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購買の嵐のような混雑──これは前居た学校でも同じだった──
から見事パンを獲得した龍麻と京一は、肩を並べて廊下を歩いていた。
廊下で幾度か下級生の女子が「京一先輩だわ」などと言っているのを聞くと、
この男はどうも全校的に有名らしく、それも、なかなか信じにくいが、
悪名ではなく、好意をもって知られているようだった。
京一は呼びかける女子生徒に馴れ馴れしく手を振って応えるので、
隣を歩く龍麻もその長身ゆえ妙に目立ってしまい、
「あの人誰?」と言う囁きもちらほらと聞こえてくる。
それを耳ざとく拾った京一がまた「おう、こいつは……」と解説を始めた為に、
龍麻は慌てて京一をこの場から連れ出すことにした。
「おい、行こうぜ」
「なんだよ、せっかく先輩と後輩が交流しようとしてるってのに」
「転校生との交流も大事にしてくれよ」
「仕方ねぇな。……どっから見てぇ?」
龍麻の奢りとなったカレーパンと、その他いくつものパンを抱えている京一は、
見るからに上機嫌だった。
そのせいか、律儀にも実際に校内を案内してくれるようだ。
てっきり口頭で終わりだと思っていた龍麻は、彼の義理堅さを少しだけ見なおすことにした。
「そうだな……上から順番に」
「上から……って、また上んのかよ。しょうがねぇな、今日だけ特別だぜ」
ぶつぶつ言いながらも京一は階段を上っていく。
上り始める前に開けたパンの袋が、上り終えた時はもう中身が無い。
その手品師のような食べっぷりは、まったく鮮やかなものだった。
三階まで戻ってきた京一は、廊下の端に立って指で指し示した。
「三階は……俺達の教室と、図書室と音楽室だな。……そういや、図書室には秘密があってよ」
「なんだよ、勿体ぶるなよ」
「くくく……ッ。緋勇屋、おぬしもワルよの」
急におかしな言葉遣いになった京一を、龍麻は気味悪く思う。
そんな龍麻を意に介さず、彼が真神に来て初めての、
男の知人──まだ友人ではない──は意味深に手招きをした。
「ここの図書室はよ、誰が設計したか知らねェが、妙に高いところまで本があってよ、
ご丁寧に台まで置いてある。で、だ」
京一はここでわざとらしく声をひそめ、幸せを結晶化したような笑顔を作ってみせたものだ。
「勉学に燃える若人としては今からでも図書室に行ってみるべきだと思わないか? 緋勇君」
「……そうだな。全く同感だよ、蓬莱寺君」
なにやら初日から間違った方向に進みはじめている気がしないでもない龍麻だが、
まあまだ修正は出来るだろう。
それに、あまり認めたくは無いことだったが、どうも蓬莱寺──
京一とは波長が合いそうな気がしているのだ。
「全く君は物分りがいいな。よし、そうと決まれば善は急げだッ!」
龍麻のノリの良さに気を良くしたのか、
駆け足で図書室に行こうと振り向いた京一が、いきなり派手にすっ転んだ。
その転び方ときたら見事なもので、龍麻は漫画の中でしか見たことがない。
「い、痛った──ッ」
「げッ……アン子!!」
ぶつかった人物の正体を知った京一が、滑稽なほどうろたえている。
龍麻が視線を移すと、ぶつかった相手も京一を鏡に映したように尻餅をついていた。
──ただし、相手は女性だった。
……見えてる。
ぶつかったからやむを得ないとはいえ、大胆に両足を開いている彼女の下着を、
龍麻は思わぬ役得としてはっきり網膜に焼きつけた。
「ッたく、どこ見て歩いてんのよッ!」
「緋勇悪ィ、俺ちょっと用事思い出したわ。じゃ、また後でなッ」
「──京一ィ!」
脱兎の如く逃げ出した京一に罵声を浴びせながら、少女が立ちあがる。
ぶつかった拍子にずれてしまった眼鏡をかけなおした少女は、
ここで初めて龍麻の存在に気がついたようだった。
「逃げ足だけは早いんだからッ──あら、あなた……もしかして隣に来たっていう転校生?」
「あ、あぁ」
「名前は、えっと……えっと……確か難しい名前……」
眉間にしわを寄せ、眼鏡の真ん中を押さえながら少女は熟考をはじめた。
彼女の努力をふいにしてしまうのは気が引けるが、
昼食もまだ採っていない龍麻はあまり待つ気にもなれず名乗ろうとする。
しかしその前に、少女が眼鏡を押さえていた指を威勢よく突きつけた。
「そうだ、緋勇! 緋勇龍麻でしょう!」
「そ、そうだけど」
「あたしの紹介がまだだわね。あたしはB組の遠野杏子。皆にはアン子って呼ばれてるけどね。
で、なんであなたの名前を知っているか、って質問だけど」
誰も聞いてない、とは言えなかった。
杏子は機関銃のようにまくしたて、龍麻に口を挟む隙を与えなかったのだ。
「あたし新聞部の部長なのよ。って言っても部員はあたし一人しか居ないんだけどね。
……そうだ、これ、あたしが作った新聞。本当はお金取るんだけど、
今日はサービスってことでいいわ。読んどいて」
なるほど、言われてみれば手にしたカメラも、いかにもと言った感じの眼鏡も納得出来る。
押しつけられた新聞……というよりもかわら版を受け取った龍麻は、とにかく礼を言った。
どうせ大したものではないのだろうが、少しはこの学園の雰囲気といったものが掴めるかもしれず、
読んで損はないだろう。
もっとも自己紹介をされても隣のクラスではあまり会う機会はないと思われ、
龍麻はあまり真剣に彼女のことを覚えようとはしなかった。
しかし杏子の方では、この時期の転校生にいたく興味を抱いたようだった。
「ま、そのうち新聞部としてインタビューさせて貰うから、その時はよろしくね」
「イ、インタビューって……いいよ、そんなの」
「ふーん、そういうこと言うんだ。……あなた」
頭を振って拒絶する龍麻に意味ありげな笑みを浮かべた杏子は、いきなり龍麻の耳を掴んだ。
今日何度目だ、と龍麻が思う間もなく、杏子の言葉が鋭い棘となって鼓膜に刺さる。
「さっき私の下着見たでしょ。タダで見ようなんて虫が良いと思わない?」
「……わ、わかったよ。でも今日じゃなくていいだろ」
「そうね。でも数日中には時間を作ってよね。次のネタなくて困って……じゃない、
早く記事にしないと鮮度が落ちちゃうから。
……っと、先生に呼び出されてるんだった。もう行かないと。それじゃね」
言いたいことだけ言って、嵐のような、というより嵐そのものといった杏子は走り去っていった。
その後姿を毒気を抜かれた態で龍麻が見送っていると、物陰から、
隠れていたらしい京一が出てきて大きく伸びをした。
「ふぅッ、やっと行ったか……アイツはどうも苦手なんだよ」
「……あれも、気配りのひとつってやつか?」
龍麻はさっきのお返しとばかりに皮肉を投げてやったが、
京一は苦笑いしただけで反論しないところを見ると、案外本気で苦手なのかもしれない。
もっとも、杏子のさっきの様子からすると、いずれ自分も京一と同じ感想を抱きそうだったが。
とにかく、すっかり気勢を削がれた二人は図書室に行く気も無くし、教室に戻ることにしたのだった。
二人が教室の前まで戻ってくると、ちょうど予鈴が鳴った。
それを聞いた京一は、トイレに行くと言って教室には入らず、再び廊下を歩いて行く。
結局案内らしい案内はしてくれなかったが、それは京一のせいではないし、
だいたい明日になれば葵が案内してくれるのだから、焦ることもない。
鷹揚に構えて席に戻った龍麻だったが、
彼を取り巻く環境は良きにつけ悪しきにつけ、急速に形作られようとしていた。
「……ようやく戻ってきやがったか」
腰を下ろしてひと息つく暇もなく、先ほどの不快な声が龍麻を振り向かせる。
「手前ェ……目障りだな。調子に乗ってんじゃねぇぞ」
龍麻は何より転校初日であるし、
昼飯を終え、満腹からくる幸福感に八十パーセントほど包まれていたから激発はしなかった。
しかし、頭ごなしにこう決めつけられて穏やかに応対する理由もない。
余程のことがあれば別だが、早くも彼を好きになることは出来そうになかった。
一方的にぶつけられた敵意を、まだ口には出して返さず、目だけを細める。
それに敏感に反応した佐久間の顔がみるみる内にどす黒くなっていったが、
彼が口を開く寸前、日直が起立の号礼をかけた。
未発に終わった怒りを眼光に乗せ、龍麻を一睨みした佐久間はおとなしく席に戻っていく。
佐久間がここで殴りかかってこなかったことにほっとしながら、
龍麻は面倒くさいことが起こる予感を覚えずにはいられなかった。
外れれば良い、と言う予感ほど現実のものになりやすい。
もちろんそれは統計的には根拠の無い話だったが、人の多くは信じ、
龍麻もまたその多くの中の一人となるきっかけは、彼が予感を感じてからすぐに訪れることとなった。
転校初日の授業も全て終わり、帰り支度をまとめている龍麻の所に、
出て行く生徒達に逆らうようにして入ってくる女生徒がいた。
昼休みに会った、遠野杏子と言う女性だ。
大股で、無駄を省く、とばかりに一直線に龍麻の許にやって来た彼女は、
やや作り物っぽい笑みを浮かべて龍麻の前の席に座った。
「京一は居ないのね……ちょうど良かった。
ね、緋勇君、ものは相談なんだけどさ……一緒に帰らない?」
昼の時は数日中に、と言う話だったのに、早速取材とやらを始める気らしい。
この分では断ってもいずれ来るだろうし、
それなら早い内に終わらせてしまった方が良いというものだろう。
それほど深くも考えず、龍麻はあっさりと首を振った。
「いいよ」
「やッたッ。それじゃ、行きましょ」
何を急いでいるのか、杏子はまだ鞄を閉じていない龍麻の腕を取って立ちあがらせる。
慌てて残りの教科書を鞄に突っ込んだ龍麻の目の前に、人影が立ちはだかった。
「おい」
声を聞いただけで見当がつくその二人は、佐久間と一緒にいた不良達らしかった。
恐らく手下なのだろう、下品な眼光の投げ方が良く似ている。
もっとも、彼らでは長身の龍麻を見上げる格好になってしまい、どうしても迫力が出ていない。
それを自覚しているのか、彼らは精一杯ドスを効かせた声で龍麻を威嚇してきた。
「ちょっと面(貸せや」
「ア、アンタ達、待ちなさいよッ」
「なんだァ? 文句あンのかァ?」
自分より弱い立場の者には、徹底して凄んでみせる。
それが群れなければ何も出来ない彼らの、彼らなりの処世術というものだった。
しかし、部長兼記者兼カメラマンの、
真神の報道を一身に背負う少女は彼らよりも弱い立場などではなかった。
脅しに震えるどころか、彼女の方が先に激昂して叫ぶ。
「文句あんのかじゃないわよッ!! アンタ達、緋勇君をどうするつもりなのよッ!」
「ケッ、てめェには関係ねェ。ブン屋はすっこンでろッ」
「そうそう、おめェみたいなのは男に尻尾振ってりゃいいンだよ」
さすがに文章を生業(としている杏子は、言い争いなら全く引けを取らなかった。
型にはまった不良の言葉など歯牙にもかけず反論する。
「フン。アンタ達こそ、そのでかいだけで何の役にも立たない図体の使い道でも考えてみたら?
今ならウチの部で荷物持ちくらいになら使ってあげるわよッ」
「なんだと……ッ」
自分で語るべき言葉を持たない不良達は、すぐに言葉を詰まらせてしまった。
そして、それがどれほど恥ずべき行為なのか自覚もせず、彼らの上位者に助けを求める。
「けッ……お前ェらは使いも満足に出来ねェのかよ」
これほど早く呼びかけに応じたところを見ると、どうやら最初から教室の外にいたらしい。
変な所で形式を重んじているらしい佐久間に、龍麻はもう少しで失笑するところだった。
もちろん佐久間は笑いの一片も浮かべずに、ポケットに手を入れたまま歩み寄ってくる。
その只事でない雰囲気に、決して臆病などではない杏子が、声を喉から絞り出さねばならなかった。
「佐久間、アンタ……」
「遠野……少し黙ってろや。俺はコイツに用があるんだ」
佐久間の台詞には格下の二人には無かった凄みがあり、さしもの杏子も黙ってしまう。
しかしこの緊迫した場から逃げ出そうとはせず、佐久間は大きく舌打ちをしたが、
それ以上杏子に構おうとはしなかった。
「よォ、転校生。女に囲まれて随分とご満悦じゃねェか」
佐久間の台詞に、龍麻は反省していた。
一時限目の終わりに京一が言った同じ「転校生」という単語に、安易に腹を立ててしまったことに。
それほど、佐久間の発した言葉には人を不快にさせる、仄(い、負の情熱が含まれていたのだ。
「ヘッ、なんとか言ったらどうだ──もうビビッてんのか?」
無言を保つ龍麻にこの場の優位を確認して気を良くしたらしく、佐久間は一人続ける。
「ちょうどあの剣道バカはいねェし、サシで話つけようじゃねェか」
なるほど、京一は不良ですら一目置くほどには強いらしい。
助けを頼むつもりはないとしても、彼の強さを見られないのは少し残念だった。
なお無言の龍麻に、自分勝手に痺れを切らした佐久間は用件を切り出す。
「体育館の裏まで来いや。逃げんじゃねェぜ……」
「おら、来いよ」
佐久間という虎の威を借りた手下が、勢いづいて龍麻の背中を小突く。
それは非常にうっとうしいものだったが、激発するには時と場所を選ぶべきで、
龍麻はいましばらくこの不快な境遇に甘んじざるをえなかった。
そしてそうと決めたにも関わらず、数秒毎に彼らを打ち倒したい欲求が膨れ上がるのを、
懸命に抑えねばならなかったのだった。
彼らなりに計画を立てていたのだろう、体育館の裏手に行く途中に佐久間の手下は更に増え、
着いた時には龍麻を含めて六人になっていた。
「おい、お前ェら。そこで誰か来ねぇか見張ってろ」
しかし感心にも、佐久間は本当に一対一で話をつけるつもりらしい。
まがりなりにも鍛えた肉体を力の信仰のよりどころにしているようで、
子分達の前で格好をつけたいというのもあるのだろう
「転校生。お前ェに真神のルールってやつを教えてやるぜ」
「転校初日で早速入院たァ、お前ェもついてねぇな」
「ま、これに懲りたら大人しくしてるんだな」
他人の力のかさにかかって恥じるところのない不良達が、口々に龍麻を煽り立てる。
佐久間が倒れたら、こいつらどうするつもりなんだ。
自分が負けるとは露ほども思っていない龍麻は、彼らに気取られないよう、静かに氣を練り始めた。
並行して制服のボタンを外し、それを見た佐久間も身構える。
徐々に高まっていく緊張を、しかし、破る声があった。
「佐久間よォ──その辺にしといたらどうだ?」
「蓬莱寺──!!」
声の居場所に気付いた佐久間が、龍麻の背後の頭上を見上げる。
少し遅れて手下達が、そしてその後に龍麻もが、期せずして同じ場所に視線を集中させた。
「人が良い気分で昼寝してたのによ、こうウルさくちゃそれも出来ねェ」
しっかりと枝を伸ばした木の上にいたのは、蓬莱寺京一その人だった。
あまりにけれん味に過ぎるその登場の仕方に龍麻は呆れていたが、
不良達はそうでなかったらしく、たちまち怒りを沸騰させて叫んだ。
「蓬莱寺──手前ェ、佐久間さんに盾突く気かよッ!」
「さてね……」
「蓬莱寺……俺は、手前ェも前から気にいらなかったんだよ。スカした面(しやがって」
「そうまで言われちゃ、見過ごせねぇな……それに、実はよ」
二メートルは優に超える木の枝から、何の迷いも見せずに飛び降りる。
憎い位に格好の良い着地に、不良達は歯ぎしりを抑えきれず、
それは聞き苦しい合唱となって辺りの空気を震わせた。
「俺もお前らの不細工なツラが気に入らなかったんだよ」
「手前ェ……ッ!!」
「殺してやる……」
口々に物騒な、しかし語彙(に乏しい不良達の言葉を聞き流しながら、
京一は手にした木刀を木に立てかける。
「今日はこいつは使わないでおいてやるよ。
お前らも新学期早々入院したくねぇだろうし、木刀が汚れちまうからな」
京一の挑発に、不良達は今にも掴みかかってきそうだったが、
佐久間の一声を待っているらしく、包囲の輪を縮めながらも襲ってはこない。
それを平然と見やった京一は、龍麻に向かって白い歯を見せた。
「ま、大丈夫だとは思うけどよ、負けンなよ。……それから」
自分と同じく勝利を確信したふてぶてしい笑みに、龍麻も我知らず笑い返す。
「佐久間は俺がヤる。お前は手を出すなよ」
それが怨みの矛先を龍麻に向けない為の配慮なのか、
それとも単に自分の手でブチのめしたいだけなのかは訊ねる余裕がなかった。
遂に不良達が襲いかかってきたのだ。
最初に殴りかかってきた不良の拳を躱(した龍麻は、充分に練り上げた氣を掌に乗せ、
がらあきになった胴に撃ち込む。
手加減はしたつもりだったが、その一撃で不良はだらしない悲鳴と共に膝をついてしまった。
「……!!」
倒れた仲間に、数の有利を信じて疑わなかった不良達の足が止まる。
その隙に京一が一人を殴り倒し、不良の数は早くも二人減っていた。
「先に緋勇をやれ!」
龍麻の強さに気づいた佐久間が手下に号令をかける。
その声に京一が一瞬龍麻に視線を向けたが、その表情に全く動じる所がないのを見て取ると、
安心して佐久間と向きあった。
事実、二人に左右から挟まれても、龍麻は怯む色など浮かべもしない。
半年前から叩きこまれた練習──ほとんど修行といっても良い──は、
もっと大人数との闘いをも想定して行っていたからだ。
この程度の相手なら、むしろ、ダメージを与え過ぎないように加減する方が難しいくらいで、
いささか苦労はしながらも二人の不良を打ち倒す。
ほとんど息も乱していない龍麻が、やり過ぎてしまっていないことを確かめて
趨勢(を見届けようと向き直ると、ちょうど京一の拳が佐久間の顎を捉えたところだった。
「クッ……」
強烈な一撃に片膝をついた佐久間はすぐに立ちあがろうとするが、
どうやら足にきてしまったらしかった。
京一も全く無傷と言う訳ではなく、頬が少し腫れはじめている。
もっとも複数を相手取ってこの程度で済んだのはやはり実力差が相当あってのことで、
この男が剣術だけでなく素手でも強いのは間違いなかった。
「まだやるってんなら、俺も容赦しねェぜ」
「この野郎……ま……ち……やが……れ……」
「そこまでだ、佐久間ッ」
佐久間は未だ戦意を失ってはいなかったが、最早脅威ではなかった。
それを頷いて確かめあった京一と龍麻が一歩退くと、横合いから野太い声が突然佐久間を制止した。
聞き覚えの無い声に身構える龍麻の前に現れたのは、自分を凌駕(する巨漢だった。
それも、筋肉と脂肪を巧みに乗せた体つきで一目で強いと判る、正統派タイプのファイターだ。
線の太い顔立ちに敵意は感じられなかったが、龍麻はいましばらく氣を逃がすのは待つことにした。
「醍醐──!!」
「もう……その辺にしておけ」
「佐久間くん……もう止めて」
巨漢の方に気を取られて気づかなかったが、心配そうな顔をした葵も傍らにいる。
葵の姿を見た途端、龍麻は火照った身体が急速に冷めていくのを感じていた。
白い顔に浮かぶ不安げな表情は、この場にいる全員を責めているように見えたのだ。
「……」
「今やめれば、この事には目をつぶる」
「わ……わかった……」
佐久間も、この巨漢の制止よりも、葵に不様な姿を見られたのが堪(えたのだろう、
ついにこの場での決着を諦めたようだった。
最後に鋭く龍麻を睨みつけると、踵を返して転校生を制裁するはずだった場所から立ち去る。
「そうそう、良い子は聞き分けがイイのに限るぜ」
「京一ッ! お前も止めんか!」
「けッ、わかったよ」
男は佐久間に対してとさほど変わらぬ、強い調子で京一をも叱り飛ばしたが、
京一は喧嘩である程度発散したのか、おとなしく引き下がった。
足を引き摺りながら歩き去った佐久間が見えなくなったのを見届けると、
巨漢はその全身を肺にしたようなため息をつく。
「俺が学校にいない時に問題を起こしてくれるな」
「起こしたのは向こうだろ。……そういや、お前どこ行ってたんだ?」
「ジムに行っていた」
「始業式にも出ねぇでか」
「どうせお前だっていなかったんだろう?」
「……けッ」
不本意そうに黙った京一から視線を外した男は、ここでようやく龍麻に関心を移した。
「……お前が転校生か」
「あぁ。……緋勇だ」
「うちの部員がちょっかいを出したようで、済まなかったな」
「あぁ……いいさ。怪我もなかったし」
「そう言ってもらえると助かる」
佐久間が何かの部に入っていたというのも驚きだったが、
目の前の男が同じ部の、それも上位者に当たるようなのが、更に驚きを強めていた。
ああいう男が所属する部というのは、
大抵が部活とは名ばかりの退廃的な集まりだと相場が決まっているからだ。
目の前の男は何かの武術を修めているのは間違いなかったが、それと関係あるのだろうか。
龍麻の抱いた疑問はすぐに、男自らの口から説明された。
「俺は醍醐。醍醐( 雄矢(だ。お前と同じC組で……佐久間と同じ、レスリング部の部長だ」
ごく簡単に自己紹介を済ませた醍醐は、まだ軽く拳を握ったままの龍麻を見て、
何やら言いたげな顔をした。
「それにしても、だ。
俺が駆けつけたからいいようなものの、お前もあまり粋がらない方がいいな」
醍醐の言葉に龍麻はムッとする。
佐久間が彼の部員であるなら素行は知っているはずだし、
管理責任というものを感じてはいないのだろうか。
口をへの字に曲げた龍麻を見て、京一が肩をすくめてとりなした。
「まァ、いいじゃねぇか、醍醐よ」
「お前な……まさかお前が焚きつけたんじゃないだろうな」
「阿呆か。俺がわざわざンなことするか。
ま、遅かれ早かれこうなっただろうけどよ。……にしても、良くここが判ったな」
「美里が教えてくれたんだよ。血相を変えてジムに入ってきたから、何事かと思ったよ」
「あ、あの……私……アン子ちゃんから聞いて……」
葵に喧嘩を見られたことを、龍麻は深く恥じていた。
佐久間が葵を狙っていたとなると、その魔手から救ったという訳で、
誇らしい気分があるのも確かだが、どう考えても彼女が殴り合いなどを好むとは思えず、
恐らく転校初日から印象は最悪になってしまっただろう。
情けを求めるように龍麻は葵の顔を見たが、やはり彼女は立腹しているのか、
龍麻に大きな怪我が無い事だけを確かめると、
それ以上は話そうともせずそそくさと立ち去ってしまった。
肩を落としこそしなかったが、それに近い落胆ぶりを全身に出す龍麻に、
醍醐は苦笑いして頭を掻いた。
「ま、いらぬ心配だったようだがな。
……ところで、あれはなんという武術なんだ? 古武道の一派に似た技があるように思ったが」
「まぁ、そんなところだ」
明日、どんな顔をして彼女に会えばいいか、気もそぞろな龍麻はひどく適当に答える。
更に質問を重ねたいようすの醍醐もどこ吹く風で、葵が去っていった方をちらちらとみるばかりだった。
二人を交互に眺めた京一は、木刀を担ぎなおすと、
どこかに本心を滲ませた口調で醍醐をからかった。
「ヘッ、醍醐、お前も闘(ってみたくなったんじゃねェだろうな」
「……さぁ、な」
下手な韜晦(で話題を打ちきった醍醐は、置かれていた龍麻の制服を拾い、
埃を払ってやってから手渡した。
「少し順番が逆になったが、
ようこそ、我が真神──いや、もうひとつの呼び名を教えておいたほうがいいな」
「もうひとつの呼び名?」
訝る龍麻に醍醐はすぐには答えず、息を深く吸いこみ、一度溜めてから声と共に吐き出す。
それは吸った量とまるで釣り合わない、囁きのような声だった。
「ようこそ──魔人学園へ」
「魔人……学園?」
「あぁ、誰が言い出したかは知らんが、いつの頃からか、ここは──魔人学園と呼ばれている」
声を低めて続ける醍醐が格好をつけている、とは思わなかった。
精神の深いところから戦慄を呼び起こすその響きに、
むしろ、真神、という名の方が、かりそめの名前なのではないかと思ったほどだった。
制服を羽織るのも忘れ、立ちつくす龍麻の肌を、四月にしては冷たい風が叩く。
その冷たさを、龍麻はいつまでも感じていた。
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