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 男三人が花園神社に着いたのは、夕方から夜へとうつろう寸前の時間だった。
まだ祭りの本格的な時間ではないのに、もう結構な人数が来ている。
 龍麻達と同じく学校帰りの高校生、あるいは中学生もそこここに見られるが、
やはり目を惹くのは浴衣を着た女性達で、京一などは着く前から忙しく顔を動かしていた。
龍麻もどうしても視線が動いてしまうが、それはやましい心からではなく、
葵の浴衣姿を待ち焦がれるが故の、仕方ないことなのだ──と自分では思っていた。
「お前ら、ほどほどにせんか」
 それがそうではないと思い知らされたのは、頭上からため息混じりに聞こえてきた巨漢の声によってだ。
京一のように下品におねェちゃんを見てはいないと信じていたのが己の幻想に過ぎないと知り、
龍麻は赤面して色とりどりの女性達を見るのを出来るだけやめることにした。
「遅いな、あいつら」
 自省した龍麻と異なり、醍醐の説教などどこ吹く風と鑑賞を止めない京一が呟く。
自分達が来てからまだ十分と経ってはいないのにもう我慢できないようで、
人が押し寄せればその分楽しみが減るとでも思っているのか、そわそわと流れ行く人波を見ている。
構っているときりがないので龍麻も醍醐も相手にしなかったが、
遂に痺れを切らしたのか、並ぶ出店を指差して誘ってきた。
「なぁ龍麻、先にちょっと一回りしてこねぇか?」
 確かに人波は刻一刻と濃さを増し、ともすれば鳥居のところで立っている龍麻達の方が邪魔なほどだ。
それに屋台から漂ってくる様々な腹をくすぐる匂いの誘惑はいかんともしがたく、
このままでは葵の前で空腹の音を鳴らすという失態を演じてしまうかもしれない。
などとえらそうに理由をとってつけた龍麻は、京一の提案に結局はシンプルに頷くのだった。
「よし、そうと決まれば善は急げだ」
「待った方がいいんじゃないのか」
 醍醐の諫言が耳に痛い。
確かに葵と小蒔が来た時待ち合わせ場所にいないと、後で何を言われるか判ったものではない。
しかし一度意識してしまうと、焼きとうもろこしやらお好み焼きやらチョコバナナやらの匂いは
どうにも鼻腔の奥にこびりついてしまい、食欲中枢を激しく責めたてるのだ。
そう考える龍麻は、本質的にはまだ色気よりも食い気の方が若干勝るようだった。
「バカだな、あいつらが来てからじゃおちおち浴衣のねェちゃんも見物してられねェだろ」
 色気も食い気も両立させる気らしい京一は力強く断言している。
彼の勢いに押され、龍麻も後に続こうとすると、勢いのある声が足を止めた。
「よォ、緋勇じゃねェか」
「っと……雪乃……」
 龍麻の答え方がぎこちないのは、女性の名前を呼び捨てにするのに慣れていないからだ。
それともうひとつ、彼女が見慣れない服装をしているというのも、
もしかしたら原因かも知れなかった。
そうとも知らず雪乃は竹箒を持ちかえ、きさくに片手を挙げて挨拶する。
「ヘヘッ、お前らも来たのかよ」
 朱白の巫女装束を着て立っているのは、荒川区にある織部神社の双子姉妹、織部雪乃だった。
神社の娘なのだから巫女装束はともかく、どうして彼女達が花園神社にいるのか、
という龍麻の疑問を京一が代弁する。
「そんなカッコして何やってんだよ、お前」
「見りゃわかンだろ、掃除だよ、掃除ッ!」
 角を立てずに訊ねよう、という気のまるでない京一の問いに、雪乃はさっそく化学反応を見せた。
眉目はもちろん、髪の毛まで逆立ったかのように詰め寄る。
「いや、そうじゃなくてよ」
「オレがこういうカッコしてちゃ悪ィってのかよ……」
 何故かここで雪乃の語尾は尻すぼみになっていき、どうやら思ったよりも気にしているようだ。
太くはないがまっすぐな意思を有する眉が普段とは異なる位置に下がり、
それは普段の勝ち気な表情と較べると随分と女の子らしさを感じさせる。
しかしそれを口にしてしまって良いのだろうか、と龍麻が深刻に悩んでいるうちに、
もう雪乃はいつもの顔に戻っていた。
「花園の神主と織部神社ウチのじいちゃんは茶飲み友達だからな、
神祭しんさいの手伝いと行儀作法の修練を兼ねてこの週末はここで世話になってんだよ」
 聞けば雪乃と雛乃の祖父もしつけには厳しいらしいがここの神主はその上を行くらしく、
肩が凝って仕方ねェ、と京一にではなく龍麻に説明した雪乃はそうぼやいてみせた。
 事情を諒解した龍麻が頷けば、その横で京一が身を乗り出す。
「ってコトは、雛乃ちゃんもか!?」
「てめェ、何考えてやがる」
「そりゃ挨拶するに決まってんだろ。どこにいんだよ」
「ヘッ、したきゃてめェで探しやがれ」
「おう探してやらぁ。じゃあな龍麻ッ、待ってろよ雛乃ちゃんっ」
 売り言葉に買い言葉とはこのことか、矢のような応酬もそこそこに京一は勢いも良く鳥居をくぐり、
人のあふれる境内へと単身突入してしまった。
 たちまち見えなくなった後ろ姿に向かって、雪乃が吐き捨てる。
「バカが、本当に行きやがった。この人ごみじゃ探せるワケねェのによ」
「でも大丈夫かな」
「なんだ緋勇、お前京一あんなのの肩持つのか」
「いや、雛乃さんが」
「そッか、安心したぜ。でもそっちなら大丈夫、雛は社務所で手伝ってっからよ、
見つけたって忙しくて話なんてするヒマねェよ」
 血気盛んと思われた雪乃だが、妹のことはさすがに気にかけているようで、
どうやら京一対雪乃は雪乃に軍配が上がりそうだった。
神社の中なら騒動も起きないだろうし、はぐれてしまっても心配する必要もない。
龍麻が頷くと、雪乃は表情を改めて向き直った。
「な、なぁ、緋勇……くん」
 何故か竹箒を握りなおす雪乃に、龍麻は大事な話なのかと黙って聞き入る。
そのせいか、くん、などと付けて呼ばれたことにも気付かない。
「オレがこんなカッコしてたら……やっぱ、変か?」
「そんな訳ない、良く似合ってるよ」
 それが褒め言葉になるのかどうか、龍麻には良く判らなかったが、
少し強過ぎるかな、と言うくらい語勢を強めて言うと、少なくとも雪乃は喜んでくれたようだった。
「ヘヘッ、そ、そっかッ、ありがとな、ちょっとオレ雛に話してくる。
お前らも後で雛に挨拶してやってくれよな」
 何を話しに行くというのだろうか、むやみに腕を振りまわして礼を言った雪乃は、
そのまま小走りで行ってしまった。
 巫女が走るというのは、龍麻はあまり見たことがない。
それは参拝客も同じなのか、怪訝そうな視線が何本か彼女のポニーテールに注がれている。
あれじゃあんまり行儀作法の修練にはならないかもな、とひどいことを思う龍麻だった。
 境内の奥に消えた雪乃と京一を見ていた龍麻と醍醐は、なんとなく顔を見合わせる。
今更中に入ろうという気も失せている龍麻が、もうしばらくここで待つことを決め、
醍醐にそう告げた直後、入り口の方から自分達を呼ぶ声がした。
「あら、緋勇君に醍醐君じゃない」
「あ……絵莉さん」
 この人混みの中で目ざとく──実は言うほど難しいことではない、
何しろ醍醐の頭はどんな場所にいても抜きん出ているので──龍麻達を見つけたのは、
彼らの年長の知り合いである天野絵莉だった。
ルポライターを生業としている彼女は、始めはその専門分野から、
後には好奇心と東京を護りたいという願いから龍麻達と関わり、大いなる助けになってくれた。
加えて、なんと龍麻達の担任であるマリアとも友人であった彼女は、
龍麻達を年下の友人と見なしているようで、事件が解決した後も気さくに話しかけてくれる。
さっぱりとした性格と自立した大人の女性という色香を漂わせる彼女を
もちろん龍麻達の方でも好いており、呼びかけてくれた彼女に応じる声が弾んだのは、
決してやましい下心からではなかった。
「こんばんは。何か……事件ですか」
 ただ、出会った経緯やその後のことを思い出すと、どうしても彼女と何かの事件は結びついてしまう。
だから龍麻はつい、色気も何もない挨拶をしてしまったのだが、絵莉は手を振って屈託なく笑った。
「やだ、わたしにだってプライベートはあるわよ。
今日は友達とのんびり縁日でも覗こうかなって。あなた達は二人なの?」
「ああ、いえ、そうと言うかなんというか……」
「わたしも友達と二人なんだけど、良かったら一緒に回らない?」
 絵莉の誘いは大人の冗談のようでもあり、瞳は真摯な輝きを帯びているようでもあり、
要するに経験不足な龍麻には彼女の真意がどこにあるのか判らなかった。
 葵と小蒔を待っているのだから、どちらにしても断らなければならないのは当然なのだが、
その断り方で器量を試されるような気がして、龍麻は即答できなかった。
無言でいるのが一番良くない、と解っていても気の利いた台詞は出てこない。
実のところ気など利かせず正直に答えるのがこの場では最善だったのだが、
無意識に格好をつけようとする気持ちが、悪い方向に働いてしまったようだった。
「あれ、天野さん?」
「……なるほど、そういうことだったのね」
 龍麻がまごまごしている間に、小蒔がやって来る。
 すると、たちどころに事情を諒解したらしい絵莉は、軽く肩をすくめると、
龍麻の肩をひとつ叩いて行ってしまった。
絵莉に挨拶するつもりだった小蒔は、行ってしまった絵莉と龍麻を交互に見る。
「……なんで行っちゃったの?」
 説明はできない龍麻だった。
 他の話題にしようと焦った龍麻は、
小蒔の服装がラフなTシャツと更にラフなデニムのパンツであることに気付く。
「桜井さん……あれ? 浴衣は?」
「ん? ボク着るなんて言ったっけ?」
「うん、『ボク達着るんだよ』って」
「そうだっけかな、でも浴衣着るとなんにも食べられなくなっちゃうし」
 正直過ぎる小蒔に苦笑いして頷いた龍麻の、その上下運動が途中で急停止する。
小蒔の背後から、いかにも照れくさそうに姿を現した女性に視線を釘付けにされてしまったのだ。
「こ、こんばんは……皆」
「やだな、何改まっちゃってんの、葵」
 小さな袋を両手で持ち、頭を下げる親友に小蒔は笑ってみせる。
すると自分を挟んで葵の反対側にいる人物が、同じように頭を下げた。
「こ、こんばんは」
「……」
 ぎこちなく頭を下げあう二人に肩をすくめた小蒔は、
途切れることのない人の列を見渡して、感心したように言った。
「凄い人だね」
「ああ……年に一度だからな」
 醍醐の言葉に頷いた小蒔は、早速自分達もその列に加わるべく、
まだ頭を下げたままの二人の背中を押した。
「ところで京一がいないね……ま、どうせ『浴衣のおねェちゃんを探索だッ』
とか何とか言って先に入っちゃったんでしょ」
 小蒔の推理は完全正解だったので、龍麻は友人を庇うことは出来なかった。
もっとも推理が外れていたとしても、
今の龍麻は葵の浴衣姿を見ることに必死だったので、いずれにしても出来なかったのではあるが。
 白のきぬにすずらんの柄が染められた浴衣は、ただ情緒があるというだけでなく、
彼女の身体の線を慎ましく浮き上がらせていて、何やら息が苦しくなってしまう。
着るものを変えるだけでこれほど違って見えてしまう女性というものの神秘を、
今更に感じる龍麻だった。
あまりじっと見ては嫌われる、と心がけていたのも初めのうちだけで、
気がつけば横目で彼女の一挙動を追っている。
そんなざまで葵に気づかれないはずがなく、遂に控えめながら訊ねられてしまった。
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもない……その、似合ってるな、って思って」
「……ありがとう」
 お世辞にも上手とは言えない褒め方だったが、葵は頬を薄く色付かせて嬉しそうに微笑む。
その笑顔に耳まで熱くなるのを感じた龍麻は、
小蒔と、彼女に引っ張られた醍醐がさりげなく距離を開けてくれていることにも気づかず、
至福とも言える時を過ごしていたのだった。
 一人先行して境内に入っていた京一が戻ってきたのは、ちょうどその時だ。
「お前ら、何事も無かったかのように俺を置いていくなッ!!」
 奥に行っていたはずの京一は、龍麻の後ろから現れた。
首根っこを掴まれた龍麻は後ろに反ってしまい、危うく倒れそうになる。
「なんで後ろにいるんだよ」
「一度鳥居のトコまで戻ったんだよ」
 葵に支えられてどうにか均衡を保った龍麻が締まった首を抑えつつ答えると、
小蒔が加勢してくれた。
「京一が中にいるんだからボク達も入って探した方がいいじゃない。
それにおねェちゃん探して勝手に一人で行ったのは京一だろッ」
「うッ……ま、まぁいいじゃねェか、ほれ、行こうぜ」
「ッたく、調子いいんだから」
 とにもかくにも五人揃ったので、龍麻達は再び縁日を歩き始めた。
しかし五人揃っていたのも短い間のことで、
「おッ、焼きそばの匂いが!」
 言うが早いか京一は屋台に駆け出していく。
その後を追うのは当然小蒔なのだが、なぜか勢いがなかった。
さっさと注文する京一を横目で見ただけで、後に続こうともしない。
「あれ桜井さん、食べないの」
「え? ああ、うん、食べたいのはヤマヤマなんだけどね、その、良く考えたら今月……」
「食い過ぎて金がねェんだろ」
「失礼なコト言うなッ! ……まぁ、そうなんだけどさ」
 恥ずかしそうに頭を掻く小蒔に、自分が頼んで半分分けてやろうか──
と考え、口を開きかけた龍麻は、もっと良い方法を閃いたのでそちらを実行に移した。
「桜井さん、醍醐が奢ってくれるってさ」
「ホントッ!!」
「な、何を……う、うむ、嫌だと言っている訳じゃないが」
 なんだかんだ言いつつも小蒔に頼られて嬉しいらしく、
醍醐は恨み言を言うでもなく彼女の分を支払ってやっている。
 いかにも嬉しそうに受け取った焼きそばを醍醐に見せ、
改めて礼を言って早速食べる小蒔を見て、京一が龍麻の肩に腕を乗せた。
「なぁ龍麻……俺はなんで醍醐たいしょーが小蒔落とすのにてこずってんのか解んねェぜ。そう思わねェか」
 彼女達に気づかれないように笑って同意した龍麻だった。
「うーん、ホイヒイ……」
ほろひょっほひーふはほおふあひはこのちょっとチープなソースあじがははんへえたまんねえ
「お前ら……食べるか喋るかどっちかにせんか」
 龍麻が焼きそばを頼まなかったのは、青のりが歯についてしまう危険性に気づいたからだ。
夜だからバレないだろうとは思いつつ、恋する男は何事にも臆病になる。
とはいえ与えられるはずだった食物が与えられなくなった健康な男の胃は抗議の悲鳴を上げ、
龍麻は意地でそれをねじ伏せるのだった。
 そんな苦悩など知らず美味そうに焼きそばを食べる二人の、
主にそばの部分を龍麻が見ていると、聞き覚えのある声が背後からする。
「全く、同じ真神の人間として恥ずかしいったらないわね」
「遠野さん」
 真神の制服を着たままカメラを携えているのは、誰あろう遠野杏子だった。
修学旅行が終わってからというもの、写真の整理に猫の手も借りたいと言っていて
しばらく顔を見ていなかった彼女だが、どうやらそれも一段落ついたらしい。
それなのにもう新たな被写体を探しているところを見ると、根っから写真が好きなようだった。
「なんでお前がこんなトコにいんだよ」
 久しぶりに会う彼女を歓迎するでもなく、焼きそばを行儀悪くすすった京一が無愛想に呟く。
すると返ってきたのはけたたましいまでの反撃だった。
「なんでじゃないわよ、この真神の恥ッ!!
あたしはPTAの広報に使う写真を撮りに来てんのよ、アンタと違って遊びに来てる訳じゃないのッ」
「うッ……」
 勢い良くまくしたてられて京一はたじろぐ。
彼の手の上で、鰹節が悲しく宙を舞った。
その鰹節を惜しそうに眺めていた小蒔は、視線を杏子に戻して口を開く。
「大変だねアン子も」
「まぁ、写真撮るのは嫌いじゃないし、そっちはもう済ませたからね
……っと、美里ちゃん浴衣じゃないッ! ね、一枚撮らせてよ」
「え……」
 葵が驚いている間に一枚、途方に暮れている間に二枚。
本当にピントを合わせているのだろうか、というほど素早い撮影だった。
この調子ではどんな決定的瞬間も彼女のレンズから逃れることはできないのだろう。
「真神が誇る美人生徒会長の慕情に濡れた浴衣姿!
次の真神新聞に載せたら売上増間違い無しよ! ね、お願い」
 困惑のあまり声も出ないらしい親友に代わって、小蒔が立ちはだかる。
葵がこの浴衣を龍麻のために用意したのだ、と知っている彼女だから、その舌鋒も鋭く、厳しい。
「ねぇアン子、ホントにそれ新聞に載せちゃうの? 葵困ってるけど」
「う……」
「まさかそこまで堕ちちゃいないよね、嫌がってる友達をネタにしてお金稼ごうなんて」
「わ、解ったわよ、止めるわよ、止めればいいんでしょ」
 杏子は冗談だ、というように手を大げさに振ってみせた。
しかしその眼鏡の奥では葵と同様に安堵している龍麻の姿を見逃してはいない。
 新たなビジネスチャンスを見つけたとはおくびにも出さず、杏子は口調を変えた。
「ま、あたしが今追っかけてるのほんめいは別のものだからいいけど」
「別の……? また何か事件でも起こったのか」
 醍醐に答える杏子の表情は、童話に出てくる悪賢いキツネさながらだった。
「そうね、事件と言えば言えなくもないけど……なんなら焼きそば一皿で情報提供してあげてもいいけど」
「どうすんだよ、龍麻」
 全く他人事とばかりに京一が訊ねる。
京一は財布の中身を屋台の為にのみ用い、他の事には一切使うつもりがないらしい。
自分の分さえお金を出していない小蒔は何をか言わんやであり、
そのくせ情報ネタは人一倍知りたがっている。
二人の熱気あふれる視線に遂に根負けした龍麻は、
自分のためでもないのに焼きそばを買わされる羽目になってしまったのだった。
あひはほありがとおははふいへはほほへおなかすいてたのよね
 先ほど京一と小蒔にした説教はなんだったんだ、と言うほど杏子は勢い良く焼きそばを掻きこんでいる。
瞬く間に半分ほどを食べきったところでじっと自分を見ている十の眼に気付き、
ようやく情報とやらを語り始めた。
「実はね、今日の縁日、どうもマリア先生も来てるらしいのよ」
「なんだ……そんなのかぁ」
「がっかりするのはまだ早いわよ。マリア先生、浴衣──らしいのよ」
「何ィッッ!! マリアせんせが浴衣だとッ!!」
 小蒔にはそうでもないが、京一にとっては値段分以上の情報だったようだ。
では出資者にとってはどうだったろうか。
 それを気にしたただ一人は、出資者の顔に予想していたほどのものが浮かんでいないことに、
形の良い唇をごくわずかに開いて安堵の吐息を押し出した。
「なるほどね、それを隠し撮りして売りさばこうってコトか」
「そういうこと。マリア先生は根強いファンが多いから、結構良い商売かせぎになるのよね、これが」
 悪びれもせずそう言った杏子は、残りの焼きそばを一気にかき込むと、
空の器を龍麻に押しつけて走り去る。
彼女の標的にされてしまった担任に、龍麻達は短い祈りを捧げた。
「ッたく……あいつの頭には商売かねもうけのことしかねェな」
「京一の頭にオネェちゃんのことしかないのと同じだよ」
 笑った龍麻だったが、すぐに京一の言葉の意味を思い知らされることとなった。
 歩き出した皆に続いて、龍麻も境内の奥へと進もうとすると、その襟首をいきなり掴まれる。
「うわッ……と」
「静かにして」
 どす・・の効いた声に暗殺でもされるのかと思った龍麻が恐る恐る振り向くと、
そこには今別れたばかりの杏子が立っていた。
声と同じく何かやたらに鋭い眼光で睨みつけていて訳が判らない。
「緋勇君、一枚千円。三種類セットなら特別価格二千五百円にまけとくわよ」
 会話を拒絶するような短い言葉の羅列に、何が、と言いかけた龍麻は彼女が言っているのが、
今彼女のカメラに収められているフィルムのことだと気付いた。
杏子は網膜に焼き付けるしかなかった葵の浴衣姿を、目に見える形で残してやろうというのだ。
申し出は誠にありがたかったが、ここで頷くのは悪魔に魂を売り渡すのと同じではないのか、とも思う。
だが悩む心は祭囃子にかき消されていき、
ここで無駄遣いをしてしまっては一日一食の日が訪れるかも知れないほど切迫している今の財政状況も、
最終的には防波堤になり得なかった。
「買うよ」
「さっすが、話早いわね。頭のいい顧客で助かるわ」
 あと、金払いがいいのもね。
二秒で返ってきた返事に商売用の笑顔で応え、
副音声ではそう呟いた杏子は、しっかり前金で受け取ると、
焼きあがったら秘密厳守で手渡す旨を伝えて龍麻を仲間達のところに戻らせる。
その胸中では、この分なら撮れば撮った分だけ買ってくれるだろう、と皮算用をして。
マリアの写真と合わせて、それは万年財政難の写真部を大いに助けてくれるはずだった。



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