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朝八時。
待ち合わせの一時間前に、龍麻はもう織部神社の境内にいた。
外で待つにははっきりと肌寒い季節だったが、好きな人を待つ時間ほど幸せなものはなく、
白い息を吐き出しながらも胸の内は既に火照っている。
今日はどこへ行こうか。
昨日散々考え、更についさっきまで歩きながら復習していた予定を、再び頭の中で確認する。
充分に時間はあったから、何を話すかまで念入りにシミュレートするつもりだった。
ところが、龍麻が神社に着いて十五分もしないうちに、
社務所の扉が開き、中から待ち合わせの相手が出てきた。
龍麻に気付くと、小走りに駆け寄ってくる。
「おはようございます、龍麻さん……いつからここに?」
「いや、来たのはさっきだけど……雛乃は?」
「わたくしは……その、少し早く目が覚めたのですが、
そうしたら居ても立ってもいられなくなってしまって、外で龍麻さんをお待ちしようと思って」
「それなら俺も同じだ。ちょっと得したね」
「得……? え、ええ、そうですね」
恥ずかしそうに話す雛乃を安心させるように微笑みかけ、さりげなく手を握る。
もう付き合って二ヶ月にはなるのに、雛乃は未だに手を繋いだだけで硬直してしまう。
それはいつまでも新鮮な気持ちを与えてくれるものの、
同時に足枷になってもいて、龍麻は未だその次のステップに踏み出せないでいた。
もっとも、今のままでも充分楽しかったから、焦ってはいなかったが。
「それじゃ、行こう」
「でも、こんなに早くて、如月様のお店は開いているでしょうか」
「大丈夫。あいつ変に年寄りくさいところがあってさ、
店は開いてないかも知れないけど絶対起きてはいるから」
歩きはじめながら自信たっぷりに断言する龍麻に、
雛乃は小指の先にほんの少しだけ力を込めて頷き、隣に並んで歩きはじめた。
如月骨董品店に暖簾はまだ出ていなかったが、入り口の戸に手をかけると、
手入れが行き届いているのだろう、年代物の引き戸は音も無く開いた。
こんな時間に店を開けて誰が来るのかと訝りつつ店内に入った龍麻だったが、
驚いたことに人影──それも女性の──があった。
「あ……」
「朱日様。おはようございます」
初対面の龍麻と朱日は同種の驚き──この店に客がいた──を顔に浮かべるのがやっとだったが、
前に一度会ったことのある雛乃はごく自然に、深々と頭を下げた。
慌てて朱日も倣い、それにつられて龍麻も会釈する。
「この方は橘朱日様とおっしゃいまして、如月様のご学友でいらっしゃいます」
「は、初めまして、橘です」
「こちらはわたくしの……友人の、緋勇龍麻様です」
「あ、ど、どうも……緋勇です」
雛乃の性格からすると仕方ない、と思いつつも、友人、と紹介されたことに龍麻はがっくりしたが、
そんな落胆など知る由も無く雛乃は朱日と会話を始めた。
「如月様は?」
「何か探しに奥の倉庫へ行って……織部さんはどんなご用で?」
「弦がまた切れてしまいまして、修理をお願いしようと」
出る幕の無い龍麻は大人しく後ろに下がって妙に目立つ位置にある招き猫を眺めていたが、
やがて、店の主が姿を現した。
「──随分と奥にあってね、少し探してしまったよ」
自分と話す時よりも随分と柔らかい語り口の翡翠に、
龍麻は朱日が彼にとって、少なくともただの級友ではないことを察知した。
人の色恋に首を突っ込むほど野暮では無いつもりだったが、
ほとんど謎に包まれたままの如月の私生活の一片でも覗けるチャンスはそうはなく、
龍の知覚を無駄に発揮して二人の関係を探ることにする。
「──と、朱日さん、少し待ってくれないか。
やァ、織部さん、いらっしゃい。──弓かい?」
「はい。先日直して頂いたばかりですのに、わたくしの未熟ゆえに、
度々ご迷惑をおかけしてしまって……」
「無理もないよ。その……あれだけ酷使していればね」
朱日がいるからか、慎重に言葉を選んで雛乃を慰めた翡翠だったが、
商品の影に隠れるように立っていた龍麻に気づくと、
その慎重さもたちまちどこかへ消し飛んでしまった。
「どッ、どうして君がここにいるんだッ!」
「どうしてって……雛乃に付き合って来たんだよ」
「むッ……」
至極真っ当な答えで翡翠の口を封じておいて、反撃に転ずる。
実のところ龍の知覚、などと大袈裟なものを発揮するまでもなく、
翡翠が朱日を名前で呼んだ時点で答えは出ていたから、後はそれを最大限に利用するだけだった。
「いやしかし、早起きは三文の得とは言ったもんだな」
「……どういう意味だい?」
「奥まで何を探しに行ってたんだ?」
龍麻の放った無形の矢は見事に命中した。
もともと朱日に渡す為のものだから、さほど恥ずかしがる理由もないのだが、
龍麻の妙にすました顔つきが気に入らず、翡翠はややふてくされて応じる。
「……これだよ」
「綺麗……!」
「まぁ、素敵なかんざしですね」
翡翠が差し出した掌には、かんざしが載っていた。
女性二人は口々に歓声を上げ、かんざしなどにまるで興味の無い龍麻でさえ、
やたら高いのだろう、とは理解できる逸品だ。
大体にして商品として店に並べておかない辺り、
売る気が無いのか、あっても上得意にしか売らないつもりだったのだろう。
「こ、こんな高そうなもの、受け取れないわよ」
「いや……いいんだ。こういうものは相応しい人に使われてこそ美しさが発揮されるものだからね」
慌てて首を振る朱日の掌にかんざしを押しつけ、
臆面も無くクサい台詞を放つ翡翠に龍麻は呆れたような視線を投げたが、
朱日はもちろんのこと、雛乃までもがうっとりとした表情で頷いていた。
翡翠をからかうつもりが、どうやら一勝一敗となってしまったようだ。
同じ感想を翡翠も抱いたらしく、かんざしを眺めている二人の頭上越しに目が合うと、
微妙な形に目元が崩れる。
先ほどの光景を鏡に映したように、今度は龍麻がややふてくされた。
「それで、弦はいつ頃直るんだ?」
「……そうだね、早い方がいいだろうし、今日の夜にでも来てもらえれば」
「……いいのか?」
龍麻が訊き返した意味を正確に理解した翡翠は、朱日にちらりと視線を走らせて小さく頷いた。
「あァ。今日はもともとそのつもりだったからね」
「なんのつもりだよ……」
なんとなく負けた気がして口の中でぼそぼそと呟くのが精一杯の龍麻に、
翡翠は口の端だけで笑ってみせる。
その態度にますます敗北感を募らせた龍麻は、やむをえず今日の敗北を認め、撤退することにした。
「雛乃、そろそろ行こうか」
朱日と何やら楽しげに話し込んでいた雛乃は、龍麻の言葉に頷き、
翡翠に向かって改めてお辞儀をする。
「それでは、よろしくお願いいたします」
「あァ、任せておいてくれ」
「じゃあな」
弓を預け、雛乃に続いて店を出ようとした龍麻を、
龍麻にだけ届くように絶妙にコントロールされた翡翠の声が呼びとめた。
「時に緋勇君」
「ん?」
「君と雛乃さんは、どれくらいの仲なんだい?」
完全に油断していた所に不意を衝かれて、龍麻は思わずよろめいてしまう。
しかし、龍麻の身体がもう少しで店の商品に触りそうになり、
翡翠ももう少しで動揺を表に出してしまうところだった。
忍者の沽券にかけて最速で動揺を収め、龍麻が振り向いた時にはもう平静を保っている。
「な、なんでまた急にそんなこと思った?」
精神的には普通の高校生の龍麻はパニックを鎮めきれず、声をどもらせて翡翠につめよった。
その可笑しさにすっかり余裕を取り戻した翡翠は軽く目を閉じて講釈を垂れる。
「雛乃さん、以前弦が切れたと言って店に来た時は、雪乃さんと一緒だったからね。
どうして今日は違うのかな、と思ったのさ。
それに、こっちの方がもっとはっきりしているんだがね、
君はいつから雛乃さんのことを呼び捨てで呼ぶようになったんだい?」
「くッ……」
この分析と判断能力、流石に忍者の末裔だけのことはある。
龍麻は妙なところで感心したが、それどころではなかった。
翡翠は意味ありげに唇を曲げると、おもむろに告げたのだ。
「いや、今度うちの店でも情報を扱った商売を始めようと思ってね」
「情報……?」
「ああ、これで中々需要がありそうでね。何と言ったっけ、君と同じ学校の……そう、遠野さん。
彼女なんて喜んで顧客になってくれそうだな、と思ってね」
龍麻は自分の顔から血の気が引いていく音をはっきりと聞いた。
アン子に知られるということは学校中に知られると同じ意味で、
引いては今共に闘っている仲間達にも筒抜けになるということだからだ。
翡翠がかまをかけているだけなのに気付く余裕もなく、必死の形相で口止めを計る。
「……何が望みだ」
「いやいや、大したことじゃない。……君の学校の旧校舎、
あそこは中々掘り出し物がたくさんあってね。
今度……そうだね、百階ほど潜ってきてくれないかい?」
「百……って」
「何、冬休みを使えば難しくはないだろう?」
冬休みは大いに雛乃と遊ぶつもりだった龍麻は、ほとんど泣きそうな顔になる。
その顔に、翡翠は口の周りの筋肉が派手に暴れそうになるのを懸命にこらえながら、
妥協案を示してやった。
「別に一人で行けなんて言っていないよ。雛乃さんと一緒に行けばいいだろう?」
「あんな辛気臭い場所で何しろって言うんだよ」
「それは君の努力次第だろう? ほら、雛乃さんが待っている。それじゃ、頼んだよ」
龍麻は鬼も逃げ出すような苛烈な視線で翡翠を睨んだが、
翡翠はすまして受け流すと用はもう済んだ、とばかりに手を振った。
このクソ忍者がッ!
最後の理性でそう叫ぶのだけは堪えて店を出た龍麻は、
目の前に怪訝そうな顔をしている雛乃に気付いて、慌てて気を鎮める。
「なにか、あったのですか?」
「い、いや、なんでもない……ちょっと今後のことを打ち合せしただけ」
「そうですか……それでは、参りましょうか」
雛乃はそれ以上は聞いてこず龍麻はほっとしたが、
もちろん百階まで潜らなくてはならないという現実が変わる訳でも無く、
実に憂鬱な冬休みを過ごすことになりそうだった。
次の目的地の為に駅へ向かう道すがら、雛乃が語りかけてきた。
「それにしても素敵でしたね、先ほどのかんざし」
「雛乃も……ああいうの欲しい?」
「…………はい」
自分で聞いておいて龍麻は驚いた。
あのかんざしが、普通の高校生には相当無理をしないと買えるものではなく、
雛乃がそういう我侭に近い頼みごとをするなど、いや、
そもそも何かを欲しがったのが初めてだったからだ。
そうなると、男としては格好良い所をみせるしかない。
「……判った。ちょっと……そうだな、雛乃の誕生日まで待って」
「本当ですか? それでは、わたくしも何かお返しをしますから」
雛乃のあまりの喜びように、後には引けなくなってしまったが、
お返しに何が貰えるのか、そう考えるとやる気も漲るというものだった。
「うん。楽しみにしてるよ」
「はい」
二人は声を上げて少しぎこちなく笑いあうと、どちらからともなく手を繋いで歩き出した。
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