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謎の消失を遂げた教え子達をマリアが発見したのは、屋上だった。
やや苦い記憶が残る場所への扉を開くと、妙に緊迫した空気が漂っている。
男女合わせて十五人程度の教え子達が輪になっており、その中心に二人の男がいるようだった。
二人は睨みあって牽制しあっており、今にも殴りあいそうな雰囲気を隠そうともしていない。
教師として、もちろん騒動を見過ごすことなど出来ないマリアは、
殊更にヒールの音を響かせて輪へと近づいていった。
彼女に気付いた生徒の幾人かが振りかえったことで輪が崩れ、彼らの正体が明らかになる。
片方は出席日数ぎりぎりの彼女の教え子、もう片方は──
「アナタ達、何をしているの」
冷ややかなマリアの声に、一触即発の危険を孕んでいた空間が急速にしぼんでいった。
「もう授業は始まっていますよ。早く教室に戻りなさい」
薫陶が行き届いている彼女の生徒達は、ばつが悪そうに輪を解き、従順に教室へと戻り始める。
輪の中心にいた片方の生徒も、もう片方の生徒を睨みつけながら戻っていった。
最後に一人立ちつくしていた生徒に、マリアは呼びかけた。
「さあ、アナタも戻りなさい──緋勇クン」
呼ばれた生徒は振り返ったが、マリアの方は見向きもせずに歩いていく。
牧羊犬のように一番最後を歩きながら、マリアは、
教師として騒動の原因について思いを馳せずにいられなかった。
教室に戻っても生徒達はまだ少しざわついていた。
幸い一時間目はこのまま英語の授業であるから、多少HRが伸びたと思えば良いのではあるが、
授業の予定を狂わされることを好まないマリアは険しい顔で教え子達を眺めた。
「それで、何があったのかしら」
「聞いてくれよマリアせんせー。こいつ不純異性交友してやがるんだぜ。
卒業は決まってるからってタルんでるよな」
卒業も危うく不純異性交友も縁が無い、要するにひがみの種は山ほど持っている京一は、
マリアの問いにここぞとばかり立ちあがり、機嫌悪そうに無言を保つ龍麻に指を突き付けて告発した。
周りの生徒達は何も言わないものの、主に龍麻の方を興味津々の態で見ている。
龍麻はその視線のことごとくを無視し、ただ黙って腕を組んで座っていた。
一方、恐らく彼の言う不純異性交友の相手も、教卓から教え子達を見渡していた視線を龍麻に固定する。
彼の表情は屋上で見た時から少しも変わっておらず、これほど不機嫌を露にするのは、
少なくとも共に暮らし始めてからは初めてだった。
昨日はあれほど学校を楽しみにしていた龍麻が別人のように変貌しているのは
マリアにとっても悲しむべきことであったが、今は彼だけを相手にする訳にはいかなかった。
心を殺し、努めて冷静な口調を作る。
「そう……それは確かに困ったことね。わかりました、緋勇クン。
アナタには後で聞きたいことがありますから、授業後に残るように。いいですね?」
マリアの裁定を受けた龍麻は、初めて表情を動かした。
いくら騒ぎを収めるためとはいえ、そもそもの原因を作り出した張本人が一方的に断罪するとは!
龍麻は憤慨してマリアを、今は最愛の女性ではなく担任の教師である彼女を睨みつけたが、
マリアはこの話題はこれでお終い、と手にした教科書を叩いた。
「さァ、授業を始めますよ。学校に来ている以上、アナタ達はまだ勉強しなければ」
この一時限目の授業中、彼女が一度も龍麻を見ようとしなかったことに、気付いた生徒はいなかった。
龍麻一人を除いて。
「じゃあな、緋勇クン。こってり搾られてきやがれ」
小馬鹿にしたように手を振り、京一が帰っていく。
朝の一事の後、機嫌は直したものの、京一とは一言も交わしていない龍麻は、
六時限目が終わった直後から机に突っ伏し、全く反応を見せない。
そんな龍麻を見て、一刻も早く彼と話したいと思ったマリアは、
さりげなく、しかし実に巧妙に残ろうとしていた生徒達を追い出していった。
程なく教室には彼女と、彼女が残した生徒だけになる。
龍麻は自分の席に大人しく座ってはいるものの、
片肘を付き、窓の外を見ていて露骨にふてくされていた。
そうやって態度に出してしまうのが可愛い、とマリアは思ったが、口にはせず教え子の前に座った。
マリアよりもよほど公私の区別をつけている教え子は、彼女が座っても顔を動かさない。
それだけでも彼の怒りが相当なものであると判り、マリアは慎重に言葉を選んだ。
「ダメでしょう、喧嘩なんかしたら。もうあまり蓬莱寺クンと会う日も少ないのでしょう?」
「別に、喧嘩なんてしてません。朝のあれは、あいつが一方的に絡んできただけで」
龍麻は頬に手を乗せたまま喋っているので、いかにも不機嫌そうに聞こえる。
「でも、アナタもあんなに恐い顔していたじゃない」
「あいつがしつこかったんですよ」
「しつこかったって……何が?」
ここでようやく担任の方を向いた龍麻は、
彼女の表情が全く深刻なものではないことにようやく気付き、一気に沸騰した。
「キスマークがばれたんですよッ!」
二人の関係が公になってしまう危険を全く理解していないらしいマリアに龍麻は腹が立った。
それはまあ、数百年の時を閲(した彼女には些細なことでしかないかもしれないが、
学生の自分はバレたら停学間違い無し、下手したら退学もありうる。
彼女だって教職を追われるかもしれないというのに。
しかし年上の女性、それも教師に激昂してしまったのはいかにも礼を失していて、龍麻は座りなおした。
態度に出したせいで、ある程度は機嫌も鎮まっている。
「大体、いつの間にあんな所に」
「あんな所に、何?」
マリアは両肘を机の上につき、組んだ手の上に顎を乗せる。
蒼氷色の瞳は彼女が嫌いだと言ってはばからない太陽の光を受け、眩しいほどに煌いていた。
怒っていたはずの龍麻が軽く身を引いたのは、その輝きを見ている限り、勝ち目は無いと思ったからだ。
「あ……あんな所にキスなんてしたんですか」
「知りたい?」
声には、危険な響きが含まれていた。
それを感じ取った龍麻は逃れようとしたが、マリアの方が一枚上手だった。
音も無く立ちあがったマリアは、龍麻の耳の上に手をかき入れ、唇を触れさせる。
卓越した反射神経を持つ龍麻に躱す隙さえ与えず、そのみずみずしい唇の感触だけを彼に与えるキス。
何かを言いかけた龍麻の口を塞ぎ、不承不承ながらも彼が黙ったところで解放してやった。
「……! っ」
離した唇を、再び重ねる。
同じ強さで。
同じ柔らかさで。
一度目は硬さのあった唇は、二度目のキスでわずかに溶けた。
だからマリアは、三度目のキスをする。
静かで、そして情熱的な、本当の大人のキス。
微動だにしない二人を太陽が照らす。
まだ黄昏へと移ろうには時間がある陽光は、マリアにとっては少し眩しすぎたが、
頬に当たる温もりは心地の良いものだった。
逸る心を抑えて唇を離すと、自失から解放された龍麻は、悔しそうに呟いた。
「ひ……卑怯じゃないですか」
「何が?」
「俺が……こういうの、弱いって知ってて」
顔を赤らめて言う年下の男に、マリアは思わず笑い出していた。
「別にいいじゃない。アナタのそういう所、ワタシは……好きよ」
「……」
大きく目を見開いた龍麻は、掌で顔の下半分を抑える。
めまぐるしく変わるマリアの喜怒哀楽についていけなくなった時、決まってする癖だった。
もう彼が怒っていないことを確かめ、マリアはもう一度顔を近づける。
光と影を入れ替えて、唇が触れ合った。
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