<<話選択へ
陰陽師 2へ>>
社会に疲れた人々が、一時浮世を忘れるために集う場所、歌舞伎町。
灯りは常に絶えることがなく、陽気な、しかしどこか空虚な声がそこかしこで弾ける。
時には悲鳴や喧嘩腰の叫びが木霊することもあるが、それすらも糧として呑みこみ、
ひとつの巨大な生命として蠢き続けるこの街の片隅。
華やかなネオンから外れた薄暗い場所に、小さな喧騒の泡が生まれていた。
「くそッ、もう一勝負だッ!!」
「おいおい、無理すんなよダンナ」
いきり立つ男に、薄明かりにも目立つ、純白の学生服を着た男が、帽子を被りなおして諌(める。
不精髭を生やしたその風貌はどう見ても高校生のものではなく、
帽子の陰(から放つ眼光は太く、修羅場をくぐり抜けた者だけが有する力感に満ちていた。
「アンタどう見たって花札(は素人だ。それにそろそろ、財布の方も空のはずだろう?
俺はモノの賭かってねェ勝負なんざする気はないぜ」
白い学生服の男はどこまでも冷静に指摘する。
その一方で札を手元で弄び、挑発するように躍らせる男に、興奮している方の男は袖をまくった。
彼の着ているのも学生服であるが、こちらは標準的な黒であり、
少し明るめの茶色に染めた髪の下に収まっている顔立ちも歳相応のものだ。
「俺もこれ以上負ける気はねェ。
この勝負、俺が負けたら身ぐるみでもなんでも剥がして持って行きやがれッ!!」
啖呵(をきった男に、白い学生服の男は学帽を直した。
口許に感心とも皮肉ともつかない笑みを貼りつけて答える。
「男の裸なんぞ見たって嬉しかないが、心意気は買ったぜ。おい、札配ってやんな」
粗末な、ビールのケースをひっくり返して段ボールを敷いただけの賭博場に札が配られる。
だが負けが込んでいる方は空気をゆらめかせるほど熱気にあふれており、
白い学生服の方も余裕の構えを見せながら、目だけは生気を漲らせていた。
手札を配られた男が、笑みを閃(かせる。
手札はこれまでの勝負で最も良いものであり、場札も悪くない。
これならば、負けた分を一気にとり返すことも可能だろう。
男は意気揚々と最初の手札を切り、勝負を始めた。
二人が興じている花札という賭博は、恐ろしく一勝負が早い。
賭博にもいろいろ種類があるが、このような場、このような時には最も相応しい賭博のひとつだ。
二人は周りも目に入らず、黙々と手札を切り、場にある札を取っていく。
時折流れが止まるのは、役が揃い、ゲームを続行するか否かを決める、
こいこいという宣告をする時だけだ。
今も、真剣そのものの表情で手札を見ていた黒い学生服の男が、
めくった札を合わせて完成した役に、しばし考えこんだ。
まだ赤短(と青短(いずれか、あわよくばその両方が狙える。
ここで止める手はない──男は続行を告げた。
その、わずか数十秒後だった。
まだ手役にはほど遠いと思われた相手の札が、みるみるうちに揃ってしまったのは。
「悪いな。五光だ──コイコイはしねェぜ」
「五光だとッ!? てめェ……サマしやがったな」
五光とはこいこいという遊びの中でも、最も高い点数の役だ。
それだけにそう簡単には見ることの出来ない役なのだが、
男は今日、これを見せられるのは三度目だった。
運以外の何か──具体的に言えば、いかさまだ──の存在なくしてそんな確率があるはずがない、
と男は札を叩きつけて怒った。
一瞬にして荒れた場に、周りの男達が色めき立つ。
だがいかさまと決めつけられた当の男は、動じることもなく学帽越しに鋭い視線を返した。
「人聞き悪いこと言うんじゃねェよ。コイコイしたのはアンタだろうが。
自分(の腕のなさを棚に上げるのも大概にしてもらおうか」
「くッ……」
白い学生服の男の意見には理があり、男はそれ以上反論出来なくなる。
「ま、それはさておき、自分から言い出したんだ、きっちり身ぐるみ脱いで帰ってもらおうか」
男には何も男色趣味がある訳ではなさそうで、賭けの履行を求めているだけのようだ。
負けた男は歯軋りするが、賭事をする際のの最低限の仁義として約束を破るつもりはないらしく、
引き千切らんばかりの勢いでボタンを外し始めた。
「まァ、せめてもの情けだ。その小汚ェ袋の中身とパンツくれェは勘弁してやるよ」
無言で学生服とズボンを脱いだ男に、周りから失笑が漏れる。
男が履いていたのは、殺伐とした雰囲気にまるでそぐわない、
パンダのプリントが入ったトランクスだったのだ。
ズボンを叩きつけた男は、場の空気に耐えられなくなったのか、
紫色の細長い包みを携えて逃げていった。
ネオンの海に消えていく半裸の男をシニカルな笑みで見送った白い学生服の男は、
彼の仲間達に命じて撤収を始める。
数分もしないうちに人の気配は全くなくなり、熱い鉄火場は、
寒風吹きすさぶ歌舞伎町の裏路地へと戻った。
その一角の、電信柱の影から、トレンチコートを着た人影が現れたのは、
人気(がなくなってしばらくが過ぎてからだった。
目深に被っていた帽子の角度を整えると、眼鏡と、線の細い顎が浮かび上がる。
どうやらその人物は、男物のコートを着た女性のようだった。
手にしたカメラを愛しげに撫で、大事にポケットへとしまう。
もう一度帽子を被りなおした女性は、喧騒渦巻く街へと戻る前に、含み笑いを漏らした。
「フッフッフ……事件(を求めて来てみれば、とんだ掘り出し物を見つけたわね。
蓬莱寺京一……悪いけど、今度の一面(、使わせてもらうわよ」
女の笑いは、喧騒渦巻く歌舞伎町にたちまち溶けていった。
まだ人の密度が少ない教室は、寒々としていた。
もう半年以上、ほぼ毎日訪れているが、ここのところの寒さは親しんだ空間との仲を裂くように辛い。
席についた龍麻は、椅子の冷たさに声を上げてしまうところだった。
学生服越しでさえ、これだけ冷たいのだ。
スカートの女の子達はさぞ辛いに違いない……と朝から馬鹿なことを考えている龍麻の許に、
冬でも変わらぬ暖かな挨拶が届けられた。
「おはよう、龍麻くん」
今日、龍麻が葵と会話を交わしたのは、今が初めてだった。
毛布があまりにも心地良く、別離(を惜しんでいるうちに寝過ごしてしまい、
通学途中に会うチャンスをみすみす手放してしまったのだ。
「おはよう、美里さん」
もう少し気の利いた挨拶はないものかと日々悩みながら、結局芸のない返事をして、
龍麻はさりげなく上から下へ、目線を移動させた。
葵はこの季節、パンティストッキングを履いている。
ズボンを履く訳にはいかない女子高生にとって、寒さから下半身を護る為には必須のものだ。
その必要性を理解しながらも、足をより美しく見せようという女性の知恵に、
龍麻はいたく感慨を抱いていた。
自分はスケベではない──多分、なんとなく──つもりだが、
形良く膨らんだふくらはぎの辺りを見ると、なんともいえない幸福な気持ちになるのだ。
休み時間に級友達と話してみたりすると、どうやら彼らも同じ感想らしく、
自分がスケベならば皆スケベだ、と龍麻は自己弁護する。
まさにその通りなのだ、と言うことには気づいていなかった。
見ている方が気づかれていないと思っていることを、見られている方は全て知っていた。
大方前髪に隠れて見えていないだろう、とでも考えているのだろうが、
自分の瞳がどれだけ光彩に満ちているか、知りもしないのだろう。
別に見られるのは構わない──恥ずかしいは恥ずかしいが、
ほんの少しだけ嬉しいという気持ちもあることを葵は認めてはいるのだ。
それは去年の同じ季節にはなかった感情で、
龍麻に対してしか起こらない感情(だと判ってもいるが、
朝挨拶をした直後にぬけぬけと見てくるというのは品性を疑ってしまう。
だから葵は、不埒な男に少しだけ罰を与えることにした。
まず彼の隣の、まだ空いている席に腰かけ視線を封じる。
次に何気なく行き場を失った目線を自分に向けようとする龍麻に、自分から視線を繋いでやった。
何も言わず、何も言わせず。
穏やかに、首を少し傾げて、ただじっと見る。
自分の罪が見透かされていたとは思っていなかった龍麻は、
せわしなく眼球を動かしていたが、遂に罪を認めたのか、
目を閉じ、拝むように手を合わせ、全面的に降伏してきた。
この間、わずか数秒。
完全勝利を得た葵は、穏やかな笑みの裏で、凄まじい早さで思考を巡らせていた。
さてどんな罰を与えようかしら、クリスマスは近いけれど、それはいくらなんでもあからさま過ぎる、
でもそろそろ何かないと私にだって限度ってものが、
だいたいこういうのは男の子の方から言うもので、
そもそもそれっぽいのは修学旅行の一度きりで、それも告白とは到底呼べないもので、
あとはデートに誘うのも全部私の方からで、もうちょっとしっかりして欲しいと思う──
これから捨てられることを知った子犬のような目で自分を見ている龍麻に気づくまで、
葵はやや暴走気味に算段を練っていた。
「……美里さん?」
「あ、ど、どうしたの」
「いや……なんか凄く怒ってるみたいだから」
「怒ってないわよ、足を見られたくらいで怒ったりはしないわ」
「……そうなの?」
まるで自分が許可を出したかのように訊ねる龍麻に、葵は混乱してしまった。
「そ、そうじゃなくて、えっと……」
言葉を失う葵というのは極めて珍しく、龍麻は興味深げに眺める。
見られていることを意識すると、葵は冬の朝だというのに頬が熱くなってしまってどうしようもなかった。
想いを向けた女性の意外な一面というのは情動を揺さぶってやまず、
動揺する葵に、龍麻も体温が上がるのを感じていた。
派手に音を立てる心臓が酸素を求めたが、
口を開けるとどうにもしまりがなくなってしまいそうなので固く閉じる。
すると行き場を失った情動が内圧を高め、
龍麻はやたらとホックを直しつつ葵から視線を逸らせなくなってしまった。
彼らの共通の友人である小蒔が登校したのは、そんな時だった。
「おっはよッ、葵、それにひーちゃんも」
元気良く現れた小蒔は、すぐに彼女の友人達が慌てふためいているのに気づいた。
鞄を置きつつ、慎重に状況を見定める。
小蒔は二人とも好きだったが、こういう時、より楽しい展開にしてくれそうなのは龍麻の方だ。
だからまず、小蒔は無意味に足を組替えている龍麻に向かって訊ねた。
「どしたの? 喧嘩……はないか、二人に限って」
ところが意外にも、その問いに対する反応は葵の方が大きかった。
「ち、違うわよ、別にそんな……なんでもないの」
慌てふためく葵というのは滅多に見られないものだ。
龍麻がこの春にやって来てから、その回数は格段に増えているが、
それでも最近は安定期に入ったのか減ってきている。
久々の親友の動揺に、小蒔はすかさずたたみかけた。
「ふーん……もしかして、クリスマスの相談なんかしちゃってたりして」
「……!!」
今度反応したのは、それまでぼんやりと聞いていた龍麻の方だった。
恋人、もしくは恋人になろうとする日本人の為の、
最も簡単かつ重要な日のことを、龍麻は全く失念していたのだ。
何しろこれまで全く縁がなかったので。
既に自分の恋人候補がその遥か先まで思考を進めていたことになど思いもよらず、
龍麻はにわかに今後の予定について計画を立て始めた。
と言って葵が反応しなかったのかというとそうではなく、
こちらも落ちかかる髪を払ったりして動揺を隠そうとしている。
挙句小蒔がちらりと見ただけで、小動物のように視線を引っ込めてしまった。
小難しい顔をして何を考えているか丸わかりの龍麻と、
年頃の少女のように頬を染めうつむく葵。
そんな二人を小蒔は、微笑ましいやら妬けるやら、複雑な感情を混ぜ合わせて見ていた。
「よう、緋勇。桜井に美里も、もう来てたのか。……なんだ、どうしたんだ?」
現れた醍醐に、答える者は誰もいなかった。
HR(までの時間、四人でとりとめもない談笑を交わしていると、
龍麻は何かが頭に当たったのを感じた。
「いてッ……?」
変な声を上げた龍麻に、他の三人が注目する。
見れば龍麻は頭を押さえ、不思議そうな顔をしていた。
「どしたの?」
「いや……石だ」
足元に落ちた小石を拾い上げて龍麻は呟く。
周りを見渡してみても、同級生達はそれぞれのグループで話しこんでおり、
龍麻にいたずらを仕掛けた様子はない。
首を傾げながら龍麻が会話に戻ろうとすると、教室の入り口でさかんに振られている男の腕が目に入った。
しきりに振られているそれに、龍麻は何故すぐに気づかなかったのだろうと訝(る。
いくらかの間を置いて、龍麻は理由に気づいた。
男の腕は、剥き出しなのだ。
それが悪いわけではもちろんない──が、女性達の足と同様、
男だって半袖では寒いに決まっており、冬服は黒い長袖なのだから、
体育の時間でもなければこの季節には生腕など滅多に見るものではない。
だから龍麻は、確かに視界には入っていたその腕を見落としていたのだ。
肘から先だけを覗かせて手招きしている男に、龍麻は立ち上がって近づく。
葵達も何事かと見守る中、その腕のところまで行った途端、物凄い力で引っ張られた。
「龍麻くん?」
突如姿を消した龍麻に、葵は驚いて駆け寄る。
小蒔と醍醐もそれに続いたが、彼女達がみたのは、
頭を抱えら(れて廊下を駆けぬけていく龍麻と、龍麻を誘拐した男の後姿だった。
不思議な光景を目の当りにした小蒔が、額の真ん中を押さえて頭を振る。
龍麻を攫(った男の後姿と、男が持っている長細い包みにはとても見覚えがあったのだ。
「今の……京一だよね」
「ええ……でも、錯覚かしら、なんだか白いような気がしたのだけど」
「ああ……俺もだ」
小蒔と同じように額を押さえ、頭を振った葵と醍醐は、小蒔と共に龍麻と、
また何かろくでもないことをしでかしたらしい京一の後を追った。
朝からヘッドロックされたまま走らされた龍麻は、廊下を曲がったところでようやく解放された。
「痛(って……なんだよ、いきなり」
首をさすって訊ねる龍麻への、京一の返答はさっぱり要領を得ないものだった。
「お前よ、賭け事は好きか?」
「あぁ?」
「花札とかやったことあるか?」
「ルールくらいは知ってるけどよ」
それとヘッドロックがどう関係あるんだ、と憤(る龍麻は、
まだ京一が夏服を着ていることに気づいていない。
そして憤慨する龍麻を気にするようすもなく、京一は自分の都合を口早に語り始めた。
「実は昨日、歌舞伎町を徘徊(してたら白い学ラン着た奴に花札に誘われてよ。
見るからに怪しい奴だったから、こりゃのさばらせとく訳にはいかねェと思ってな」
そりゃ結構なことだ、せいぜい頑張ってくれ……と龍麻が思ったのも無理はない。
立ち話をするには師走の廊下は寒過ぎるのだ。
と、ここでようやく目の前の男が夏服を着ているのに気づいた龍麻だったが、
それについて訊ねることは出来なかった。
昨日の出来事を思い出しながら語る京一は、だんだん怒りを募らせてきたらしく、
声を荒げて口を差し挟む隙を与えないのだ。
「それがその野郎、とんだイカサマ師でよ。十回勝負して五光が三回、四光が二回だぜ」
京一の話を聞く限りでは、確かに何かイカサマを行っているとしか思えない。
龍麻も花札は経験があるが、四光はともかく、五光はあまり見たことがないからだ。
それを十回勝負で三回というのは、確かに異常な確率だった。
しかし用心深く無言を保つ龍麻に、京一は気色悪い笑顔を浮かべて肩を抱いてきた。
「そこで、だ。俺としてはだな、是非とも親友の仇をお前に討って欲しいんだよ」
随分と勝手なことを言う京一に、ようやく龍麻が反論しようとした時、
廊下の角から小蒔が頷きながら現れた。
その後ろには、醍醐と葵もいる。
「そういうコトだったんだ」
「げッ、おまえら……」
「まぁ、いくらお前が馬鹿でもおかしいとは思ったんだがな。賭けに負けて身ぐるみ剥がされたのか」
本当の意味で身ぐるみ剥がされるなど、滅多に見られるものではない。
京一の腕をふりほどいた龍麻は、うさんくさげに京一を見やった。
頼みの綱を奪われそうになった京一は、必死に説得を始める。
何しろ龍麻を味方に引き入れないことには、制服さえ取り返せないのだ。
しかし彼と、彼の仲間達は、師走の風より冷ややかな目で見返すだけだった。
「だいたいそんなの自業自得だよね」
小蒔の正論に、龍麻と醍醐が早速同意する。
葵などは語る気にもなれないのだろう、眉をひそめて無言のままだ。
京一が諸(腕に感じた寒さは、十二月だからというだけではないようだった。
「バカ野郎、相手は詐欺師なんだぞッ! どう見たって俺が被害者じゃねェかッ!」
「そもそも賭け事なんてするのがいけないんじゃないかッ」
「うッ……」
正論に勝る理屈なし。
男にとっては中学生辺りで忘れてしまうような理屈でも、正論は正論であり、
京一は早くも言い返せなくなってしまった。
女はすっこんでろ、とは言えない。
病院送りにした人間の数は片手では足りないくせに、その他に関しては妙に道徳的な醍醐は
きっと小蒔に味方するだろうし、葵などは言うまでもない。
すると一人の時ならきっと協力してくれるであろう龍麻も大勢に流されてしまう公算が強く、
なんとか逆転の一手を講じなければならなかった。
しかし、状況は京一の予測を超える速さで進んでいく。
「ホント、どうしてこんなに馬鹿なんだろうね、京一って」
廊下で騒ぐ龍麻達のところに新たな人影が現れたのは、小蒔がため息をついた直後だった。
「みッなさ〜ん、ごッきげんよう〜」
歌うような調子で挨拶したのは、隣のクラスの遠野杏子、通称アン子だった。
彼女は龍麻達の声を聞きつけて直接やって来たのだろう、手には鞄を持ったままだ。
持ちつ持たれつ──彼女はそう表現しているが、京一に言わせると一方的な搾取だそうだ──
の関係である龍麻達のところにやって来たのは、何か事件(の匂いを嗅ぎつけたからではなく、
彼女の方から話があるようだった。
「あら、アン子ちゃん。ご機嫌ね」
「そりゃあもう。あ〜ら京一君、随分寒そうじゃな〜い」
葵に上機嫌で答えた杏子は、半袖の京一を見てより楽しそうに笑う。
すると京一の機嫌は、天秤の一方の秤のようにたちまち悪くなった。
「なんだよ、うるせェな、あっち行ってろよ」
餌をねだるのら犬を追い払うように手を振った京一に、
杏子が見せた笑みはなんとも形容しがたいものだった。
もしかしたら、禁断の薬を調合することに成功した魔女が、
ぐつぐつと煮えたぎる壷の前で浮かべる笑顔に似ていたかもしれない。
「うふふゥ、そんなこと言っていいのかしら。
冬の寒空にパンツ一丁は堪えるものねェ〜。特に歌舞伎町辺りを駆けぬけると」
「パンツ」
「一丁で」
「歌舞伎町を」
「駆けぬけたァッ!?」
京一がやらかした驚愕の事実を聞き、龍麻達四人は、葵でさえもがあんぐりと口を開けた。
ゴシップを暴露された当人は、青から赤へ、忙しく顔色を変えている。
「なッ……お前、あそこにいたのかよッ!!」
「おーっほっほほほほほッ!! しかと見せてもらったわよ、
アンタが可愛らしいパンダのパンツで駆け抜けていくのをねッ!!」
「ばッ、バカ野郎、そんなでけェ声出すなッ!!!」
杏子をたしなめる京一だが、事実に勝る笑い話はない。
葵を除いた三人が頬を膨らませ、肩を小刻みに揺らすのを、もはや抑える術(はなかった。
「しょうがねェだろ、財布から学ランから、一切合財あのイカサマ野郎に巻き上げられちまったんだからよ」
ここまで来たら開き直るしかなく、京一は憮然として自分の行為を認めた。
「馬鹿だ……」
「馬鹿だな」
「バカすぎるよ」
「京一くん……」
しみじみとした四人の呟きに、寒さが骨身に堪(える京一だった。
「一部始終見せてもらってたけど、確かに相手は相当の手練(れね。
イカサマ師だとしたら、素人じゃ見破れないと思うけど」
どこで見ていやがったんだ、と訝(る京一をよそに、杏子は彼女が見た事実を分析してみせる。
彼女は賭け事をするわけではないが、対象の一挙一動を観察する眼は優れていた。
そうでなければ、取材相手から身のある内容をインタヴューすることなど出来ないのだから。
熱くなって勝負の最中は周りが全く見えていなかった京一に代わって、
彼が負けた状況を伝えた杏子に、醍醐がようやく得心したように頷いた。
「なるほど……それで龍麻か」
「どういうこと、醍醐クン」
「緋勇(は目がいいからな。イカサマ師の素早い手の動きも見破れる、そう京一は踏んだんだろう」
醍醐が小蒔に説明すると、京一が手を合わせて拝んでみせた。
泣き落としをするしか今ならない、と踏んだのだろう。
<<話選択へ
陰陽師 2へ>>