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ひとつの部屋に、男と女がひとりずつ。
二人の距離は一メートルほどで、ゼロではなかった。
……そして今のところ、その距離を縮めようという努力は、二人ともしてはいなかった。
「寒いわね」
こたつに顎を乗せ、葵は事実を認めるのも煩わしい、とばかりに呟いた。
「寒いな」
こたつに下半身を突っこみ、仰向けで見るともなく雑誌をめくりながら、
龍麻はまったく気のない返事を返した。
それきり、部屋には沈黙が訪れる。
素敵な恋人同士なら、沈黙はむしろ距離を縮める好機と捉え、
寒い冬の夜を暖めるべくもう少し静謐を願うかもしれない。
けれども緋勇龍麻と美里葵は、少なくとも肉眼で捉えられる範囲では、
一ミリたりとも相手との距離を縮めようとはしなかった。
「ねえ」
「なんだ」
寝転がったまま顔を上げようともしない龍麻を、葵は目を細めて見やった。
まだつきあい始めて半年も経っていないのに、もうこんな態度を取るようになっている。
だから男というのは信用ならないのだ。
龍麻以外に男を知らない癖に、全世界の男を見下したため息を、葵はこたつの天板に向かって吐いた。
真神の男子生徒ならその吐息だけで服従を誓約してしまうようなため息は、
贅沢にも誰に聞かれることもなく消えていく。
以前の――まだ十八歳になる前の龍麻なら、教室の端と端くらい離れていても、
こんなため息を聞こうものなら飛んできてどこか悪いのかと心配した。
わずらわしいと思うときも確かにあったが、失くしてみれば、
それがどれほど貴重だったか気づかされる葵だった。
長い睫毛を物憂げに伏せたまま、それでも葵は、龍麻が往古の輝きを取り戻してくれはしないかと、
一縷の望みを託して呟いた。
「私、あんまんが食べたいのだけれど」
「俺肉まんな」
「私はあんまん」
「俺は肉まん」
永久に繰りかえされそうな問答を、葵は打ちきる。
龍麻から重ねての催促はなく、忌々しい沈黙がどんよりとこたつの周辺にたゆたった。
寒い、寒い冬の夜に彼女をひとり出歩かせて平然とする男が、一体どこの世にいるだろうか。
歩けば三分もかからないというのに、なんという怠け者だろう。
葵はすっきりと筋の通った鼻を、わずかに膨らませて憤慨した。
龍麻はこっちを見ていなかったし、顎を乗せたままでは息がしにくかったので。
こたつの中で手をさすり、葵は考えた。
別れるべきだろうか――
自分の器量なら、もう少し、そう、そんな高望みをしているわけではないのだ、
もう少しましな男を恋人として選ぶこともできるだろう。
三年になる前はほとんど毎日下駄箱にラブレターが入っていたし、
三年になってからも両手では足りない程度にはもらっている。
なぜ、その中からよりにもよってこんな、
冬の夜に恋人のためにあんまんすら買いに行けない男を選んでしまったのだろうか。
形の良い、真神のほとんど全ての男子生徒が、触れられるのなら魂を悪魔に売り渡すことも厭わない唇を噛み、
葵は過去の自分を恨みがましく罵った。
黄龍の器だの菩薩眼だの宿命だの宿星だの、今では信じるのも愚かしいたわごとの数々。
男は――生涯を託すに足る伴侶は、ちゃんと自分の目で、心で、全身全霊をあげて探さなければならない。
たまたま転校して隣の席になったとか、命を何度か助けてもらったくらいで
安直に選ぶなどということはしてはいけないのだ。
恋人は服とは違い、気に入らないからといってタンスの奥にしまうわけにはいかないのだから。
それとも――もしかしたら、本当は龍麻が自分にふさわしい器量の相手で――
よぎった考えを葵は、電光石火の早さで打ち消した。
そんなことがあってはならない。
顔だの知性だの運動能力だのはおいても、この、恋人に目もくれず雑誌を読みふけり、
寒空の下コンビニに行かせようとするという悪逆非道な性向だけは、絶対に自分とは釣りあわないものだ。
恋人がお腹を空かせていたら死の危険も顧みず食物を調達しに旅立ち、
飢える前にきちんと帰ってきて、もちろん見返りなど求めない。
それが理想のパートナーというもので、そうすれば伴侶として愛をもって応え、
二人は末永く幸せに暮らせるというのに。
こたつの中で図々しくも大の字に広げている足を蹴っ飛ばしたいと思いつつ、葵は人の夢から覚めた。
夢でお腹は膨れないどころか、頭を使う分だけ空くわけで、
そろそろ本腰を入れて事態の改善を図る必要があった。
立ちあがることは絶対にできない。
たとえトイレのためであったとしても、立った瞬間に龍麻は勝利宣言を投げつけ、
いかなる言い訳も一切聞かずにただ自分の主張だけを通そうとするだろう。
緋勇龍麻とはそういう男なのだ。
それが解っているだけに、葵は動けなかった。
ならばいっそ自分も龍麻のように寝転がって、何か読むか――
その選択も、数秒で葵は放棄した。
まだ結婚を決めたわけでもない男の前で寝転がるなど品性が許さなかったし、
そもそも龍麻の家には読みたくなるような本がない。
こたつの上にはみかんすらなく、用意しておかない家主に心の中で毒舌を吐き、
葵は考えをまとめるために目を閉じる。
その途端、閃くものがあった。
出るわけにはいかない。だったら、出せばいいのだ。
とんちのような簡単な答えに、葵は吹きだしそうになってしまった。
もちろん敵地の最前線で吹きだすようなまねをするほどうかつではない葵は、
頬を膨らませたまでで被害を食い止め、浮かんだ作戦の検討に入る。
素早い計算の末、八割以上の勝算を確信した葵は、勢いきって作戦の実行に移った。
全ては、あんまんのため――
ほかほかの、火傷しそうな熱さの中華まんを想像しつつ、葵は先制の右足を伸ばした。
「!?」
股間に衝撃が訪れる。
予想外の先制攻撃に龍麻が声をあげずに済んだのは、方法は予想外でも攻撃は予想していたからだった。
近頃の葵の増長は、目に余るものがあった。
つきあい始めた当初は万事に良く気がつき、しかも先回りはせず、半歩後ろでそっと支えてくれる、
まさに理想の女だったのに、気がつけば、さりげなく、そして巧みに面倒ごとを押しつけてくるようになった。
そして行き着いた果てが、自分の欲望のために恋人を寒空の下買い物に行かせて自分は
こたつの中でのうのうと待っていようという、まさに鬼女と呼ぶべき姿だった。
このままではいずれ、財布まで握られることになる。
今だってそうなりつつあるのに、これ以上は青春を謳歌するためにも死守しなければならない。
今が正に戦いの時だと、龍麻は決心していたのだった。
だから、葵が静かになったが、このままあんまんを諦めたわけではない、
必ず何らかの攻撃に出てくるはずだという心の備えを怠らなかったことが効を奏し、
龍麻は急所への直接攻撃という大胆な不意打ちを見事躱したのだった。
ただ、もちろん躱しただけで、不利に変わりはない。
葵は守備力は銀の甲冑を着たくらいあるくせに、攻撃力も無銘の剣くらいは持っていて、
油断をすると簡単に切り捨てられてしまうのだ。
手にした雑誌で顔を隠しつつ、龍麻は戦況の分析を始めた。
葵の狙いは股間、これは間違いなかった。
いつのまに足を伸ばしたのか、蛇のようなしたたかさで音もなくこたつの中を進み、
他の何に触れることなく獲物を的確に掴んだ手腕。
そして獲物を捕らえるや否や、その息の根を止めようと襲いかかる獰猛さは、敵ながら賞賛に値するものだった。
葵は布団に隠れて見えないのを良いことに、聖女というヴェールを脱ぎ捨て、
足を自在に動かして股間を責めてくる。
特に踵と指先を同時に使って、痛気持ちいい刺激を送りこむテクニックは尋常ではなく、
龍麻は勃起どころか早くもほとんど昇天しかけていた。
しかし、このままでは寸止めされた挙句――葵の真の目的は、言うまでもなくあんまんなのだから――
二個に増えるであろうあんまんの代金も龍麻持ち、
さらにお茶まで買わせられるという全面的な降伏を余儀なくされかねない。
股間を膨らませたままコンビニに行かされ、戻ってきても夢の続きなど見させてもらえるわけがなく、
悶々としてながながし夜をひとりかも寝むなど、絶対に阻止しなければならない。
男性器を間断なく苛む極上に近い快感に耐えつつ、龍麻は大急ぎで反攻作戦の計画を練った。
されていることを、そのまま葵にもするわけにはいかない。
後手に回ったその責めは、葵にあざ笑われるだけでなく、今からでは間に合わないだろう。
何しろこっちは射精への過程をすでに半分以上導かれているのだ。
加えて葵はこういうちょっと変態的なことをするのは好きなくせにされるのは異常に嫌がるので、
うっかり足をスカートの中に突っこんだら聖戦を発動されるかもしれない。
そうなったが最後、被害はあんまんどころかこの家自体に及びかねない。
この歳でホームレスになる気はない龍麻は、怒らせず、
されど黙らせるという難題をなんとかして解決しなければならなかった。
となると、残された手段はひとつしかない。
ぐりぐりと、好みを知り尽くした愛撫に意識を奪われかけながらも、
龍麻は機を測り、一気に反撃に出た。
葵の、快感を送りこんでいるのとは反対の足を掴んで引っこめられなくし、
すかさずもう一方の手で、葵の指先を愛撫し始める。
昂ぶり、逸る心を抑え、皮膚が触れるか触れないかの繊細なタッチで、親指からじっくり責めた。
葵が足先に弱いのはリサーチ済みで、ここを突くことで逆転も可能だろう。
葵の、形良い足を細部まで思い浮かべながら、龍麻は栄光を勝ち取るための戦いを始めた。
反撃を開始した龍麻だが、葵の責めは止まない。
葵は反撃に遭っても、驚きも動揺も一切外には出さなかった。
さすがに聖女と呼ばれるだけのことはある、と龍麻は感心せずにいられない。
しかしそれも、いつまで保つのか――龍麻は、あえて親指だけを使って、
ねちっこく、蛭も逃げ出すようないやらしさで指の間や爪の根元など、ありとあらゆる部分を撫でていく。
葵は特に指の付け根の裏側が弱いので、そこは特に念入りに、
軽く爪先で引っ掻くサービスも入れて、葵の官能を揺さぶっていった。
開幕は不利だったが、まだ充分に劣勢の挽回は可能だ。
龍麻はこころもちこたつの中に身体を潜らせ、葵と正面からの勝負を挑んだ。
「……っ……」
龍麻が反撃してきたのは、葵にとって全く予想外だった。
もとから短期決戦で決めるつもりでいたし、龍麻は責められればすぐに堕ちるし、
特に最近はこんな風な、少しSMっぽい責めに弱い傾向を掴んでいたので、必勝を期しての攻撃だったのだ。
それが龍麻は愛撫を耐えきり、あまつさえ反撃に出ている。
龍麻のくせに生意気にもほどがあった。
「……っ、う……」
どこで知ったのか、龍麻は弱い親指を重点的に愛撫している。
机に突っ伏すふりをして顔は隠しているし、声はまだ聞かれる大きさではないはずだったが、
何より再反撃の手段がないことが、葵に形勢の不利を自覚させざるを得なかった。
足の形をなぞる無骨な指に、溺れそうになる。
自分の足も龍麻の手も、こたつに覆われて見えなかったが、
葵は確かに龍麻のあふれんばかりの愛情を感じていた。
その愛情を正面きってぶつけてくれていたら、多分とろけるほどのキスを、
一糸まとわぬ姿で狂おしく抱きあったまま、一晩中でも交わしていられただろう。
けれども歯車は噛みあわず、掛け違えたボタンは戻せない。
勝利を勝ち取るために、一切の妥協も許されなかった。
お互いに獰猛に責めながら、未だ決定的な一撃は繰りだしていない。
龍麻も葵も百戦錬磨で、戦いの目的が敵の殲滅ではなく、降伏にあることを熟知していた。
勝たねばならない、されどやり過ぎてはいけない。
絶頂させてしまったら相手はコンビニに行く体力を失うばかりでなく、
下手をすればそのままぐったりして、自分で寒空の下に出なければならなくなるかもしれない。
そんな羽目に陥らないためには、絶頂の寸前で愛撫を止めるという難しい技量が要求されるが、
二人ともその点には自信があった。
一気に相手を追いつめ、お願いですからイカせてくださいと土下座させるその時は着実に近づいている。
その瞬間得られる勝利の栄光に思いを馳せながら、葵は足を、龍麻は手を動かし続けた。
端から見ればこれほどくだらない戦いもなかっただろうが、少なくとも二人は真剣だったし、
それに――戦いはあくまでも布団の中だったので、端から見られる心配もなかった。
だから心おきなく二人とも、決着がつくまで争うことができたのだった。
足に伝わる勃起の脈動が、早くなっている。
ジャージなどという生地の薄い服を着ていたのが敗因なのよとほくそ笑みながら、
葵はピアノのペダルを踏むように足を操り続けた。
親指と人差し指の間に肉茎を挟み、擦りあげる。
さらに亀頭だけを集中的に狙ったり、足全体を使って扱いたり、
こうすれば龍麻が感じるだろうという動きを、足でするとは思えないほど葵は的確にこなし、
かつてないほど硬くなっている男根を、すっかり手玉にとっていた。
足の裏で龍麻の興奮をつぶさに感じとり、弄ぶのは思ったよりも愉しく、
葵はもっと龍麻をいじめてやろうと、右足に意識を集中させる。
そこに、一瞬の隙が生じた。
ふと葵は、龍麻の、踵を掴んでいる左手の動きが変わったことに気づいた。
落ちてくるものを受けるように、掌を上にしてすぼめられていたのが、
くるぶしから上、足首の辺りを探るような動きになっている。
龍麻は靴下を脱がそうとしていた。
龍麻の意図に気づいた瞬間、葵は慌てて唇を噛んだ。
赤ん坊の靴下を脱がせるときのような、ぎりぎりの弱い力で優しく、くるくると剥いていく。
うやうやしささえ感じるほどの手つきに、背中が身震いして、全身を強ばらせてしまった。
足の指先にも力をこめてしまい、きっと龍麻は気づいたことだろう。
もう立場は逆転し、しかも劣勢を覆す余力はない。
それでも葵は、左の足先の感覚を追うのをやめられなかった。
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