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 先陣を切って龍山の庵に駆けこんだのは、当然と言うべきか醍醐だった。
いつも丁寧に扱えとたしなめられている古い引き戸を、
気遣う余裕もなく乱暴に開けて居間へと上がる。
「先生……龍山先生ッ!! ご無事ですかッ!!」
「そう大声を出さずとも、わしはここにおるわ」
 しかし彼の不安は外れ、龍山の声は庵の外からすぐに返ってきた。
居間を横切り、裏手の竹林へと直接出られる廊下から声の許へ向かう。
「先生ッ!」
 龍山は竹林を背にし、一人たたずんでいた。
罠かとも一瞬疑う醍醐だったが、龍山はいつもと変わらぬ、年季を感じさせる笑みで弟子を迎えた。
「ふむ……しばらく見んうちにたくましくなりおったな。こやつはまだまだじゃが」
「先生、お怪我は」
 師の諧謔かいぎゃくにも応じず、醍醐は彼の許に駆け寄る。
軽く手を振って無事であることを示した龍山は、しかし何故か弟子ではなく、月を見上げた。
「わしは大丈夫じゃ。……それよりも、こんな形でまた会うことになろうとはの」
 師の意が汲めず、醍醐は戸惑う。
龍麻達も危険に晒されてすらいないらしい龍山にやや困惑していたが、
そこに、突然大きな地響きが襲ってきた。
「何……?」
 地震ではなく、規則的な鳴動。
何かが歩いているような音の正体は、すぐに龍麻達の眼前に現れた。
「待っていたぞ」
 地の底を這うような声は、龍麻達の聞き覚えのあるものだった。
かつて東京を転覆せんと企み、数多あまたの事件を起こし、龍麻達と死闘を繰り広げた鬼道衆。
その棟梁である男の声と、今の声は同じだった。
そしてその男の最後の姿と、今目の前にいるものも。
竹を薙ぎ倒し、地を踏み鳴らして龍麻達の前に立ったのは、醍醐の身長を優に超える、異形の鬼だった。
その鬼は、人であった時は九角天童という名を持っていた。
「てめェ……九角……ッ」
「そんな……確かにたおしたのに」
 小蒔の声が恐怖にすくむ。
滅多なことでは怯えたりしない彼女が、はっきりと怖れを表に出していた。
そしてそれは小蒔だけでなく、龍麻達全員にも共通する感情だった。
「そうだなァ。あの時死んだものがあるとすれば、
それは俺の中で醜く垂れ下がっていた人間の部分・・って奴だろうぜ」
 その恐怖を糧にしているかのように、九角はわらう。
声と共に瘴気を吐き出す、陰の情念に満ちた嗤いであり、
ただ声色だけが九角であるのが、一層の蟻走感を龍麻達に与えた。
 木刀を構えながら、京一が吐き捨てる。
「なるほどな。つまり今のてめェは名実共に化け物ってこった」
「ククク……俺にはもう何も残されてはいない……
あるのはただ、この全身を支配する底深き怨念のみよ。
三百余年に渡る九角の怨念だけが今の俺を動かしているのさ」
「九角……さん……」
 葵が声を絞り出す。
彼女と九角の数奇なえにしは絵莉から聞いて知っていたが、
それでもなお、九角に声をかける葵に龍麻は不快感を抱いてしまう。
目の前の敵は、斃さなければいけない敵なんだ──
そう叫びたいのを堪え、昂ぶる心を氣に変えていく。
その、研ぎ澄まされていく龍麻の五感を、鬼の声が揺さぶった。
「みさとあおい……ククク、お前の肉は、柔らかくて旨そうだなァ」
「……ッ」
 邪欲に駆られた九角に、もはや一片のかける情けもない。
膨れ上がる龍麻の氣に呼応するように、九角はその巨躯に相応しい氣を放ち始めた。
「来いよ。貴様ら一人残らず、この俺が食らい尽くしてくれるわッ!!」
「こりゃ……あん時・・・よりも凄ェ氣だな」
 陰の威圧感に圧されながら、京一は木刀を青眼に構える。
気圧されてはいても怖れてはいなかったし、龍麻と醍醐の氣を読み、
彼らと同調して飛びかかる機を測るために、わずかな時間は必要だったのだ。
だが、荒ぶる己の氣を練り、他人の氣を感知出来るようになるまでの刹那の間に、
龍麻が飛び出すのが京一の目に映った。
「……ッの馬鹿野郎ッ!!」
 美里が絡むとすぐに見境いを無くしやがってッ。
京一は心の中で毒づいたが、それがこの男の魅力であることも知っているので、
声には出さずすぐに龍麻の後ろを詰める。
 一目散に鬼に向かう龍麻は、鬼の豪腕が横から吹き飛ばそうとうなりをあげるのにも構っていない。
半呼吸だけ走る速度を緩めた京一は、
その巨体故に死角から襲いかかる鬼の腕に狙い澄ました一撃を見舞った。
「ガァァッ!!」
 京一の援護によって懐に潜りこんだ龍麻が氣を放つ。
京一の打撃とほぼ同時に与えた攻撃は鬼の動作を鈍らせはしたが、致命傷には至らなかった。
もともとこの程度で斃せるとは思っていなかった京一も、
かすり傷程度にすらなっていないことに驚きと苛立ちを隠せない。
 しかも龍麻は鬼の懐から退かず、そのまま攻撃を続けている。
「醍醐ッ、回りこめッ!」
 龍麻に言ったところで聞いているかどうか怪しいと判断した京一は、
素早く位置を変え、そのまま攻撃を続けることにした。
醍醐と自分を大きく散開させ、鬼の目標を散らせようと試みる。
「ッ……と」
 だが鬼の腕は一振りで暴風のように荒れ狂い、三人は大きくよろめかされてしまった。
「みんなッ!!」
 すかさず襲いかかる鬼のもう片方の腕に、小蒔は思わず叫ぶ。
京一と龍麻はかろうじて避けたようだったが、醍醐は躱しきれず鈍い音が竹林を揺らした。
「醍醐クンッ!!」
 小蒔の悲鳴に醍醐は小さく片手を上げ、無事であることを示したが、
小蒔は何も出来ないもどかしさに身を灼かんばかりだった。
「嬢ちゃん、これを使うんじゃ」
 小蒔を龍山が呼んだのは、彼女が無謀にも素手で龍麻達に加勢しようとしたその時だった。
 いつの間に姿を消していたのか、庵から姿を見せた龍山は長い包みを携えている。
駆け寄った小蒔が包みを解くと、中には一張ひとはりの弓があった。
ひどく古いものではあるが、何か得体の知れない凄みのようなものがある。
弓道、ではない、本物の戦具として用いられたものなのかも知れなかった。
「おじいちゃん……コレ」
「使いなさい。嬢ちゃんなら上手く使いこなせるじゃろうて」
「うん。ありがとう、おじいちゃん」
 迷っている時間はない。
小蒔は弓を携え、鬼を狙っても龍麻達に当たらない場所へと走った。
矢をつがえ、引き絞る。
風はあり、目標も動き回っていたが、小蒔の集中力は普段よりもずっと高まっていた。
月の灯かりで陰影がめまぐるしく変わっても、目標から決して眼を離さない。
月が幕間に隠れ、鬼の姿を闇に変えようとした瞬間、小蒔は矢を射放った。
「ガァッ!!」
 矢は、彼女の狙い通り巨大な肩に刺さっていた。
龍麻達三人を斃すことに気を取られ、思わぬ方向から攻撃を受けた鬼は、
小ざかしい射手へと向き直る。
異形の面に浮かんだ憤怒の形相はまさしく悪鬼のものであったが、
小蒔は怯むことなく更に矢を射た。
「グッ……グオォォッ!!」
 正面を向いたことにより命中しやすくなった矢は、鬼の胸板に刺さる。
だが、深々と刺さった矢は確実に傷を負わせたものの、
皮肉にもそれが鬼を闇雲に暴れさせ、その不規則な動きが龍麻を薙ぎ払った。
「龍麻くんっ!」
 等々力渓谷で見せられた、悪夢の光景が葵の記憶から蘇える。
龍麻を、救わなければ──
危険もかえりみず走り出そうとした葵は、しかし、その足をすぐに止めた。
吹き飛ばされた龍麻は地面に倒れたものの、すぐに起きあがり、再び鬼に挑みかかったのだ。
「はぁぁァッ──」
 朧に霞む月よりも明るい光が生まれる。
人の形をしたその光は、暖かく、柔らかなひかりだった。
 小蒔に襲いかかろうとする鬼を必死で止める醍醐と京一は、
鬼の背後から突然現れたまばゆい輝きに、素早く視線を交わした。
それが龍麻のものであることは疑いなく、そこに勝機を見出したのだ。
「行くぞ、京一ッ!」
「よっしゃッ!!」
 己の裡に宿る氣を、全て練り上げる。
狂おしい昂揚と共に全身に満ちた氣を、京一は木刀の切っ先に、醍醐は右足に乗せ、
一気に鬼めがけて解き放った。
三人の氣が迸り、鬼の身体を撃つ。
異なる三方から貫いた氣は、鬼の氣と激しくせめぎあった。
「グッ……ごぉぉうおッッ!!」
 体内を荒れ狂う氣は耐え難い痛みをもたらすのか、
鬼はその風体に相応しいとも言える悲鳴をあげてのたうち回る。
一度軽く距離を置いた三人は、すぐに、とどめをさす為に鬼の足元に飛び込んだ。
「せいッ!!」
 各々が渾身の力を以って、氣の一撃を奮う。
龍麻は背中から秘中ひちゅうへ、醍醐は丹田たんでんを水平に、
そして京一は正中線を。
人形ひとがたの持つ急所を氣によって撃たれた鬼は、落雷を受けたように身体を震わせる。
龍麻達が離れた後もしばらくそのまま立ち尽くしていたが、
やがてぐらりと傾くと、地響きを立てて倒れた。

 鬼を斃した龍麻達は、まずお互いの無事を確かめた。
醍醐と龍麻は怪我を負っており、葵が『力』を用いて傷を治す。
特に龍麻は自分でも驚くほど血が出ており、
月灯かりの下で彼を見た葵の顔が瞬時に蒼ざめてしまったほどだった。
「大丈夫?」
「あ、あぁ……ありがとう」
 気遣わしげな顔を向ける葵は近づきすぎていることにも気付いていないので、
龍麻は自分から身体を離す。
もう平気だと改めて告げ、醍醐を治療しに行った葵を見るともなしに見ていると、
いきなり頭を小突かれた。
「ッたくてめェは、一人で突っ込むなっつッてんだろうが」
「あ……あぁ、悪ぃ」
 闘いの始めの場面を思い出した龍麻は、まったく赤面するしかなかった。
 その度胸がありゃ、美里だってついてくるだろうによ──
祭りの時に醍醐に対して思ったのとほぼ同じことを思った京一は、
今度はその考えを誰に言うことも出来ず、一人で笑うのだった。
「おじいちゃん、ありがと」
 龍麻達の窮地を救った小蒔は、丁寧に借りた弓を包みなおし、龍山に返そうとする。
しかし龍山は、弓を受け取ろうとはしなかった。
「その弓はちょっといわれがあるものでな、誰でも引けるというものではなかったんじゃ。
じゃが嬢ちゃんは見事に引いてみせた。良かったらそのまま使ってやってくれんか」
「でも……」
 小蒔が遠慮したのは、これがちょっとどころではない業物であることに気付いたからだ。
もちろん三年間用いた自分の弓にも愛着があるが、これはそれをも上回るほど馴染んでいた。
初めてでこれほど操れるなど、普通の弓ではありえないことだった。
「いや、道具は使われてこそ本望なんじゃ。わしが持っていても仕方がないんじゃよ」
「うん──それじゃ、大事にするね」
 礼を言った小蒔は、言ったことに偽りはないとばかりに両腕で弓を抱えたのだった。

「月──綺麗な満月じゃねェか」
 鬼が発したその呟きに、和みかけていた龍麻達に緊張が戻る。
用心深く近寄った龍麻達だったが、鬼はもう動くことは出来ないらしく、
龍麻達に関心を払おうともしなかった。
わずかに身じろぎしたのは、身体を起こすためではなく、月を見ようとしているようだ。
「だが……もう、良く見えやしねェ」
 その声にもはや張りはなく、死のあぎとに捉えられるのも時間の問題であるようだ。
そして、その声は九角天童のものに戻っていた。
巣くっていた陰氣を龍麻達によってはらわれたことで、
再び常世に還る寸前に、人の意識を取り戻したのだろうか。
 真実は解らなかったが、葵はその声に導かれるように鬼の許へと歩み寄ろうとした。
「九角……さん」
「来るなッ!!」
 鋭い声に葵の足がすくむ。
死に瀕した九角は大声を出すだけでも激しい負担になるらしく、
隆々たる胸板が激しく上下したが、構わず口を開く。
「どんなに華やかな祭もいつかは終わる。命もそれと同じことよ。
それよりも、敵に情けをかけるような甘さはこの先命取りになるぜ」
「この先……だと」
 不吉な言葉は、だが龍麻達にとって何故かそれほどの驚きをもたらさなかった。
あるいは宿縁がまだ何も終わっていないと知っているのか。
竹林の向こうから吹く風が、冷たく肌をなぶっていた。
「憶えておけ。何故俺がこうして再び『力』を得ることが出来たのかを」
 九角の声は少しずつ、だが確実に力を失っているが、
龍麻達は耳を澄ませる必要もなく彼の言葉を耳にしていた。
「てめェらは……知ってるはずだ。ひかりかげの間に巣くう、底無き欲望の渦を。
そして思い出せ、前世むかし現世いまも、陽と陰は同じ場所から生まれたということを──」
 九角の言っていることを理解出来た者はいなかった。
しかし、笑い飛ばす者もまた。
既に九角の声は風に負け、聞き取るのも困難になっている。
「真の恐怖はこれから始まる。いいか、この先てめェらに安息の時は無ェ。
まァせいぜい、てめェらの言う大切なもんとやらを護ってみせるがいい。
俺は一足先に逝かせてもらうぜ。黄泉路の果てでてめェらの足掻あがく様を見せてもらうとするさ」
 大きく鬼の身体がうねった。
開いた口から膨大な瘴気が流れ出す。
その流れ出した量に比例するように、九角の声は透明感を帯びていった。
「ク……ッ、俺も、ここまでか……俺は……遠い昔に何か……大事なもんを……
置き……忘れて……」
 黙するばかりの龍麻に、九角は呼びかける。
鬼ではなく、男として。
「ひゆう……緋勇。この女を……護ってやれ。こいつを護れるのは……てめェ……だけ……」
 声が途絶えた。
同時に赤い巨躯が薄れていき、ほどなく九角は失せた。
その塵の一片すら残さぬと冷たい風が強さを増したが、龍麻達はその場を動かなかった。
「まさか……俺達に伝えるためにヤツは」
「……かもな」
 九角が多くの人を己の欲望のために殺めた、斃さなければならない敵なのは間違いない。
しかし、最期に彼は、まだ闘いが終わってなどいないことを伝えるために
己の存在を賭したのではないか、そうも思えてしまうのだ。
「あの人だけが悪いんじゃないわ」
 葵の声はひび割れている。
遥か昔に縁があったかも知れない男の二度の死は、彼女に強い衝撃を与えていた。
「あの人は……何か抗い難い大きな力に呑みこまれてしまっただけ。
もしも……もしも刻が違えば、私達はもっと違う出会い方が出来たはず。
あの人も人としての安息を求めることが出来たはず。
少なくとも、こんな形で命を落とすことなんてなかったのに」
 声に続き身を震わせる葵だったが、それを強い調子でたしなめた者がいた。
「美里さんよ、それは違うぞ」
 龍山の声には気迫すら篭っており、反論を許さぬ力があった。
「どれほど抗い難い力であったとしても、人の意思ならば抗うことが出来る。
あやつはそれに負けてしまったのじゃよ」
「……」
 声を和らげた龍山は、九角が倒れた辺りを見やり、次いでその視線を空へと移す。
「じゃが、あやつは鬼と成り果てた身に、わずかに残った人の心でここに来た。
ぬしらと闘う為にな。それで散ったのじゃから、悔いはなかろうて」
 呟いた龍山の口調は、葵を窘めたのとは裏腹に、何かを悼むような響きを帯びていたが、
誰もそれを問うことは出来なかった。
 なんとなく後味の悪さを感じつつも、時間も遅いので龍麻達は家へと帰ることにする。
最後にきびすを返そうとした醍醐は、その動作を止め、彼の師に恐る恐る訊ねた。
「先生は……これから何が起こるかご存知なのですか」
 龍山は答えず、ただ月を見上げているだけだった。



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