<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>

(5/8ページ)

 それから寝るまでの間、龍麻はマリィと何を話したのかほとんど覚えていない。
彼女の学校のことや、自分の学校のことを話していた気はするのだが、
目まぐるしく変わるマリィの表情と、特に、昼間は全く気にならなかった金色の髪に、
視覚のみならず感覚の全てを支配されてしまっていた。
豊かな海はマリィが笑う度に複雑な彩りを放ち、それ自体が催眠術をかけているかのようだ。
ずっと見ていることへの危険性を感じた龍麻は、
放っておけば一晩中でも話をしたがりそうなマリィに、半ば強引に寝ようと提案した。
案の定渋ったマリィも、頑なに拒む龍麻に折れ、ついに寝ることを承諾する。
「マリィは俺のベッドで寝ろよ」
「マリィ、下でいいよ」
 マリィは言ったが、龍麻は強引にベッドの下に自分の陣地を確保した。
龍麻にも男の甲斐性のようなものは一応あるし、それに寝相が悪いので、
ベッドから落ちたりしたらマリィを押し潰してしまう。
三年間でたった十回──今日でめでたく大台に乗った──だが、
万が一ということもあるので、これは譲れなかったのだ。
「明日も夕方まではいてもいいでしょ?」
「いいよ」
 答えるまでに極小の時間差があったことに、マリィは気付いただろうか。
あるいは、声に微かな震えがあったことに。
今自分は、どんな顔でマリィを見ているのだろう。
それを知られたくなくて、龍麻は顔をそむけたまま電気を消した。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 しかし、眠るために必要な静寂は訪れなかった。
時計の音はいつもと同じでも、かすかに聞こえる他人の呼吸音、
そしてやたら大きく聞こえる自分の鼓動は、とても安らかな眠りをさせてくれそうにはなかった。
それでも龍麻は力一杯目をつぶり、羊を数え始める。
百匹ほど柵を飛び越えさせてもなかなか眠くはならなかったが、
辛抱して数えていると、二百匹辺りでどうにかまどろむことができた。
急速に薄れていく感覚に、身を委ねる。
 明日、どんな顔をして葵に会ったらいいだろう──かすかな棘を残して、龍麻は眠りについた。

 今、自分は眠っているはずだ。
ならば今脳裏に浮かんでいることも、夢なのだろう。
わずか一日で、頭の中のほとんどの部分に焼きついてしまった少女の姿を、
龍麻は寝返りをうつことで追い払おうとした。
しかし印象的な灰色の瞳はいつまでも自分を見つめており、どうしても消すことができない。
今日は眠れないかも知れない──漠然とそんな予感をし、
何度目かの寝返りを打った時、龍麻は小さな衣擦れの音を聞いた。
 心臓が一度、痛いほど鳴る。
トイレにでも行くのだろう、と思い、ますます濃くなってしまったマリィの残像を、
枕に顔を押しつけて消そうとする。
それが妨げられたのは、人の気配を至近に感じたからだった。
 マリィが、傍らに横たわる。
「──!」
 マリィは、何をしようとしているのか──
理性とは別のところから、心肺機能に命令が下る。
龍麻は飛び出しそうな勢いで脈打つ心臓を抑えようと試みるが、
少女の匂いが鼻腔をついた途端、努力は水泡に帰してしまった。
左半身に感じる柔らかな重みは、かつて知っていた少女のものではなかった。
指一本すら動かしてはいけない。
厳命し、喘ぐ心臓をなだめようとする龍麻だが、いつまで守れるか心もとなかった。
一刻も早く、マリィをどかさなくては──
「お兄ちゃん」
「……」
 龍麻は返事をしなかったのではなく、できなかった。
吐息に近いマリィの声は、おそろしく甘い音色となって鼓膜を撫で、
早くも理性のかんぬきが打ち壊されそうになってしまっていたのだ。
しかし眠ったふりをしているのはマリィにも解っているらしく、無言の龍麻にそのまま語りかけてくる。
「ごめんね、今日は。迷惑……だったよね」
 想いを砕いてしまったというのに、あくまでもマリィは他人を気遣う。
 意識を保とうと手を固く握り締めた龍麻は、はたと気付いた。
物心つく前に両親に捨てられ、その後も篤志家とは真っ赤な偽りのジルという男に拾われ、
決して幸福とはいえない人生を送らされてきたマリィは、人一倍家族を求めているのだ。
それは三年前に葵に出会い、美里家の養女となったことでいくらかは癒されても、
彼女自身が家族を作らなければ満たされない痛みだったのだ。
マリィに較べれば幸福な人生であったとしても、
やはり育ての親は実の両親ではなかった龍麻は、彼女の気持ちがわかる。
いや、本当はもっと早くわかってやれていなければならなかったのだ。
 身体がかっとなる。
己への怒りに身体が震えるのを、龍麻は抑えられなかった。
「お兄……ちゃん?」
 震えを敏感に感じ取ったマリィが気遣わしげな声を上げる。
それも、ジルの顔色を常にうかがっていなければならなかったために身についた、
悲しい習性によるものなのだろう。
屈託のない笑顔の裏に、どれだけの想いが込められているのか、
龍麻には到底推し量ることなどできない。
その想いに答えてやれない己の器量の小ささに絶望しつつ、龍麻は口を開く。
「迷惑なんかじゃないよ。マリィが俺のこと好きって言ってくれて、本当に嬉しかった。
でも多分、それは」
 何故考えを全て言ってしまおうと思ったのか、あるいはそうすることでマリィの心を
自分から離れさせようとしたのかもしれないが、
龍麻はよりマリィを傷つけずにはおかないであろう残酷な台詞を、やや得意がってすら言おうとした。
「……違うよ」
「え?」
 低い声に遮られ、狂熱が醒める。
のぼせた心を更に冷やしたのは、物理的な水滴だった。
肩を濡らす幾滴かの水分は、細胞にまで染み入って愚かな心を凍らせた。
「マリィはお兄ちゃんのこと、本当に好きだもの」
 マリィのふるえが伝わってくる声。
龍麻は賢しげに解ったつもりになっていたマリィの心が、
自分よりもずっと大人であったことにようやく気付いた。
彼女は一種の刷り込みのような反応で好きだと言ったのではなかった。
そして肉親を持たない者同士、傷を舐め合おうとしているだけではないのかという思いに
囚われていたのは龍麻だけであり、マリィはそんな感情ものではなく、
純粋に異性として自分を好いてくれていたのだ。
彼女の境遇を盾にし、想いを跳ね除けていたのは、龍麻自身の醜さだったのだ。
謝らなければ──
 龍麻は身体を起こし、マリィも起こして座らせた。
「マリィ」
 名を呼ぶと、薄闇の中で視線を感じる。
その視線を、龍麻はずっと前から知っていた。
彼女の想いは、昔から変わっていなかった。
それを龍麻は、様々な臆病さから気付かないふりをしていたのだ。
龍麻は固まってしまった声を、喉からようやく押し出す。
「ごめんな」
「ううん……もういいの」
「そうじゃなくて」
 謝らなければならないことは、言い尽くせないほどある。
だから龍麻は、マリィの肩に手を置いた。
薄い肩はびくりと震えたが、マリィは何も言わない。
何秒かの逡巡の末、龍麻は生まれ出でたのではない、
確かに心の奥底にはあった想いを掘りだし、声に乗せて送りだした。
「マリィはその、本当に……俺と、けっ、結婚したいと思ってるのか」
 慎重にそう訊ねたのは彼女の幸せを願えばこそであったにしても、少し思慮が足りない発言だった。
それを龍麻は、最も動揺させられる形で思い知らされた。
マリィの大きな瞳が、宝石のように輝いたのだ。
その輝きは瞳のみならず、伝う頬をも飾り立てる。
薄暗がりの中で、それはひどくはっきりと映し出されていた。
「マリィね、ずっと待ってたんだよ。十六歳になるまで」
「……そうか……」
 マリィの想いを伝えられた龍麻はそう答えたきり、すぐには返事をしなかった。
二度、呼吸を乱れさせてから、ようやくまとめた気持ちを彼女に告げる。
「悪いけど、結婚の約束はできない」
 再びの辛い言葉にまた涙をあふれさせそうになるマリィに、慌てて続けた。
「まだ学生だし、マリィと一緒に暮らすだけの力がないんだ。
でもマリィの気持ちには応えてやりたい……だから」
 上手く言葉が出てこない自分の不甲斐なさに苛立ち、頭を掻きむしりそうになった龍麻は、
その手をマリィのもう片方の肩に置いた。
見開かれたマリィの目が、決心を後押ししてくれた。
「だから、えっと……俺に余裕ができたら改めて俺の方から、その、申し込むってことじゃだめかな」
 三年間ですっかり日本語が上達したマリィも、
どもりながら、やたらと接続詞が多く、
そして肝心な部分をぼやかしている龍麻の台詞を理解するのには、やや時間を要したようだ。
そして理解した後も、快活な彼女らしくなく少しどもって答える。
「でも……昼間、マリィのこと恋人として好きなんじゃないって」
「ああ……まだ解らないんだ。でも昼間よりはずっと解ってる。解ったような気がする。
だから、マリィがまだ俺のこと嫌いになってなければ、あの……」
 最も肝心な部分を、どうしても言えない龍麻に、マリィは肩に置かれた手を払う。
二人の呼吸が止まった瞬間、マリィの身体は龍麻の腕の中にあった。



<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>