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それに気がついたのは、自分だけのようだった。
銀光を一身に浴びている雛乃の細い身体が輝きを増し、
そのまま月に呑みこまれて消えてしまうような錯覚を覚えて、龍麻は肩を抱いた。
自分が前触れもなくいきなり踏みこんでしまった事を知ったのは、
雛乃のなだらかな肩の感触ではなく、自分を不思議そうに見上げる黒曜の視線によってだった。
「あっ、あの、ごめん」
慌てて手を離そうとする龍麻の手を、温かい何かが包む。
それが雛乃の手である事に驚いて声も出ない龍麻の肩に、今度は小さな重みが加わった。
「緋勇様の肩、少しの間……お借りしてもよろしいですか?」
「うん」
龍麻は声を出す事で肩が揺れてしまうのを怖れて、小声で答える。
しかしそれは緊張のせいかひどく掠れてしまい、龍麻は彼女に届いているか不安になったが、
雛乃は無言のまま身体をずらすと更に寄り添ってきた。
肩に伝わるかすかな鼓動を感じながら、二人は月を介してお互いを見つめあう。
龍麻が軽く首を傾げて雛乃の髪に頬を乗せると、雛乃がうっとりと呟いた。
「こうしていると、今わたくし達に起こっていることが、まるで──夢のようですね」
龍麻は、今ここでこうしている事が夢のようだったから、それには直接答えなかった。
「……でも、鬼道衆が居なければ、君に会うことも無かった」
「……そうですね。あるいは縁があれば、
わたくし達がどこかで会うことも有ったかもしれませんが、彼等が居なければ、
今、この時に、こうして──あなたと語らうことは叶わなかったでしょう」
自分に対する呼びかけが変わった事に気がついて、龍麻の心臓は急激に音を立てて動き出した。
しかしだからといってどうすれば良いのか、迷う龍麻に時は無慈悲に流れていく。
短い沈黙が流れ、雛乃は龍麻の意気地の無さを咎めるように、
龍麻に重ねた自分の手にわずかに力を込めた。
それに後押しされるように、龍麻は意を決して呼びかける。
「あのさ、雛乃──」
さんを取っただけだけれど、どれほどの膨大な想いがその呼び方に込められていたか、
雛乃は感じとってくれただろうか。
雛乃がそう呼ばれたがっているのが判っていても、龍麻にとってその一歩を踏み出すには、
黄龍の器としての宿命を受け入れるよりも遥かに多大な気力を必要としたのだ。
「はい」
か細く、耳に届く前に淡く散ってしまいそうな儚い声を、
龍麻は吐息でさえ聞き漏らすまいと全身を耳にしながら、想いのたけを告げる。
「あのさ、鬼道衆との闘いが終わったら──終わったら、一緒に、どこかへ──」
龍麻は、そこまで言うのが精一杯だった。
雛乃はその言葉の続きを待つようにずっと頭を預けたままだったが、
それきり台詞が続かないのに業を煮やしたのか、いきなり顔を上げた。
いつもの煙るような優しい視線でなく、敵と対峙する時のような苛烈な視線。
それが中途半端に終わった告白のせいなのは明らかだったから、
龍麻は絶望的な気持ちで彼女の眼差しを受け止めた。
「それでは、わたくしのお願いも聞いて頂けますか?」
「……うん」
「今──わたくしを、抱き締めてください」
今日何度目だろう、自分の意気地無さに呆れたのは。
龍麻は頭を掻き毟りたくなったが、しかし今は、呆れるよりも前にする事があった。
雛乃の肩に乗せた手にわずかに力を込め、自らの方に引き寄せる。
雛乃はそれに逆らわず龍麻に身体を預けると、そっと胸の中央に手を押し当てた。
「あなたの身体……とても暖かいですね。それに、心音が……優しくて、心地良い、です──」
歌うように囁く雛乃の躰を、両手でしっかりと包みこむと、
両手で余る彼女の存在が、龍麻の中でどうしようも無く膨れ上がる。
ようやく叶った願いを、未だ夢心地で噛み締めつつ、龍麻はいつまでも雛乃の身体を離そうとしなかった。

しばらくの間目を閉じて好いた男の胸に身を委ねていた雛乃が、何かをねだるように顔を上げる。
その瞳の端がわずかに潤んでいるのを見た時、龍麻は彼女の頬を掬い上げていた。
「……っ…………」
雛乃の手が弱々しく龍麻の肩を掴み、歓喜に震える。
許されるなら、このまま溶けてしまいたい。
それが駄目なら、せめてこの時が永遠に──そんな理不尽な事も本気で願えるくらいの
豊かな想いが触れている唇から流れこみ、雛乃を満たしていく。
甘く、魂を震わすような愉悦を、しっかりと龍麻の頭に腕を回して己の躰により深く染みこませる。
龍麻の想いに気付いたのは、それほど古い話では無かった。
いつからか闘いが終わった時に、時折何か言いたげな目でこちらを見ているのは気付いていたが、
それが恋を宿した瞳だと知ったのは、自分の双眸に同じ輝きがあるのを見つけてからだった。
全てを押し退けて急速に胸の内に広がっていく想いに、
一時は恐ろしささえ感じて龍麻から離れようとした。
だから彼の方を見ないようにし、彼が見ているのが判っても応えなかった。
けれど、雛乃が初めて覚えたその感情はあまりに強く心を焦がし、
話をするどころか見るだけでも胸が締めつけられ、
次第に龍麻が他の女性と話すのさえ辛くなってしまっていた。
だから、今日龍麻が一人で神社に立っているのを見つけた時、もう自分を抑える事は出来なかった。
それでも、今まで異性から告白した事もされた事も無い雛乃は、
どう想いを告げたら良いのか解らなかったのだ。
それが今、自分は龍麻の腕の中で、彼と口付けを交わしている。
姉の影響で抱いていた、男性と言うのはあまり良い物ではない、
という漠然とした先入観がいかに間違っていたか、
薄れいく意識のなか、ぼんやりとそんな事を考えていた。

微動だにせず、ただ抱きあって口付けをしているだけなのに、
彼女が見降ろしている全ての人間の誰よりも満たされた時を過ごしている龍麻と雛乃に、
いつしか月も恥ずかしがって雲間に姿を隠してしまっていた。
暗闇の中で、微かな息遣いと、触れている場所だけがお互いを感じ取れる全てになる。
それでも、陰陽の理を悟った二人には、どれほどの障害でもなかった。
龍麻がいて、雛乃がいる──それだけで充分だったのだ。
それなのに、どちらから離したのか──お互いに離したくはなかったのに──重なっていた顔が離れた。
冷たい風が唇を撫で、雛乃は忘我から醒めると、満ちたりた想いを静かに言霊に乗せた。
「想いが、叶いました──」
およそらしくない言葉に目を丸くした龍麻に、雛乃は軽く目を伏して龍麻の服の袖を掴んだ。
「わたくしだって……好きな方とキスしたいと思いますわ。
でも、後は……これ以上は、闘いが終わってからに致しましょう。
そうでないと──あなたに溺れてしまいそうで」
龍麻が雛乃を抱きたいと思ったのは、むしろこの言葉を聞いてからだった。
狂おしいまでの欲望を自制しながら、許されたただ二つの行為──彼女の心を抱き締める。
雛乃もそれに逆らわず、背中に回した繊手で龍麻を指先まで感じ取ろうと精一杯の抱擁で応えた。

いつまでも離れない二人にいいかげん嫉妬した月が姿を現すと、
名残を振り払うように雛乃が離れようとし、龍麻も不承不承それに従う。
「それでは、また後日お会い致しましょう」
龍麻は最後にもう一度だけキスをしたいと願ったが、雛乃はすぐに振り向いて家の方に戻ってしまった。
贅沢なため息をつきながら歩きはじめた龍麻を、小さな声が呼びとめる。
「──!」
龍麻が振り向いた瞬間、素早く唇が押し付けられた。
もう月灯りをもってしても表情は見えなかったが、
龍眼には頬を染めて恥らう雛乃の姿がはっきりと映っていた。
「これで、本当に最後です」
そう、龍麻の耳にだけ入るように囁くと、身を翻して、今度は本当に家に戻って行った。
雛乃の気配が露と消えても龍麻はその場に立ち尽くしていたが、何かを思い出したように唇に触れる。
そこに彼女の名残があるのを確かめると、
今更感情を爆発させた龍麻は全力で月に向かって駆けだしていった。

その姿を満足そうに眺めると、繊月も再び虚空の灯火として与えられた仕事に戻る。
願わくば、次は自分が最も輝く時に続きを見たい物だと思いながら。



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