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 中国、福建省。
客家はっかという少数民族が静かに住まう地。
時は一九八一年──今から十七年前。
現在へと続く宿命の輪は、ここから始まった。

 凶日。
「何故じゃッ!!」
 払暁の空に、日本語の叫びが響き渡る。
彼の声はこの地の数少ない住民である客家の人間には無論通じていなかったが、
口調と態度から何を言っているのかは明らかだった。
 男の名は新井龍山。
筮法ぜいほう師としてこの地に現れる凶星を詠んだ彼は、
仲間と共に凶星それを封ずべく異国の地を先回りして訪れていた。
 だが凶星は彼が見立てた以上に禍々しく、容易には封ずることが出来そうにない。
いかにしてこの人類を脅かすまがつ星を駆逐するか、
改めて作戦を練ろうと決め、龍山達は客家の地に戻ることにした。
 その翌朝のことだった。
この地を護る客家の若者が駆け込んできて、龍山の、親子ほども歳が離れた仲間の危急を告げたのだった。
どうやら彼は、未明のうちにひとり出発したらしい。
 龍山は驚き、若者に案内させる。
彼が連れてきたのは、この神氣に満ちた客家の地でも最も神聖な氣に満たされている、
土着の神がまつられている山のふもとだった。
そこには人の背を遥かに超えた高さの、巨大な岩戸がある。
龍山達が訪れた時には開かれていた、信仰の為の霊廟は、今、固く閉ざされていた。
「何故三山国王さんざんこくおうの岩戸を閉じたのじゃ! あの中にはまだあやつがいるのじゃろう」
 龍山の憤怒は山を裂き、大地を割るが如くだった。
この中国大陸を、引いては世界そのものを護る定めを負った客家の者達は、
龍山の怒号にも無表情で、ただ岩戸の前に巌として立ちはだかっている。
龍山が力ずくでもそれを押し退け、岩戸を開かせようとすると、
客家の者達の中から龍山よりも年老いている一人の男が進み出た。
「全ては、あの方が申し出された事。御自ら、あの『凶星の者』を守護神の岩戸へと誘い出し、
『力』を半減させたところでこの岩戸を閉じよ、と。
それは我ら客家はっかの者の意思でもございます」
 深く、ほとんど地面と水平にまで頭を垂れた客家の老人に、龍山は言葉を失う。
長老である彼が、異国人に対してここまでへりくだるのは、
それに値するだけの何かを成し遂げたということだった。
龍山以外の、誰かが。
 立ち尽くす龍山の隣にいた、龍山と共にこの地にやって来た異国の老人が、
これまで無言だった口を開き、溜まった苦い心情を吐き捨てた。
「餓鬼が」
 酷薄な口調の裏に、隠しきれない憤怒と哀惜が滲んでいる。
水の代わりに呑む酒によって染み付いた酔色は隠しようもなかったが、
この時の老人の台詞には酒精はひとかけらもなかった。
 彼の名は楢崎ならさき 道心どうしん
元高野山の密教僧で、今は風水師として凶星の者を封じる闘いに同行していた。
龍山と歳頃は同じで、こちらはよりかくしゃくとしている。
長年呑み続けたアルコールで赤らんだ目に、龍山以上に苛烈な眼光を乗せ、
道心は閉ざされた岩戸を睨みつけた。
「己の身を挺してやつを封じる気だったかよ」
 命を賭して、という行為の無意味さ、そしてそれにすがらねばならない己の無力。
僧を捨て山に入り、その山をも下りて協力したというのに、結局彼の役に立つことは出来なかった。
法術も験力も彼の助けにはならなかったどころか、相談役としても見捨てられたのだ。
彼に請われ、偉そうに手伝ってやる、などと大見得をきっておきながら、
最も重要な選択を、道心は相談もされなかった。
言えば必ず止められるからだと、岩戸の向こうに消えた男ならば笑って言っただろうが、
道心にとっては裏切られたとしか思えなかった。
 世間を捨て、信仰を捨て、人の世への関心など捨てたはずの老人は、
もう二度と開くことはない岩戸を睨み、その向こうへと消えた男の名を呼んだ。
「弦麻……」
「弦麻殿は御身に代えてこの地を護ってくださった。
我ら客家の者は永劫、弦麻殿の御名と、この岩戸を護り、伝えてゆきましょう。
それが、我が一族に受け継がれる宿星でもあるのですから」
 客家の老人が岩戸に向け低頭し、他の客家の者もそれにならう。
 それは最大級の名誉には違いない。
しかし、死んでしまった者に対してそんなものに何の意味があるというのか。
喉まで出かかった声を、龍山はかろうじて抑制した。
彼らに非はない。
あるとするならば、不甲斐ない自分達にこそ弦麻を一人犠牲にした罪があるに違いない。
 肩を落とし、弦麻が消えた神聖な岩戸から忌むように顔をそむける龍山に、道心が再び吐き捨てる。
「あの糞餓鬼め、おれらには何も言わずに逝きおって」
 弦麻は何も日本からの同行者にのこさなかった。
遺言も、遺品も。
だが、彼の闘いは、彼の生き様は必ず伝えねばならない。
客家の者達とは別に、それは生き残った者が行わねばならないことのはずだった。
 生き残った、という言葉に龍山は思い出す。
そう、弦麻にはたった一つだけ遺したものがあった。
彼と、彼よりも先に幽明境を異にした妻との間の、まだこの世に生まれ出でたばかりの生命が。
 まだ泣くことしか知らぬ赤ん坊のことを思い、龍山は新たな悲嘆に暮れた。
「わしらだけではない。あの子にも、もう何も残されてはいない……父親の背中も、
母親のぬくもりも、この世界と引き換えに、あの幼子は全てを失ってしもうた」
 龍麻──そう両親に名付けられた赤ん坊は、
龍麻の母と同じ時期に子を産んだ客家の女の許で乳を与えられている。
今は健やかに育てられている──だが、日本に帰れば肉親はもういない。
彼を心から愛し、育んでくれる何者も、もうこの世界にはいないのだ。
龍山は胸まで届く美髯びぜんこそたくわえていたが、動作も態度も実際の年齢よりも若々しい。
その彼が、健やかな泣き顔で周りの人間を虜にする赤ん坊のことを思うと、
一気に実年齢よりも老けてしまっていた。
 尽きることのない哀しみを、頭を振って無理やり打ち消した龍山は、今一人の日本人に訊ねる。
「道心よ……お主はこれからどうするんじゃ」
「俺はもう少し大陸に残ろうかと思う」
 弦麻の為に闘うと、共に日本から海を越えてきた二人だったが、
弦麻という接合点を失い、目的も、彼の犠牲の許に果たした今、共に歩み続ける理由もなくなっていた。
何故大陸に残るのか、道心にその理由すら訊ねようとせず、龍山は自分の予定を告げた。
「そうか……ならばわしは、一足先に日本へ帰るとするかの。あの子を連れて」
 道心は一度頷いたあと、心づいたように訊ねた。
「龍山、おめェあの餓鬼をどうするつもりだ? あの娘の子ということは、あの餓鬼も」
 道心は言葉を切る。
既に己の運命も、人の世の定めも達観する境地に達しているこの男が、
それを口にするのを明らかに怖れていた。
まるで、口にすれば、それが現実となってしまうとでもいうように。
 龍山はすぐには答えず、空を見上げた。
そこには満天の星が、それぞれの宿命と共にまたたいている。
虚空に存するの宿星を見上げた龍山は、そこからわずかに目を逸らせて呟いた。
「わしは……あの子には平穏な人生を送って欲しいと思う。
あの娘と弦麻が命を賭して護った、二人の大切な忘れ形見じゃからな」
「そうかもしれねェな。……だが、あの餓鬼を結ぶえにしが、
天地を巡る底深き因果の輪が、決してあの餓鬼を見逃しちゃくれねェだろうよ」
「それでも、せめてその刻が訪れるまでは、平凡な人として、平穏な暮らしをさせてやりたいのじゃ。
宿命の星が、再び天に姿を現すその時までは」
 それが、闘い──十七年前に人知れず行われた、ひかりかげの闘いの全てだった。

「日本へ戻ったわしは人伝ひとづてに、ある夫婦にその赤子を預けたのじゃ。
それから十七年、お主は自らこの地へと戻ってきおった。宿命という名の星に導かれてな」
 龍山が話を終えた後も、しばらく龍麻達五人の誰も口を開かなかった。
 龍麻を除いた四人が、当事者である龍麻を見る。
そこにあったのは、時折間が抜けていながらも頼れる仲間の顔ではなく、
想像を絶していた己の出生の秘密に戸惑い、恐怖している男のそれだった。
 だが、それも無理はない。
今は離れて暮らしているが、慈愛と厳しさを以ってこれまで育ててくれた両親が、
実は血が繋がっておらず、本当の両親は十七年前、龍麻と同じような『力』を持ち、
人知れず世界を護る為に闘い、死んでいたと聞かされて平静を保てる人間などいないだろう。
 隠されていた真実をまだ受け入れられないでいる様子の龍麻を、
痛ましげに見やった小蒔が、視線を龍山に移して訊ねた。
「それじゃ、ひーちゃんが新宿ここへ来たのも、得体の知れない事件に巻き込まれたのも、
初めから決まってたコトだっていうの?」
「人にはそれぞれ持って生まれた星、宿星というものがあるのじゃよ」
 美髯びぜんをしごいた龍山はそういう答え方で、小蒔の問いが正しいと肯定した。
「宿星とは人が生まれながらにして背負う定め。
『死生命有り。富貴ふっき天に有り』。すなわち、人の進むべき道というのは、
天命によって現世うつしよに生を受けると同時に定められておるのじゃ」
 龍山が宿星について説明すると、京一は納得しかねる、といった風に顔をしかめた。
「天命、ねェ。生まれた時から進む道が決まってるなんてなんか嫌な気分だな。
俺は俺の意思で進む道を選んできたつもりだってのによ、
実は違いましたなんて言われちゃたまんねェな」
 傍らに置いた紫の包みを、京一は意識せずに握り締めた。
 いつからか、己の意義だと思い歩んできた道。
ただ強く、誰よりも強くなりたいとの一心で歩んできた道は、
一人の転校生によって今年の春に大きな転機を迎えた。
それは京一にとって意に染まぬ道ではなく、むしろ歩きたいと心のどこかで願っていた道だった。
だから彼と共に往き、共に闘ってきた。
それが、誰かが書いた筋書きなのだ、と聞かされて、
指図されることを好まない京一は、他人が想像も出来ないほど怒っていた。
もしも宿命とやらが人の形を取っていたならば、本気で斬りかかっていたかもしれない。
 長い付合いで友人の怒りを全てではないにせよ、
ある程度は理解している醍醐は、なだめるように京一に語りかけた。
「だが、悪い事ばかりでもないと思うぞ。運命にせよなんにせよ、
それによって緋勇が真神に来たからこそ、俺達はこうして出会ったんだからな」
「まぁそりゃそうだけどよ」
 醍醐の言い分に半分程度は納得して、京一は龍麻を見た。
 唇を噛み、囲炉裏で爆ぜる炎を凝視している龍麻には、危険な相が浮かんでいる。
以前、比良坂紗夜という少女が死ぬ時に見せた、深い哀しみの底に沈む、修羅のかお
龍麻は豊かな感情を持ち、それは京一達にとってたまらなく魅力的な長所のひとつであるが、
その豊かさは陽の感情に留まらない。
哀しむ時は氷原の裂目クレヴァスに等しく、
怒る時は火山の噴火もかくやという深い情を、京一の友人は有していた。
 敵が百人いようと臆することなどない京一だが、今の龍麻の表情は見るにえず、
そして、そんな龍麻に励ましの言葉をかけてやれない自分に歯軋りするしかなかった。
 彼女らしくない、長いため息を吐き出した小蒔が、それではまだ足りぬというように頭を振る。
「でも十七年前の中国で、今のこの東京と同じようなコトが起きてたなんて、
まだちょっと信じられないや」
「魔星の出現と共に龍脈が活性化して、
その『力』を手に入れる為にひかりかげの争いが起こった」
 そしてそれに関わっていたのは、龍麻の父親と今龍麻達に話を聞かせている新井龍山達。
では彼らが闘ったのは、一体誰なのだろうか。
「おじいちゃんが闘ったのって、どんなヤツなの?」
「うむ……名は柳生やぎゅう 宗祟むねたかという。
江戸の末期から生きておるらしいが、奴に関する文献は、
恐らく奴自身が処分したのじゃろうがほとんど残っておらんのじゃ」
「江戸の末期……って、もう百五十歳くらいってコト? そんな」
 信じられない、と言ったように小蒔は友人達を見た。
しかし彼女の友人達は、あるいは首を振り、あるいは腕を組んで黙している。
彼らも百五十歳という数字には疑問を抱いているようだったが、
どちらにしてもその柳生という男が元凶なのは間違いなさそうだった。
「その柳生という奴が、今俺達を狙っているということですか?」
 五人の中で最も龍山の言を信用している醍醐が、黙ったままの仲間達を代表して訊ねた。
「うむ。わしのえきによれば、『遇大過之震於坤』というが出ておる。
つまりこん──南西の方角から訪れた大いなる過ちとわざわいとが、
この地を震撼させるに至る──つまり、『雉鳴龍戦』。天下に異変の起こる予兆じゃ。
かつて弦麻が命を賭して奴を封じた客家の三山国王の岩戸はこの東京よりまさに南西に位置する。
大地の震撼とは龍脈の活性化こそを意味するもの。
そしてなにより、あやつが封印を解き甦ったのであれば、再び龍脈の『力』を求め、
魔星の出現と共に日本に戻ったも道理。
お主があやつに狙われるのもまた──道理なのじゃよ、龍麻」
「それってひーちゃんが……前にそいつを封印した人の息子だから?」
 小蒔の問いに、一度呼吸を整えた龍山は、小蒔ではなく龍麻と、そして葵に眼差しを向けて答えた。
眼光には老体と思えないほどの力強さがあり、龍麻も葵も龍山から目を逸らせなくなる。
「それもある。じゃが、それだけではない。
弦麻は龍脈の作用によって生まれた『力』だけでなく、元来、人並み外れた氣の『力』を持っておった。
お主はその弦麻と、菩薩眼の娘との間に生まれた子なのじゃ」



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