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「どこが」
「え?」
龍麻の声は予想通り怒っていたが、あまりに短すぎたために、
防壁を築き上げていた雪乃の心には届かなかった。
わずかに緊張を緩めると、抑揚の抑えられた声が聞こえてくる。
「どこが負けてると思ってるのか、全部言ってみろ」
「な……」
「そうしなきゃ納得しないだろ、お前」
「……だから、か、顔……」
自分が言い出したこととはいえ、あまりに残酷な命令に、
ほとんど泣きそうな声で雪乃が言うと、龍麻の手が頬に触れてきた。
その冷たく突き放すような口調とは裏腹の、優しい手付き。
頬や顎の形を確かめるように撫でられて、どうしたら良いか解らず、
目を閉じて逃げ出した雪乃に囁きかけた声は、指先と同じ、優しいものに変わっていた。
「最初にお前と会ったの……小蒔と雛乃さんの練習試合の時だったっけ、
いきなり凄い剣幕で怒られてさ、びっくりしたんだけどそれで逆に印象が強くて。
凛々しいっていうんだっけ、こういうの。でもその時から嫌いじゃなかったな。はい次」
優しい声に一度は安心した雪乃は、今度は腹が立った。
本当に、眠れなくなることもあるくらい不安に思っていたところを、
ひどく簡単に説明してしまい、更に全部言わせるつもりらしい龍麻に。
「次……って……ゆ、指とかマメ出来ちまってるし」
「ん……本当だ」
右手を取った龍麻は、両手で掌やら指の付け根やら爪やらを撫で回す。
くすぐったくて、少しだけ気持ち良い指先。
それは雪乃の、醜い不安に汚染されてしまっている心を清めるくすぐったさだった。
流されかけて、危うく気付いた雪乃は声を尖らせる。
「ばッ、そんなことしなくたって、ちょっと触りゃわかる……だろ」
「あ、そっか」
「お前、からかってんだろ」
雪乃の言葉は本心ではない。
冗談めかしてはいても、龍麻が本気で言っていることくらいは、いくら鈍くても解る。
しかしそうでもして突っぱねなければ、すぐにでも龍麻の胸に飛び込んで泣いてしまいそうだった。
そうすれば良い、と解っていても出来ない。
だから自分は可愛くないのだ、と短い時間でまた自己嫌悪に陥りかけた雪乃に、
龍麻の指が絡みついてくる。
隙間に滑りこみ、ぴったりと合わさる温もり。
「からかってなんかねぇよ。……俺さ、お前のこといいって思ったの、
薙刀振ってるお前見た時なんだけど、知ってた?」
「しッ、知らねぇよそんなの」
「女だてらにとかそういうんじゃなくてさ、純粋に格好いいなって」
そんなことを言われても、どう返したら良いのか雪乃には解らない。
それどころか怒っているべきか照れた方がいいのか、自分の態度すら決めかねる有様だった。
絡めあった手を、龍麻のもう片方の手が包む。
逃げ場を失った雪乃は、諦めて力を抜いた。
支えてくれる龍麻に甘え、また自分の劣等感を吐き出す。
「言葉遣いだって……悪いしよ」
「ああ」
初めて龍麻は同意したようだった。
他の部分に較べれば、変えようと思えば変えられる部分だから、
ショックは小さいものの、自分を否定されたことに違いはない。
自分から言ったことではあっても、雪乃は傷つかずにはいられなかった。
「てめぇ、とかは止めた方がいいかもな」
「え?」
「気付いてないのか? 江戸っ子みたいだけどよ、あれだけは品が良くないかな、確かに」
疑問の意味を勘違いされてしまったようで、雪乃は説明しなければならない。
まだ龍麻の中にある手に、自然と力が篭った。
「いや……そうじゃなくって」
「なんだよ」
「オレ……とか」
「ん? そんなの全然気にならないけど?」
嬉しい──けど、腹も立つ。
複雑な心境を雪乃がもてあましていると、肩に重みと、息遣いを感じた。
ずっと近くから聞こえる声に、どぎまぎする。
「お前の気に入らないのは、そんだけか」
「あ……あぁ……そんだけだよ」
本当はまだいくつもあるのだけれど、言うのは止めた。
何を言っても許してくれる龍麻が、嫌いになってしまいそうだったから。
包んでいた龍麻の手が離れる。
急に寒さを感じた手の甲に、雪乃は体温そのものが下がったような気がした。
「んじゃ、次は俺の気に入ってるトコだな。まずはここ……あ、ちょっと冷えてるな」
「そ、そんなトコ触ん……な……って」
唇に、触れられた。
酷すぎる、不意打ち。
しかし龍麻は気にした様子もないようで、身動きできないのを良いことに、
次々と身体のあちこちに触れてきた。
「それから、ここも」
項にも。
腕にも。
膝にも。
触れられるところ全てに触れられて、雪乃は泣きそうになっていた。
どうしてかは、自分でもわからない。
ただ、嬉しいのではなく、嫌なのでもないのだろう、とは思った。
目の端に溜まる熱いものがこぼれ出してしまわないように、
雪乃が意識をそちらに向けていると、止まっていた龍麻の手が大きく動いた。
「あとは──ここも」
手は、道着の上から胸に触れていた。
唇を触られた時以上の驚きが雪乃を襲う。
急な──急じゃない、つき合うってことはこういうことをするってことだ、
判っていたはず、でも急だ──
混乱をよそに、掌は、胸の形を確かめるように、ゆっくりと握ってくる。
心臓を掴み出される気がして、雪乃は息を呑んだが、
手は全然大きくはない膨らみの、形が浮き上がる寸前で止まった。
「……嫌か?」
龍麻が、嫌いになった。
こんなことを聞く男は、最低だと思った。
しかし、その気持ちとは全く関係なく、鼓動が、身体全体を震わせ始める。
まだ絡め取られていた手を振り払った雪乃は、膝のところで両手を組み合わせ、
体操座りの格好をすると、そこに額を押し付けた。
「すッ……好きにすりゃいいだろ」
ひりひりする喉から無理やり出した声は、ひどく掠れていた。
「お前が嫌なことはしたくない」
「……」
「お前に、嫌われたくない」
龍麻の身体は震えていた。
それはさっきの自分と同じ、自分のすることに──自分に対して持てない自信から来る震えだった。
そうと気付いた時、雪乃は緊張も忘れ、自分の胸に添えられている龍麻の手を上から掴んだ。
大きな手は驚いたように離れようとするが、それを抑えつける。
「お前だって」
声が安定しない。
落ち着きを取り戻そうと、雪乃は龍麻の手を強く握り締めた。
「お前だって自分のこと、解ってねぇじゃねぇか」
息を吸い、次に言おうとすることを思い浮かべると、耳がどんどん熱くなっていく。
大きな掌に指を食い込ませながら、雪乃はひといきに言った。
「……オ、オレは……お前のすることなら、なんだって……嫌いになんかならねぇよ」
「そっか」
龍麻が笑ったような気がした。
緩んだ空気に乗って、龍麻の顔が更に近づいてくる。
沸騰するくらい熱い耳たぶに、薄く息がかかった。
「ん……っ」
くすぐったさに頭を振ると、すっと後ろを向かされる。
ぶつかるように近づいてきた龍麻の顔は、触れる寸前で急停止した。
キスを、される──
そう、頭の中で一文字ずつ発音している最中に、唇が塞がれた。
少し硬く、それなのに柔らかさを感じる、不思議な感覚。
キス、してる──
もちろんそれは、彼女にとって初めてのことだったが、
雪乃が取り乱さなかったのは、心構えが出来ていたからではなく、その全く逆の理由からだった。
頭の中を、忙しく血が巡る。
首から上がどんどん熱くなっていき、頭がぼうっとしていく。
何年か前に一度あった、ひどい高熱を発した時のように、
感覚がなくなってしまう気がした雪乃は、龍麻の胸をそっと掴んだ。
力の入らない手で懸命に服を握ると、彼の鼓動が伝わってきて、
かえって自分がなくなってしまった。
そのうち熱さも寒さも感じなくなって、鼓動も小さくなっていく。
いよいよわからなくなった雪乃は、考えるのをやめた。
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