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「──!!」
 一同は、己の怒りに浸っていた龍麻でさえもが驚き、葵を見た。
今この時代に菩薩眼を有する、葵を。
 葵にも驚きはもちろんある。
しかし、龍山に龍麻の母親が菩薩眼の女であったという事実を聞かされた時、
初めに葵の胸郭を満たしたのは納得だった。
 何故こうまで彼に惹かれ、彼に愛されたいと願うのか。
彼の顔立ちや性格、それら全てを包めたものも理由ではある。
しかしそれよりも、もっと深いところで自分と龍麻は繋がっているような気が、葵はずっとしていた。
それは彼を想うあまりの妄想ではないかと思ったこともある葵だが、
龍麻とは、想像していたよりも遥かに深いえにしで結びついていたのだ。
「私と……同じ『力』を持った女性ひとが、龍麻くんの……」
「そうじゃ。龍麻、お主と葵さんが出会うたのも、わしには全て因果の輪の内のことと思えてならぬ」
 因果そんなものを龍麻は信じない。信じたくない。
しかし、母親が菩薩眼の持ち主で、同じ菩薩眼の持ち主と出会い、
父親を斃した凶星の者と闘う必定がある──
それらを偶然と言ってしまうこともまた、龍麻にはできない。
龍麻自身、春から自分達を取り巻く数々の事件が、
自分と葵を中心に起こっていると思わざるを得ないからだ。
「己の道を見極め、思うように進むがよい」
 唇を噛んで苦悩する龍麻に、龍山はいたわるように語りかける。
「お主の父と母は、世界と、何よりお主を護るために共に闘った。
大いなる二つの『力』を受け継いだお主には、まだ知らねばならぬことがある。
そして、やらねばならぬことも……な」
 龍山は口調を変え、彼と共にこの東京の秘密を知る人物の名を告げた。
楢崎ならさき 道心どうしんに会ってみるがよい」
「楢崎……道心? さっきの話に出てきた人ですか?」
 黙したままの龍麻に代わり、醍醐が師に訊ねる。
「そうじゃ。若い頃には高野山金剛峰寺において密教の修法を学び、
後に神仙への道を求めて山へ入り、修験の僧となった男じゃ。
あやつが何を見出し、何に絶望して山を下りたのか知らぬが、
わしが出会うた時、すでにあやつは破戒僧じゃった」
「破戒僧ってアレだろ、肉も食えば酒も呑む、時には女も抱くって生臭坊主のことだろ」
 京一の台詞に、龍山はこの日初めて笑みを浮かべた。
白い美髯がかすかに揺らめく。
「まァ、その通りじゃな。じゃが、俗世との関わりを絶った寺僧とは対極に位置する彼らは、
その実純粋な求道者よ。奴の求める物……それは決して人の手に入るものではない。
それでもあやつはあの日、訪れた弦麻の裡に何かを見出し、共に行くことを決めたのじゃろう。
道心あやつは密教の秘術と会得した験力を用いて、
先の闘いで弦麻と共に先陣を切って闘ったのじゃからの」
 弦麻、という言葉に龍麻の肩が動く。
それを龍山は見逃さなかったが、あえて無視して続けた。
「道心とは十七年前中国で別れたきりじゃったが、
聞くところによると数年前に日本に戻ってきおったらしい。
わしもいずれ顔を見に行くつもりじゃが、龍麻、お主先に挨拶をしてきてくれんかの」
 白髭をしごいて龍山は龍麻を見た。
少年の表情は龍山が想像していたよりも険しく、その険しさは龍山一人に向けられている。
年功を経て、人格も円熟を迎えた龍山は動揺こそしなかったものの、
若者をこのような表情にさせてしまったことに、後悔めいた気持ちを抱いていた。
「あれから十七年……長いようで、あまりに短かったの」
 怒りをたゆたわせている龍麻の顔は、うしなった年少の戦友にうりふたつだった。
双瞼を閉じ、しばしの間十数年の過去に思いを馳せた龍山は、現在いまに意識を戻す。
「のう龍麻。真実を隠しておったわしを、お主は恨むかの」
「……」
 龍山の問いに、龍麻からの答えはなかった。
そして、答えなかったことに、彼の仲間や龍山は、彼の深い怒りを感じ取っていた。
 事実、龍麻は怒っていた。
 自分はいい──しかし、それに巻きこまれた人々までも、
宿命や宿星という安易な言葉で片づけようとする龍山が龍麻は許せなかった。
 砕けそうなほど噛まれた奥歯が悲鳴を上げる。
その不快な音を黙らせるように、龍麻は心情を吐露した。
「もっと早く教えてくれていれば、比良坂さんは死ぬことがなかったかもしれない」
 あるいはそれすらも宿命なのかもしれない。
それでも最初から判っていれば、異なる道
──例えば、秋月マサキが大切な人を護るために選んだような──
を歩むことも出来たかもしれない。
だが比良坂紗夜は、龍麻に惹かれ、龍麻も淡い想いを抱いた少女は、
『力』に関わったばかりに、ほんのわずか龍麻と軌跡を交えただけで若い命を失った。
その事実は龍麻の裡に深い亀裂となって残り、時を経て悲しみは薄らいでも、
悔恨の思いは決して消えることがなかったのだ。
 したり顔で話す龍山に、龍麻は苛烈な眼光を向ける。
それは百万の敵ですら恐れをなして逃げ出すであろう、怒りに満ちた眼光だった。
 彼の友人達は、彼が龍山に殴りかかるのではないかと危惧する。
龍麻は常識をわきまえた男であり、そんなことをするはずがないと判っている彼らでも、
もしかしたら、と思ってしまうほど、怒りしか彼からは感じられなかったのだ。
「緋勇」
 止める醍醐の声も、やや中途半端な印象だった。
醍醐もまた白虎の宿星を持つ身であり、それが為に同級生であった佐久間猪三を死に至らしめているのだ。
己を苛み、喪失の危機にまで陥った醍醐は龍山や仲間達のおかげで立ち直ることが出来たが、
そうなることが判っていたのなら教えて欲しかったという、
恨み未満のものではあるが気持ちが確かにあったのだ。
更に言えば、『力』を手に入れてしまったために再び狂気の道を歩み、
幾人もの女性を恐怖に晒した、かつて醍醐の友であった凶津煉児も、
止める方法があったかもしれない。
それを思えば、醍醐の心情はむしろ龍麻の方に近いとさえ言えるのだった。
「……わしらの判断は、間違っておったのかもしれぬな」
 龍麻の、若く、深く、そして苛烈な眼光を、龍山は避けるように頭を垂れた。
龍麻を産むことで生命を失うと知って、なお龍麻を産んだ迦代と、
龍麻が天涯孤独になると承知した上で、龍麻と世界を護るために自ら犠牲となった弦麻。
彼らの忘れ形見は、まだ眼すら開かぬ時から既に、『器』としての宿星を定められていた。
それは時代の覇者たる資格を持つと同時に、凄絶な、
波乱に満ちた人生を歩むことを義務づけられたということだ。
それを知った時、龍山と道心は思わず天命を呪ったほどだった。
だから、せめて宿星が輝きを増すその時までは、何も知らずに暮らして欲しい。
知らないことは幸福である、そう考えたからこその決断だったが、
若い彼らは自分達の宿命を知っても臆することなく立ち向かい、乗り越えようとしている。
彼らのまとう、若さという名の氣は、
まだ迂回を知らない、ただ真っ直ぐに伸びているだけなのかもしれない。
だがそれが、人の生において何よりも貴重なものであるということを、龍山は痛感していた。
老醜は、去り行く時かもしれない──
そうとすら思う龍山だった。
 しかし、龍山の考えとは別に、龍麻達の闘いはまだ終わっていない。
闘いを終わらせるための真実をっている人物に、
この地を護る宿星を持つ若者達を会わせねばならなかった。
「道心は新宿中央公園におる。明日にでも訪ねてみるがよい」
 龍山が告げた道心の居場所はあまりに身近すぎて、京一は驚きの声を上げずにいられなかった。
「中央公園!? そのジジイ、ンなトコに住んでんのかよ」
「え、でもボクそんな人見たことないよ」
 京一と同じ、あるいはそれ以上に中央公園を良く通っている小蒔が、葵に同意を求めた。
葵も、そして醍醐も意見は同じで、共に龍山を見る。
快活に笑った龍山は、京一達が何度も公園内を通っても道心に会ったことのない理由を説明した。
「あやつは世俗との必要以上の関わりを嫌うておるからの、
普段は己の張った方陣の中に隠れて暮らしておるんじゃよ」
「方陣……」
「普通の人間には決して気づかれることのない別の空間じゃ」
「でもそれじゃ、ボク達はどうやってその人に会うの?」
「案ずることはない、時が満ちたのはあやつも把握しておるはずじゃ、
あやつの方でお主らを招きいれるじゃろうて。ただの」
「ただ……なんですか?」
 順番に訊ねる京一、小蒔、醍醐に答えていった龍山は、ここで初めて表情を曇らせた。
「うむ……あやつは高野山を下り、修験の道に入った挙句、それも捨て破戒僧になるような性格じゃ。
底意地の悪い罠のひとつやふたつは用意しているじゃろうな」
 龍山や弦麻、そして客家の人間を辟易させた気性は、
年月を経て悪化していることはあっても円熟の境地に至ることなど決してないだろう。
この東京が危難に瀕している今、龍麻達に龍山が期待する助言は与えてくれるだろうが、
それまで龍麻が、悠久の大河の如き感情を持っているこの若者が我慢できるかどうか、
不安にもなる龍山だった。
 それでも、龍麻は道心に会わねばならない。
自身の持つ宿命の意味を知り、そして、弦麻の息子として、
父親の記憶を幾らかでも知る者に会い、彼の父親がどれほど立派であったかを知るために。
「よいか、あやつの方陣に足を踏み入れたと思ったら、
いかなることがあろうと名を呼んではならぬぞ」
「名前……? 呼ばれても返事するなってことか」
「そういうことじゃ。それだけ覚えておけば、後はなんとかなるじゃろう」
 長い夜も、終わろうとしていた。
龍山はすっかりぬるくなった茶を啜り、未来を担う若者達を順に見渡した。
「陽と陰の混乱によって活性化した龍脈の膨張が限界点まで達し、
この地を揺るがす強大なうねりとなってしまうまで、もう時間がないのじゃ」
 ならば何故、もっと早く教えてくれないのか。
また同じ怒りが龍麻の中に渦巻いた。
恐らく師もこの事態については把握していたのだろうが、こんな話を聞いたのは初めてだ。
 どうして大人というのは、本当に大切なことは隠そうとするのだろう。
隠しきれるはずがないのに、それが隠しきれなくなるとお前の為を思ってやった、
などとしたり顔で言う。
彼らにも事情はあるのかもしれないが、
龍麻がそういう配慮をありがたいと思ったことはこれまで一度もなかった。
 龍麻は人並み以上には思慮も分別も持ち合わせている少年だったが、
この夜は紗夜に対する哀惜の念が大人に対する不信感へと変質して、
他の感情を押し退けてしまいどうしようもなかった。
 龍山の話が終わった、と判断した龍麻は、無言で立ちあがる。
最低限の礼儀で龍山に頭を下げ、仲間達を促しもせず一人で庵を出ていってしまった。
慌てて京一達も立ち上がり、龍山の許を辞去することにする。
 龍麻の非礼を咎めもせず、玄関まで彼らを見送った龍山は、若者達を見やって言った。
「これから先、お主達を襲うであろうは数百年の間因縁の輪を彷徨さまよい続ける怨霊じゃ。
心してかかるがよい」
 凶星持つ者の運気は極めて強く、完全に滅しさることは龍山達にも不可能だった。
弦麻の命と引き換えにしてさえ、十数年動きを止めるのが精一杯だったのだ。
しかし、かげがあるところ、ひかりも決して消えない。
天地あめつちは凶星を再び出現させると共に、宿星持つ者達をこの地に呼んだ。
自分達に為しえなかったことを、彼らなら為してくれるかもしれない。
龍山の平凡な口調には、深い願いが込められていた。
「なに、龍麻あいつにゃ俺達がついてるんだ、そんな奴ァ叩っ斬ってやるよ」
 京一が木刀で肩を叩いて豪語する。
他の三人のいずれにも、京一と同じ表情が浮かんでおり、
それは龍山を安心させるに足るものだった。
「……そうじゃな、お主達、龍麻を頼むぞ」
 力強く頷いた若者達は、勢い良く庵を飛び出していく。
彼らの後姿を、龍山はいつまでも見送っていた。

 竹林を、龍麻は一人歩く。
京一達は配慮してくれているのか、近寄ってくる気配はない。
龍麻もその方がありがたかったから、速度は緩めずそのまま歩いていた。
 十二月の夜風が、火照った頬と頭を冷やす。
激情が去るにつれ、いくらか冷静さが戻ってきた。
 龍山の措置は正しかったのかもしれない。
確かに春からの一連の事件を経験していなければ、いきなりお前は黄龍の器という存在で、
父の命を奪った宿敵に命を狙われていると言われて聞き入れるとは思えなかった。
 しかし、仕方ない、で済ませるには比良坂紗夜の命はあまりも重すぎた。
紗夜を利用した彼女の兄に同情する気などは欠片かけらもないが、
印象的な栗色の髪は、今もなお記憶に鮮やかな色を残している。
もっと早く自分の『力』の持つ本当の意味に気づいていたら、彼女をたすけてやれたかもしれない。
そう考えると、龍麻の頭の中は黒い後悔と赤い怒りが織り成す格子模様に支配されてしまう。
 誰かを不幸にしてしまう『力』に、何の意味がある──
後ろ向きのその考えには、もう囚われないようにしていたはずなのに、
消し去ったはずのそれはいつでもあぎとを開け、龍麻を待っていた。
 頭を振ってかげの思考を追い払った龍麻は、自分が紗夜のことを好きだったのかふと自問する。
あまりに鮮烈すぎて、確かめるのが怖かった想い。
しかしそれを確かめるには彼女と交わした言葉はあまりに少な過ぎ、
彼女と過ごした時間はあまりに儚かった。
「比良坂さん……」
 呟きは、風に紛れて散っていった。
 龍麻の後姿を、見えなくなるぎりぎりの距離からついていっている京一達は、
彼らしくなく肩を落として歩く龍麻に心配そうな顔を寄せあった。
「ねぇ、大丈夫かな、ひーちゃん」
「さあな」
 京一には彼なりの考えがあってそう言ったのだが、小蒔には随分酷薄に聞こえたようだ。
小声で話しているのも忘れ、声を高めかける。
「さあなって、冷たくない?」
「どうしようもねェだろうがよ。俺だって宿命だのなんだのは気にいらねェし、
それを隠してやがったジジイはもっと気に入らねェ。ましてやあいつは」
 京一はそこで語句を切ったが、皆彼が言わんとすることは判っていた。
「それは……そうだけどさ」
「まァあいつのこった、長く引きずるこたァねェだろうよ」
「うーん……そうかなあ」
 彼らの会話を耳に通り抜けさせ、葵は前方を歩く龍麻に目を凝らした。
黒い学生服の龍麻は、薄暗い竹林の中ではほとんど見えない。
闇が、そのまま龍麻を呑みこんでしまうのではないかという、不合理な考えが葵を捕らえる。
 龍麻は葵にとって、いや、彼に関わる全ての人にとって眩しいひかりだった。
弱い心を照らし、道標となってくれる陽。
それが闇に呑みこまれるなど、あるはずがない。
あってはならないことなのだ。
 自分を叱りつけて不吉な考えを追い出した葵は、
新宿に戻るまでは彼を一人にさせてやりたいという想いと、
今すぐに彼の隣に並びたいという想いに苛まれながら夜道を歩き続けた。



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