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煌々と東京の街を照らす月は、朧に霞んでいた。
たなびく雲が幾度も通り過ぎ、陽と陰(が支配権を巡って争う。
永遠に決着のつくことのない、その自然の理(を、竹林から見つめる者がいた。
「今宵の月はまた見事なものよ」
堂々たる美髯(をしごいた老人は、手にした盃を静かに傾ける。
月ごと呑み干した老人は、満悦の表情で呟いた。
「身に凍みる秋風すらも今宵は心地よく感じるわ」
傍らの徳利(から新たな酒を注ごうとした手が止まった。
眼を動かし、誰もいない林に向かって語りかける。
「お主もこの風に誘われたか」
返事はない。
しかし老人はそれに構わず、酒を注いだ盃を手にすると、呷(ってみせる。
更にもう一杯を盃に注ぐと、今度はそれを呑まず、やや離れた場所に置いた。
まるで何者かに差し出すような動作であったが、老人の周りには全く人の気配もない。
「そうか……常世の河を渡るにはまだ未練があるか」
再び独語した老人は、もう何者かに語りかけようとはせず、もう一度空を見上げた。
月は、雲間に隠れていた。
三年C組は修学旅行で消費した熱狂的なエネルギーがまだ回復しておらず、
薄い膜のように倦怠感が広がっていた。
もうそれほどの期日も無く、受験という、
彼らにとってこれまでの人生でもっとも大きなふるい(が待っているのだが、
どうにもこの実体の見えない相手は捉えどころがなく、
明確な目標を定めているごく少数の生徒以外は焦った様子もなく過ごしている。
いずれ彼らがしたたかなしっぺ返しを受けるのか、そうでないのかはまだ判らない。
だが勉学に邁進(するにせよ、友人との語らいに時を費やすにせよ、
二度とはない日々が貴重なものであることは間違いない。
そして今の龍麻は、どちらかと言えば後者にその身を置いていた。
大多数の生徒と同じく勉強はしているものの、人生の目標を定め、大学を選んだ訳ではない。
兄弟もなく、親元を離れて一人暮しをしているために人生について真面目に相談する相手が
いないというのも理由ではあるが、まだ夢現(の区別がついていない、
というのがより大きな理由だった。
まだ帰ってきてから一週間と経ってはいない修学旅行は、
龍麻にとって文字通り夢の世界の出来事だったのだ。
そのあまりに甘美な八十時間あまりは砂糖でできた楼閣を心に築き、
龍麻はその中に住んで出てこようとしない。
このままではいけない、と自分自身思うものの、
布団の中で五感のほとんどを使って感じた葵は、未だ鮮烈な記憶となって残っている。
ともすれば浮かび上がって顔のしまりをなくさせようとするそれを押さえつけるのがやっとで、
葵と視線を交わした時などはどんな顔をすれば良いか判らなくなる有様だ。
葵の方は堂々としたもので、以前と変わらぬ態度で接してくれるが、
それはそれでますます龍麻を恥ずかしがらせ、浮わついた態度を取らせてしまうのだった。
そんな龍麻は今日も、教室の片隅でぼんやりしていた。
授業は既に終わり、おしゃべり好きな女子生徒が何人か残っているだけだ。
男子生徒は既におらず、男にとっては少し居心地の悪い空気が醸成されつつあったが、
それにも気づいていない。
今日は定例部会とやらで、全ての部の部長と生徒会が会議を行うのだという。
その会議に京一、醍醐、小蒔の三人は部長であるために、
そして葵は生徒会会長であるためにそれぞれ出席しており、
三年の春に転校してきた龍麻は部活にすら入っていないので一人あぶれてしまったのだ。
家に帰っても一人なのでつまらないし、勉強をする気はもっとない龍麻は、
教室の片隅で肘をついて空を眺めていた、という訳だった。
無駄な時間を過ごしている、と思いつつ気がつけば雲を何かの形になぞらえていて、
まさに心ここにあらず──置いてきたのはもちろん京都だ──といった状態だ。
「あ、緋勇くん。さっき犬神先生が探してたわよ。何かやったの?」
女生徒のひとりが悪戯っぽく話しかけても、気のない返事を窓の外に向けて呟く。
振りかえろうともしないその態度に、
龍麻にいくらかの好意を抱いていた彼女も鼻白んで憤然と去っていってしまった。
この数日ずっとこんな感じの龍麻に、教室内ではまことしやかに噂が流れていることを本人は知らない。
曰く、修学旅行で葵に告白して豪快に玉砕した──
半分は当たり、半分は外れているその噂を龍麻が知らないのは、
彼がクラスで孤立しているからではなく、主に女生徒の間で広まっているその噂を、
小蒔が上手に消して回ってくれているからだ。
何しろ二人にはしばらく体重計を気にしていなければならないほど世話になったのだ、
その程度のことはアフターケアとして当然すべきだと考えた小蒔は、
実に巧みに葵を庇い、龍麻を擁護することに意を尽くしていたのだ。
それでも火の無いところに煙は立たぬ──何しろ半分は事実なのだ──ので、
火種を完全に消し去ることも難しく、今も龍麻から遠く離れた隅で固まっていた女生徒の一群が、
龍麻に話しかけてすげなくあしらわれた友人を迎えると、早速それを肴(にして語り始めようとした。
それが中断させられたのは、彼女達の背後にある扉がいきなり開き、
このクラス一の巨体を誇る醍醐雄矢が入ってきたからだった。
彼は何も悪くない──レスリングをして身体を鍛えてこそいるが、
性格は穏やかであり、多少固く、融通の利かないところはあるものの根拠の無い噂話を好まず、
質実剛健という言葉の見本のような男が悪いはずがない。
しかし雰囲気を削がれてしまった女子生徒達は親の仇のように醍醐を睨みつけ、
理由もなく悪意に晒された醍醐は戸惑いつつ教室を横切っていった。
目指す場所──教室の奥に着いた頃、背後で椅子をしまう音が鳴り、
足早に教室を出て行く音がそれに続く。
彼女達に何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか──自問した醍醐は、すぐに頭を振った。
女のことは良く判らない──めまぐるしく変わる態度や言動は、
彼にとって理解の範疇(を大きく超えていた。
だから、事この話題に関する限り、
触らぬ神にたたりなしという古めかしいことわざの信奉者である醍醐は、
まさか自分が教室に入っただけで彼女達に憎まれたとは思いもよらず、
今や教室にただ一人となった友人の隣に立った。
「まだ残っていたのか」
醍醐は外に向けて肘をついている龍麻にそう声をかけると、
その巨体を乱暴に下ろして椅子に悲鳴を上げさせた。
龍麻は醍醐が隣に座っても、まずは目だけを動かして友人を見やる。
「部会って奴か」
「ああ。今日の部会は来期の予算があるからな。長引くだろうよ」
その割に醍醐(はもうここにいる。
その点を龍麻が目で問うと、醍醐は答える前に少しためらった。
「レスリング部(は存続が許されただけでも上出来だからな。
予算に関して生徒会に意見なんて言えんよ」
部員であった佐久間猪三がこの春から起こした様々な不祥事と、
原因不明の失踪に伴なう彼の仲間達の退部。
部としてはある意味で健全になったとも言えるが、
教師の中には不祥事が続いた為に廃部を主張する者もおり、
それを説得するために醍醐は尽力していたのだった。
それに関して全く責任が無いとはいえない龍麻は表情の選択に迷う。
すると醍醐は気にしていない、というように空を見上げ、全く別のことを口にした。
「それにしてもすっかり秋だな。後は卒業──お前は受験組だから受験があるか、
いずれにしても、お前達といられる日が一日ずつ減っていくというのは寂しい気がするな。
中学の頃には考えもしなかったが」
龍麻は思わず友人の顔を見上げたが、醍醐はいたって真面目に言っているようだった。
そうなると龍麻も感化され、この春先からの日々を回想などし始める。
出会い、目醒め、闘い、護る。
修学旅行で葵に話したそれらの日々は、同時に彼らと過ごした日々でもあった。
終わってしまえば全てが良い思い出だ──とはとても言えないが、
これからの一生でも絶対に忘れることのできない半年間なのは間違いなかった。
柄にもなく感慨に浸る二人のところに、軽そうな声が秋風に乗って漂ってくる。
「そんだけお前が歳食ったってこったろ」
「京一」
「辛気臭ぇな、ッたく」
醍醐に続いて現れたのは、剣道部の部長である蓬莱寺京一だった。
と言っても、龍麻は彼が部活に出ているところを見たことはない。
何しろ帰宅部の自分と四六時中一緒なのだから、これで部活にも出ていたとしたら、
鎧扇寺高校の友人である紫暮兵庫のように、
二重存在(の『力』でも持っていなければ説明がつかないところだ。
もっとももし京一がそんな『力』を持っていたら、ナンパと昼寝、
あるいは両方ともナンパに使うのは間違いないだろうが。
まだ思考が空高くから戻ってきていない龍麻がそんな愚にもつかないことを考えている間には、
醍醐が京一に訊ねている。
「部会はいいのか? お前のところ(は大所帯だろう」
「次期部長の最初の仕事だろ、ンなもん」
予算の獲得など最初(から興味がない京一は、
部長の引き継ぎだけ済ませると訳も判らずバトンを手渡された次期部長を置いて、
さっさと教室に戻ってきてしまったのだ。
同学年の現副部長がフォローをしてくれる、という前提があってのことではあるが、
部長としての役目を務めているとはとても言いがたい。
後輩への指導もロクに行わず、部活には気の向いた時にしか姿を見せないという京一は、
素行だけ聞いていれば退部させられてもおかしくはない。
にも関わらず彼が部活に顔を出した時には後輩が教えを乞おうと列を作り、
友人達は手合わせを願うというのだから不思議なものだった。
さすがに身体は窓の外に向けたまま、
顔だけを反らせて見ているのも苦しくなってきた龍麻は座りなおすと、
このまま帰っても良いかどうか二人に訊ねる。
「美里さんと桜井さんは」
「もうじき来んだろ。あいつらも手際はいいからな」
葵はともかく、小蒔を褒める京一など滅多に見られるものではなく、
龍麻も醍醐も狐につままれたような顔をした。
「なんだよ」
褒められているのではない、というのを敏感に察した京一の声が尖る。
いつもならしょうもない言い争いの第一ラウンド開始、というところだが、今日はその前に仲裁が入った。
「む……来たな」
「お待たせ」
勢いのある声と、それに劣らぬ軽やかな身のこなしで入ってきたのは、
弓道部の前(部長である桜井小蒔だ。
その後ろには生徒会前(会長である美里葵もおり、これでいつもの五人が揃ったことになる。
彼らは単に仲が良いというだけではなく、不思議な『力』を有し、
東京を護るために闘ったという数奇な縁で結ばれた五人だった。
その闘いも今は終わり、彼らも普通の高校生に戻っている。
もちろんだからといって培われた友情を失うことはなく、それぞれの他の友人達と違う、
独特の感覚がもたらす心安さは、彼らをこうして放課後も一緒に行動させているのだった。
「んじゃ帰ろうか」
ラーメン屋に寄ってから、とは口に出すまでもないことなので、龍麻は鞄を持って立ちあがる。
始めの頃は学校帰りの買い食いに苦言を呈したこともある葵も、
朱に交わって赤くなったのか、それについては何も言わなくなっているが、
今日は小蒔が、いかにも曰くありげな笑みを浮かべて話しかけてきた。
「今日さ、花園神社でお祭りがあるんだ。ね、行こうよ、ひーちゃん」
「祭り……?」
「そ」
聞けば、新宿区内にある花園神社で行われる祭りは、
東京の中心地にある神社とは思えないほど大きなもので、数十万という人が訪れるという。
龍麻はこれまであまり祭りに縁がなく、それほど興味がある訳でもなかったが、
この五人でならどこへ行っても楽しいに違いない。
だから龍麻がすぐに頷かなかったのは、行くか行かないか迷っていたのではなく、
まだ厳しいままの財布の中身を思ったからだった。
そんな龍麻に小蒔が、ちらりと葵の方を見てから耳打ちする。
「ボク達浴衣着るんだよ」
要点を押さえすぎた小蒔の一言に、龍麻は反論する術を持たなかった。
「……決まったみてェだな」
にやけた友人の顔を見て、京一が笑う。
慌てて掌で顔を覆う龍麻だったが、時遅く友人達は一斉に笑い出していた。
ひたすら赤面するしかない龍麻にその笑い声はますます大きなものとなり、
葵だけが彼と同じく赤面するのだった。
「焼きそば、わたアメ、かき氷、ソースせんべいにラムネ……」
階段を一歩降りるごとに小蒔が呟く。
多彩なバリエーションは三階を降りきってしまっても終わらず、
龍麻は財布のことを思って不安を募らせた。
だが幸いにも彼女は龍麻のことを新たなスポンサーとみなすのは止めたようで、
小柄な身体を危なげなく反転させながら階段を降りていく。
「あーもう、なんか頭の中で祭囃子が聞こえてきたよ」
「そりゃ危ねェヤツなんじゃ……ぐおッ」
「全く、お祭りの前なのに手を汚させないでよね」
階下から器用に鞄の側面で京一の腹を打った小蒔は、最後の二段をまとめて跳んだ。
丈の短いスカートが際どい位置まで翻り、龍麻は思わず視線を固定させてしまう。
残念なことに──あるいは幸いなことに龍麻が期待したものは見ることができず、
一番後ろから全てを見下ろしている葵に何かを気取られることはなかった。
自分の挙動が小さな波紋を呼んだとも知らず、祭囃子に呼ばれて一人先行する小蒔の足が止まる。
「ミサちゃん」
踊り場で小蒔を見て、胸に抱いている人形の手を振ったのは隣のクラスの裏密ミサだった。
傾きかけた陽が窓から射しこみ、なんとも言えない陰影を彼女と彼女の周辺に作りこんでいる。
それを見た醍醐と京一が足を止めるほどだったが、小蒔は気にせず彼女の許に寄った。
「そうだ、ミサちゃんも一緒にお祭り行かない?」
龍麻の隣で京一がげッ、と小さく呻く。
その声が聞こえたのか、ミサは顔を上げ、口元だけを笑う形に動かした。
それにつれて影も動き、さながら夜の支配者といった面持ちになる。
龍麻は別に彼女が嫌いな訳ではないが、今のミサは妙に不気味さが強調されて、
立っているのが階段でなかったら後ずさりしてしまったかもしれなかった。
「うふふ〜、あたし〜が神社に行ったら〜、何が起こるか判らないわよ〜」
そのイメージを強調するようなことをミサが言い、空間の明度が更に下がる。
ほとんど白と黒のみの色彩になってしまったのは錯覚か否か、刹那で元に戻り、
龍麻に残ったのは軽い眩暈(だけだった。
「でも残念〜、これから出かけるところだから〜、今日は行けないの〜」
語を切ったミサは、不気味な笑みを湛えて龍麻の方に顔だけを回す。
何かそんなキャラクターが出てくるホラー映画があったような気がしたが、思い出す余裕はなかった。
「あたし〜が〜、どこへ行くのか興味ある〜?」
龍麻は頷いていない。
なのに、京一が額を手で抑えているところからすると頷いてしまったようだ。
それはきっとミサの何がしかの力に違いない、とある意味でより怖い方に責任転嫁する龍麻だった。
「恒星の悪意(による大津波が〜、この東京をさながら最後の大陸(の如くに沈める日が来るの〜。
あたし〜はそれを阻止する為に〜、これから至高の民の子孫(から〜、
未来形の力(を学びに行くの〜」
彼女が難解なことを言うのは解っていたつもりの龍麻だったが、
これはきわめつきにさっぱり意味が解らなかった。
下手に表情を晦(ませる龍麻に、再び不気味な笑みを湛えたミサはいきなり話題を変える。
「ところで〜、目の前の凶刃に気をつけてね〜」
「え? それ、どういう……」
「じゃ〜ね〜」
穏やかでない忠告に聞き捨てならないものを感じて龍麻は訊ねるが、
ミサは手にした人形に手を振らせると姿を消してしまった。
消してしまった、というのは文字通りのことで、
どう見ても運動神経が良いようには見えないし、
事実、以前小蒔に聞いたところ良くはないね、と同意されたミサは今、
龍麻が瞬きするほどの間にもう見えなくなってしまっていたのだ。
隠れられるような場所はなく、遠くまで見通しても気配もない。
おっかなびっくり顔を見合わせた龍麻達は、この邂逅(をなかったことにしよう、
と暗黙の了解を交わして再び歩き始めたのだった。
一階まで降りてきたところで、小蒔が立ち止まる。
「んじゃさ、ボク達着替えてから行くから、先に行っててよ」
「着替えて……って、随分準備いいね」
一度家に寄ってから来るものだと思っていた龍麻は、彼女達の手際の良さに少し呆れてそう言った。
「言ったでしょ? 一年前から楽しみにしてたって」
嫌味など軽く躱(した小蒔に、龍麻はなお反撃を試みる。
「でも、校門のところで待ってればいいんじゃ」
「やだなひーちゃん、気持ちは判るけどさ、楽しみは後にとっておいた方がいいじゃない」
完膚なきまでに敗北した龍麻は、
いやらしげに手を口元に添える小蒔に見送られて学校を後にするしかなかった。
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