<<話選択へ
妖 刀 2へ>>
大きなため息と共に、龍麻はノートを閉じた。
ようやく一日の授業が全て終わり、そうせずにはいられなかったのだ。
授業内容にまるきりついていけないと言う訳ではないが、もちろん楽に頭に入ることもない。
今年は特に受験という、これまでの勉強の集大成ともいえる試験が待っており、辛い一年となりそうだった。
そんな龍麻のところに、よほど疲れたのか、首筋を揉みながら醍醐がやってくる。
あの練習試合──醍醐はそう言っている──から一週間が過ぎていた。
その間、この巨漢は京一と同じか、あるいはそれ以上の頻度で龍麻と話す機会を作ろうとしている。
初めこそ彼に良い印象を抱かなかった龍麻も、話してみれば、
いささか堅物なところはあるものの、基本的には好人物であるようで、
二言目には話を脱線させる京一に較べれば、むしろ話相手としては相応しいほどだった。
「ふう……どうだ緋勇、もう学校には慣れたか」
「そうだな。欲しいパンは買えるようになった」
「はははッ。そりゃお前らしいな」
闊達に笑った醍醐は腕を組み、やや考え深げな表情を見せる。
「実はな……この間の件もあるし、少し心配だったのさ。
美里もあれから変わった様子は見られないし、京一と桜井もいつも通りだしな」
醍醐の声が改まるのを、龍麻は聴覚以外の部分で敏感に感じ取っていた。
結局あれから、龍麻達は旧校舎で起こった出来事について話し合うことはなかった。
怖かったのだ。
あの日、葵が見せた『力』。
あれがもし、あの光が原因になっているのだとしたら、自分達にも同種の力が宿ったことになる。
超能力があったら、などと言う夢想は、誰しも一度はしたことがあるものだが、
いざ自分の身に降りかかってみれば、気持ち悪いだけだった。
そしてもしも、話し合うことで更に他の四人との差異に気付いてしまったとしたら、
自分だけ孤立してしまうのではないか。
その恐怖が、彼らの口を重く閉ざさせていたのだ。
もっとも龍麻だけはあの光を浴びてはおらず、
もしかしたら、四人は龍麻のいない所で相談しているのかも知れないが、
醍醐の話ぶりからしてもその可能性は薄かった。
それが今になって話題に出してきたということは、何か変化があったのだろうか。
机につっぷしていた龍麻は、遥か頭上にある友人の表情を慎重に測りながら口を開いた。
「……なんかあったのか?」
「いや、うむ……」
言葉を濁したのが、何かあったことを雄弁に告げていた。
しかし醍醐はらしくなく、この期に及んで言い淀む。
龍麻は本人が話したくない物を無理に聞きだそうという悪い趣味など持ち合わせていなかったが、
とっかかりが無くては話が進まない。
ところが、重ねて訊ねようとする龍麻よりも先に、底抜けに明るい声が割りこんできた。
「よッ、ご両人。ちょいと相談があるんだけどよ」
「噂をすれば……だな」
醍醐は苦笑いを浮かべてはいるが、明らかに話題が変わることを歓迎していた。
龍麻としてもやや中途半端な気持ちだったから、結果、二人は顔を見合わせて苦笑するしか無かった。
「なんだお前ら、男同士で気持ち悪い」
それを見た京一は面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
もちろんこの男もあの時、あの場所に居て光を浴びた
──どちらかというと、身体の内側から発光していたようにも思える──
のだが、醍醐と違い、全く気にさえしていないようだった。
器が大きいのか、それとも単に無頓着なだけなのか、龍麻には未だ解らないが、
とにかく、表情からしても深刻なものでないのは間違いない相談とやらを聞いてみる。
「相談ってなんだよ」
「やめとけ緋勇、こいつがこんな顔をしている時は、大抵ロクでもないことを思いついた時だぞ」
「ヘッ、言ってくれるじゃねェか。俺はただ、そろそろ花見の季節じゃねェか、と」
「……それで」
「舞い散る花びらを見上げながら、緋勇と友情について熱く語り合いをだな」
醍醐だけでなく、龍麻にまでうさんくさそうな表情をされて、たちまち京一はボロを出した。
「……いや、さぞかし酒が美味いだろうなァ……と」
「京一、お前な……」
「おっと、説教なら聞きたくねェぜ。真神の総番殿」
「お前が柔らか過ぎるんだッ!」
京一を一喝した醍醐は、両腕を組んで深いため息をついた。
「酒は肉体だけでなく、精神まで鈍らせる。お前も武道家の端くれなら解るだろうが。なあ緋勇」
「あ……そ、そうだな」
実は龍麻は今に先立つ半年間、武術の修練を行った時に、
一通りのアルコールは経験してしまっていた。
もちろん積極的にではないにせよ、一日と間を置かずの誘いを断ったこともなく、
二日酔いらしきものまで経験しているのだから、京一などよりずっと始末が悪かった。
男子たるもの酒のひとつも呑めんでどうする──とは彼に武術を教えてくれた師匠と、
その門下生達の決め台詞だったが、とにかく、半年間、
とても嗜むなどとは言えない量のアルコールを摂取し続けた結果、
背の高い酒樽が一個出来あがっていた、という訳だった。
「ふふん。生憎、俺の腕は酒で鈍るほど半可じゃないんでね」
「そういうのを屁理屈というんだ。大体俺達は高校生だ。社会的、道徳的にだな」
「説教なら聞かねェって言ったろ。社会や道徳で宴会が出来りゃ世話ねぇよ。なあ緋勇」
どうにも風向きが悪いと感じた龍麻は、あらぬ方を向いて返事を避ける。
しかし、その不自然過ぎる挙動は、かえって京一に勘を働かさせる結果となってしまった。
「…………」
「さては緋勇、お前呑けるクチだな? それも結構」
「さ、さぁな」
「……緋勇、お前と言う奴は……とにかく、駄目なものは駄目だ」
どこかの学級委員長のような生真面目さを発揮した醍醐が声を荒げる。
まさかこの図体で一滴も呑んだことが無いなんてことは無いだろうに──
龍麻はやや偏見めいた感想を含んだ眼差しでそれに応えた。
京一はと言えばさっそく反発して、子供じみた顔のそむけ方をしている。
「けッ、いいぜ、緋勇、花見は俺達だけで行こうぜ。
何、おねェちゃんの一人や二人くらい、その場でなんとかなんだろ」
龍麻は酒を呑むのは構わないが、男二人で花見などする気は無かった。
と言ってナンパなどする気はもっとなく、さてどうやって断ろうかと頭を巡らせる。
すると、横合いからすっかり聞き慣れた声が威勢良く飛びこんできた。
「──ッたく、もう見てらんないよ」
「──ん?」
「子供なんだから、京一は。欲望の赴くままじゃないか」
「うふふ」
小蒔と葵が現れ、収まるべきものが収まった、というように輪が出来る。
龍麻から時計回りに京一、醍醐、小蒔、そして葵。
まだ誰も気付いていなかったが、彼らが集まる時は必ずこの順番で立っていた。
「なんだ、二人ともいたのかよ」
「もうずっと前からいたよ。美女が二人も。ねぇ緋勇クン」
「う、うん」
龍麻は故意に短く答える。
ここで「何がうんなの?」と聞かれでもしたら返答に窮しただろう。
しかし、小蒔はそれを都合良く解釈してくれたようで、嬉しそうに短い髪を揺らした。
「さすが緋勇クン、判ってるじゃない」
「あのな緋勇、こんなこといいたくねェけどよ。お前……一度眼医者行った方がいいぜ。
俺には美女は一人……いや、女が一人しか見えねぇ」
確かに小蒔はボーイッシュではあったが、京一の言種はあんまりに思え、
龍麻はやや心配げに彼女の方を見た。
ところが言われた当人は泣き出すどころか、今にも掴みかからんばかりに怒っている。
それは京一の言った通りな怒り方で、龍麻は安心すると同時に呆れていた。
「この……お前こそ眼医者に行け、バカ京一!」
「まあ落ち着け、桜井。どうせなら、皆で花見に行かないか? 中央公園ももう満開だろう」
「……ま、それも悪かァないな」
「花見!? 行く! あそこ屋台一杯出るもんね。焼き鳥、焼きそば、おでんにたこ焼き」
醍醐のとりなしに、今の今まで怒っていたはずの小蒔はたちまち食いつく。
食べ物を指折り数える彼女を子供みたいだ、と龍麻は思ったが、もちろん口にはしない。
口にするのは京一の仕事だと思っていたからだし、実際そうだった。
「うんうん、花より団子って言葉はお前の為にあるようなモンだな。いいねぇお気楽星人は」
「フンだ。花を見ながら食べ歩き。これが花見の醍醐味だもん。ねっ、葵」
「…………」
援軍を求めて親友を見た小蒔は、葵が心ここにあらず、という状態なのにようやく気付いた。
「葵?」
「え? え、ええ……」
「どうしたの?」
「ごめんなさい、なんでもないの。ちょっと考えごとをしていただけ。
あそこは、夜桜も綺麗でしょうね。皆、どう? 緋勇君の歓迎会も兼ねて」
葵の口調は、あからさまに何かをごまかしているようだった。
それが容易に判ったのは、恐らく葵がそういうことに慣れていないからだろう。
龍麻も気付いたようであるし、もちろん小蒔も親友の態度におかしなものを感じてはいたが、
その疑問を口にするのはなんとなくためらわれた。
葵を見ていた龍麻と小蒔が、ふと顔を見合わせる。
お互いの顔に浮かんだ不安の表情は、大小の差こそあれ同じ物だった。
いつか、そう遠くない機会に話し合った方が良いかも知れない。
そう、言葉によらずして決めた二人の耳に、京一が掌を打ち鳴らした音が聞こえた。
「そうだ、それだよ。まだ緋勇の歓迎会やってなかったじゃねェか」
「い、いいよ歓迎会なんて」
ちょっと油断した隙に話が大げさなものになって、慌てて龍麻は両手を振ったが、
葵と京一はもちろん、醍醐と小蒔も大きく頷いて、あっという間に多数決が成立してしまう。
一人孤立する龍麻に、更に輪の外から追い打ちがかかった。
「駄目よ、あたし達謎の転校生君のことなんにも知らないんだもの。じゃ、今日は花見ね」
「ア、アン子ッ! なんでここに……」
「あら、緋勇君の歓迎会なら、あたしだって参加する権利あるわよね。ね、緋勇君」
大げさに驚く京一を無視して、杏子は龍麻と葵の間に割って入る。
少し残念だ、とちらりと葵の方に視線を滑らせた龍麻とほぼ同時に杏子が顔を向け、
真正面から見つめ合うこととなった龍麻は思わず軽くのけぞってしまった。
「そ、そうだね」
「あら、不満?」
「そ、そんなことない、嬉しいよ」
「そうこなくっちゃ」
軽快に指を鳴らす杏子に、京一がしみじみとした呟きを漏らす。
「緋勇……嫌なら嫌ってはっきり言ったほうがいいぜ」
「アンタには聞いてないわよッ!」
「お前が来ると、なんかロクでもねぇことが起きそうなんだよな」
さらに京一が声のトーンを落とすと、杏子はさも心外、といった風に腰に手をあててみせた。
「あら、失礼ね。いい? 有能なジャーナリストは、己が本能の赴くままに行動するの。
あたしが事件を起こしてるんじゃなくて、事件の方があたしを求めてやってくるのよッ」
「だってよ、小蒔」
「う……ボクに振らないでよ」
先ほどの小蒔の言葉を覚えていた京一がここぞとばかりにやり返す。
ばつの悪い顔をする小蒔を杏子は不思議そうに見やったが、長い間のことではなかった。
「まぁ、人数は多い方が盛りあがるだろうからな」
「……ちッ、しょうがねぇ」
「うふふ、中央公園の桜は本当に綺麗だから、緋勇君も気にいると思うわ」
皆のやり取りを淡い笑みを湛えて聞いていた葵が、軽やかな笑い声を立てて龍麻に語りかける。
いずれにしても、転校したての自分を仲間として見てくれているのだから、龍麻に断る理由などなかった。
「そうそう、おねェちゃんもたくさんいるしな」
「結局、それか……」
もはや処置無し、と頭を振った小蒔に代わって醍醐が念を押す。
「京一、アルコールは無しだぞ」
「しつけーな。保護者ヅラすんなよ」
「お前のあきらめの悪さを知る者としては、言いたくもなるさ」
ここで杏子が、名文を思いついた記者のような顔で口を挟んだ。
「ねぇ、それだったらマリア先生も呼んだら?」
「げッ!!」
「なによ京一、都合でも悪いの?」
相手の反応を見逃さず、すかさずたたみかける。
インタビュアーとしての適性を、確かに杏子は持っていた。
それに加えて棘のある口調をされては、京一でなくともたじろいでしまう。
「そうじゃねぇけどよ、教師の引率つきじゃ盛りあがらねぇだろ。なぁ緋勇」
「うーん……」
ここは京一の言い分がもっともであるように思われた龍麻だったが、
次の一言で──内容よりも発言者の方に主な理由がある──たちまち方針が変わった。
「でも、マリア先生ならそんなことはないと思うの」
「そっか。いいよ、それじゃ」
「緋勇、手前ェ……」
「はい決まりッ。さ、皆で先生を呼びに行きましょ」
いつのまにか場を仕切っている杏子が、声も高らかに告げる。
最後までブツブツ言っていた京一も、皆がさっさと歩き出したので慌てて後を追いかけた。
元気良く手を振って先頭を歩いていた小蒔が扉を開けようとした途端、向こうから扉が開く。
全く前を見ていなかった小蒔は、入ってきた人物ともろにぶつかってしまった。
「いたた……もう、どこ見て歩いてんのさ」
しこたま鼻をぶつけた小蒔は涙目になって苦情をぶつけようとするが、
相手の正体を知ると途中で呑みこんでしまった。
「佐久間……」
ちょうど扉の横幅と同じ体格で通路を塞いでいるのは、何日かぶりに姿を現した佐久間猪三だった。
ぶつかった小蒔になど目もくれず、相変わらず濁った、しかし鋭い眼光を龍麻に射込んできている。
龍麻はもう、この転校初日に因縁をつけてきた男のことをほとんど忘れてしまっていた。
あの日から佐久間が学校に姿を見せなくなったのもあるし、何より、その後の旧校舎での出来事は、
そんなものを些細だ、と言い切ってしまえるほどの衝撃だったのだ。
それでも面と向かって見てしまえばさすがに思い出しもして、龍麻達の間に軽い緊張が走る。
「あんた……いつ退院したの?」
口火を切って問いかけた杏子を完全に無視して、佐久間は龍麻の前に立った。
自分から手を出すつもりは全くないが、いつ殴りかかられても良いように龍麻は軽く拳の位置をずらす。
「おい、手前ェ。……俺ともう一度、闘え……」
斜め下から龍麻を見上げる佐久間の瞳には、異様な輝きが宿っていた。
屈辱、プライド、渇望、怒り……そのどれもがマイナス方向の熱情が混じりあってぎらついていて、
これほどまでに強烈な意志の塊を浴びたことの無い龍麻は軽くたじろいでしまう。
もう、こうなってしまったら完膚無きまでに叩きのめすしか彼との対立を止める方法はない。
しかし、龍麻は少なくとも葵の前で武力を振るう気はもうなかったから、
苛烈なほどの佐久間の眼光をはっきりと避けた。
「逃げんのか、手前ェ」
「ケッ、自分の力量を見極められねぇ奴は悲しいねェ」
「なんだとォ、蓬莱寺」
狂犬さながらに佐久間は京一を睨みつける。
しかしあくまでも最初の相手は龍麻と決めているようで、すぐに向き直った。
龍麻としては直接殴り合った訳でもない彼に、何故ここまで敵視されねばならないのか理解に苦しむ。
葵を狙うと言うのなら、告白でもなんでもしたら良いではないか。
自分ほど親しく葵と会話をしている男子生徒は居ない、
という事実を知らない龍麻はそんなことを考えながら、彼の部長が止めに入るのを待っていた。
「止めろ二人とも。私闘は俺が許さん」
「……そうやって親分風吹かしてられんのも今のうちだぜ。緋勇の次は手前ェだ、醍醐」
醍醐は期待通りに佐久間を止めに入ってくれたが、佐久間の反応が期待通りではなかった。
そのステレオタイプな態度からすると、
むしろそれまで醍醐の下についていたことの方が不思議に思える。
とにかく、醍醐が抑止力にならないとすると自分が相手をせざるを得ず、
この場で激発されたら龍麻としては非常に苦しいところだったが、
幸いなことに佐久間は踵を返して去っていってくれた。
「ますます卑屈になってやがるな、ありゃ」
「うむ……」
「まぁ、お前や緋勇が気にするこたァねえだろ」
相変わらず無責任なことを言ってのける京一に、醍醐は不明瞭に頷き、龍麻も無言のまま頷くしかない。
重く沈みかけた二人の背中を、京一は勢い良く押す。
「ほら、さっさと行こうぜ。おねェちゃんが俺を呼んでるんだからよ」
「どこのおねェちゃんだよ……」
そこにようやく調子を取り戻した小蒔が呟くことで、一行は気を取りなおすことが出来たのだった。
階段までやってきたところで、急に小蒔が振り向いた。
彼女にしてみればごく自然に行なっているのだろうが、
生命力に溢れた動作は、龍麻が思わず目を奪われるほど輝いている。
そして小蒔はその動作に劣らない元気の良い声で皆に向かって呼びかけた。
「あ、そうだ。どうせならミサちゃんも誘おうよ」
「そうねえ、今ならまだ霊研にいると思うわ」
「う、裏密ゥ!? お前ら余計なこと言うなッ。なあ醍醐」
「う……うーむ……」
「あら、緋勇君の歓迎会なのよ。あんた達の好き嫌いで人選しないでよね。ね、緋勇君、いいでしょ?」
「いや、その……裏密さんって、誰?」
いいも何も、今始めて名前を聞いた龍麻に答えられる訳がない。
ただ、京一のみならず醍醐まであまり歓迎していないところを見ると、やや癖のある人物なのだろう。
「え? 緋勇君知らなかったっけ? あたしと同じクラスの裏密ミサちゃん」
大げさに訊ねる杏子に龍麻は頷く。
まだクラスの人間ですら全員覚えた訳ではないのに、
隣のクラスの生徒など、この遠野杏子以外知らず、
それも転校初日に廊下でぶつからなかったら知り合っていたかどうかも判らないのだ。
「ま、知らないなら今日知ればいいんだし。とっても個性的な子よ」
龍麻の答えなど最初からどうでもいいような返事をする杏子に、京一が口を挟む。
「あいつがいると、妙な寒気がするんだよ」
「うむ……」
寒気、という言葉が龍麻の耳に引っかかる。
佐久間にはもちろん感じないし、担任であるマリアにも、苦手ではあっても寒気は覚えない。
しかし小蒔と杏子はそんなことはないようだし、葵も別に嫌ではないようだ。
さっぱり訳が判らないが、醍醐までが控えめながら同意したことが、かえって龍麻に興味を抱かせた。
「全く男のくせに意気地がないわね」
「もういいよ、アン子。京一と醍醐クンが臆病だってのは良く判ったからさ」
「さ、桜井、俺は別にそういう訳では」
突き離したように小蒔に言われて醍醐はうろたえているようで、やや声の調子が狂っているのが滑稽だ。
「じゃ、皆でミサちゃん呼びに行こ?」
「う、うむ……」
言いくるめられる、というのがこれほど当てはまるケースもそうはないだろう。
間違いなく真神で一番の巨漢に対する小蒔の態度は、ほとんど子供をあやす母親のようだった。
「くそ、醍醐、この裏切り者がッ」
「そう言わないで、京一君。皆で行きましょう」
「……ちェッ。……なんか、今日はツイてねぇな……」
龍麻と醍醐に裏切られ、杏子と葵には諭され、ひとり締まらない京一はがっくりと呟いたのだった。
オカルト研究会。
少なくとも前の学校にはなかったその部室の前に、龍麻は立っていた。
オカルトと言えば幽霊とかUFOとかという漠然とした知識しかない龍麻だが、
裏密という女生徒がいるのがこの研究会なら、京一や醍醐が忌避していた理由がなんとなく解った。
その京一と醍醐はといえば、あからさまに距離を置いて立っている。
入るのが嫌なのがみえみえだったが、小蒔にひと睨みされると渋々近寄ってきた。
それにしても醍醐の腰の引け方は異常で、
その裏密という少女に何か嫌な目に合わされたことでもあるのだろうか。
「ミサちゃん、いる?」
軽くノックして扉を開けた小蒔に答えたのは、地を這うような不気味な声だった。
小蒔に続いて入った龍麻の後ろで何か音がしたのは、醍醐が後ずさりしたからだ。
まず後ろを、次いで前を向いた龍麻の目の前に座っていたのは、
表情が覗(えないほど底の厚い眼鏡をかけた、小柄な少女だった。
ビロードのかけられた小さなテーブルの上に、握りこぶしほどの水晶玉が置いてあり、
それに向かって何やら怪しげに手を動かしている。
口元は笑っているように見えるが、眼鏡で顔の上半分の表情が隠されているため、
邪悪とも言える顔つきになっていて、彼女が自分の方を見た時、
龍麻は思わず踵半分だけ後退してしまっていた。
「……我等が根付くこの地こそ、セフィロトの下層、物質界(なり。
この地こそ、要素(の錯覚的な相互作用が生じるところ。
精神的な領域が特性記号(を通してのみ認知されるところの領域」
「やめろッ、それは悪魔の呪文かッ!?」
たまりかねたように叫ぶ京一に、龍麻も内心で頷く。
言っていることはさっぱり解らないのだが、禍々しさだけははっきりと伝わってくるのだ。
さきほどはなんとなく、だった京一達がこの少女を苦手としている理由に、
今や龍麻もはっきりと同じ感想を抱いていた。
「やだな〜、京一く〜ん。ただのカバラによる宇宙観念だってば〜」
「……もういい……」
これ以上話していると魂を取られるとでも思ったのか、京一の声には全く張りがない。
そんな京一に向かって、ミサは地獄の釜が煮えた時のような笑い声を立てた。
「うふふふふ〜、ところで皆、お揃いでどこ行くの〜?」
「あ……うん、この人……緋勇クンの歓迎会を兼ねて花見に行くんだけど、ミサちゃんもどう?」
ミサは小蒔の誘いにすぐには答えず、水晶玉に手をかざして何やら覗きこむ。
占い師が良くするポーズに、実際に何か映っているのか龍麻の好奇心が首をもたげた。
ところが、軽く身を乗り出して上から見ようとすると、鼻っ柱に鋭い痛みを感じる。
「痛っ!?」
「うふふふふ〜、皆が見てる前で〜大胆ね〜。でもダメ〜」
鼻を押さえながら、軽いパニックに陥った龍麻は周りを見渡す。
ミサの両手は相変わらず水晶玉の上にあり、自分の顔があった場所も確かに間違いなく空間だ。
しかし、鼻はまるで誰かに弾かれたようにじんじんと痛み、目には涙まで溜まっていた。
突然鼻を押さえた龍麻を全員が興味深げに見るが、もちろん答えが出るはずもない。
もっとも、ミサが使役している精霊が彼女を護った、
などと聞いたとしてもとても信じられはしなかっただろう。
「お花見〜、桜〜、紅き王冠〜。場所はどこ〜?」
ミサの問いかけに、小蒔は授業中に眠っていたところを当てられた時のように背筋を伸ばした。
「え? 中央公園だけど」
「西の方角ね〜。7(に剣の象徴あり〜。……う〜ん、止めた方がいいかもね〜」
「……どういうことなの? ミサちゃん」
今度は葵が形の良い眉をひそめて訊ねる。
「紅き王国に害なす剣。鮮血を求める凶剣の暗示〜。……方角が悪いの〜」
「そんなぁ……せっかくのお花見なのに」
「信じる信じないはみんなの勝手だけどね〜。緋勇くんは、どう〜?」
脅している、というよりも突き離したように聞こえるミサの問いに、
まだ鼻を押さえている龍麻は涙声で答えた。
「あ……うん、気をつけるよ」
「そう〜。信じるのなら、きっと予言者の加護があるはず〜」
「予言者って、自分じゃねぇか……」
京一の皮肉に、ミサは笑顔で答える。
京一は出来そこないの蛙のような語尾を残して沈黙し、龍麻も反射的に目を細めてしまうが、
眼鏡に覆われていない顔の下半分の造作は意外と整っているようにも見えた。
だからと言って、進んでお近づきになりたい、ともあまり思わない。
「うふふふふ〜、京一くんも、加護欲しい〜?」
「い、いらねェよ! ……王冠だの剣だの大げさだけどよ、注意ったって、せいぜい酔っ払いくらいだろ?」
「どうかしらね〜」
あくまでも含みを持たせるミサに、小蒔が念を押す。
「それじゃ、ミサちゃんは行かないの?」
「悪いけど〜、そういうことで〜」
「そう……それじゃ、また今度ね」
しかし、部屋を出て行こうとした小蒔を、考え深げな杏子の声が止めた。
「ちょっと待って。考えすぎだとは思うんだけど、
剣って、この前国立博物館で刀が盗まれたのと関係があるの?
「うふふふふ〜」
我が意を得たり、と笑うミサに、全員の足が止まった。
「何、盗まれた刀って?」
「聞きたい?」
杏子のもったいぶり方に、小蒔でさえもがうんざりしたように首を振る。
誰も何も言い出さない中、京一が龍麻のわき腹を肘でつついた。
「ほら緋勇、聞いてやれよ」
「あ……遠野さん、教えてくれないかな」
「そうね、緋勇君の頼みなら仕方ないわね」
聴衆を得た杏子は、目を閉じて情報を整理してから話し始める。
それは、驚くべき情報だった。
「今国立博物館(では、全国から名刀を集めて日本大刀剣展っていうのをやってるんだけど、
そこに展示してあった刀が一口(、盗まれたんだって。
しかも、その盗まれた状況ってのが異常で、警備員も、防犯装置も作動しないどころか、
その刀が入っていたケースの施錠(さえ解かれていなかったんだって」
「なんだそりゃ……で、その刀は有名なやつなのかよ」
「室町時代に鍛えられた、モノ自体は無銘の刀なんだけど、それが納められていた場所が……ね」
「なんだよ、今更勿体つけるなよ」
京一を軽く睨み付けた杏子は、それでも説明を続ける。
「最近ニュースであったでしょ? 日光の華厳の滝で、古びた日本刀が発見されたってやつ」
「あったね、そんなの」
「なんでも、滝壷の奥にあった祠の下に埋まっていたらしいんだけど」
「そのニュースなら、私も見たわ」
「どうやら、それらしいのよ。盗まれた刀って。
……で、ここからは、あくまで伝承と憶測の域を出ないんだけどね」
一息にしゃべり続けた杏子は、ここで軽く唇を舐める。
杏子はインタビュアーとしての適性の他にも、語り部としての素質も持ち合わせているようだった。
緩急を付けるタイミングが実に巧く、その語り口にこの場にいる全員がしんと耳を傾けていた。
「戦国時代に、ある一口の刀があった。
その斬れ味は朝露を斬るが如く、刀身は曇ることを知らず。
まさに名刀、って刀なんだけど、その刀には曰くもあったの。
怨念に満ちた妖しの刀で、人の血を求め、持ち主の精を吸う、って。
室町時代に伊勢の刀工が鍛えたそれは、江戸に入ると徳川家に様々の悲惨な死をもたらした」
「徳川に? どういうこと?」
「まず、家康の祖父、松平清康が刀の持ち主に殺されたの。
次に父・広忠も傷を負い、更に家康の子、信康が切腹に使ったのもこの刀だったって。
それ以来、刀は徳川家を祟る妖刀として、その大半が処分された。
そして時代は巡り、その芸術性を認められた残ったうちの一口が、残されることになった」
「でもそれには条件があって、残す──いえ、封印する場所は徳川大権現の霊的支配が及ぶ、
東照宮の膝元だってことになったの」
「……てことは、その盗まれた刀は」
「その妖刀の可能性が高い、って学者先生は見ているわ」
杏子が話し終えた時、龍麻はある単語を思い出していた。
どこで聞いたのかは忘れてしまったが、祟りをもたらすその刀の名を。
「村正──」
「あら、緋勇君、知ってるの? そう、その刀はそう呼ばれていたわ」
杏子が龍麻の博識を誉めると、京一が手にした木刀で肩を叩いて呟いた。
「おいおい、そんなのが中央公園にあんのか?」
「さァ──あたしはミサちゃんが剣、って言ってそれを思い出しただけだから」
ここまで言うだけ言っておいてさらっとかわす杏子に、小蒔が非難がましい眼光を向ける。
全く、ミサの言葉だけならまだしも、
真に迫った杏子の解説によってイメージが頭の中で固まってしまったのだ。
これから遊びに行くというのに余計なお世話というものだった。
「もう、脅かさないでよ」
「……でも、ミサちゃんの話も気になるわ。ねぇ、緋勇くん」
「うーん……そう……だね」
葵の問いかけに同意はしたが、龍麻も、
盗まれたとしてその刀が公園にあるのはおかしい、と考えていた。
骨董的価値があるなら売りさばくだろうし、わざわざ人目につく場所で持ち歩く訳がない。
龍麻のそんなニュアンスを感じ取ったのか、葵は無理な作り笑いを浮かべた。
「私……気にしすぎかしら」
「そうね……ミサちゃんの占いは良く当たるけど、そんな妖刀が花見で賑わう中央公園に、
ってのはちょっと無理があるかもね」
「おい、そろそろ行こうぜ。マリアせんせの所にも行くんだろ?」
こんな所にこれ以上いられない、と京一は既に部室から足を出している。
「そうね、それじゃミサちゃん、また今度ね」
「うふふふふ〜、気を付けてね〜」
「じゃーね、ミサちゃん」
部室を出た時、龍麻は目立たないように深呼吸をした。
ミサに対して失礼ではないかと思ったからだが、京一と醍醐はもちろん、
小蒔までもが同じことをして、四人は照れた笑いをお互いに向けたのだった。
<<話選択へ
妖 刀 2へ>>