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 再び異空間を通りぬけて元の世界に戻ってきた龍麻達は、一瞬自分達の居場所がわからなかった。
来たときとは風景が全く違う場所だったからだ。
「あれ? ここ……最初の公園じゃないね」
「ここは富岡八幡宮です」
 事も無げに言う御門に、訊ねた小蒔のみならず龍麻達も目を丸くした。
「富岡八幡宮……どうやって来たの、ボク達」
「先ほどわたし達がいたのは、時間と空間の狭間を通った先にわたしが造った場所です。
ですから望みの場所に出ることも難しいことではないのですよ」
「それじゃ、何十年か昔とか、地球の裏側とかにも行けるってことか?」
 それは、いわゆるタイムマシンという奴ではないのか。
驚く龍麻に御門はあっさりと頷いた。
「ええ、理論上は。ですが距離や時間があまり大きくなるとそれだけ誤差も生じますし、
危険も大きくなります。ですから実際には滅多に行いませんが」
 御門の説明によると、行きは浜離宮恩賜庭園に模して造ったあの空間から行くとしても、
帰りが困難なのだという。
あの空間に入るための場所は地相が理想的な場所でなくてはならず、それは日本にも数ヶ所しかない。
行ったは良いが帰れないのでは通路として意味がないし、
時間を跨ぐというのは考えている以上に危険な行為なのだそうだ。
だから陰陽師であっても、よほど危急の事態でもなければ用いない。
そう締めくくった御門に、小蒔が残念そうにため息をついた。
「でもさ、昔に戻れるんだったらテストで百点取るのも簡単だし、ちょっとやってみたいかも」
「小蒔」
 あまりに小さな欲求を口にする親友を、葵が耳まで赤らめてたしなめた。
 小蒔を冷ややかに見た御門は、今いる場所について龍麻達に説明する。
「ここ富岡八幡宮は、江戸の初めまで阿師谷家十二代当主の建築した、
阿師谷の本家があった場所なのですよ。
幕府転覆に荷担したとして取り潰しを受けるまでは、ですがね」
 御門は単に事実を告げているに過ぎなかったが、
事実そのものが冷酷なものであるために、どうしても酷薄な印象を受けてしまう。
また御門も、それと知ってあえて冷たく話している節があった。
「その時逃げ延びた数名の他は皆この地で惨殺され、
当時まだ湿地だったこの辺りに打ち捨てられたという話です」
「なるほどな、阿師谷にとってはまさに怨念の源ともいえる地だということか」
 粛然と聞いていた醍醐が、ややうそ寒そうに辺りを見渡す。
怨念や幽霊と言った類のものが大の苦手である彼はそういった話を聞くと意識せざるをえないのだ。
昔は御門が語ったような因縁があったとしても、今は神社であるからそういった気配は感じない。
「まァ、そういうことみたいね」
 胸を撫で下ろしかけたところに、突然誰もいないところから声がして、
醍醐はもう少しで飛び上がってしまうところだった。
龍麻や京一も聞き覚えのある声に構え、油断なく気配をうかがう。
すると前方の何もない空間に、先刻と同じようにややぼやけた伊周が姿を現した。
「でやがったなオカマ野郎ッ!」
「あ〜ら、あたしは最初ハナっからここにいたわよ。
もっともここであってここでない場所に、だけどね」
 声を荒げる京一を軽くいなした伊周に対する、御門の態度は嫌味というには度を越していた。
「なるほど、そうでしたか。結界を張りこそこそと隠れて暮らすとは、
負け犬に相応しい生活ですね、伊周」
「ホンット、いちいちカンにさわる男ねェ。つべこべ言わずについてらっしゃい。
それともここで暴れて関係ない参拝客を巻き込んでもいいのかしら」
「気をつけてください。彼は自分に有利な場所にわたし達を誘いこもうとしています」
 御門が言うには、先のマサキがいた空間と同じように、
陰陽師は自らが張った結界の中で最大の力を発揮できるのだという。
だが、伊周の言う通り一般の人々を巻き込むのは避けたいところだ。
結局龍麻は、不利と知りつつ伊周の申し出を受けるしかなかった。
「そうそう、物分りのいいのはイイ男の条件よ。それじゃ七名様、ごあんな〜いッ」
 言うなり伊周は姿を消す。
「あ、オカマが消えたッ」
「どうやらあそこが異空間への入り口のようですね。それではわたしたちも参りましょう」
 御門に続き、龍麻達も阿師谷親子が待ち受けている闘いの場所へと足を踏み入れた。
 伊周が消えた場所を一歩通り過ぎた途端、龍麻は自分達が異空間に入ったことを知った。
参拝客の気配も、雑多な音も全てが消え、辺り一面、
くすんだ緋色のフィルターがかかったように変色したからだ。
いるだけで気分が悪くなってくるような色彩は、
同じ系統の服装をしていた伊周の趣味なのかもしれないが、
彼の姿はなく、代わりに老人が一人、数歩先に立っていた。
「よく来たな、御門の小倅こせがれ
 周りの色調のせいかもしれないが、老人は妙にくたびれた、その癖毒々しい雰囲気を持っていた。
世の中や他人に対して嫌味を言うことだけを生き甲斐にしている、そんな印象がある。
見た目で人を判断してはいけないと、龍麻は春からの経験で学んでいたが、
例えば醍醐の師である新井龍山などと較べると、少なくともこの老人を好きになれそうにはなかった。
 控えめに老人に対する第一印象をまとめた龍麻だが、
京一はもっとストレートに印象を言ってのけた。
「なんだ、このヨボヨボのジジイは」
 とても好印象を抱いたとは言えない京一の台詞に、老人は吐き捨てるように言った。
「ふん、餓鬼共めが。この儂にそんな口を利いてただで済むと思うでないぞ」
 その口調がますます嫌悪を深め、
あっというまに龍麻の印象は京一と同じレベルまで下がってしまった。
醍醐達もそれは同じらしく、敬老の精神もなく老人を見る。
そもそも一般人が誰もいなくなったこの異空間に一人たたずむこの老人は何者なのか。
「彼が阿師谷家九十二代目当主、阿師谷導摩です」
 その疑問に答えを出してくれたのは、御門と、
「そう、あたしのパパよ」
 老人の後ろから忽然と現れた伊周だった。
導摩は手にした錫杖しゃくじょうを鳴らし、説法でも始めるかのように語りだす。
「始祖、道満様の無念より滾々こんこんと連なる我が一族の怨恨、
この儂の時代にようやく晴らすことができようとはの。
これも全て蚩尤旗の出現とあの御方の助力のお陰よ」
 きしむような呪言に、龍麻は眉をひそめる。
導摩は自分で語ったように、平安の世からの怨嗟えんさを受け継いでいるらしく、
老体から陰氣が滲んでいた。
それはかつて闘った九角天童が有していたものと同じだが、こちらの方が陰湿な毒素に満ちている。
そして彼の息子である伊周は一見その負の束縛に囚われていないようだが、
彼が語った、この春に東京に転校してきた男子学生を襲い、殺したのが事実であるならば、
表に出てこない分危険度では上かもしれなかった。
「なるほど。『黄龍の器』を手にし、この地の覇権を握ることは最早、
あなたがたの目的ではなくなったようですね。一体あの御方とやらに何を吹きこまれたんですか」
 御門は訊ねる。
関東以東の陰陽師を束ねる立場として、彼らの暴走は止めねばならなかったが、
近頃は身のほどをわきまえておとなしくしていた彼らを
蠢動させるきっかけとなった人物をまずはつきとめておく必要があった。
草を刈っても根を残しては意味がないのだ。
「ひひ、儂が望むのはこの地を陰に染める混沌と争乱よ。
それこそがこの地に倒れた我が祖先の悲願。
御門も安倍も、すべてがこの阿師谷の足下にひざまずくのじゃ。
あの御方が天下を取ることによっての」
 負の笑顔を浮かべる導摩に、京一が呆れたように言った。
「天下を取るだァ? 時代錯誤もいいトコじゃねェか。
それよりその野郎、もしかして妙な学ランを着た男じゃねェだろうな」
「妙だなんて失礼ねッ、真紅の学生服に日本刀、それにあの頬の傷……
あんたなんかよりずっとイイ男だったわよ」
 どうやら伊周は思ったよりも馬鹿らしく、
自分が京一の質問に答えてしまっていることに気付いていないようだ。
 京一が訊ねたのは、以前龍麻達を狙った拳武館の武蔵山という男から聞いた情報で、
これで拳武館に暗殺を依頼したのと、今回阿師谷親子を使嗾しそうした男は同一だと裏づけが取れた。
あとは彼らを倒し、改めて聞けば良い──
 龍麻達は散開し、阿師谷親子から情報を聞き出すべく身構えた。
阿師谷親子も呼応するように懐から紙片を取りだし、導摩が錫杖を打ち鳴らす。
それが、闘いの開始を告げる合図となった。
 おそらく式札なのだろう、空中に紙をばら撒いた伊周が印を切る。
いくつもの小さな光が生まれ、消えた後には、彼が仮初かりそめの命を与えた猛禽が
雲霞うんかのごとく現れていた。
むかでくちなわ伏翼こうもりいぬ……
それらの他にも、見たことのない獣が何体もいる。
「うわ……」
 がさごそと蠢く猛禽の群れに、小蒔はたまらず嫌悪に呻いた。
夏には深きものどもディープワンという、半人半魚の化け物とも闘った龍麻達だが、
蚣や蛇に対する嫌悪感は決して慣れることはない。
それでも弓で闘い、直接猛禽に触れる必要のない小蒔はまだましで、
蚣に拳を当てなければならない龍麻は早くも気が滅入ってしまった。
遠間からの発剄だけでなんとかならないものか、と消極的なことを考えていると、御門が一歩進み出る。
「氣を当てれば式札に戻ります……このように」
 御門は立てた指を素早く動かし、空中に何かの印を刻む。
それは桂離宮で伊周が行ったものと同じ、陰陽道の呪法であったが、
こちらは伊周が行った早九字に対して九字と呼ばれ、結印けついんという、
両手指を用いてそれ自体が力を持つ印を作る方法だった。
 複雑な指の組み合わせを淀みなく行った御門は、普段の典雅とも言える物腰から一転、
鋭いかけ声と共に組んだ両拳を突き出す。
その動作で、猛禽は半分以上が姿を消していた。
 複雑に指を組み合わせる呪法は、威力において早九字に勝る。
それでも敵手の有利とする地相内でこれだけの呪力を発揮できるあたり、
御門は東日本の陰陽師を束ねるというだけあり、凄まじい実力の持ち主だった。
猛禽あれはわたしに任せて、緋勇さんはあの親子を直接倒してください」
 彼に任せておけば猛禽は大丈夫だと判断した龍麻は、
二人の陰陽師のうち、導摩を標的に定めて走り出した。
 それを横目で見届けた御門は、残る式神の猛禽も符に還そうと試みたが、
不意に気配を感じ、防御の印を結ぶ。
はたせるかな、印を結び終えた直後に閃光が目の前で爆ぜた。
「その程度ですか、伊周」
 挑発が届くのを待たず、二度目の雷が御門に襲いかかる。
これも退けた御門だったが、伊周の能力が予想以上のものであることを認めないわけにはいかなかった。
彼の結界の内のこととしても、こうも矢継ぎ早に呪を行使できるとは予想外だったのだ。
猛禽をかえし、伊周と一対一で闘うつもりであった御門は、
作戦の変更を余儀なくされてしまった。
芙蓉の件で借りもあるので伊周に灸を据えておきたいところだったが、
女性二人を狙うであろう猛禽を放っておくわけにもいかない。
どちらを先にするか、御門の裡に、彼らしくない迷いが生じた。
 その迷いを断ったのは、伏翼を撃った一本の矢だった。
本物同様に不規則に飛び回る伏翼に見事命中した矢は、焔をあげて燃え始める。
氣が込められた矢を放った射手に、御門は表にこそ出さなかったが驚きを禁じえなかった。
彼女は緋勇の仲間の、確か桜井小蒔という名のはずだ。
 黄龍の器である緋勇龍麻と木刀を携えたうるさい男、蓬莱寺京一、
それに白虎の宿星を持つ醍醐雄矢、そして菩薩眼である美里葵。
彼らはともかく、残った桜井小蒔を御門は明らかに軽んじていた。
『力』に目醒めてはいても、その使い方を知らない未熟者だと思っていたのだ。
しかし符ごと塵と化した彼女の氣を見せつけられれば、
御門は自らの先入観が誤っていたと認めざるをえない。
 そして彼女の技量は、猛禽を任せるに足るものだった。
猛禽は彼女達に任せ、御門は伊周と雌雄を決すべく印を結び始めた。

 龍麻は、陰陽師の恐ろしさをまだ熟知していなかった。
伊周の軽妙な印象と、彼の術を簡単に退けた御門に、
くみしやすしという誤った先入観を無意識に抱いてしまっていたのかもしれない。
しかし御門には軽んじられているとはいっても、平安の世から脈々と受け継がれてきた、
呪法と安倍家に対する憎しみを一身に宿している阿師谷家、
特に現当主である導摩は侮ってはならない手練てだれだった。
 それを龍麻は、身を持って痛感させられることとなった。
「うわッ、なんだこりゃッ!!」
 隣にいたはずの京一の悲鳴が、後方から聞こえてくる。
龍麻が振り返ると、京一の身体は半分以上も地面に沈んでいた。
「京一ッ」
 何が起こったのか判らぬまま、とにかく龍麻は京一を助けようとするが、
今度は自分の身体も沈み始めてしまう。
慌てて沈む身体を支えようとついた手までも沈む有様で、
たちまち二人は肩口まで地面に呑みこまれてしまった。
何が起こったのか理解できないまま、龍麻は溺れていく。
口に、鼻に泥が入りこみ、たちまち息が出来なくなった。
しまった、と思う感覚すらなく意識が遠のいていく。
 術中に落ちた二人を、まずはほふる。
身の程もわきまえず勝負を挑んできた小僧共に、導摩は邪悪な嘲笑を向けていた。
千年の恨みを晴らす、謎の男が与えてくれた千載一遇の機会。
その見返りとして要求された黄龍の器の命を、
これほどたやすく奪えたことに、導摩は笑いを抑えきれなかった。
 男の命を受け、力を授かった導摩は、息子の伊周と算段し、
器の可能性がある高校生を片っ端から殺していった。
そうすれば御門は必ず動き、器と接触しようとするだろう。
目論み通り御門は器と接触し、あとは二人まとめて屠るだけだ。
導摩にとって御門の小倅のみが強敵と言えたが、伊周が上手く立ち回って動きを封じている。
残った餓鬼共など物の数ではなく、現に黄龍の器でさえもが愚かに猪突し、幻術にあっさりとかかった。
器さえ斃せば、残った雑魚を蹴散らし、伊周と二人で御門の小倅に当たる。
そうすればあの男が天下を取り、自分達も権勢と栄誉を欲しいままに出来るのだ。
千年前に奪われ、一族の呪詛として語り継いできた陰陽師としての名声を、
自分の代で取り戻せば、阿師谷導摩の名は永劫に語り継がれるであろう。
 ほとんど既定となった悲願の成就に酔いしれていた導摩は、突然喉に激痛を感じた。
「ぐぇェッ!!」
 喉を掻きむしった導摩の手が、刺さったものを掴む。
それは、一枚の花札だった。
 もがき苦しむ導摩と反比例するように、龍麻達を襲っていた窒息感も消えている。
泥濘に埋まったはずの身体は全く汚れておらず、地面にもそのような痕跡は全くない。
二人は導摩の術に陥っていたのだ。
幻覚とはいえ息が出来なくなったのは確かであり、助けてくれなかったら窒息していたかもしれない。
誰が助けてくれたのか、礼を言おうと龍麻は辺りを見渡す。
 視線の先には、別れたはずの村雨祇孔が立っていた。
「悪いな、一人追加だ」
 不敵に告げた村雨は、
マサキを護るという使命を果たさずにここへ来た彼を難詰しようとする御門に先んじて笑った。
「お前が残した芙蓉以外の十一の神将がついてるから俺は不要なんだとよ」
 言うなり導摩に向けて花札を放る。
何か新たな術を使おうとしていた導摩は、構わず術を完成させようとしたが、
危険に気付いたのか、老人とは思えない敏捷びんしょうさで跳び退すさった。
彼の予感は正しく、花札は空中で突如として光り、紫色の雷光を彼のいた場所に落とした。
「お前……」
 村雨の『力』を初めて見た龍麻は、
彼の『力』は運が良いだけだと思っていたので驚愕を押し殺せなかった。
「なんだそのツラは。ほれ、さっさとあのジジイをやるぜ」
「あ、ああ」
 すっかり主導権を握られた龍麻は、村雨に言われるまま走り出した。

「やるじゃないのッ」
 御門に向かって伊周が叫ぶ。
彼の賛辞を全く無視しつつ、御門は伊周の力が自分と拮抗していることを、
はなはだ不本意ながら認めざるを得なかった。
もちろん彼の実力ではなく、背後にいる者に与えられた偽りの力だろう。
でなければ、いくら格の低い猛禽とは言えあれほど大量に使役出来るはずがない。
 負けるとは思っていないが、苦戦でもしたら村雨に何を言われるか解ったものではない。
どうやって状況を打破したものか、と伊周の放つ氷撃を防ぎながら御門が思案にくれていると、
傍で猛禽を掃討していた芙蓉が意見を述べた。
「晴明様。わたくしが攻撃を受けます。その隙に晴明様は」
 自分が囮となるという芙蓉の提案に、御門は頷けなかった。
 十二神将である彼女の能力は式神の中でも群を抜いて高いが、
それはあくまでも式神の中では、ということであって陰陽師自身とは較べるべくもない。
紙である式紙は焔に極端に弱く、最悪、式札こと燃やされてしまう可能性もあるのだ。
そうなってしまったらいかに御門とはいえ芙蓉を復活させることは出来ない。
式札を創り出す術は難度が高く、特に芙蓉のような人型となると安倍家でも容易には為しえない。
判っている危険に踏みこむのは、得策ではない──
そう結論づけ、芙蓉の申し出を却下しようとした御門に、芙蓉が先んじた。
「わたくしは晴明様が式神にございます」
 だから彼女の能力を疑うことは、自分自身を疑うことになる。
芙蓉は言外にそう言っており、主を叱咤しているのだ。
苦笑めいたものを、ほんの一瞬口の端に閃かせた御門は、彼女を──己を信じることにした。
「わかりました。……頼みましたよ、芙蓉」
「御意」
 二人は伊周が印を結び、目標の変更が出来なくなる時機を測る。
その瞬間、御門の居た場所に芙蓉が滑るように入り、
御門は彼女から数歩離れた場所で印を結びはじめた。
 伊周は彼らの作戦に気づいたが、もう術は止まらない。
発動した術は、岩と見紛う氷塊となって芙蓉を襲った。
この一撃で御門を斃そうとした強力な術は、しかし氷撃であったことが芙蓉には幸いした。
芙蓉が手にした扇を振ると、氷塊は彼女の眼前で粉微塵となり、
数多あまたの乱反射が彼女を美しく輝かせた。
 金剛石ダイヤモンドにも勝る煌きが、芙蓉自身の美しさに恥じ入るように消えた時、
既に御門は印を結び終えている。
術を発動した直後で無防備の伊周に向けて御門が拳を突き出すと、
彼の頭上に北斗七星がまたたいた。
伊周を取り囲む円環となった星は強力な結界を円環の中に生み出し、邪を粛殺する。
淡い金色の輝きが円環を満たし、消え去った時、伊周には立つだけの力も残されていなかった。
「式神の手を借りるなんて卑怯……じゃない……」
 伊周のたわ言を聞き流し、御門は彼の代わりに攻撃を受けた式神へと歩み寄った。
「怪我はありませんか」
「御意」
 主の期待に見事応えた芙蓉の顔は、微笑んでいるようにも見えた。
 頷いた御門は、村雨がもたついていたら嫌味のひとつでも投げつけてから助けてやろうと思い、
導摩と闘っている彼らを見たが、残念ながら御門の期待とは異なり、
彼が目にしたのはまさに龍麻の拳が導摩の腹を捉えたところだった。

「これで当分はまともにゃ動けねェだろうぜ。──で、聞かせてもらおうか」
「誰が教えるもんですかッ!」
 美貌──少なくとも、化粧はしていた顔を血で汚し、なお伊周は虚勢を張る。
どうやって口を割らせようかと思案した京一が異変に気付いたのは、その時だった。
「おい……大丈夫か?」
「え? パパッ……どうしたの!?」
 気絶していたはずの導摩が、急に喉を押さえて苦しみだしていた。
気絶したのが演技だったとしても、今の苦しみようは尋常ではない。
みるみるうちに顔が白くなっていき、老いた体が激しく痙攣したかと思うと、導摩は大量の血を吐いた。
紅い異空間に鮮血は異様なほど馴染んでいたが、
特有の厭な臭いは隠しようもなく不吉な予感を辺りに撒き散らしていた。
「パパ、しっかりしてッ、あの方ならきっと助けてくれるからッ!」
 伊周が父の元に駆け寄り、印を切る。
程なく彼らの姿は、跡形もなく消え去ってしまった。
「あのジジイ……ありゃ多分、助からねェぜ」
 木刀を袋に収め、京一が呟く。
逃げる前に伊周を討つことも出来たのだが、背中から襲うことは由としなかったし、
導摩の異変に気を削がれていた。
「念の為言っておきますが、わたしは何もしていませんよ。それに闘いの影響とも考えにくい」
 扇子を広げた御門が、静かに応じる。
普段の口調に含まれている棘は感じられなかった。
「じゃ、誰かが……」
「誰かが、ではなくあの御方、とやらだろうな」
「そんな、それじゃ」
 醍醐の言葉に小蒔は絶句する。
己の野望のために利用し、用がなくなったら口封じを図る──非道極まりない所業だった。
阿師谷親子も命じられたとはいえ罪のない高校生を幾人も手にかけており、
その罪は決して許されるものではないが、
それも元はといえば彼らを利用しようとした黒幕がいなければ未発に済んだ話かもしれないのだ。
「ええ、ですがあなた方が気に病む必要はありません」
己の器を見極められなかった伊周が招いた、当然の咎──
 そう語った御門の瞳には、誰も気づかない暗さの、極小の憐憫が浮かんでいた。
人間的には全く相容あいいれないが、背負った陰陽師という同じ星が、
導摩に対し彼にてわずかながら哀悼の念を抱かせたのだった。



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