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瞼に、光が当たる。
雪乃が目を開けると、ちょうど龍麻の顔が離れていくところだった。
ひどくはっきりと映った動きは、雪乃の五感を目覚めさせる。
頬に、耳朶に、唇に、熱を感じる。
龍麻が離れても、その熱は下がらない。
それどころかますます火照りは昂ぶり、
雪乃は龍麻の肩に額を押し付け、顔を隠さなければならなかった。
「ど……どうかしたのか」
「なんでもねぇよ、バカ」
恥ずかしさが語勢を強め、雪乃の台詞は怒っているようにしか聞こえなかった。
その勢いに一度は黙った龍麻も、雪乃が怒った理由を聞きたくて再び口を開く。
「なぁ」
「う、うるせェよ、初めてだったんだ、少し……待てよ」
何を待たせるのか、言っている本人にも解らないが、
とにかく雪乃はそれだけ言って口を閉ざした。
龍麻が困り果てながらも、おとなしく待ってくれるのが、息遣いで伝わる。
しかしそうすると、今度は顔を上げなければならず、
雪乃はそのきっかけが掴めなくて途方に暮れた。
どれくらい過ぎたのか、龍麻の心臓の音が、ゆっくりになっていく。
ゆっくりになったということは、それまでは速かったということで、
それに気付いた雪乃は思わず顔を上げていた。
目が合った龍麻は、音が聞こえてきそうな勢いで首をねじる。
その不自然さは、恥ずかしさに侵略されていた雪乃の心に反撃のきっかけを与えた。
「なんで逸らすんだよ」
「なんでって、お前が……ずっと……見られてるの、嫌そう……だったから」
こわごわと答えた龍麻の声が、何故か雪乃の怒りの琴線に触れた。
「お前はそんなことでオレが嫌がると思ってんのか」
「そうじゃないけど」
「じゃなんだよ」
雪乃の聞いている内容はめちゃくちゃなのだが、
何しろ勢いが噛みつかんばかりなので、龍麻も逆らえない。
「……悪かったよ」
ぶっきらぼうに謝ってから、龍麻は横を向けていた顔を戻した。
すると当然、雪乃は正面から見られることになる。
「なッ、なんでこっち見ンだよッ」
雪乃が新たな不条理を形にすると、龍麻は軽く唇を噛んだ。
それを見た雪乃の顔から、一瞬で血の気が引く。
全身の毛穴から何か嫌なものが出るのを感じ、雪乃は龍麻から離れようとした。
彼の胸に置いた手をてこにして、勢いをつけようとする。
しかし、それよりも早く龍麻の腕が退路を断った。
しかもより強く自分を引き寄せ、押しつぶそうとしてくる。
「なッ、何……」
「好きだからだよ」
「──!!」
「他のやつなんて、どうでもいい。お前を、見てたいんだ」
結局離せず、ただ押しつけただけの手に、物凄い速さの鼓動が伝わってきた。
だから、雪乃は頷いた。

「なッ、なぁ、電気……消してくれよ」
どこから出ているのかというくらい小さな自分の声が、床に落ちて消える。
聞こえたのかどうか怪しかったが、龍麻が身動きする気配と共に、部屋は真っ暗になった。
なんだかわからないままよろよろと立ちあがった雪乃は、暗闇の中で袴の結びを解く。
道着を、こんな風に脱ぐ時が来るなんて思いもしなかった。
物心ついた頃から数え切れないほど解き、もう息をするのと同じ位自然に、
無意識に解ける結び目が、何故か解けない。
焦り、必死に結び目と闘っていると、衣擦れの音が聞こえた。
龍麻が脱いでいる。
当たり前の事実にパニックに陥った雪乃の手から、袴がすとんと落ちた。
大きな音が部屋に響き、パニックが加速する。
素足に感じる寒さに自分の格好を意識させられた雪乃は、
とても上を脱ぐことなど出来ず、衿のところをかき寄せて立ちつくした。
「あのさ……もう、いいか」
「も、もうちょっと待ってッ」
らしくない言葉遣いに龍麻は不思議がったようだったが、そんなことを気にする余裕もなかった。
半ばやけになって、下着を脱ぎ去る。
ここで雪乃は、また同じ過ちを犯してしまったのに気付いた。
待ってと言った以上、準備が出来たと呼ばなければならないのだ。
それはこれまでの人生の中で最も難しい問題であり、
これに較べれば英語の勉強など屁みたいなものだ。
何も出来ないまま雪乃は、何もしていないのに息苦しくなって、
しかもあまり大きく呼吸をしてしまうと息遣いが聞こえてしまうものだから我慢していた為に、
意識が朦朧とし始めてしまった。
へたりこんでしまいそうになる身体に、難問の答えが差し伸べられる。
「わッ」
いきなり触られて、雪乃は思わず叫んでしまった。
「ど……どうしたんだよ」
驚いている龍麻の声はひどく不安定だ。
龍麻も不安なのだと解ったが、こういう時はどっしりと構えるか、
リードして欲しいと勝手なことを思った。
「いっ、いきなり……あッ」
同じく、ひどく不安定な、まるで誰か別の人間が言っているような声。
本当に自分が喋っているのかもわからないまま、
雪乃はとにかく何かを言おうとすると、抱きすくめられる。
暖房が効いてきたとはいえ、冬のさなかに裸でいるのは、寒くてたまらないはずだったが、
龍麻が触れている部分、つまり身体のほとんどは熱さを感じるほどだった。
「暖かいな、お前の身体」
ぼうっとしてきた頭の中で、雪乃はそんな訳がないと思っていた。
龍麻の身体の方が熱いのに、自分の身体は冷えているのに。
「お、お前の身体も……暖かい……ぜ」
「うん」
優しい声を聞いた瞬間、身体から力が抜けてしまった。
龍麻が支えてくれたが、膝からへたり込んでしまう。
「お、おい、大丈夫か」
雪乃は答えなかった。
龍麻から離れると、たちまち身体が冷え始めたからだ。
だから雪乃は、龍麻の首に回した腕を、力一杯引き寄せた。
「……」
素肌の硬さ、微かな匂い。
一度に多すぎる感覚を受信して、頭の中の何かが焼き切れてしまう。
それでもその過負荷を手放したくなくて、雪乃はより強く龍麻にしがみついた。
そこに、新たな一滴が加わる。
軽く、甘く、そして、幸福なキス。
何度かに分けられて贈られた小さな情感は、胸の中で抑えきれないほど膨らむ。
寄り添ったまま、雪乃はほんの少しだけ体重を預けた。
しっかりと支えてくれる龍麻の身体は、とても大きかった。

龍麻が微かに動く。
どれくらいの間、こうしていたのだろう。
至福の終わりを感じた雪乃が、離れてしまったら自分は立っていられるのだろうか、
とやけに冷静に考えていると、唇にぬめった何かが触れた。
「……ッ!!」
驚き、顔を離そうとするが、龍麻の腕は万力のように締め上げ、身動きがとれない。
それは普段なら痛くてたまらないだろう強さだったが、雪乃は痛みを全く感じていなかった。
唇が、全ての感覚を奪い取ってしまっていたからだ。
重ねたままの唇。
強く押しつけられたそこに、強烈な感覚が伝わってきた。
何かが触れ、蠢く感触。
一瞬だけ唇を掠めたそれは、またやって来る。
今度は、もう少しだけ長く。
その正体に嫌でも気付かされた雪乃の思考は、真っ白に、次いで真っ赤に染まっていった。
そういうキスがあることを、知らなかった訳ではない。
ただキスそのものはともかく、そんなことをして何が楽しいのか、
そして映画か何かで見た時に感じた気持ち悪さに、自分は絶対にしないだろうと決めつけていたのだ。
それを今、龍麻が求めてきている。
その驚きと、初めて受けた刺激のあまりの強さに、雪乃は人形のように固まっていた。
龍麻は抵抗しないのを良いことに、ずっと唇をくすぐってくる。
硬く閉じ合わせた唇の隙間に舌をこじ入れようとしているのが、怖いくらいに判った。
未知の感覚に対する嫌悪から、始めは拒んでいた雪乃だったが、
少しずつ、龍麻の舌先がもたらす生ぬるい感触がそれを塗り替えていく。
緩んできた顎の力をもう一度強めようか迷っていると、それは急にするりと入ってきた。
「……!!」
耳朶が沸騰する。
口腔を割った龍麻の舌が自分の舌を探り当てた時、雪乃は龍麻を突き飛ばしそうになった。
それほどの異物感だったのだ。
どうしたら良いか全く判らず、舌を縮めて嵐が通り過ぎるのを待つ。
しかし入りこんできた龍麻は、口の中を恐ろしいほどの強引さでまさぐってきて、
遂に舌を探り当てられてしまった。
「……っ!!」
生々しい感触に、身体中が粟立つ。
それはつい今しがたまで浸っていた甘い温もりなど、
遥か遠くに吹き飛ばしてしまうほどの気持ち悪さだった。
こちらの意思も構わずなぶってくる龍麻に、雪乃は初めて牡を感じ、恐怖する。
たとえ武術の腕で自分の方が勝っていたとしても、龍麻がどれほど優しかったとしても、
牡は牡であり、本質的には牝を組み敷く存在なのだと悟らされていた。
もう抱きしめる腕の強さに怖さしか抱けない雪乃は、抗うことも忘れ、
ただこの悪夢のような時が早く終わってくれるよう願うしかなかった。



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