<<話選択へ
次のページへ>>
(1/3ページ)
夜中、もう後三十分もすれば日付が変わる時刻。
校舎の屋上へと続く扉を開けた龍麻を、巨大な満月をその背に従えたマリアが待っていた。
「来てくれてありがとう、龍麻」
マリアはいつもと変わらぬ笑みを湛えていたが、笑み以外の全てがいつもと異なっている。
それは、人々が古来より恐れる『魔』のイメージそのものだった。
完璧な美しさと、底知れぬ残忍さを秘めた肢体。
彼女の服が血のような深紅だとしたら、その唇は血そのものだった。
そして瞳は生徒を見守る優しげなものではなく、獲物を狩る時の冷徹な蒼に彩られている。
龍麻も無言のまま、制服のボタンを上から二つ外して、軽く呼吸を整える。
しかしマリアは爪の先まで戦闘の準備を整えながら、すぐには襲いかかろうとはしなかった。
「先に話しておいた方がいいわね。私は、闇の眷属……ヴァンパイアなの。
私達がかつての繁栄を取り戻す為に、龍麻クン、あなたの──黄龍の器の力が欲しいの」
マリアは淡々と自分の秘密を告げたが、その中にはどこか捨て鉢な感じも含まれていた。
マリアの語感に微妙に、しかしはっきりと紛れているそれを龍麻は感じとっていたが、
だからといってどんな言葉で彼女を説得出来るはずもなく、
目を逸らさないようにするのが精一杯だった。
無言のままの龍麻に、何を期待していたのか自分でも判らないまま頭を軽く振ったマリアは、
次の瞬間、人ならざる者の動きで襲いかかった。
龍麻も素早く初撃を躱すと、マリアを倒そうと渾身の力で肘を撃ちこむ。
いくら龍麻が『器』として並外れた力を有していても、マリアは本気で攻撃してきていたし、
拳を繰り出す度に体内の氣は意思に関わらず膨れていき、敵を倒そうと肉体を操ってしまう。
二人ともが本気ではあるが、本意ではない闘いが始まった。
西洋の妖と、東洋の神秘との死闘はいつ終わるとも知れない激しいものだったが、
それでも、徐々にではあるが確かに終局へと近づいていた。
肉をも切り裂こうとするマリアの爪を躱しながら、
龍麻は自らの躰で練った氣を手足の先に乗せて打ちこんでいく。
掠るだけだった拳が柔らかな肉を捕らえ、空を切っていた蹴りが美しい肌を傷つけ、
もはや勝敗は当事者達にも明らかだったが、なお敗者は動きを止めようとしなかった。
残された全ての力を振り絞って龍麻に飛びかかり、その血を啜ろうとする。
マリアが龍麻の首筋にあと数センチのところまで唇を近づけた時、腹に決定的な一撃がめりこんでいた。
「がッ……はッ……」
よろめいて目の前の龍麻にもたれかかりそうになり、寸前でそれを堪えると、
口から大量の呼気と、わずかな血を吐き出してその場に膝をつく。
マリア自身はまだ闘えたが、龍麻の闘氣が薄れていき、
自分をもう脅威とみなしていない事を知ると、急速に疲労が身を包んだ。
龍麻が傍に立っているのは判ったが、顔を上げる気力も無く、
掌に伝わるコンクリートの感触に逃げこむ。
その時突然、まるで二人の決着が着くのを待っていたかのように、
マリア達のいる場所が──いや、龍麻が護ろうとしている街全体が揺れた。
急速に、そして激しく揺れる月明かりに、マリアの中の負の感情が一度に噴出す。
一族の悲願を果たしえなかった事、血の宿命に逆らえず生徒を襲ってしまった事、
そして──愛しはじめていたかも知れない男と闘ってしまった事。
それらが一体となってマリアを苛んだ時、彼女は駆け出していた。
目指す先は、校舎の端。
そこから飛べば、あらゆるしがらみから解放される。
もはや彼女に残された最後の希望は、しかし寸前で阻止されてしまった。
完全に虚を突いたはずの龍麻の手が、落ち行く彼女を繋ぎとめている。
抗う気力も失せ、されるがままに助け上げられたマリアは、
ほつれて額に張りついた前髪を直そうともせず龍麻をなじった。
「どうして……放っておいてくれなかったの?」
自分の物とも思えないひびわれた声に苛立って、
無理やり出した大声は全く感情の制御が出来ていなかった。
「アナタが来なければ、私は宿命に縛られる事も無く教師として朽ちる事が出来て、
心乱される事も無かった。アナタさえこの学園に来なければ!」
虚ろに灰色の床を見つめながら、マリアは呪詛を吐き続ける。
だから彼女は気付かなかった。
自分を見つめる龍麻の瞳が、自分などより遥かに深い闇を宿していた事を。
「敗者にはかける言葉も無いって訳……?」
教師としての言葉遣いも忘れて自嘲気味に呟き、龍麻の顔を見上げる。
そこでようやく龍麻の瞳に浮かんでいる物を見て、マリアは軽く息を呑んだ。
その怯えにつけこむように、龍麻が動く。
くずおれたままのマリアに近づいて彼女と目の高さを合わせると、
月光を受けて銀色に輝く顎を掬い上げた。
威圧するのでも無く、同情しているのでも無い、不思議な、温度の無い熱を帯びた昏い瞳は、
しかしあまりにも甘美にマリアを惹き付けてしまう。
一瞬にも満たない間、二人の視線は絡み合い、
マリアは龍麻の瞳の中に自分と同じ物を見出したように思ったが、
龍麻が口にしたのは色恋とはまるで無縁の物だった。
「マリア先生は、龍穴って知っていますか?」
あまりに唐突な龍麻の言葉にマリアは面食らったが、
染みついた教師の性なのか、生徒の問いに答えようと記憶を辿らせる。
「……ここの、旧校舎の事でしょう? 地の力……龍脈が吹き出るという」
「そう、確かにそうです。でも、もう一つ意味があるんです。
それはね、女性の……ここのことを指しているんですよ」
静かに、事実だけを告げるような口調でそう言うと、
龍麻はスカートの上からマリアの下腹部を素早くまさぐる。
その手を払いのけながら、マリアは闘っている時にも感じなかった恐怖を抱いていた。
「止めなさい! そんな……事、今アナタが作ったんでしょう?」
「嫌だな、マリア先生。生徒を信じてくださいよ。
昔の人は男のこれを龍に見立てて、龍気を注ぎ込む事で新たなエネルギー
……生命を龍穴から噴き出させる。筋が通っているでしょう?」
本当は筋が通っているいないではなく、今ここでそんな話をしだした事を指摘するべきだった。
しかし龍麻の眼は、まるで自分達闇の眷属が持つ邪眼のように動きを封じ、心を捕えてしまう。
「だから、マリア先生が必要としている龍の力……先生の中に注いであげます」
「バっ、バカな事は……止めなさい……」
「血を吸って力を手に入れようとするよりも、ずっとマシだと思いますよ。そう思いませんか?」
揶揄するような龍麻の口調に、マリアは唇を噛んで黙ってしまう。
自分がしようとした事の愚かさは百も承知だったが、
こうして他人に言われて心地良い物でももちろんない。
その後ろめたさが、マリアの敗北だった。
龍麻の手が肩に触れても、マリアは身を強張らせただけで、それ以上抵抗も見せず押し倒される。
冷たいコンクリートが肩甲骨に当たったが、痛みは感じなかった。
闇の力の源泉が、眩いほどの光で、まるでまだ闘えといわんばかりにマリアを照らす。
しかしそれを、龍の影が遮った。
陰に包まれる事に安堵を覚えながら、自分を組み敷いた男が焦っているように見え、
マリアは蒼氷色の瞳を教師のそれにして尋ねる。
<<話選択へ
次のページへ>>