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 気が付けば山を下り、街に戻ってきていた。
ここまでずっと一人にしてくれていた京一達も、軽い不安を浮かべて近づいてくる。
心配をかけた、と龍麻が小さく笑ってみせると、安心したように皆頷いてくれた。
「こんな時間か……ちっと腹減ったな、ラーメン食ってかねェか」
「いや……悪い、今日は帰るよ」
 京一が気遣ってくれているのは龍麻にも解るが、今日はそこまでの気分にはなれなかった。
京一も承知しているのだろう、しつこく引き留めたりはせずにあっさりと手を振ってくれた。
「そっか。んじゃまた明日な」
 友人達が角を曲がるまで見送った龍麻は、家に帰るためにきびすを返した。
 一人になると、すぐに龍山の話が脳裏に浮かぶ。
自分を産んですぐに亡くなった母親。
自分を護る為に闘い、そして死んでいった父親。
顔の記憶すらないまま永遠に別れてしまった両親の墓は、その客家の地という所にあるという。
龍麻を連れた龍山は遺体を持って帰る訳にはいかず、また客家の人間のたっての願いもあって、
両親はかの地で丁重に弔われ、英霊として祀られているという話だった。
 両親に、逢いたい──
今の、育ての親に不満などない。
それどころか血も繋がっていないのにこれまで十八年間育ててくれた恩は、
返しても返しきれないほどある。
しかし、それとは異なる次元の話で、
自分をこの世界に産み落としてくれた両親に逢いたいと龍麻は願うのだ。
もちろんそれは、生命の法則を曲げなければ叶えることはできない願いだ。
ならば、せめて墓にだけでも。
 龍麻はこの闘いが終わったら、客家の地とやらに行ってみようと思った。
顔の記憶を宿すことさえなく死に別れた両親に、成長した自分を見せたい。
 しかしそのためには、闘いを終わらせるためには柳生宗祟を斃さねばならない。
父親が命と引き換えにようやく封じた男。
どんな理由があれ、彼を許すわけにはいかない。
陰氣はかげを生み、底知れぬ昏い闇に人をとしてしまう。
鬼道衆との闘いで、陰氣は決してすがってはならないものだと身をもって知りながらも、
龍麻はまだ見ぬ父親の仇を思うだけで憎悪の氣が膨れ上がっていくのを抑えられなかった。
 すれ違う人々が驚き、怯え、逃げるように道を開けているのにも気づかず、
龍麻は陰氣を撒き散らしながら歩く。
 瘴気にも近いほどのそれが霧消したのは、ある女性の声が彼を呼んだ時だった。
「龍麻くん」
 春からもう何度となく呼んでくれるその声を、龍麻は聞き間違えるはずがなかった。
自分が陰氣に囚われかけていたことを知り、恥じ入ると共に慌てて振り払う。
 白い息を幾つか生みながら駆け寄ってきた葵は、立ち止まった龍麻に小さく笑いかけた。
「良かったら一緒に……帰らない?」
 一瞬、龍麻は京一の顔を思い浮かべた。
ラーメンの誘いを断っておいて、葵と一緒に帰るのは彼に悪くないだろうか。
しかし龍麻は、葵の頼みを無下に出来なかった。
自分を心配して引き返してきてくれた彼女を、冷たくあしらうことなど出来るはずがなかった。
それに今、龍麻は葵の声が無性に聞きたかった。
彼女という存在を、傍に感じていたかった。
「うん……帰ろう」
 二人は肩を並べ、新宿の街を歩き始めた。
 街路をひとつ曲がり、静かな裏道に入る。
龍麻は賑やかな人通りが決して嫌いではなかったが、今は、世界に居るのは二人だけで充分だった。
 葵も同じ気持ちだったのか、辺りに人の気配がなくなるのを待っていたかのように話しかけてきた。
「もう、二学期も終わりね」
「そうだね」
 とっさに相槌は打ったものの、龍麻は意外だと思わずにいられなかった。
てっきり龍山邸での態度を非難されると思っていたのだ。
しかし葵はそれについて触れるつもりはないようだ。
彼女の配慮はとてもありがたかった。
「二学期が終わったら、もう後少しだね」
「そうね」
 二学期の終わりは、三学期の始まりを示している。
それはいよいよ受験が迫ったということであり、そして、
その結果がどうなるにせよ、旅立ちの──別れの時が近づいているということだった。
 葵はそれについてどう考えているのだろう。
龍麻はさりげなく葵の心境をうかがうが、彼女の整った顔の輪郭からは何も読み取れなかった。
 それきりかける言葉を見失ってしまい、小さな靴音だけが空しく耳に届く。
自分の不甲斐なさに頭を掻きむしりたくなって、龍麻は意味もなく掌を開閉させた。
と言っても、一度沈黙に慣れてしまうとそれを打破するのは一秒ごとに難しくなっていき、
焦る気持ちとは裏腹に、心臓だけが動きを早めていく。
しかし、それが最高潮に達する前に、葵が先に話しかけてくれた。
「ねえ」
「ん?」
「龍麻くんは、大学どこか決めた?」
「一応」
 進学を目指すのなら、この時期に進路を決めていないとさすがにまずい。
龍麻は検討し、どうにか自分の学力なら入れそうな大学の名を二つほど挙げた。
「美里さんは?」
「私は」
 葵が挙げた大学は、いずれも龍麻の目指すところとは違っていた。
落胆を隠せないでいる龍麻に、葵の声が聞こえてくる。
「私ね、教職免許を取ろうと思うの」
 葵が告げたのは、全て教育学部がある大学だった。
まだそこまでの明確な目標はなく、学部もなんとなくで選んだ龍麻は、
一緒の大学でなくて残念だ、などと考えた自分を恥じた。
「先生になるの?」
「まだはっきり決めてはいないけれど」
 葵は恥ずかしそうに小さく笑う。
自分について訊かれたら困る、と考える龍麻だったが、幸いにも彼女は話題を変えてきた。
「みんなのこと……何か聞いてる?」
 せっかく訊いてくれたのに、龍麻は葵を満足させてやれる答えを持っていなかった。
「いや……知らないんだ。醍醐は大学には行かないって言ってるけど、
どうするのかまでは教えてくれないんだ」
「そう……京一くんは?」
「あいつはもっと。どうすんだよって訊いたら『しばらくナンパでもして過ごすかな』
とか言いやがって、もう少しで喧嘩になるところだったよ」
 龍麻は別にそこまで京一の将来を心配しているわけではない。
自分自身の未来も選びかねている状態で他人に偉そうに言うことなどできないし、
冷たいようだけれども、人生は一人で歩まねばならないのだ。
ただ、京一の場合進学はなさそうなので就職か、
と思い訊ねたところにそんな不真面目な返事をよこされて、
つい憐憫まるだしで本気か、などと訊ねてしまったのだ。
すると京一は思いの外怒り、醍醐がいなければ殴り合いになっていたかもしれない。
翌日謝ると何のことだと言われたので、もう気にはしていないのかもしれないが、
龍麻の胸中には小さな後悔が棘となって残った。
いずれ改めて謝ろうと決めた龍麻だったが、その機会はまだ訪れていない。
 やり取りを思い出して、ちくりと痛んだ棘に龍麻は顔をしかめる。
その鼻先に、冷たい滴が落ちてきた。
見上げると、細い雨粒が顔を叩く。
龍麻が視線を隣にいる女性に向けると、ちょうど振り向いた彼女と目が合った。
「雨が……困ったわ、傘なんて持ってないのに」
 冬のきまぐれな雨にまで備えるのは、いくら万事に気が行き届く葵でも不可能だった。
葵が無理なら龍麻は聞くまでもないことで、二人はいっとき降りはじめた雨の中に立ち尽くした。
「とりあえず、雨宿りできる場所を探そう」
「ええ」
 小走りに雨を凌げる場所を探した二人は、見つけた店の軒先に飛びこんだ。
雨足がほとんど同時に強まって、図らずも二人は足止めを食った格好になった。
 制服の端の部分を適当にはたいて水滴を掃っていると、葵がハンカチを差し出してくれる。
「いいよ、そんな大げさなものじゃないから」
 制服ごときでハンカチを借りてしまうのは、いかにも申し訳なく思えたのだ。
「それより美里さんは濡れてない? 風邪でも引いたら今の時期大変だから」
「ありがとう、大丈夫」
 少し儀礼的な会話を交わした二人は、同時に吹き出した。
 白い息が幾つか、闇に生まれ、消えていく。
それを見ていた葵の表情が、名残惜しんでいるように見えたのは龍麻の思い過ごしだったろうか。
さりげなく注視する龍麻に気づかず、葵は新たな呼気を紡ぎ出す。
「今年の春、龍麻くんに会って……もう半年以上も過ぎたのね」
 それは、さっき話しかけてきた内容と、似て非なるものだった。
さっきは、高校三年生として。
今は、龍麻じぶんに出会ってから。
龍麻は半分だけ息を吸い、小さく吐き出した。
「半年か……あっという間だったね」
「そうね」
 多くの事件、多くの出会い。
楽しいことだけではなかったが、それらのいずれもを龍麻は記憶に深く留めている。
それは葵も同じはずで、京一に醍醐、小蒔達五人での日々は一生忘れえない思い出となるはずだった。
視線を止まない雨から水平移動させた龍麻は、その先にいる女性ひとのところで顔を止めた。
 細い輪郭を持つ横顔は、動かない。
それが期待外れなのか、それともそうではないのか、龍麻は自分でも判断がつかなかった。
彼女の瞳を見たいとも思うし、目が合ってしまったら最後、何も言えなくなってしまうだろうから。
もう一言何か言うべきだろうか。
かけた方が良いに決まっている、と解っていながらも龍麻が何も言えないでいると、
葵が顔を上げ、朧に浮かぶ月を眺めて呟いた。
「本当に……終わるのかしら」
 彼女の抱く不安は、龍麻にもある。
けれど龍麻は、彼女を護る男として、自分の本心を押し殺して断言した。
「地球を支配出来るほどの『力』なんて想像もつかないけど、
でも、柳生を止められるのが俺達だけなのなら、絶対に止めないと」
「そうよね。ごめんなさい、弱気なことを言ってしまって」
 葵は頷き、顔を向けた。
彼女の瞳に宿る、深い黒輝が龍麻の双眸そうぼうを捉える。
宿命などでは断じてない、緋勇龍麻として、龍麻は葵に触れた。
勇気を出して、手の甲を、そっと。
葵の冷たく、硬い手が、温もりを求めるようにひるがえされる。
もどかしく絡みあった指先が、居場所を見つけて安らぎを得た時、葵の身体は腕の中にあった。
「龍麻……くん……」
 これまでで一番近いところから聞こえる囁き。
しかし、それでもまだ遠いと、これまでの弱気が嘘のように、龍麻は細い身体を引き寄せた。
「大丈夫……この東京まちも、葵も……護ってみせるから」
 見開かれた葵の眼が、信頼と愛情に満たされていく。
穏やかにあふれ出した想いが、彼女の頬を伝っていった。
「葵」
 自分の口がそう動いたのか、龍麻は覚えていない。
声は意味を持つ前に彼女に伝わり、触れた口唇は灼けるように熱かった。

 雨は、止んでいた。
去り行く温もりに名残惜しさを感じた龍麻は、急に気恥ずかしくなってしまって顔を逸らした。
繋いでいた手からその気恥ずかしさが伝わってしまったのか、葵もぎこちなく身を離してしまう。
「あ、雨、上がったから……今のうちに帰るわね」
 さっきまでのときが夢だったのではないかというほど、急速に冷めていく。
それを無理に引きとめようとして、龍麻はその瞬間まで頭のどこにも全くなかったことを言った。
「あの」
「なに?」
「木曜日……予定あるかな。無かったら……俺と、その……会ってくれないかな」
 葵は龍麻が決定的なチャンスを逃してからも、今日に至るまで、
そう誘われたときの答えを何十通りも考えていた。
いつ、どこで言われても、落ちついて答えられるように、可能な限りの受け答えをシミュレートしていた。
しかし、その想定の中に、今この瞬間だけはぽっかりと抜け落ちていた。
龍山に聞いた話がいくらかは影響を与えていたのかも、冷たい雨が邪魔をしたのかも、
まだかすかに残る彼の口唇の感触に気を取られていたのかもしれない。
とにかく葵は、龍麻に木曜日、と言われた時、
それが三週間ばかり前からずっと気に留めていた大切な日だということをすっかり忘れており、
何かあったかしら、と考えてしまっていた。
「ええ……別にいいけれど」
 何の用、と言いかけた声は、龍麻の場違いな歓声に遮られてしまった。
「本当!? あ、あの、それじゃ木曜日の一時に、駅前で」
 ええ、と頷く間もなく、龍麻は駆け出していく。
龍山の話を聞いてから不機嫌そうだったのが直って良かった、と随分間延びしたことを思いつつ、
葵は何がそんなに彼を喜ばせたのだろう、と考える。
「木曜日って……あ!」
 龍麻が告げた曜日の意味に気づいた時、葵は思わず立ち止まって声を上げていた。
首をすくめて辺りを見まわし、誰も聞いていなかったことに安堵する。
次にいかにも龍麻らしい、不器用すぎる誘い方を心の中でひとしきり非難すると、
今更鼓動が早まるのを感じた。
龍麻が走っていった方を振り向き、唇をなぞる。
大きく息を吸い、空気を一気に導き入れると、快い冷たさが浸透していった。
自然にこみ上げてくる嬉しさに身を委ねつつ、
家へ帰るために振り返る前に、葵は小声を夜に向けて放った。
「それじゃ、また明日ね。……龍麻」
 それは少し早い、予行練習だった。



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