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 美里家は娘達に花嫁修行をきちんとさせているらしく、
マリィの掃除洗濯の手際の良さは龍麻を五倍ほど上回っていた。
 手伝う、とマリィは言ったが、明らかに龍麻よりも彼女の方が上手で、
すぐに主と従が替わり、やがて邪魔を悟った従は見ているだけにすることにした。
 普段はいやいや干されているような洗濯物が、嬉しそうに舞っている。
衣服かれらとは長年の戦友であったはずなのだが、
いとも簡単に破綻した友情に、龍麻は落胆を隠せなかった。
「どうしたの?」
「あ、いや、楽しそうだなって」
 主語をぼかして答えると、マリィは自分のことだと思ったのか大きく首を振った。
「楽しいよ、マリィ、綺麗にするの好きだもの」
 模範的な回答に、これならきっと良いお嫁さんになるに違いない、と親のように喜ぶ龍麻だった。
 洗濯物を干したマリィは、てきぱきと掃除をはじめる。
掃除機が動くにつれて狭い部屋の中を移動していた龍麻だったが、
吸いこみ口が部屋のある一角を向くにあたって餌を見つけた蛙のように跳んだ。
「こ、ここはいいよ」
「どうして?」
 雑誌だのビデオテープだのが乱雑に積まれているのが、
どうにもマリィは気に入らないらしく、言葉に棘が含まれている。
女性には決して理解してもらえない事情を、龍麻は説明せねばならない。
「い、いやここはほら、大学の教科書とかが俺にしか判らないように積んであるんだ。
だから崩しちゃうと大変なんだよ」
 ライトグレーの輝きが、右から左へ。
それに釣られて龍麻も眼球を動かすと、一往復したところで正面から睨みつけられた。
「教科書なんて一冊もないじゃない」
「……」
「エッチな本とかでしょ」
 どこでそんな余計な知識を得てしまったのだろう、
三年前は世の中の汚れなど何も知らない天使のようだったのに。
自分勝手過ぎる悲嘆にくれる龍麻に、マリィは腰に手を当てて詰め寄る。
真っ白な頬に赤みが差していて、噴火の予兆を感じさせた。
「どいて」
「いや、それは……」
「どいてッ!!」
 姉譲りの凄みを利かせたマリィに、龍麻などが抗しえるものではない。
すごすごと場所を空けると、たちまち聖域は土足で踏み荒らされた。
「何これ……」
 惨状を見たマリィの呟きに、新たな噴火のエネルギーがたゆたっている。
被害を少しでも抑えようと未練がましくマリィの周りにまとわりついていた龍麻は、
噴火の勢いから逃げ損ねてしまった。
「お兄ちゃんッ!!」
「ご、ごめんッ」
 降り注ぐ火山弾を、拝み倒して龍麻は避けようとする。
その姿は人知れずとはいえ東京の危機を護った立役者としては情けなさすぎるものだったが、
本人はそんなことに思いをいたす余裕も無く、ただひたすらに両手を合わせていた。
 マリィの、だいぶ伸びたとはいえまだ小柄な身体から、はげしい怒りが放たれている。
それは龍麻の頭を床に抑えつけさせるに充分なもので、
龍麻はエジプトの壁画のような姿勢のまま身じろぎしなかった。
やがてその耳に、どさどさという音が聞こえてくる。
まさしく処刑宣告であるその音に、龍麻はひれ伏したまま涙した。
龍麻の持っているその手の本だのなんだのの点数は、
同じ年の男性の平均より気持ち上といったところだったが、
もちろんそんな数字はマリィにとって何の意味も持たない。
龍麻にせめて中身を吟味させる余裕すら与えず、目に付いたもの全てをゴミ袋の中に放りこんでいった。
「もうこういうの買ったらダメだからね」
 わずか数分で全てを無に帰したマリィが厳かに告げる。
一体何の権利が、と声をあげかけて龍麻は思いとどまった。
いくらなんでも、それはあまりに恥ずかしすぎる抗議だと気付いたのだ。
開きかけた口をそのままに、がっくりとうなだれる龍麻に、
マリィは満足げに頷いて作戦を終了したのだった。
 その後もマリィの掃除は部屋のあらゆる所に及び、みちがえるように美しくなった空間と引き換えに、
龍麻が大切だと思ったもののいくつかが永遠に失われていた。
きれいになった部屋、その中でも特に妙にきれいになった部屋の一部を、恨めしげに龍麻は見る。
すると、その視線を遮るように粛正を行った天使ケルプが微笑んだ。
「やっぱりこれくらいきれいじゃないとね」
 白河の清きに魚も棲みかねる。
早くも以前の雑然さが恋しくなって、無言で頭を振る龍麻だったが、
なんとか気を取りなおすと、それまでほったらかしにされていた胃袋が盛大に抗議を始めた。
「お腹すいてないか?」
「すいてる」
「ちょっと待ってな、作ってやるから」
「お兄ちゃん料理できるの?」
「一人暮らししてるからな」
 少しだけ誇らしげに答えて、龍麻は台所に向かった。
幸いにも麺は買い置きがあるので、ナポリタンスパゲティを作ることにする。
と言っても所詮男の一人暮し、美里家の母親や長女のように美味なものを作れるわけではなく、
一応火は通っているから腹は壊さないだろう、という程度のものだ。
それでも批評する人間がいないので自分自身では満足していたのだが、
今日初めて他人に食べさせて、それがうぬぼれに過ぎなかったことをすぐに思い知らされた。
「……」
 一口めを口にしただけで、マリィの外国人らしい、くっきりとした眉が曇る。
成長して愛くるしさこそ減少したものの、代わりに得た美しさが台無しになってしまい、
そうさせた張本人はおそるおそる訊ねるしかなかった。
「不味かった……か?」
「いつもこんなの食べてるの?」
 マリィから返事がきたのは、彼女がコップの水を飲み干してからだった。
間接的に酷いことを言われた龍麻の受けた精神的な傷は、率直に言われるよりも深く、広い。
しかし薄いピンクの血色のよい唇から容赦のない感想を繰り出した少女は、
龍麻と反比例するように笑顔を浮かべた。
「ね、これからマリィが時々作りに来てあげるね」
「ん……?」
 あいまいに頷きつつ、妙な方向に話が行った、と龍麻は疑問に思った。
だいたい作ったスパゲティも芯はなく、確かに多少味付けは辛いものの、
そこまで酷評されるものでもない気がするのだ。
それにマリィ自身、けなしておきながらしっかり食べている。
何かがおかしい、と思いつつも、掃除の時のマリィの迫力を思い出し、訊ねる勇気はない龍麻だった。
「それで、どうして家出なんてしたんだよ」
 食事を終えた頃合いを見計らって、龍麻は朝聞きそびれた問題を切り出した。
一応は喧嘩の原因をつきとめ、できるなら仲直りさせてやりたい。
あくまでも傍観者としての立場からそう思った龍麻だったが、
美里家の姉妹喧嘩は実は彼こそが原因であり、彼抜きでは解決しない問題なのだった。
龍麻の問いに、マリィはケチャップで汚れた口を拭ってからおごそかに告げる。
「マリィね、お兄ちゃんとケッコンするって言ったの。
そしたら葵お姉ちゃんがそんなのマリィにはまだ早いって。ね、そんなコトないよね?」
 そりゃそうだ。
葵じゃなくてもそう言うだろう。
龍麻は気軽に訊ねてしまったことを大いに後悔していた。
短い返事の中に凝縮されている問題は、
うっかり背負おうものならたちまち押し潰されてしまう密度を持っていて、
随分大人っぽくなった、と思っていたマリィは、全くそうではなかったのだ。
 結婚、などというまだ縁もゆかりもないと思っていた単語を耳にして、
龍麻の思考は半分ほど止まってしまっていた。
そもそも結婚というのは当事者同士の同意があって初めてなされるもので、
マリィが自分と結婚したいなどと聞いたのは今この瞬間なのだ。
そんなコトあるもないも、考えるところから、
いやその前に好きとか愛とかそういう気持ちを抱くところから本当は始めるべきだろう。
偉そうにそう考える龍麻だが、しかし問題は、
葵がそう答えて火種を作ってしまった以上、同じ返事をする訳にはいかないのだ。
 龍麻は返答に窮した。
できれば水を一杯飲みたいところだったが、あいにくコップは空にしてしまい、
汲みに行くのもはばかられる雰囲気だ。
しかもそうして龍麻が逡巡している間にも、こぼれ落ちる砂時計の砂のように
マリィの瞳にはみるみる涙が溜まっていく。
大きな目の下半分が浸水するのを見て龍麻は危険を感じたが、時既に遅かった。
「お兄ちゃん……マリィのこと、嫌いなの?」
 どうして女の子というのはこう極端なのだろう。
嫌いと好きの間には太陽系の端までよりも遠い距離があるはずだし、
結婚となると宇宙の果てより遠いかもしれない。
しかし思いつめた女の子は時に、隣の家より近くにあると信じて疑わないような言動をするのだ。
そのあたりの感覚は龍麻にはまだ理解できなかった。
だいたいにして今、龍麻はマリィと付き合っているという意識がない。
彼女の不幸な生い立ちや、その後の事情を知っているために、
恋愛感情とは違う思い入れが強過ぎて、葵に言われずとも、
これまでそのような気持ちを意識したことはなかったのだ。
 だが今、マリィはそのような気持ちを龍麻に求めている。
自分が鈍感だったのだろうか、とその通りのことを考える龍麻だったが、
今はそれよりも先にマリィの機嫌を損ねないように答えなければならない。
「き、嫌い……じゃないよ。嫌いなはずないだろ」
 しかし、そんなあいまいな返事では思いつめて押しかけてきた少女を納得させることは難しいようだった。



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