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その瞬間、教室の空気は確実に減った。
もちろん理由はある。
教室の窓際の列、真ん中よりやや後ろの席で、ある生理現象が発生したからだ。
それは随分と大きく、そして間延びした声を伴っていたが、
授業が終わった直後の教室でそれを耳にした者はいなかった。
満足するだけの空気を吸い、ささやかな完全犯罪を終えた犯人は、
目を擦りながら教室の方へと向き直る。
すると涙で滲んだ視界の向こうで、隣の席に座っている少女が一部始終を目撃していた。
閉じかけだった口を急いで完全に閉じ、証拠隠滅を図る。
春の心地よい陽射しをずっと浴びても寝なかったんだから、これくらい許してくれ──
そう、声にはよらず念じていると、目撃者は口元に上品に手を添えて、長い黒髪を揺らした。
ちょうど窓から見える位置まで沈んでいる太陽が黒髪を輝かせていて、
まだ涙が残っているからかもしれないが、その顔が龍麻には妙に眩しく見えた。
「おはよう、緋勇くん」
「ち、違う、寝てないったら」
「ふふ、本当? ノートはちゃんと取った?」
「だから寝てないって」
百年の眠気も一瞬で覚ました龍麻は、これを口実にノートを貸してもらうのも結構いいかもしれない、
何しろ女の子のノートには秘密が詰まっているから──それが誰の、例え葵のものであっても──
そう思いつつも誤解を解こうとしたが、残念ながら努力が報われることはなかった。
「ちょっとちょっとッ! 緋勇君いるッ!!」
けたたましい声と共に隣のクラスの杏子がやってきて、
楽しい一時は不本意な形で終わらされてしまったからだ。
教室内の全ての喧騒を切り裂きながら、まず声だけが一直線に龍麻の元へとやってくる。
それはちょうど龍麻と葵の席の間を通りぬけ、海溝のように深い溝を残していった。
生まれかけていた和やかな雰囲気もその溝の中にまとめて落ちていってしまい、
龍麻と葵は目を白黒させ、落としてしまった何かを同時に覗き込んだ。
彼女も少しは残念だと思っているのだろうか──答えを確かめようもないことを龍麻が考えていると、
ちょうど別の方向から龍麻達の席へとやって来た小蒔が、辟易したように首を振った。
「もう、うるさいなぁ。入ってくるなりどうしたのさ、アン子」
「大事件なのよ、これが騒がずにいられるかってのよッ」
「アン子ちゃんったら、そんなに息を切らせて……何があったの?」
「何が、じゃないわよもう。美里ちゃんだってあたしの話を聞いたら落ち着いてなんかいられないんだから」
ほとんど一方的にまくしたてた杏子は、彼女が求める人物を素早く捜す。
「いるわね、緋勇君。良かった、帰っちゃってたらどうしようかと思ったわ。あとは……京一は?」
「あそこ」
「寝てる……?」
小蒔の指差した先で、机に埋まっている茶色の髪を見つけた杏子は、
起きる気配を微塵も見せない京一に、まずは呼びかけた。
「ちょっと京一、起きなさいよ。いつまで寝てるつもりなのよッ」
龍麻の二つ前の席に座っている京一は、杏子の声に頭を起こしたものの、
その首の回し方は、いかにも機械的だった。
「……よぉ、緋勇。なんでお前が俺んちにいるんだよ」
「完全に寝ぼけてるね」
冷静に状況を分析する小蒔は、全く他人事のようにお菓子を取り出している。
龍麻も少し分けてもらおうと手を伸ばすと、業を煮やした杏子が大股で京一に歩み寄った。
「あーもぅ、桜井ちゃんそこをどいてッ!」
大きく振りかぶった杏子の手にぶつからないよう、慌てて小蒔がよける。
その為に龍麻は空振りしてしまい、あやうく椅子から転げ落ちるところだった。
なんとかバランスを崩しただけで済んだ龍麻が顔を上げると、まさに杏子の手が京一の頬を捉えていた。
ものすごい音と共に、京一の顔が九十度曲がる。
平手打ちで吹っ飛ぶ顔など、龍麻は初めて見た。
「まったく、一人でいい旅夢気分してんじゃないわよッ!!」
勢い余って後ろの机に突っ伏す京一に、杏子が鼻息も荒く怒声を浴びせる。
彼はそこまで酷い仕打ちを受ける謂れがあっただろうか。
友人に同情しつつも、何故か京一の姿に教科書に載っていた金色夜叉の挿絵が重なってしまい、
龍麻は顔が笑ってしまうのを抑えられなかった。
「ほら、さっさと昨日何を見たか話を聞かせなさいよ」
「いてててて……あれ、なんでアン子が3−C(にいんだよ。昼休みか?」
ここまでされてまだ寝ぼけている京一も立派と言うべきだった。
ただしそれは、火薬庫の隣で爆弾の実験をするような、危険きわまりないものでもあったが。
「もう放課後だって言ってんのよ──」
もともと少ない忍耐力をたちまち切らしてしまった杏子は、今度は京一の首を絞めあげる。
高校三年ともなれば制服のホックなど留めないのが当たり前なのだが、今回はそれが災いした。
直に喉を掴むことに成功した杏子の指は、容赦無く気道を潰す。
潰れた蛙のような──実際に聞いたことは無いが──哀れな声で呻く友人の悲惨な姿に、
龍麻は思わず自分の首を押さえていた。
「何ならこのまま永眠させてあげてもいいのよ。どう? 一回やってみる?」
「わ、わがった、わがったから首……離せ……」
龍麻達の目の前で、京一の顔は赤から青へと鮮やかに転じている。
このままもう少し続けば更に白へと変わり、龍麻は友人を二人──
一人は肉体的に、一人は社会的に失う所だったが、どうやらそうならずには済んだようだった。
「判ればいいのよ。さ、それじゃあんたが昨日見た事を洗いざらい自白(ってもらいましょうか」
杏子の言葉遣いは刑事というよりもヤクザのそれで、あまりに品の無い言葉に葵が眉をしかめた。
それを見ていた龍麻は笑いを誘われるが、葵に気付かれ、更に困った顔をされて慌てて掌で表情を隠す。
その間に、ようやく呼吸を回復した京一が、まだ喉を撫でまわしながら、
杏子の問いに考え込む表情を作っていた。
「昨日……? あぁ、あれか」
「そう、それよ」
「あれは凄かったよな、緋勇。何せ風で全部スカートがめくれあが……」
再び杏子の手が一閃し、京一はボクシングの試合でしか見られないようなもんどりうちかたで倒れる。
ボクシングならここでカウントを取る所だが、
ルール無用の杏子は休む間も与えず京一を引きずり起こした。
ほとんど公開処刑のような有様に、龍麻はもし自分が先に問われていたらどうなっていただろうか、
と想像して恐ろしさに震える。
「いい? 起こすのも手間なんですからねッ。今度とぼけたら承知しないわよッ」
それを京一が聞いていたかどうかは、怪しい。
何しろ不良の佐久間相手に一歩も退くところのなかった京一が、
今や杏子に胸倉を揺すられてガクガクと頭を振るばかりなのだ。
もはや誰も止めようとする者も居ない杏子だったが、
実に良いタイミングで救世主──京一だけでなく、この場にいる全員の──が現れた。
「どうしたんだ遠野、そんなに興奮して」
「あ、醍醐クン。どこ行ってたの?」
「ちょっと……な」
露骨に言葉を濁す醍醐に、杏子はこちらの方が与(しやすしと踏んだのか、襟を離した。
宙に浮き上がっていた京一の身体が、すとんと落ちる。
その表情からしてどうも尻をしたたかに打ちつけたらしかったが、
もはや杏子は役に立たない情報提供者になど見向きもしていなかった。
「もしかして、空手部かしら?」
「空手部? 醍醐クンレスリング部でしょ? なんで空手部に用が……」
口を挟んだ小蒔にも、杏子は顔を向けようとはしない。
彼女の興味は、大柄な男子生徒の態度に注がれていた。
「黙ってるところを見ると図星のようね」
「……」
「嘘がつけないってのは、こっちからすればありがたいんだけどね」
むしろ同情するような杏子の口調に、醍醐はなんとも言えない、困った顔をする。
もはやこれまでだと諦めた京一が、自分の努力を無にした男に、
せめて一言でも言ってやらねばと身体を起こした。
「いてててて……このバカ醍醐、せっかく俺が身体を張ってごまかしてやってたのに」
「すまん」
「まぁ、アン子(相手に白(が切りとおせるとは思っちゃいなかったけどよ」
それは龍麻も同感だったから、取りたてて醍醐を責めようとは思わなかった。
「そうだな。仕方ない」
肩をすくめた龍麻に苦笑で応えた醍醐は、まだ事情が全く解らない葵と小蒔に向き直った。
「──美里に桜井。お前達も話を聞いてくれないか」
「どうしたの急に? 改まって」
もともと、龍麻達は昨日遭遇した出来事を葵達に隠すつもりはなかった
──もしあるとすれば、それは彼女達を危険に巻き込まないようにという配慮からだったが、
もちろん自分達から話すことでもなく、現に今、
京一が下手な小芝居まで打ってごまかそうとはしていたのだ。
関係者でもなければまだこの怪事件を知る者は少ないはずで、
龍麻は一体杏子がどこからこの情報を知り得たのか興味を持った。
「それにしてもさ、遠野さんはどこから嗅ぎつけたの?」
「へへへッ、情報源(の秘匿は取材の原則よ。でも少しは見直した?」
「うん」
素直に頷く龍麻に、杏子は胸を反らす。
龍麻は彼女の胸が意外と大きいことに気がついたが、
そんなことを言っても間違いなく首を絞められるだけなので心に留めるだけにしておいた。
もちろん一瞬とは言えそんな邪な目で見られていたとは知る由もない杏子は、
既に自分の生き甲斐と化している事について聞かれて熱弁を奮った。
「なんてったって、あたしの夢は事件を追って世界中を駆け巡る一流(のルポライターですからね。
このくらい、当然よ」
「まぁアン子(の場合は手当たり次第に首突っ込んでっから、
今回はそれがたまたまってトコだろうけどな」
「なによ、アンタやろうっての?」
学習能力が無いのか、それとも──まさかそんなことはないだろうが、虐待されて喜ぶ癖があるのか、
余計な一言でまぜっかえす京一に、また暴力の嵐が吹き荒れる、その前兆の黒雲を龍麻は感じた。
もちろん自分まで巻き込まれてはたまらないので、口は出さない。
「あのさ、ボク達には全然話が見えてこないんだけど。そろそろ説明してくんないかな」
そこに、お菓子を一通り食べ終えて手持ち無沙汰になったから、
ではないだろうが、小蒔が口を挟む。
杏子もいいかげん話が進まないことに苛立っていたのか、
京一に背を向け、完全無視の姿勢で話し始めた。
「ごめんごめん、あんまり京一(がアホだからつい。
概要を言うとね、真神(の空手部員が、昨日だけで四人も襲われたの。
空手部は近々大会を控えてたんだけど、今回の事件で出場は危ぶまれているわ」
「そんな……ひどいわ。誰がそんなことを」
話を聞いた葵が描いたように形の良い眉を曇らせる。
武道の道を歩む者ならば、怪我は当然覚悟していなければならないものであるが、
葵の言う通り、これはあまりに卑劣な仕儀と言えた。
杏子も頷いたが、こちらは空手部員に同情しているというよりも、
事件の真相に興味を持つ葵に対してのようだった。
「問題はそこなの。それで話を聞きに来た、って訳なんだけど」
「なるほど」
これだけのことを言うのに、どれほど遠回りしたのだろう。
小蒔がお菓子を食べ終えるくらいだから、十分くらいだろうか。
別に何か用事があったりする訳ではないが、龍麻はあまりにも時間を無駄にした気がしていた。
京一達とラーメンを食べに行くとか、葵と話すとか、いくらでも有意義なことはあるのだ。
そう思いつつも、今こうして仲間達と過ごす時間も嫌いではない龍麻だった。
「もちろん、話をタダで聞こうなんて思ってないわ。
あたしの持ってる情報と交換で、って言うのはどう?」
「遠野、お前……何か掴んでいるのか?」
醍醐の問いに、杏子はにやりと笑ってみせる。
「まぁね。ただ話を聞くだけじゃ芸が無さ過ぎるでしょ?
お互い損な話じゃないと思うけど。
まぁ、そっちの持っている情報があたしのに見合わなければ、差額は貸しにさせてもらうけどね。
どう? 緋勇君」
「しっかりしてるね」
そういう表現で、龍麻は自分達が昨日出くわした出来事を話すことに同意した。
理由のひとつには、京一のように首を絞められたくない、というのもあったかもしれない。
「商談成立ね。やっぱり京一(と違って話が早いから助かるわ。で、何を見たの?」
「ちょっと待て緋勇ッ!」
「何よ京一。アホをアホ呼ばわりされたからって怒らないでよね」
一言半句で喧嘩を売る杏子も大したものだが、この時は京一も挑発に乗らなかった。
「アン子、お前が先だ」
「……」
「お前の情報こそ、俺達の話に見合うかどうか解らねェからな。
それにお前の場合、俺達から聞くだけ聞いてハイ、さよなら──ってことにもなりかねねェ」
京一の疑りようは度が過ぎている──まさか友人相手にそんなあこぎなことはしないだろう。
そう思った龍麻だったが、杏子は無表情で無反応だった。
まるで、図星を突かれたように。
(チッ、相変わらず変なトコだけ鋭いヤツね)
「なんか言ったか?」
「言ってないわよッ。──しょうがないわね。言うわよ、言えばいいんでしょ」
ポケットから手帳を取り出した杏子は、勢い良く紙をめくりはじめた。
いやに古びた表紙に、何が書かれているのだろうかと龍麻はつい気になってしまう。
様々な秘密が記されているに違いないその手帳は、きっと杏子の生命そのものなのだろう。
その割にはあまり丁寧に扱っているようには見えないが、とにかく、
探していたページを見つけた杏子は取材の成果を披露した。
「空手部員が襲われたのはいずれも昨日の夜。
西新宿四丁目の路地で二人、花園神社と中央公園で一人ずつ。
現場には激しく争った痕跡はなく、
通行人や付近の住人から警察への犯人の目撃情報は出ていないそうよ。
それから負傷した三人は巡回中の警察官によってすぐに病院に収容。現在は重傷で面会謝絶」
「面会謝絶?」
杏子は口を挟んだ小蒔に小さく頷いただけで後を続ける。
「収容先の病院は、桜ヶ丘中央病院」
「桜ヶ丘──中央病院?」
聞き覚えのある名前に、葵が反応した。
数週間ほど前に、自分が診てもらった病院である。
目覚めた時に視界を圧して立っていた女性には驚いたが、
すぐに彼女が悪人ではないどころか、その病院の院長であると知り、
また、自分の持っている『力』についてそれとなく話をされたのだ。
随分と世話になった病院の名を、記憶力の良い葵が忘れるはずは無かった。
「そう、美里ちゃんがお世話になったあそこよ」
「ね、襲われたのは四人なんだよね。でも収容されたのは三人なの?」
「警察に助けられたのは、ね。病院にはちゃんと四人とも収容されているわ」
「警察じゃない誰かが助けたってこと? ──まさか」
「さぁ? それは緋勇君達に聞いた方がいいんじゃないかしら。ね」
「……驚いたな。そこまで知っているとは」
小蒔に答え、思惑たっぷりに自分達の方を見やる杏子に、醍醐は素直に驚き、感心していた。
彼女の取材能力を見くびっていた訳ではないが、それは学校新聞程度での話であって、
学校外の出来事にまで通用するとは思っていなかったのだ。
「全くだ。こいつがブン屋じゃなくて探偵にでもなった日にゃあ、
男はいちいち浮気も出来ねぇぜ、な、緋勇」
「俺は浮気なんてしない」
「なんだよ、ムキになって。反応の悪い奴だな。お前はもっと男の浪漫ってもんを」
「浮気のどこが男の浪漫なのよ……」
「そうだそうだッ、そんなの男の都合のいい言い訳じゃないか」
「京一君……」
「うッ……」
この場にいる女性全員に一斉に反撃されて、さすがの京一も押し黙る。
どうにも思慮の浅い友人に醍醐は呆れたように首を振りつつ、それでも助けてやった。
「そんなことより、だ。もうそこまで知っているんだったら、隠しても意味が無いだろう。
確かに、四人目──中央公園の空手部員を桜ヶ丘に運んだのは俺達だ」
醍醐の告白にも、杏子は簡単に頷いただけだった。
彼女の知りたいのは、その先なのだ。
「ま、そうでしょうね。でもあたしの聞きたいのはそこじゃなくて
──なんで桜ヶ丘に運んだかよ。あそこは産婦人科よね」
「あ……そういえばそうだよね」
そう、文字通り山と見紛うばかりの巨体で患者を圧倒する岩山たか子を院長に持つ
桜ヶ丘中央病院は、れっきとした産婦人科なのだ。
もっとも、彼女の持つインパクトがあまりに大きいために、
大抵の人は桜ヶ丘、と聞くと、小蒔と同じようにまずたか子の存在を思い浮かべてしまい、
あそこが何科の病院かを訊ねてもなかなか正しい回答は得られないのではあるが。
「じゃあなぜ桜ヶ丘を選んだのか? あたしの考える理由はひとつ。
その空手部員の怪我が、普通じゃないとき」
そこまで言った杏子は、龍麻達の反応を試すように腰に手を当ててみせる。
顔を見合わせた龍麻と京一は、彼女に事情を説明するという大役を謹んで醍醐に譲ることにした。
何か口を滑らせて杏子に首を絞められてはたまらない、と思ったのだ。
その点醍醐なら口下手だからあまり余計なことは言わないだろうし、
何より醍醐の首を絞めるのは容易なことではない、と言うのが彼に押しつけた理由だった。
二人の配慮、というより押しつけに気付いたかどうかは不明だったが、
醍醐は腕を組み、頭の中で少し整理してから昨日の出来事を話し始めた。
「昨日の帰り──」
龍麻達三人は、日もすっかり暮れた中央公園の中を歩いていた。
昼と夜とで表情を一変させる公園は、その狭間の時間で人も少なく、
一日の活動を終えようとする鳥の鳴き声ばかりが響き渡っている。
「あーあーッ、こんなに暗くなっちまって。やっぱ部活なんてやるもんじゃねぇな。
やってないお前がうらやましいぜ、緋勇」
やってないのにこんなに暗くなるまで付き合わされている俺はなんなんだ、と龍麻は思う。
京一達を待っている間、教室で宿題を片付けつつ残っている女生徒と話したりして、
まんざらでもない時間を過ごしたのではあるが。
そしてこちらは京一などよりずっと真面目なものの、
部員に恵まれずにあまり良い部活動をこなしているとは言えない醍醐が呆れて首を振った。
「お前な、それが仮にも部長の言うことか?
どうせ、顔だって月に一度くらいしか出してないんだろう」
「構やしねぇよ。実務は全部有能な副部長がやってるからな。
ッたく、あいつらもお前も、こんな時間まで良くやるよ。
俺に言わせりゃ、どいつもこいつも青春の無駄遣いだってんだ」
青春とはおねェちゃんとラーメンで出来ている、と信じて疑わない京一にとって、
汗を流して練習に励む人種など、奇人か変人か、というものなのだ。
二人のやり取りを聞きながら、龍麻は、自分が一年から真神にいたら、
どこかの部活に入っていただろうか、と考えていた。
身体を動かすことは嫌いではないから、多分運動系の部活に入ってはいただろう。
しかしそれはきっと剣道やレスリング、弓道部ではなく、
その線で京一達に出会う可能性は低いだろう。
出会う、という単語を軸にして、更に思考は飛んだ。
もし一年から真神にいたら、前の高校で遭遇した事件にももちろん関わりがなくなる。
ということは『力』にも出会わず、京一にも醍醐にも小蒔にも、
そして葵にも出会わなかったかもしれない。
そこまで考えて、龍麻は思考を打ちきった。
もし他にどんな良い結果があったとしても、今よりも良いとはとても思えないのだ。
どういう偶然が重なって自分達が集い、そして行動を共にするようになったかは判らないが、
龍麻にとって「今」は結構満足すべきもので、
そしてそれは、選べもしない可能性を真剣に考えるほどの暇を与えてくれる訳でもないのだった。
龍麻がしばらく考え事をしている間にも、話題は進んでいたようだ。
醍醐と京一は、彼らと直接関係の無い部活の話をしていた。
「まぁ、今は俺達よりも空手部の連中の方が張り切っているがな。
もうすぐ、全国大会出場を賭けた地区大会があるそうだからな。
今年こそ目黒の鎧扇寺学園に勝って、優勝出来るといいんだが」
「その、がい……なんとかってとこは強いのかよ」
「あぁ、この二年、真神学園(と優勝争いをしている高校だ。
一昨年は真神(、去年は鎧扇寺が優勝している。
空手部の部長も、今年は相当気合が入っているだろう」
「なるほどねぇ。ま、俺に言わせりゃお前らみんな、不毛な高校生活を送ってるんだけどな。
何が悲しくて汗臭い男どもに囲まれた青春送んなきゃなんねェんだよ」
醍醐と京一に両側を囲まれている龍麻は、何か言ってやろうと思ったが、
気の利いた台詞を考えている間に何者かに先取りされてしまった。
「──!?」
悲痛な叫び声を聞いた三人は、思わず足を止めていた。
夕暮れの公園には似つかわしくない悲鳴に顔を見合わせ、同時に走り出す。
「今のは……京一ッ!!」
「おうッ!」
悲鳴の主はすぐに見つかった。
いくらも走らないうちに、道の中央に、奇妙に身体をねじって倒れている人影が見えたのだ。
「……あそこに、誰か倒れてんぞッ」
三人の中で一番早く見つけた京一が人影に駆け寄る。
足の早さだけなら龍麻の方が上だが、こういう目ざとさでは京一の足元にも及ばなかった。
それはきっと、美人のおねェちゃんを探すうちに培われたのだろう、と龍麻は思っている。
日頃の行いのせいでその脚力を全く認められていない剣道部の主将は、
倒れている人影を見て、驚いた声を上げた。
「お、おいッ、こりゃ……真神(の生徒じゃねぇかッ」
「空手部……のようだな。おい、どうした、しっかりしろ」
「う……うで……腕が……」
苦悶の呻き声をあげる生徒は、右腕を必死に押さえている。
何事かと顔を動かした醍醐の視線が急に止まった。
「むッ……緋勇、京一、見てみろ」
同じ所に注がれた三つの視線は、やがてお互いの顔へと転じる。
三人の顔には共通して困惑が浮かんでいた。
「な、なんだこりゃ」
「まるで……石だな」
「石って緋勇お前、人間の腕が石になる訳ねェだろ」
京一の言うことはもっともだった。
しかし、龍麻の目の前にある現実もまた確かなもので、自分と同じ制服を着た生徒の右腕は、
石としか形容できないものに成り果てていた。
指の先から肘の上あたりまでが、灰色一色に染まっている。
手の形も制服のしわも生々しいまでの質感を有しており、
よほど技巧に優れた彫刻家でも、ここまでのものを作り上げるのは難しいと思われた。
触れてみると、硬い感触が指を弾く。
おまけに、かなり強く掴んでみても生徒は反応を示さず、どうやら痛覚が麻痺してしまっているようだった。
ただしそれは灰色の部分の話で、生身の身体との境目の部分には相当の痛みがあるらしく、
生徒は右腕を切り離そうとするかのような動きをしていた。
「う……うぅ……」
「おい、しっかりしろッ!」
「がい……せ……んじ……」
とうとう苦痛に意識が耐えかね、生徒は気絶してしまう。
生徒が途切れ途切れに口ずさんだ言葉を頭の中で一つに繋げた醍醐は、
それが意味のある言葉だと気付いて顔をしかめた。
「鎧扇寺……だと……?」
「そんな事より、こいつを病院に連れて行く方が先だろ」
「そうだな、しかしこんな症状を診て貰える病院となると……」
こちらを見る醍醐に龍麻は頷いた。
どう見ても普通ではない彼を診てくれそうな病院に、一軒だけ心当たりがあったのだ。
そこは、京一が東京、いや、世界中で最も苦手な場所だった。
「げッ、醍醐、まさか……」
「桜ヶ丘しかないだろう」
「う……仕方ねぇな」
「よしいいか緋勇、そっちの肩を頼む」
醍醐に言われて生徒の右腕を肩に回そうとした龍麻だったが、
肘から下は右腕は完全に石となっていて出来なかった。
しばらく考えた龍麻と醍醐は、
生徒にもし意識があったら絶叫するに違いない担ぎ方でなんとか彼を桜ヶ丘中央病院まで運び、
そこでたか子から他にも同じような症状の患者が今日、
それも立て続けに運ばれてきたと聞かされたのだった。
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