<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>

(4/8ページ)

「美味しかった」
 きれいに二個とも平らげたマリィが、幸福そのものの笑顔を浮かべる。
縦に伸び、大人っぽさを感じさせる顔も、笑うとまだ子供のそれに近い。
薬物の影響によって危ぶまれた心身の発達のバランスも、
見た目よりも遥かに強靭なマリィの精神はなんなく乗り越えてしまったようで、喜ばしいことだった。
「三年……か」
「え?」
「もう三年過ぎたんだな、って」
 年かさめいた言葉に、マリィは大きな目を見開いたまま固まっていたが、やがて思いきり吹き出した。
「なんかおじいちゃんみたい」
「そうか?」
 苦笑いした龍麻は、そうかもしれない、とふと思った。
成長を抑制されていたマリィは、そのくびきから解き放たれつつある今、
一足飛びに成熟を増しているのだ。
近くにいる龍麻などは、会う度に高くなるマリィの背に、
時の経過を勘違いしてしまうことがあったから、知らず知らずのうちに老化すふけるのもしれなかった。
「マリィって今高一だよな」
 突然の問いにマリィは面食らったようだが、すぐに大きく頷く。
「そうだよ、皇神すめがみの一年生」
 この春からマリィが通っているのは、都内でも屈指の難関と言われる皇神学院高校だった。
三年前は日本語もおぼつかなったマリィだが、元来聡いのだろう、
砂が水を吸うように言葉を覚え、知識を高め、その才能を開花させたのだった。
火走りファイアスターターなどではない、彼女の真の能力を見抜けなかったというだけでも
彼女の名目上の保護者であったジル・ローゼンクロイツの無能が知れるというものだが、
とにかくマリィは受験もみごと合格し、葵や龍麻を大いに喜ばせたのだった。
「そういえばね、ミカドにも会ったよ」
「へえ。話したのか」
「ううん、見ただけ。でも目立つでしょ、あのひと」
 御門というのは龍麻の友人でマリィの先輩にあたる、御門晴明のことだ。
皇神学院を卒業したあとは同校付属の大学に進んだとかで、それでマリィは見たのだろう。
女性と見紛うほどの長い髪が特徴的で、一度会ったことがあれば遠目からでもすぐにわかる。
嫌味な口調と尊大な態度がマリィのお気に召さないのか、
彼女が御門を語るときは、口が軽くとがっていた。
 龍麻は別に御門のことを嫌いではないが、平安の世から伝わる陰陽師というだけでなく、
学生の身で既に事業を営み、多忙過ぎる日々を送っているらしい彼とは
同じ年とはいえあまりにも違う境遇に、高校を卒業して以後は疎遠になっていた。
「芙蓉さんも?」
「うん、いたよ。あのひと、全然歳取らないよね」
 芙蓉が式神という、紙にかりそめの命を吹き込まれただけの存在であることをマリィは知らない。
だから彼女の感想はもっともなのだが、あまりに正しすぎて龍麻はつい笑ってしまった。
すると、マリィが何故か軽く眉を寄せる。
「気になるの?」
「え?」
「フヨウのこと」
 龍麻は笑顔を張りつかせた。
マリィは恋する女の子として、その辺りに過敏なほど反応してしまうのだ。
うかつにもその点に思い至らなかった龍麻は、またも口で災いを招いてしまった。
古今東西、そうであることを証明するよりも、その逆の方が遥かに難しい──
龍麻は今日二度目の、そして人生二度目の女性問題で慌てふためいた。
「違うよ、そういうんじゃない。芙蓉さんはその……少し変わってるだろ。
ほとんど笑わないし、老けないし。だから気になっただけだって」
 どうしてなのか判らないまま、龍麻は必死になって弁解する。
身振りまで交えて取り繕う龍麻にも、マリィは目を細めるだけで答えない。
またも噴火を予感した龍麻が、背中に冷たい汗を滴らせていると、いきなり彼女は吹き出した。
「謝ってばっかりだね、お兄ちゃん。そんなに気にしなくてもいいんだってば」
「いや、本当に……」
 弁解を続けようとすると、マリィの眉目が微妙に位置を変える。
それは、とても大人びた表情に龍麻には見えた。
その表情に衝き動かされるように、やみくもに口を開く。
「なぁマリィ」
 未整理の心情を、だがマリィは聞こうとしなかった。
いつもの、降り注ぐ日光のような笑顔に戻った彼女は、龍麻の腕を巻きこんで立ち上がった。
「ね、もう帰ろ」
 引っ張られていきながら、龍麻は裡でうねるいくつかの想いを整理しようと試みていた。
それは、自分と彼女のために、しなければいけないことだった。

 帰るとすぐにマリィは洗濯物を取りこみ、台所に立つ。
かいがいしく動き回る彼女に、龍麻はもうよけいなことはしない方が良いと思って任せきりにした。
結果は正しく、きちんと折りたたまれた衣服と、
何より自分の料理が濃さと辛さでごまかしていただけだと思い知らされて龍麻は感激することとなった。
「美味いな、これ」
「でしょ? 一杯練習したもの」
 マリィは得意げに頷く。
実際お金を取れる、とまでは言わないが、食べたら感激する料理では充分にある。
ビーフシチューなどという、これまでお目にかかったことのないような料理を、
はじめはおっかなびっくり食べていた龍麻も、すぐにスプーンの動きを早め、
おかわりまでして存分に食欲を満たした。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
 心から満足して、龍麻は腹を擦る。
するとたちまちマリィにたしなめられてしまった。
「もう、行儀悪いよ」
「そ、そっか」
 一人暮しが長い龍麻は、行儀について指摘されたのなど数年振りで、慌てて姿勢を正した。
それにしても、今の口調は知り合いの女性に極めて似ていて、どきりとしてしまう。
同じ屋根の下に住んでいるのだから当然とは言っても、
マリィにはあまり悪い影響を受けて欲しくない龍麻だった。
「洗うのは俺がするよ」
 腹を擦れなくなって手持ち無沙汰になってしまった龍麻は、殊勝にも後片付けをすることにした。
普段なら数日はほったらかしにされるところだから、今日の食器は運が良かった。
彼ら、あるいは彼女達に口がきけたらきっとマリィに感謝の気持ちを伝えたことだろう。
 皿をまとめる龍麻に、マリィが話しかける。
「それじゃ、その間にお風呂入ってもいい?」
 お風呂、という言葉に頬がぴくりと動いてしまったのは、健全な男ならば仕方のないことだろう。
龍麻は急いで顔の筋肉を意思の支配下に置こうとしたが、
マリィは目ざとく見ており、小さく舌を出した。
「覗いたらアオイに言うからね」
 葵とは喧嘩してるんじゃないのか、と反論するにはあまりにその名は禁句過ぎたので、
全力で頭を振った龍麻は浴室に入っていこうとするマリィに別のことを訊ねた。
「着替えは?」
「持ってきてない」
 当然のように答えるマリィに、龍麻はその鞄には何が入ってるんだ、と訊ねかけてやめた。
秘密に触れられることを女性はとても嫌う。
そういうこともまたマリィの義姉から習っていた龍麻は、
例えば京一が相手ならいきなり開けていただろう鞄の中身をそれ以上詮索しないことにした。
 一人暮しをしている男で、寝る格好に気を使っている者などほとんどいない。
龍麻も例に漏れず、寒くなければ肌着にパンツというだらしなさを極限まで突き詰めた格好で寝るのだが、
女性がいてはそうもいかず、どうにか二着あったパジャマを収納の奥から引っ張り出し、
一着をマリィに向けて放った。
「サイズは大丈夫だろ」
「ありがと」
 龍麻はマリィが浴室に入った後も、ぼんやりと扉を見ている。
するとその向こうから、楽しげな鼻歌が聞こえてきた。
「……」
 数秒、うっかり耳を傾けていた龍麻は、大急ぎで立ち上がって台所へと向かい、
殊更に蛇口を一杯にひねって食器を洗い始めた。

 龍麻が普段の倍ほどもかけ、染みひとつなくなるまで皿を綺麗にした頃。
背後から扉が開く音が、これだけ水音を立てているにも関わらずはっきりと聞こえてきた。
振りかえってはいけない──どこかの怪談のようにそう戒める龍麻に、
マリィの足音は無頓着に近づいてくる。
「ジュース飲んでもいい?」
 ごく普通に訊ねるマリィに、龍麻の反応は過敏なほどだった。
全身をぴんと伸ばし、その勢いで皿が手から落ちる。
すんでのところで拾い上げた皿に胸を撫で下ろすと、目の前にマリィが立っていた。
 確かに渡したのは、色気のかけらもない、薄い水色のパジャマのはずだった。
するとマリィが着ているのは、一体何なのだろうか。
洗濯物に続いて自分を裏切ったパジャマを、龍麻は憮然として眺めた。
 サイズ的には二回りほど大きいはずなのに、くっきりと浮き上がっている胸の曲線。
袖や裾も余っているのだが、何故か不恰好には見えず、危うい子供っぽさを演出していた。
少し強い癖のある、出会った頃から較べると十五センチ程度伸びた金色の髪は、
風呂から上がった直後だからか、ボリュームを失って身体にまとわりついている。
そして湯上りでほのかに色づいている頬は、直視するのも困難なほどの色気を放っていた。
 龍麻は初めて会った時からマリィを可愛いと思い、将来はきっと美人になると信じて疑っていなかったが、
その答えが今、目の前にあった。
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもない」
 おそらく自分の魅力に無自覚なマリィは、龍麻が動揺している理由に気付いていないようだ。
化け物に襲われた時のように後ずさる龍麻に、怪訝そうな顔をしている。
実際龍麻は自分の心が脆くも崩れそうになっていることを意識しており、
そのほんのわずかなきっかけを与えた少女に恐怖めいた感情すら抱いていた。
「変なの」
 訳がわからない、といった風にマリィは首を振る。
すると甘い香りが辺りに漂い、ますます龍麻は動揺してしまうのだった。



<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>