<<話選択へ
次のページへ>>
(1/2ページ)
壁際にもたれかかったまま、惰性で団扇を扇いでいる。
背中が壁につかないよう腰をずらし、団扇を持っていないほうの手はぐったりと投げ出していた。
視線は一杯まで開け放たれた窓の外に向けられているが、
その焦点は定まっておらず、要するに今の龍麻を一言で言えばだらだらだった。
そんな龍麻の部屋に、もう一人いる。
こちらは上体を木製の台に投げ出し、
両腕は前にやる気無く垂らして龍麻に勝るとも劣らないだらけっぷりを晒し、
目の前に置いてある、もう水の一滴も入っていないコップを恨めしげに見つめ、
その向こうに映る男の姿を見るでもなく見ている女性は、
だらけていなかったなら美里葵だとすぐに判っただろう。
今の彼女は美しい黒髪もやや乱れて貼りつき、
何よりそのやる気の無い顔が誰だかさっぱり判らなくさせていた。
呼吸をするだけでも不快な汗が肌を伝う為、置物と化したように動かない二人だったが、
おもむろに机に突っ伏したままの葵が口を開いた。
「暑いわね」
「……」
「返事くらいしなさいよ」
少し棘を含んだ、しかしあくまでもだるそうな声に答えるのも、この暑さにすっかりやられた声だ。
「俺のようかん返したらな」
「あれ、美味しかったわね。また買ってきてよ」
「……」
一瞬の油断で泥棒猫に奪われた、黒光りする宝石のことを思いだして龍麻は泣きそうになる。
しかしこの殺人的な猛暑は涙さえも汗に変えてしまったのか、涙腺から悲しみは溢れて来なかった。
悪を糾弾する勇気もなく、さりとて忘却の彼方へと押しやることも出来ず、
ただ悲嘆にくれることしか出来ない龍麻に、悪が追い討ちをかける。
「どこか連れて行ってよ。涼しい所」
「金が無い」
「……甲斐性無し」
言う方に容赦は無いが、答える方にも気力が無い為に、喧嘩にはならなかった。
それは結構なことだが、このまま一日を終える気も無い葵は、
なんとかしてこの無気力の塊を動かそうと説得を始めた。
「図書館に行きましょうか」
「やだ。壬生がいる」
壬生君だって常に図書館にいる訳でも無いでしょうに。
葵は思ったが、説得する為に口を開くのは億劫だった。
お互いにじろりと目を合わせ、お互いに不快なものを見て、うっかり体感温度を一度上げてしまう。
「水族館ならいいぜ。ペンギンのいるとことか涼しそうでいいだろ」
「嫌よ。比良坂さん(がいそうだもの」
比良坂さんだって水族館に住んでる訳じゃない。
龍麻は反論したが、エネルギーを無駄なことで消耗するのは嫌だったので声にはしなかった。
お互いに瞳だけに物言わせ、お互いに譲らぬのを見て取り、その不快さに体感温度を二度上げてしまう。
不毛な争いで暑さだけを募らせた二人は、またしばらく無言に戻った。
首筋を伝う汗が臍へと着いた頃、ますます気だるさを増した葵の声が蝉の鳴声を遮る。
「ねぇ。なんでもいいわ、冷たい物買ってきて」
「お前が買ってきてくれよ」
「嫌よ」
「じゃあ俺も嫌だ」
「……」
形の良い顎をテーブルに乗せて龍麻を睨みつけた葵だったが、
このいまいましい男は真っ向からその眼光を受けとめていた。
あと三度気温が低かったなら、その頬を心ゆくまでつねり倒してあげるのに。
そう思った葵は、実際には顎をかっくりと落とすだけで、
龍麻に対する制裁を諦めざるを得なかった。
ささやかな勝利を収めた龍麻は褒美とばかりに団扇を威勢良くあおぐ。
そこからもたらされる風は生ぬるいものでしか無かったが、
上機嫌の龍麻には秋のそよ風にも感じられる心地良いものだった。
わずかでも長く余韻を噛み締めようという龍麻が右の手首を30回ほど動かした時。
ただれきった脳にはとっさに何が起こったのか判らないほどの速さで葵が立ちあがった。
あまりに威勢良く風を生み出した葵を見て龍麻が抱いたのは、
とうとう根負けしてアイスクリームでも買いに行ってくれるのだろうか、という甘すぎる幻想だった。
しかしもちろん二人だけの時は指一本動かそうとはしない学園の聖女は玄関になど向かわず、
あろうことか部屋の奥に向かってきた。
それとも団扇を扇いでくれるのか──すっかり暑さでゆだっているのか、
この期に及んでまだそんなことを考えている龍麻の前に立った葵は、予想もつかない行動に出た。
イメージというものがあるのだろうが、
何もこんな日にまでと言うくらい丈の長いスカートの、裾をつまみあげて跨ってきたのだ。
女性特有の甘い香りは漂うものの、それ以上に体温を感じ過ぎて、
龍麻は思わず突き飛ばしそうになる。
そんなことをしたら後でどうなるか解ったものでは無かったが、
この時は全身の自由を奪う暑さが幸いした。
もっともそれは将来の危機は回避出来ても、今の危機まで回避出来る訳ではなく、
かろうじて扇風機で繋ぎとめられていた生命線が邪魔な身体で断ち切られ、
龍麻は葵に二割程真剣な殺意を抱いた。
「暑いって」
「暑いわね」
自分よりも先におかしくなったのか、葵はにっこりと微笑む。
額に汗が浮かんでいなければ惚れ直すほどの美しい笑みも、
身体から立ち上る湯気が蜃気楼を作っている有様では、死神のそれと変わりは無い。
微妙に肌をくすぐる柔らかな乳房だけは心地良かったが、
龍麻は自分の生活環境を改善する為に立ち上がらねばならなかった。
「……ちょっと……本気……なんですけど……」
「私も本気よ」
「……そうか……」
交渉が決裂したと見るや、足を引き寄せ、その勢いで葵を押し退けようとする。
蓄えたエネルギーの半分ほどを放出する大作戦も、
察知した葵に一層上半身を密着させられることであえなく潰えてしまった。
背中に汗を溜めただけで終わった作戦にニの矢は無く、
それ以上の抗議を諦めた龍麻は、こうなったら我慢較べだと、
半ばヤケになって葵の背中を強く抱いた。
滑らかな肌に浮かぶ汗がべっとりとついて、腕に不快な湿り気を与える。
今自分が感じている苦しみは、きっと葵も同じはずだ──
耳鳴りさえ始めるほどの熱気に耐えながら、龍麻は己を鼓舞した。
しかし。
どれほど噴き出る透明な滴が膜となって肌を包んでいても、
どれほどその肌が熱を帯びていても、
やはり葵の身体は、龍麻にとってどうしようもなく心地良いものだった。
ようかんより柔らかい二の腕を掴み、その二の腕よりも柔らかい乳房に顔を押しつけていると、
暑さが熱さとなって下腹の一点に集まっていく。
いつもならそのたぎりを解放するためには様々な紆余曲折を経なければならないのだが、
今日はどうやらその必要もないようで、龍麻は初めてこの酷暑に感謝する気になった。
右手をごくさりげなく腰から尻へと回し、いかにも蒸れていそうな丸みをなでる。
随分と長い間畳と接していたそこはやはり汗ばんでいたが、柔らかさは少しも失われていない。
龍麻は股間を期待に硬くして、あまり滑らない手で愛撫を行なった。
「ね……」
葵はまだるっこしい動きをする龍麻をけしかけるように、背筋をくすぐる声色で囁く。
それはそば立った毛を冷やし、いつも以上の甘い旋律となって龍麻を誘った。
一時見つめ合った二人は無言のまま、いそいそと服を脱ぎ始める。
葵が跨ったままの為に龍麻はほとんど脱げなかったが、
葵はたちまちのうちに全てを脱ぎ捨てていた。
どうやって下着を脱いだのか──意識が朦朧としていることに気付いていない龍麻は、
葵が手品でも使ったのではないかと訳の解らないことを考える。
そんな龍麻の前に一糸纏わぬ姿で立った葵は、見せつけるように腰を下ろし、
べったりと貼りついた龍麻の長い前髪を上に撫でつけた。
なんとなく似合わないオールバックの龍麻に笑いを堪えきれなくなり、
開きかけた唇を額にあてがう。
唇に染みこんだ塩を軽く舌で舐めると、くすぐったそうに龍麻が身じろぎした。
<<話選択へ
次のページへ>>