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うだるような夏が終わり、ようやく太陽に悪態をつく必要もなくなってきたある日。
夏の睡眠不足を取り返そうと惰眠を貪っている龍麻は、
いきなり物凄い音で玄関を叩かれてベッドから転げ落ちた。
「痛てて……」
後頭部をしたたかに打ちつけ、心地良い夢の旅路も一瞬に覚めてしまう。
鈍く悲鳴を上げ始めた部分をさすると、早くも小さなこぶができ始めていた。
時計を見れば、まだ十時。あと二時間は寝ている予定だった龍麻は、
とりあえずもう一度ベッドに寝転がろうとする。
するとそれは許さない、とばかりに扉が激しく叩かれ、
一人暮しとはいえあまりにもだらしない生活を送る部屋の主は、
ここでようやく自分が何故起きたのか知ったのだった。
あくびをすると、頭が痛む。
この不条理に、誰が来たのか知らないが、一言文句を言ってやらねば気が済まないと、
龍麻は大股で玄関に向かい、寝起きの頭もそのままに扉を開けた。
外の明るさに、一瞬目が眩む。
軽く絞り、光量を調節した龍麻の瞳に映ったのは、小麦畑の色の髪をした、
印象的なライトグレーの目をした少女が腰に手を当てている姿だった。
知り合った頃と較べると、だいぶ大人びた、
けれどまだ少しだけそばかすが残っている顔には、みずみずしい生気があふれている。
細い顎を軽く突き出し、やや怒った表情でたたずむ少女は、
だらしない龍麻の姿を見て呆れたように首を振った。
「もう、遅いよ、お兄ちゃん」
「マリィ!?」
流暢な日本語でそう切り出した少女は、もちろん龍麻の実の妹ではなく、
複雑な事情があって今は友人の義理の妹となっている、マリィ・クレアといった。
年齢は十九歳だが、ある事情により現在は十六歳ということで通しており、
都内の皇神高校に通っている。
龍麻とは知り合って三年になり、生涯忘れえない一九九八年を終え、
仲間達がそれぞれの道に進んだ後も、龍麻が新宿区内で一人暮しを続けるということもあって、
同じ新宿区のマリィと彼女の義理の姉とはちょくちょく会っていた。
だから、マリィが家を訪れるのは驚くほどのことではない。
龍麻が驚いたのは、マリィの変わり具合に対してだった。
会うのは二ヶ月ぶりくらいだったが、
少女はともすれば誰だか判らなくなってしまうほど成長しており、
それが単なる成長期というだけではないのだと判っていても驚いてしまったのだ。
まさに蕾(が花開く瞬間を目撃しているようで、
軽く頬を膨らませつつ、大きな目は穏やかに笑っているマリィに、
龍麻の心臓は軽やかにジャンプしていた。
「どうしたの?」
龍麻の驚きをよそに、マリィは自分の背丈の半分以上もある大きな鞄を持ってさっさと部屋に入ってくる。
この時、龍麻は心のどこかで小さなひっかかりを感じていたのだが、それを取り出すことはできなかった。
できていれば、あるいは選択が変わったかもしれない、と後日思う龍麻だったが、
今は、それよりも先に成長と共に小悪魔的なわがままさを身につけた
マリィの相手をしなければならなかった。
もちろん当時とは違う、けれど出会った時と同じ印象を抱かせる、
赤を基調としたブラウスを着ているマリィが部屋に入ると、一気に部屋の雰囲気が華やぐ。
長い足を無造作に投げ出して座るマリィに飲み物を出してやり、
自分もコップを手にした龍麻は彼女の向かいに座った。
すると落ちつく間もなくマリィが笑い出す。
「頭ぼさぼさだよ。顔洗ったの? お兄ちゃん」
赤面した龍麻はいそいそと洗面所に向かった。
目いっぱい蛇口をひねり、勢い良く顔を洗いながら、
龍麻が思い浮かべていたのは当然マリィのことだった。
縁(によってマリィと初めて会った時から、
彼女は自分のことをお兄ちゃんと呼んでいた。
その呼ばれ方は兄妹がおらず、また欲しいと願ったこともある龍麻にとって
むしろ歓迎すべきもので、拒むこともなく受け入れていた。
そう呼ばれてから三年が過ぎても、彼女以外には呼ばれないその呼称は心地良い新鮮さを
伴って鼓膜を通り抜けてくるのだった。
幸か不幸か龍麻に恋人と呼べる存在が未だいないこともあって、
マリィは暇を見つけては遊びに来ている。
だから今日、マリィが来たのも驚くことではないはずだったが、
玄関を開けた瞬間の彼女の表情と、初めて見る巨大な鞄はいつもとは異なる何かを予感させるのだった。
「で、なんだよその大きい鞄は」
洗った顔をタオルで拭き、髪形を整えて洗面所から出た龍麻は改めて訊ねた。
どう見てもただ遊びにくるために持ってきたのではなさそうな、
海外旅行にでも行くようなしっかりとした鞄は、簡素な大学生の部屋にあって異質な存在感を放っている。
自分の持っている衣服は全部あそこに入ってしまうだろうな、と考え、
いささか情けない気持ちになった龍麻は、マリィの返答を半ば聞き過ごしてしまった。
「家出してきたの」
「へえ」
何気なく頷いてから仰天する。
飲み物を口に含んでいなかったのは、幸いというべきだった。
「家出!?」
「そう」
かつて龍麻と同じ高校で、今は違う大学に通っている、
マリィの義理の姉である美里葵は、多分童話に出てくるような意地悪な継姉(ではないはずだ。
彼女の両親も、会ったことは数度しかないが、悪い印象を受けたことはなく、
マリィがそうするに至った事情を彼女達に求めるのは難しそうだ。
となると、マリィが無茶を言ったのか──本人に聞いてもはぐらかすだろうと思い、
龍麻は受話器を取り上げた。
「あ、もしもし。緋勇と言いますけど……あ、葵?
ひさしぶり……うん、うん、そう、今俺の家にいるんだ。
……ちょっと待って。マリィ、葵が替わってって言ってるけど」
葵が出てくれたことに胸を撫で下ろしながら事情を聞くと、家出したのは間違いないという。
その割に葵が妙に落ち着き払っているのが、またも気にかかったが、
とにかく当事者同士で解決してもらおうと、龍麻は受話器をマリィに差し出した。
「いや」
にべもないマリィの返事に、にべってなんだ、と思いつつ再び受話器を当てる。
「ごめん、出たくないって。……うん、うん。……へ!? 俺ん家!?
いや、そりゃマズいだろ。……うん……そうだな…………解った……うん、それじゃ」
受話器を置いた直後に、妙に手際良く進行していく事態に、
龍麻はまたまた引っ掛かりを感じていた。
だが高校の頃から葵は自分も含めて他人を操るのが上手かったことを思いだし、
自分などでは到底抗しきれないと変な納得をしてマリィを見れば、
厄介ごとを持ちこんだ当人は既にくつろぎきっていた。
「アオイ、なんて?」
「頭冷やすまでそっちで面倒見てくれって」
「泊まっていってもいいの!?」
義妹とはいえマリィを男の部屋に簡単に泊めることを許可したのは、
葵も頭に血が上っているからではなく、マリィに間違ったことをしようものなら
血も凍るような災厄を与えられるのだという暗黙の了解があるからだ。
高校の一年間で骨の髄までそれを教えこまれた龍麻は、もちろんそんな考えは細胞レベルで持っておらず、
だからマリィの期待に満ちた問いにも、あっさりと首を縦に振った。
「しょうがないから、今日は泊まっていってもいいよ。でも明日には帰るんだ」
「どうして!」
「あさっては学校あるだろ? 制服は持ってきてないだろ」
「……うん、わかった」
このままずっと、などと言われたら、
いくら龍麻でもプライバシーを守るために立ち上がらねばならないところだったのだが、
葵に電話で聞いた秘策が上手くいって、龍麻はほっと胸を撫で下ろした。
安堵する龍麻に、マリィが話しかける。
「今日は何か予定あったの?」
夏に近い春の一日のような、眩しさと暖かさを同居させた笑顔に、龍麻の視線は自然と逸れてしまう。
もう何度となく見ているはずなのに、どうしてか今日は直視できなかった。
「洗濯だけしてぼーっとしてるつもりだった」
いい歳をした男の休日の過ごし方としては寂し過ぎる返答に、マリィは何故か顔を輝かせた。
「それじゃ、マリィが手伝ってあげる。ね、お兄ちゃん」
言うが早いか、龍麻が答えるよりも先に手を掴み、無理やり立たせる。
起きたばかりで、あと三十分はぼんやりとしているつもりだった龍麻は、
久々に勤勉に家事をさせられることになってしまったのだった。
自分の口が招いた災いだったから、誰を責めようもなかったのだが。
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