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白い息が二つ、夜の街を曇らせる。
人気もほとんどない小さな公園の片隅で、それらは次々と生み出され、
冷えた冬の空気を温めようとして失敗し、散っていった。
街、と言っても街灯は少なく、二人の吐き出した息は色濃く重なり、夜空に舞い、消える。
それでも諦めず、一人では力が足りないとばかりに吸い寄せられるように近づき、
ひとつになるそれは、遠くから他者が見たら恋人達が甘い語らいをしているのでは、
と思わせるものだったが、そうではなかった。
「はぁ、はぁ……」
「はぁっ、はぁっ」
男女一人ずつの、小刻みな早いものと、もう少しゆっくりとしたもの、二つの息継ぎは、どちらも激しい。
彼らは、甘い語らいどころか、他人が見たら警察を呼ばずにはおれないだろうことをしていた。
殴り合いをしていたのだ。
良く見れば実際に殴っている訳ではなく、当たる寸前で拳を止めているのだが、
もちろんそんな違いは些細なものでしかない。
しかもどうやら男の方が優勢のようで、女は受けるのが精一杯のようだ。
月は雲に蔭り、ほとんど灯りも無い場所で女は踊るように拳を受け、躱していたが、
その小さな身体が不意にバランスを崩した。
男の拳がその隙を見逃さず、唸りをあげて華奢な身体を狙う。
腹を狙って放たれた、まさに皮一枚のところまで女の肌に肉迫した拳は、
当たる寸前、急に目標を見失った。
勢いをわずかに削いだだけで空を切った拳に、女の手が軽く添えられる。
失策を悟る間もなく、男は自らの勢いによって見事に宙を舞い、無様に尻から落ちていった。
ずしん、という鈍い音が響き渡る。
舞い上げられた埃が再び地面に落ち、辺りが静寂を取り戻してしばらくしてから、
間の抜けた声が男の口から漏れた。
「痛てて……」
女に助け起こされた後も男は尻を擦り、よほどしたたかに打ちつけたようだ。
情けない声を出す男に、女は呆れたように言った。
「受身くらいとれんだろ? 何やってんだよ、ッたく」
苦笑いして差し出された手を握った男は、勢いをつけて立ちあがる。
尻についた埃を払うと、急に寒さを感じた。
「ふぅ……ま、今日はここまでにしとくか」
「そうだな。ちょっと冷えてきたし」
その言葉に男の方は、自分の着ていた制服を脱ぎ、女にかけてやった。
「い、いいよ、お前が寒いだろ」
「んな訳ないだろ。いいから羽織っとけって」
「……ありがとよ」
汗をかいた肌にこの季節の風は確かに寒かったが、精一杯強がった男は、
向こうをむいて礼を言う女に顔には出さず、心の中だけで笑った。
「行こうぜ、雪乃」
「ああ」
肩を並べて歩き始めた二人は、龍麻と雪乃だった。
合気道の師範の腕を持っている雪乃が、練習相手として龍麻を呼び出していたのだ。
男のように、あるいは男以上に強さを求める雪乃は、
最も練習となる他流派との実戦形式での組み手を求め、
最初は断っていた龍麻も、結局彼女の勢いに押される形で付き合わされるようになっていた。
彼女といられる時間が増えるのは喜ばしいことだから、文句を言う気にはならなかったが。
歩きながら龍麻は、夜で姿が見えないのをいいことに小さく身震いした。
雪乃に上着を渡した直後から、実は高楊枝を決め込むには寒過ぎる季節だと気付いていたのだが、
格好をつけた手前、返してもらうわけにもいかない。
家まではそれほど遠くないから、なんとかそれまでは、
と思い頑張った龍麻だったが、やせ我慢を家まで保たせることは出来なかった。
「へっくし!」
抑えこもうとして変な音になったくしゃみに、龍麻は笑ってみせる。
しかし雪乃から返ってきたのは、随分と刺々しい叱咤だった。
「だから言ったじゃねぇか」
「なんでそんな怒ってんだよ」
「オレが風邪引かなくたって、お前が引いたら意味ねぇだろ」
目をしばたたかせた龍麻は、白い息を吐き出して笑った。
「そりゃそうだ」
「ふんッ。行こうぜ」
雪乃はそっぽを向き、歩き始める。
ポニーテールの揺れ方は、彼女と同じように素直ではなかった。
「寒」
ストーブとこたつを点けた龍麻は、それらが身体を暖かめるまでの間、
もっと直接的な暖まり方をすることにした。
こたつに入っている雪乃の背後に座り、お互いの温もりを移す。
かじかんでいる手足から重ねると、痺れるほど冷たかった指先が少しずつ暖まり、
快さと幸せとを龍麻は感じた。
「なんだよ、あっち行けよ」
「そんなつれないこと言うなよ」
雪乃の口が悪いのは今に始まったことではないから、龍麻はまともに取り合わない。
彼女の手を掴み、おどけて振ってみせる。
「やめろって」
しかし、それは彼女でなくても怒るだろう子供っぽい戯れで、
雪乃は当然、乱暴にではなかったものの手を払いのけた。
その拍子に、龍麻は腰に鋭い痛みを感じる。
「あ痛っ」
痛み、といっても口に出すほどでもない小さなものだったのだが、
不意に襲われたためつい呻いてしまったのだ。
すると雪乃が尋ねる。
「さっきのか?」
「ん? ああ……気にするほどじゃねぇよ」
それが嘘でないことを示そうと、龍麻はより身体を密着させて親愛の情を示したが、
返ってきたのは彼女の名のような、白く消え入りそうな声だった。
「その……悪ぃ」
「だから気にすんなって」
落ちこみ始めた雪乃の気持ちをなんとか留めようと、龍麻は気の利いた台詞を考える。
しかし、普段からあまり冗談を好まない、真っすぐな気性の彼女と接していると、
自然と影響を受けて似たような性格になってしまうのか、場を和ませるような冗談は一つも出てこなかった。
言葉を選んでいるうちに時の砂が口を塞ぎ、さらに何も言えなくなってしまう。
軽率に痛がった自分の痛覚に龍麻が腹を立てていると、雪乃がぽつりと言った。
「なぁ」
「ん」
「ひとつ……訊いていいか」
「いいよ」
龍麻は明るく応じたが、雪乃はしばらく何も言わない。
辛抱強く待った龍麻が得たのは、およそ彼女らしくない呟きだった。
「なんで……オレなんだよ」
「なんでって」
「たまに呼び出しゃ練習に付き合えとかそんなんばっかりだしよ、挙句怪我させちまうし。
お前、オレといて楽しいか?」
さっぱり意味が解らず、龍麻は返事が出来ない。
そこに生じた沈黙に後押しされたのか、雪乃は続ける。
それは、怪我を負わせたという小さな引け目から生じた、
常に仲間達と共に在り、眩しいくらいに彼らを照らす太陽である龍麻への怖れだった。
太陽は、一人占めして良いものではないのではないか。
特に、女性としては足りないところが、多分たくさんある自分などが一人占めしてしまっては。
「お前の周りにゃ一杯いんだろ。その、美里さんとか、オレなんかよりずっと」
そこまで言いかけた雪乃は、龍麻の低い声にその先を遮られてしまった。
「ずっと、なんだよ」
怒っている──雪乃は背後で龍麻がどんな顔をしているのか、怖くて振り向けなかった。
それなのに、身体を包む温かさは、凍らせていたはずの醜い心を溶かして曝け出してしまう。
「ずっと……きれいな人がいるのに」
可愛いか、可愛くないかなどと、雪乃はこれまで気にしたことがない。
あったとすればせいぜいが妹を他人に自慢する時くらいで、
自分が可愛いか、などとは考えたこともなかった。
それが変わったのは、龍麻と出会ってからだ。
否、少し違う。
龍麻が自分を選んでくれてからだ。
大きな驚き。
大きな喜び。
そして、小さな不安。
いくらかの時を過ごすにつれ、驚きは喜びに吸収されていったが、
不安もまた、同じものを糧として少しずつ大きくなっていったのだ。
口にしてはいけないことを言ってしまった後悔が、雪乃の身体を固くする。
この温かさが去ってしまったら、どうすれば──自分の愚かさに打ち震えた雪乃は、
龍麻の口から紡ぎ出されるであろう衝撃に備え、強く奥歯を噛み締めた。
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