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「ずっと昔?」
「せや。ずっと昔、客家の村でな」
「それじゃ──」
頷いた劉は、自らの生い立ちと龍麻との縁を語り始めた。
「客家は中国の少数民族のひとつで、幾多の戦乱を潜り抜けてきた
剛健弘毅(で、誇り高い民族や。そして十七年前、
龍山老師や道心のじっちゃんと同じく、わいのじいちゃんもまた弦麻はんと一緒に奴(と闘うたんや」
龍麻達は声もなく劉の話に聞きいる。
彼もまた、偶然日本を訪れたのではなく、己の意思と宿星の導きによって東京に来たのだ。
「わいの村は地図にもよう載っとらんような山間の小さなとこや。
せやけどそこは中国にとって重大な意味を持つ場所なんや。
大陸を支配する『黄龍の穴』を護るっちゅう、重大な意味と使命がな。
客家は小さな村やけど、その地相を始め、祭壇を取り巻くように建てられた
八卦碑を象(った集合住宅の円楼(、
その入り口の数や方向、守護神の祭壇、村の至るところにある全てが風水に基づき、
龍穴の護りを堅固にするための呪法なんや。
この村に生を受けたものは皆、黄龍の眠りを護るために生き、その目的のためだけに死ぬ。
それがわいら、客家封龍(の一族の定めなんや。
もっとも、もうわいが最後の一人なんやけどな」
「最後の一人って、まさか」
龍麻の問いに、劉は淡々と頷いた。
「一瞬やった」
劉の態度は、哀しみが癒えたからではない。
全くその逆で、膨大すぎる哀しみと、それに倍する怒りが、かえって感情を抑えつけているのだ。
それが龍麻には判る。
かつて龍麻も、そのような状態に陥ったことがあるからだ。
劉は誰とも目を合わせず、ただ事実のみを語る。
「蚩尤旗(の出現を予兆する、赫い彗星が空を渡った夜、
弦麻はんとじいちゃんらが命懸けで封じたあの岩戸から出てきたんは、ほんまもんの剣鬼やった。
奴の刀の一振りで、文字通り村は塵と化したんや。わいをひとり残してな」
父が命を賭した封印を、柳生はわずか数年で破ってしまったということなのか。
そしてそれほど強大な男が、今度は自分達の前に現れようとしている。
斃せるのか──いや、護れるのか。
鬼道衆と闘っていた時には囚われなかった恐怖に首筋を愛撫されて、
衝き動かされるように龍麻は視線を滑らせ、その先にいる護るべき女(を見た。
護らなければ。
この東京(を、ではない、彼女を護らなければ。
そう龍麻は己を奮い立たせる。
世界の支配などに興味はないが、それが柳生を斃し、
葵を護るために与えられた『力』だというならば、黄龍の宿命を受け入れる。
だが従うのではない、未来を拓(くためにだ。
「自由を取り戻した奴が目指すんは次に龍脈の活性化を迎える日本やということを知ったわいは、
この地に来た。奴を……斃すためにな」
劉の顔に鬼が浮かぶ。
身体から噴き出す陰氣が、陽気な中国人であった劉を悪鬼に変えようとしていた。
それに取り憑かれてしまったら劉は救われなくなる。
そうなる前に、龍麻は止めなければならない。
黄龍の『力』に関わる仲間は、皆護る──それこそが、黄龍の宿命であるはずだから。
「あんたらと出会うてほんまに楽しかった。せやけどこっからはひとりで行かせてもらう。
私怨にあんたらは巻きこめん」
「私怨じゃないさ」
「……?」
「柳生は俺の親父の仇でもある」
劉がはっとしたように顔を上げる。
その肩を、彼がしたように、そして彼よりも力強く龍麻は掴んだ。
「でも俺は斃すためにじゃない、護るために闘う」
龍麻の手を跳ね除けるように盛り上がった劉の肩は、
小さく二度震えた後、穏やかに力が抜けていった。
龍麻が手を放すと、劉は鼻を啜(りながら目を擦る。
「まだ……日本語が不便なんが恨めしいわ、なんちゅうたらええんかわからへん」
もう、劉から陰氣は感じられなかった。
「で、鬼道衆じゃねェってんならなんなんだ、あの鬼は」
京一の問いに、最後にもう一度目を擦った劉は説明を再開した。
「せやった、話が途中やったな。わいらが闘うたんは、鬼道なんちゅうもんとは次元が違(う。
もっと本質的な『力』の働きで、魂魄(を分離させることなく、
その全てを陰そのものに塗り替える。これこそがまさに龍脈の乱れが生んだ鬼なんや」
人の心の闇に忍びこみ、それを肥大化させるのが鬼道衆のやり口で、
そこから人を鬼に変生させる場合、いわば触媒となる悪霊が必要となる。
それが劉の説明だった。
しかし今斃した鬼は、鬼道という外法を用いるよりも遥かに難しく、
膨大な氣を用いて強引に生み出されたものだという。
それを可能にしたのが龍脈の乱れであり、そして、それを実行出来る男は。
「強大過ぎる能力(を持った者を、欲望という名の下に支配するのは容易いことや。
全ては騒乱の下に更なる龍脈の活性化を促すのが目的、
そしてその全ての裏にいるんはたったひとりの男や」
「柳生……か」
「せや。あいつだけはあかん……あいつの目指す修羅の世界っちゅうんは、
ただ強いもんだけが存在を許される、暴力と狂気が支配する世界や。
わいはこの世界を気にいっとる。わいの生まれた中国も、この日本も。せやから」
劉がそこまで言った時だった。
龍麻達の周りに、俄(に霧が立ちこめる。
何事かと龍麻が道心を見ると、自分達に劣らず驚いている彼がいた。
「む……いかんッ!」
道心は叫んだ。
先の鬼は、結界を破るために投じられた捨て駒だと遅まきながら気付いたのだ。
だが道心の施したものとは似て非なる、赫(い霧が急速に辺りを包んでいく。
すぐそばに立っているお互いの顔さえ見えなくなるほど濃く、
そして肌に触れるだけで不快感をそそられてしまう陰氣の霧だった。
道心はすぐに陰氣を祓う真言を唱え始める。
しかし、その時既に陰氣を蔓延(らせた何者かは、静かに霧の中を動いていた。
「美里さんっ」
妖しい霧によって分断された龍麻は、彼にとって最も大切な女性(の名を呼ぶ。
だが霧は姿だけでなく声も遮断するのか、葵からの返事はなかった。
肌を嬲(る陰氣に耐えきれず、闇雲に動き回って葵を捜そうとする。
一歩を踏み出した足が、唐突に止まった。
何故だ──それが自分の意思によるものではない、と確かめた龍麻は原因を探る。
敵に、何かの術をかけられたのか。
そうではなかった。
凄まじい気配を感じ、龍麻は振り向く。
そこには見たことのない、赤い学生服を着た男が立っていた。
日本刀を携えた姿からは、これまでのどんな敵よりも強大で、凶々しい氣が放たれている。
この氣こそが自分を縛りつけたのだと龍麻は直感した。
男は醍醐に匹敵する長身から龍麻を見下ろし、ゆっくりと口を開く。
「貴様が弦麻の息子か。さすがに『器』だけあっていい面構えをしているな」
「お前……柳生か」
男は龍麻が身構えるのにも全く警戒しない。
今なら隙だらけだと判っていながらも、龍麻は男に威圧されて動けなかった。
「いかにも俺が柳生宗祟。『凶星の者』にして……貴様の父親を殺した男だ」
「!! 貴様……ッ」
柳生は日本刀を腰に差しているが、まだ抜いてはいない。
この間合いなら、今から抜いても自分の拳の方が疾い──
龍麻は氣を練り、周囲に漂う陰氣すら取り込んで父の仇を狙う。
劉が言った私怨は、そのまま龍麻にも当てはまるのだ。
劉を諭したこの東京(を護るという大義名分も瞬時に忘れ、
龍麻は己の怒りのみで柳生を斃(さんと踏みこんだ。
霧に隠されて京一達に顔を見られないで済んだのは、龍麻にとって幸いと言えた。
今の龍麻の顔には、彼の友人達が見たら戦慄せずにはいられないであろう修羅の相が浮かんでいた。
昨日龍山の庵で見せたものとは比較にならない、敵を屠(り尽くさずにはおかない悪鬼。
劉に浮かびかけ、一旦は宥(めた鬼が、龍麻に乗り移っていた。
しかし柳生は悪鬼をも上回るのか、薄笑いを浮かべ微動だにしなかった。
拳に宿した膨大な氣を、龍麻はいささかのためらいもなく柳生に撃ちこむ。
「この陰氣の中で動けるか……さすがは『黄龍の器』と言ったところか」
拳は確かに柳生を捉え、氣も充分に練れていた。
それなのに、龍麻に手応えは全くない。
氣が、食われる──
柳生の有する圧倒的な陰氣に、龍麻の拳から放たれた氣は吸収されていた。
一度で効かなければ、何度でも撃てばいい。
間を置かず拳の連打を浴びせようとした刹那、柳生の身体から陰氣が迸(る。
濁った赫(い氣は、龍麻を簡単に弾き飛ばした。
「──!!」
純粋な氣のみで身体を持っていかれたことなど初めての龍麻に、隙が生じる。
柳生の身体の中心に押し当て、伸ばしていた右手が、己のところに戻ってくるまでの刹那。
龍麻の腹部を、灼けるような痛みが襲った。
研ぎ澄まされた全身の感覚が、その痛みが刀傷によるものだと告げる。
熱い。
熱く、冷たい。
貫かれた皮膚の部分は火傷をしたように熱いのに、身体の内側、
刃が突き抜けている内臓の部分は、恐ろしく冷たかった。
陰氣が入ってくる。
刃から注がれているのか、それとも傷口から辺りに漂う陰氣が染みこんできているのか、
意識が遠のきはじめた龍麻には判然としなかったが、
今この、大切な仲間達と自分とを隔てている陰氣の妖霧に、身体が溶けていくような感覚だった。
あまりにも甘美なその感覚に抗うことが出来ず、龍麻はゆっくりと膝をつく。
新たな灼痛が全身を弄(った。
眼前にかざされた、半分ほども赤く染まった刀身。
龍麻自身の血に彩られた刀。
視線が下りていく。
否、落ちていく。
視界はどこまでも赤く、ただ明度のみが下がっていった。
やがて赤は、黒へと変わる。
閉ざされた視界に呼応するように、龍麻の意識は昏い闇の底へと落ちていった。
「お前は新たな時代を担う資格を持っている。いや……持っていた、というべきか」
動かなくなった龍麻を見下ろし、柳生が呟く。
侮蔑と嘲笑、この世に存在する悪意の全てを凝縮した、邪悪な笑みがその貌(には浮かんでいた。
道心の法術が、陰氣を祓(う。
声を出すこともままならないほどの陰氣の霧に閉ざされ、
かつてない恐怖に陥っていた京一達は、薄くなっていく赫い妖霧に胸を撫でおろしかけた。
しかし、晴れた霧の向こうにあったのは、ありうべからざる光景だった。
紅の髪をした、赤い学生服の男。
手には日本刀を持ち、その刀身は赤く染まっている。
切っ先からはまだ血が滴り、地面へと落ちていた。
そして、その切っ先が向けられているのは──
「嫌あぁぁァッッ!!」
長い絶叫が響き渡る。
絶望と恐慌に支配された葵の絶叫は、いつ果てるともなく続いた。
地面に伏した龍麻の周りが、じわりと鮮血に滲んでいく。
あまりにも非現実的な光景を、誰もが受け入れられなかった。
硬直する京一達を一瞥(した柳生は、恫喝するように血塗れた刀を振る。
血飛沫が飛び、地に描かれた凄惨な絵図に彩りを添えた。
悠々と刀を鞘に収めた柳生は、襲うなら今だ、と言わんばかりに踵を返した。
「ッ、てめェッ……待ちやがれッ!!」
「待て、今は緋勇が先だッ!!」
悠然と立ち去る柳生に、京一が挑みかかろうとする。
それを必死で押し留めた醍醐は、京一が異様に汗ばんでいることに気づいた。
昂ぶっているのではない。
京一の身体からは、熱気ではなく、その逆のものを醍醐は感じていた。
同時に自分の背中にも、同じ種類の汗が噴き出しているのも。
俺達は、怖れている──
純粋な強さに怖れを抱いたのは、生まれて初めてだった。
「畜生ッ、放せ醍醐ッ!!」
渾身の力で京一を羽交い締めにしていた醍醐は、
柳生の姿が見えなくなってからようやく力を緩めた。
憤怒の形相で京一が睨みつける。
だが京一の怒りよりも、倒れた友の方が醍醐には恐ろしかった。
見てはいけない──
しかし、結果を見ないことの方が何倍も恐ろしく、醍醐は勇気を総動員して視線を下に落とす。
龍麻は、かけがえのない友は──
自らが生み出した血の池の中で、身じろぎすらせず倒れ伏していた。
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