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 伊周は走る。
父親の命を救ってくれる可能性のある、唯一の男を捜して。
伊周は父のように安倍家をいつか見返すという妄執に憑かれてはいなかったが、
敬愛はしており、お気に入りの服が血に塗れるのも構わず父親を背負って走り続けた。
向けられる奇異の声や悲鳴も耳に入らず、髪がほつれ、汗が目に入るのも無視して。
 彼が捜していた男を見つけたのは、二十分ほども走った末だった。
父親に力を与え、奪われた名誉を取り戻せとそそのかした男。
この男がいなければ、父親は過分な野心を暴発させることもなく、
昇華させることのない小言を延々と言うだけの、一介の老人でいられたはずなのに。
しかし今は、この男にすがらねばならない。
伊周はいわおのように立ち尽くす男に向かって請願した。
「お願いッ、パパを助けてっ!」
 必死の頼みにも、男は目を細めただけで答えない。
無視されたと感じた伊周が声を荒げかけると、ようやく男は口を開いた。
そこから発せられた声は、深い岩窟の底にある、永劫に崩れることのない花崗岩さながらだった。
「いかに俺でも、むくろを生き返らせることは出来ぬわ」
 男の台詞の意味するところを理解した伊周は、おののいて背負った父親をかえりみた。
父親は既に、事切れていた。
「パパ……嘘よ、パパ、パパっ!!」
 慟哭する伊周に、重く低い声が嘲笑する。
「与えた機会を逃すとはな。
貴様等の怨恨、修羅と化するに相応しいものと思ったが、所詮は小物か」
「てめェ……ッ」
 その嘲笑によって父親が目の前の男に殺されたことを理解した伊周は激怒した。
素早く印を結び、禁呪とされている術をためらいなく発動させる。
陰陽師同士の闘いでは反呪されるために使えないが、目の前の男は陰陽師ではない。
確かに伊周が才能を有していたという証明になる神速の印は、だが、結ばれることはなかった。
間合いから二歩は離れていたはずの男が、手にした日本刀で斬撃を振るったのだ。
「ぐ、ォ……て、め……ェ……」
 太刀筋が全く見えないほどの斬撃は、一撃で致命傷となるものだった。
骨をも断つような豪剣は、斬られた瞬間に絶命しても不思議はなかった。
しかし、身体を袈裟に斬られた伊周は、自らが生み出しつつある血溜まりに膝を着きながらも、
なお印を完成させようとしていた。
父の仇を討つという執念が、伊周に死ぬことを許さなかったのだ。
だがそれも、男が、今度は反対方向に袈裟斬ることで終わる。
身体を十字に刻まれた伊周は、無念を残すように右手を男に伸ばし、倒れ息絶えた。
「フン……その妄執だけは認めてやろう。貴様の怨念、俺が食らってくれよう」
 口を歪めた男は刀を振り、血を落とす。
 やがて哄笑と共に月灯りに掲げられた日本刀は、新たな血に塗れていた。

 元の世界に戻ってきた龍麻達は、富岡八幡宮の片隅で闘いの余熱を冷ましていた。
空には既に月が昇り、夜風が体温を急激に下げていく。
参拝客もいなくなった境内を後にし、龍麻達は帰路に就いていた。
「今回も結局重要なことはわからずじまいだったな」
 醍醐が呟いた通り、阿師谷親子を背後から操っていた赤い学生服の男の正体は、
今回も突きとめることが出来なかった。
しかし一応は転校生失踪事件を収束させたのだし、それに今は、
嘆くよりも重要なことが龍麻にはあった。
 龍麻はこれから、一人でも行くつもりだったが、京一は忘れていなかったようだ。
龍麻の肩を叩き、散歩に付き合うような気軽な言い方で同行を告げてくれた。
「どうする? ちっと遅くなっちまったが明日は日曜日だ、このままジジイんトコ行くか」
「そうだね、でも途中でラーメン食べて行こうよ。お腹空いちゃった」
 緊迫感のない小蒔の台詞に、御門の口許に陰が出来る。
どうやら彼は、苦笑したようだった。
「フッ……あなた方は器が大きいのか、それとも単に鈍いだけなのか。
ではわたしはこれで失礼します。龍山老師にもよろしくお伝えください」
 御門は軽く頭を下げると、芙蓉を連れてさっさと帰ろうとする。
龍山のところへ同行しろと言うわけではないが、無情とすら言える態度だった。
 それに刺激されたのか、小蒔が背を向けかけた御門に訊ねる。
「御門クンと村雨クンはこれからどうするの?」
 問われた御門と村雨は顔を見合わせる。
ややあって答えたのは、御門の方だった。
「わたしはあの方さえ無事なら、この東京などどうなっても構わないと思っています。
故にあなた方とは相容れない……そうは思いませんか」
 婉曲的ながら、手厳しい拒絶。
だがそれは、彼が護らなければならないものへの覚悟でもある。
御門とマサキの間にどのような想いが横たわっているのか、
龍麻達には知る由もないが、彼の覚悟を妨げることは許されない、そう思わせるものだった。
「わたし達の目的はそれぞれ命を賭して果たさねばならないもの。
片手間に行ってよいものなどではない。
その目的が異なる以上、足引き合うのが関の山ですよ」
 とどめのように言い放つ御門に、龍麻達は黙したままだ。
すると御門の後方から、静かな、けれど意を決した声が彼を呼んだ。
「晴明様」
「どうしました? 芙蓉」
「この方たちならば、蚩尤旗の位置を変えることすらできるかもしれませぬ。
ひいては秋月様の御足の呪いも」
「そんなことをお前に言われるとは思いませんでしたよ」
 月灯りが雲間に隠れ、再び照らすまでの間、沈黙を保っていた御門は、たしなめるようにそう言った。
式神であり、忠実なしもべである彼女が己の意見を述べたことに驚きを隠せないでいるようだった。
芙蓉は頭を下げたきり、何も言わない。
 扇子で口許を覆った御門は、しばし考えこむ素振りを見せる。
やがて欠けた月が満ちるように、扇子が開いた。
「ふむ……確かにあなた方、特に緋勇さんは陰陽道の研究材料としても得難い素材。
今しばらく観察するにやぶさかでないかもしれませんね」
 それはあまりにも彼らしい物言いだったので、
龍麻は彼が共に闘ってくれることを承諾したのだ、と気づかなかった。
よく判らないまま顔を見合わせる龍麻達に、村雨が失笑混じりに説明する。
「こいつはお前と一緒に行くってよ」
 いかにも愉しそうに笑う村雨に、御門は目を細めたきり答えない。
と言って村雨の説明に異を唱える気配もなく、やはり彼らは良いコンビなのかもしれなかった。
「お前はどうなんだ、村雨」
 一方の村雨は醍醐に訊かれ、即答せずに学帽を被りなおした。
その仕種に、龍麻は御門と似たものを感じる。
しかし顔を上げ、月灯りに映し出された不敵な笑みと、
彼の口から放たれた言葉は、いかにも賭博師かれらしいものだった。
「そうだな……俺ともう一勝負してくれねェか、緋勇。
何、勝負はこのコインの裏表を当てるだけでいい。
俺の運命──あんたに乗せられるかどうか、計ってみてェんだ」
 言うなり、村雨はコインを弾き上げる。
一瞬、月に重なったコインは、吸いこまれるように村雨の手の内に落ちた。
「どっちだ」
 見えたわけではない。
白く輝く月はコインを隠し、どちらを向いて村雨の手に収まったかは全く見えていなかったのだ。
だから、これは純粋に勘、二分の一の確率で当たり、あるいは外れる──
だが龍麻は、確信を持って告げた。
「……表だ」
 不敵な笑みを浮かべた村雨が、掌を開く。
そこには龍麻の選んだ方に、そして村雨の賭けた方に上向いているコインが握られていた。
「やるじゃねぇか、流石だな。東京が滅ぶかどうかのバクチ、あんたにってみるぜ」

 御門と村雨、それに芙蓉と別れ、
龍麻達が龍山老師の庵がある竹林のふもとに着いたのは、もう夜も深まった頃だった。
話も長くなりそうなことであるし、葵と小蒔は家に帰るよう、一応龍麻は提案してみたのだが、
きっぱりと断られ、五人全員で西新宿へと向かうこととなっていた。
 強さを増してきた夜風が、竹を不気味に揺らす。
ラーメンを食べて身体は暖かかったが、五人は無言のまま、
龍麻に関わりがあるらしい秘密を知っているという、筮法ぜいほう師である新井龍山の所へと急いでいた。
 龍山老師は、俺について何を知っているのか──
龍麻の脳裏を、マサキの言いかけた血脈、という言葉がよぎる。
 父母ともに健在の両親は、平凡ではあるが篤実な父親と、
多少口うるさいけれども優しい母親で、もちろん龍麻が体得したような『力』など持っていない。
いや、本当は持っているが、隠しているのだろうか。
持っていたとしたら、両親は昔何をしたのだろうか。
持っていなかったとしたら、師が一度だけ漏らし、すぐに後悔めいた表情を見せた、
『血筋が良い』という言葉にはどんな意味があるのだろうか。
 そういえば、龍麻が師に東京に行け、と言われた時も、両親はあっさりとそれを許してくれた。
大学生活を始める、というならまだしも、高校三年生という大事な時期にも関わらず、
父親は龍麻のために部屋まで借りてくれた。
父親の給料を龍麻は知らないが、築が古いとはいえ新宿のアパートが安いとも思えない。
なのにどうして両親は、家族会議らしいこともせずに承諾してくれたのだろうか。
 阿師谷親子との闘いが先だと、意識して封じこめていた疑念がゆっくりと龍麻の裡に目覚める。
ひとたび生じた疑念は新たな疑念を呼び、たちまち地層のように積もっていき、
龍麻はこれまでの十八年間が、足元から崩れていくような恐怖に囚われていた。
否、足元だけではない、今や周りにある闇全てが、龍麻にとって原罪的な恐怖と化していた。
葵や京一の手前、大声で叫ぶのだけはかろうじてこらえていたが、
闇から逃れようと駆け足寸前の足を抑えることはできなかった。
 そんな龍麻にかける声もなく、京一達は彼に続く。
春に転校してきて以来、龍麻が初めて見せる怯え。
時に激昂し、時に動揺することはあっても、陽性の気質に満ちており、
彼らを照らすひかりだった男が、取り繕う余裕もないほど怖れていた。
彼を案じる気持ちは、皆同じだ。
しかしまずは龍山に会って彼の話を、龍麻の怯えの源を突き止めなければならない。
励ますにせよ、叱咤するにせよ、全てはそれからだ。
彼らは龍麻に声をかけようとするお互いを牽制するように歩を進め、龍山の庵へと向かった。

 駆け足に近い早足で庵に着いた龍麻達は、休息する気もなく玄関へと回る。
五人の中で最も龍山と親しい醍醐が、引き戸を開けて師を呼んだ。
「先生、夜分にすみませんが」
 外から見た時に灯りが点っていたので龍山がいるのはわかっていたが、
東京に在って人を避けるように住んでいる老人は、すぐに龍麻達の前に姿を見せた。
あまりに早い登場に、足音が聞こえていたのだろうか、
と不思議に思う龍麻達だったが、そうではなかった。
「構わぬよ、そろそろ来る頃だと思っておったわい」
 居間に通されてみれば、湯呑みに注がれた人数分の茶は、湯気を立てていた。
龍山は占い、あるいは何がしかの力によって、龍麻達が来るのを知っていたのだ。
 囲炉裏に陣取った龍麻達に、龍山はすぐに口を開かなかった。
目を半ば閉じ、瞑想にふけったかのように何も言わない。
しかし、老人からは戯言を許さぬ氣が立ち上っていて、
五人の中で最も性急な京一でさえもが急かそうとはしなかった。
 茶から湯気も消える頃、ようやく龍山はまなこを開く。
開かれた眼は、真っ直ぐ龍麻に向けられた。
 老人の眼差しには、深い憐憫れんびんが込められているように龍麻には感じられた。
「緋勇よ……真実を話さねばならぬ時が来てしまったようじゃな。
十七年前、中国は福権省、客家の地で繰り広げられた人の世の存続を賭けた闘いのことを。
そしてお主の、因果の輪から決して抜け出ることのできぬ、その出生の話を」
 風が、強くふすまを叩く。
隙間から差しこむ冬風は、龍麻をふるわせようとするかの如き冷たさだった。



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