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「じゃ、好き?」
 瞳に想いを浮かび上がらせてマリィは訊ねる。
それでも龍麻は、彼女に対する想いを妹に対してのそれから一歩進めることはまだできなかった。
「好き……だけど」
「だけど?」
 望む答えと望まない接続詞に、マリィの声がか細くなっていく。
続きを言えば、その声がますます小さくなると解っていながらも、
龍麻は今の自分の心境をそのまま告げた。
嫌われる以上に、嘘はつきたくなかったのだ。
「だけど、結婚するとか、恋人としての好きじゃないと思う」
「……そっか……そうだよね」
 返事は重く、それに先立つ沈黙は更に重かった。
その重みに耐えかねたようにマリィはうなだれるが、やがて気丈にも顔を上げ、龍麻に笑いかけてみせた。
「ごめんね、お兄ちゃん」
 自分が与えてしまったひどく寂しげな笑顔が、胸に痛い。
たまらずマリィを抱き締めようとして、龍麻はその資格を自ら捨ててしまったことを痛感していた。
己の馬鹿さ加減を嘲笑あざわらうように、頭の奥がずきずきと響いた。
彼女の幸せを願っていたはずなのに、彼女を最も傷つけてしまった後悔。
もう少し考える時間を与えてくれれば、あるいは──
しかし、今更言っても詮無いことだった。
自分は、彼女を拒んだのだ。
龍麻はからからに干上がってしまった喉から、どうにか声を絞り出した。
「どうする? 帰るなら、送ってやるけど」
「ううん……今日だけ泊まっていきたい。だめ?」
 マリィがここにいる理由はもうない。
そう思って提案したのだが、やはりすぐに葵のところに戻るのも辛いのだろう。
マリィの頼みを断ることはできなかった。

「ごちそうさま。片付けはマリィがするね」
「あ……あぁ」
 きちんと両手を合わせたマリィが勢い良く立ち上がる。
腰を浮かせかけた龍麻は、そのまま元の位置に尻を落とした。
マリィが気まずさから片付けを申し出たのは明白で、ならばしたいようにさせてやろうと思ったのだ。
「ついでにここにあるのも洗っちゃっていい?」
「頼むよ」
 流しに溜まっている食器についてマリィが訊ねる。
その声は明るく、それがかえって龍麻にも辛かった。
思考がまとまらないまま、台所に立つマリィの後姿を眺める。
 美しく成長した少女。
自分を実の兄のように慕い、懐いてくれる年下の少女。
龍麻は紛れもなくマリィのことが好きだったが、どうしても女性としてみることはできなかった。
他に好きな女性がいるわけでもないのに、どうして──自問しても、答えは浮かばなかった。
「お兄ちゃん?」
 どれくらい考えこんでいたのだろう、マリィはすっかり洗い物を終えていた。
不思議そうに顔を覗きこんでいたが、ふいにそれが破顔する。
「平気だよ、だからそんなに気にしないで」
 隠してはいるが、マリィの目にはまだ乾き切ってはいない泣いた跡があった。
しかしそれを指摘することの無意味さを知っていたので、
龍麻はあえて気にしない──気にしないふりをすることにした。
「ああ。それじゃこれからどうしようか」
 洗濯はだらだらとするつもりだったし、その後の予定ももともとあったわけではない。
年頃の女の子を退屈させない方法など知らない龍麻は、無粋にもそう訊ねた。
小首を傾げて考えていたマリィは、やがてライトグレーの瞳を輝かせる。
「それじゃさ、買い物行こうか」
「買い物?」
 服や靴を見に行きたいというのだろう。
あるいは買ってやらなければならないだろうが、今日は仕方ないだろう。
持ち合わせはあっただろうか、と龍麻はさりげなく財布の中身を確かめようとするが、
マリィの欲しいものは違うようだった。
「うん。晩ご飯のおかず。夜はマリィが作ってあげる」
「そっか。それじゃそうしよう」
 状況が状況とはいえ、出費がかさまないで済んだことに龍麻が内心安堵したのは、
貧乏学生としてやむを得ないことだった。

「三千六百四十八円になります」
 そう告げる店員に五千円札を渡す時、龍麻の手はかすかに震えていた。
龍麻は明らかに美里家のエンゲル係数を見誤っており、
マリィがかごに入れる食材はいつも龍麻が買うものよりニランクほど上だったのだ。
おまけに食器を洗う時に調味料までチェックされたらしく、
いつのまにか籠に入っている、家にあるものでは足りないらしいそれらのものまで含めると、
龍麻のほぼ三日の食費に匹敵する金額が一夜で消えたのだった。
 笑顔で品物を袋に詰めるマリィの隣で、龍麻の顔は曇りきっている。
しなやかな指先が動く度、あれは何円だ、これはいくらだったと考えてしまうのは、
なんとも情けないものだったが、それが現実なので仕方がない。
中身の詰まった重い袋は、実際の質量以上の重さがあるように感じられる龍麻だった。
「あ」
 スーパーを出たマリィが立ち止まる。
彼女の視線の方向に龍麻も顔を動かすと、そこにはたい焼きを売っている屋台があった。
まだ秋も深まってはいないのに少し気が早いようだが、案外需要はあるのか、
現にマリィは食べたそうにしているし、屋台の前にも客がいた。
「いいよ、食べて行こうか」
 財布の中身は千円少々だが、たい焼きなら大丈夫だろう。
見栄を張って龍麻が言うと、マリィは顔を輝かせた。
「本当?」
 訊ねはするが、もう足はそちらに向かっている。
女の子のしたたかさを思い知らされながら、龍麻も店の前に立った。
「お兄ちゃんいくつ?」
「ひとつでいいよ」
 漂う甘い匂いを嗅いだら二つは食べられそうだったが、ひとつにしておいた。
晩飯が食べられなくなったら悪いと思ったのだ。
「みっつください」
 ところがマリィは迷う様子もみせずそう頼んだ。
手渡された紙袋を幸せそうに受け取り、支払いを済ませた龍麻の腕を取り、近くの椅子に座る。
早速ひとつめを取りだし、行儀悪く口に咥えてから残りを手渡すマリィに、
龍麻はつい嫌味を言わずにおれなかった。
「太るぞ」
「マリィ、太らない体質だもの」、
 早くも頭の部分がなくなっているたい・・に、彼の冥福を祈りつつ龍麻も自分のたい焼きを取り出す。
久しぶりに口にするたい焼きは、随分と甘い味がした。
「マリィね」
「ん?」
 半分ほど食べ、口の周りにあんこをつけたままマリィが話す。
拭ってやるべきかどうか迷いながら、龍麻は耳を傾けた。
「舞子おねえちゃんと病院に通ってた時、帰りにこうやってたい焼き食べてたんだ」
 それは三年前、マリィが龍麻達と出会ってまもない頃。
彼女の名目上の保護者により、成長を抑制する薬物を投与されていたマリィは、
その薬物を中和する注射を打つため、新宿にある桜ヶ丘中央病院に通っていたのだ。
その時マリィを送り迎えしてくれたのが、龍麻の友人であり、
桜ヶ丘中央病院の看護婦でもある高見沢舞子だった。
久しぶりに舞子の名を聞いて、龍麻は彼女の看護婦らしからぬ巻き毛と、
更にらしからぬ甘い声を思い出す。
彼女はそのせいでそんな声になったのではというほど甘い物好きで、
常にアイスクリームだのたい焼きだの焼きいもだのを食べていた。
そういえばマリィもしょっちゅうそれらのものを食べていたが、
それは女の子だから、という理由だけではなく、彼女の影響だったのだ。
「今でも舞子には会うんだろ?」
「うん、週に一回は。舞子おねえちゃんね、
今でも患者さんに『いらっしゃいませ〜ェ』って言うんだよ」
 そっくりな口調でまねるマリィに、龍麻は笑いを誘われた。
病院中に響き渡る、およそ病院とは思えない舞子の声を、龍麻も何度も聞いている。
また彼女はあまりにのんびりしているために、院長に怒られているのを見たのも一度や二度ではない。
しかし彼女の誰にでも分け隔てなく接する優しさがなければ、
異国の地で身寄りもなくなったマリィはどれほど心細かっただろうか。
舞子は葵と龍麻に続くマリィの友人となり、
マリィが薬物の悪しき影響から回復するまで心身双方で支えてくれたのだ。
最近ではかなり忙しいらしく、長い間会っていないが、
久しぶりに連絡を取ってみようかという気に龍麻はなった。
院長が待ち構えている病院に行く気には、むろんなれなかったが。



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