ。
そうでない──あるいはそうである──ことを確かめるために、
紗夜は指をほんの少しだけ動かしてみた。
動いてしまった指に、吸った空気の半分だけを唇からそっと逃がす。
そのせいでずれてしまった掌を、強く、固く握りなおした。
力一杯に握られた手を、さやかはじりじりと引き寄せる。
横の列にも、後ろにも人影は無かったけれど、少し腰をずらして身を沈めた。
こころもち紗夜よりも低くなった位置で、スクリーンから目を離さないまま、繋いだ手を持ち上げる。
スクリーンの灯りにぼんやりと浮かぶ手は、どこがどちらの物かもわからない、不格好な塊。
どうしようもなく愛しさを感じるその塊を口元に寄せ、紗夜の手の甲に唇を押し当てた。
そこから紗夜の指を、二人の指が重なっているところを、全てを口付ける。
紗夜の手は、自分のそれよりもほんの少しだけ小さく、冷たかった。
それが握っているうちに暖かく、自分と同じ温度になるのが、嬉しい。
しかし、キスを放つ場所はあっという間に無くなってしまう。
さやかは少し考えた後、短い旅を終えて戻ってきた最初と同じ場所に音を立ててキスをした。
スクリーンでは俳優達が何か大声で喋っていたが、紗夜はその音をはっきりと拾っていた。
寒気にも似た恍惚が、紗夜の中にあふれる。
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