<<話選択へ
次のページへ>>
(1/4ページ)
渡された答案用紙を見たシャロンは、勝ちを確信した。
2問だけ間違えてしまい、画竜点睛を欠いた、と言わざるを得ないが、94点は充分な成績と言える。
この点数なら彼女には、いや、クラスの中でも最高得点であるに違いない。
穏やかな優越感を白磁の如き頬に込めて、シャロンは勝負の相手がやって来るのを待ち構えた。
「どうだった?」
春の陽射しを受けた緑葉のような色の瞳を煌かせて、ルキアが近づいてくる。
その表情からすると彼女も相当自信があるようだが、シャロンは動じず答えた。
「ごらんなさい」
答案用紙を差し出すシャロンの手に、自慢がなかったとはいえない。
優雅とさえ言える手つきで摘ままれた答案用紙を、ルキアは下から上へと見ていったが、
最後に点数の記載されている部分を見たときの彼女の反応は、シャロンを裏切るものだった。
「やった、アタシの勝ちっ!」
「嘘っ!」
無邪気に両手を上げて喜ぶルキアが信じられず、シャロンは彼女が持っている答案用紙を引ったくった。
この科目が苦手のはずの彼女の点数は、自分よりも3点高かった。
「こ、このわたくしが……」
シャロンの、スターサファイアの色をした瞳が揺らぐ。
運動以外は負けるところがないと思っていたルキアに負けた。
しかも運などではない、実力で組み伏せられたのがシャロンに追い討ちをかけていた。
まだ自失から立ち直れない彼女に、ルキアは飛び跳ねて喜びを表す。
「ね、ね、覚えてる? 約束のこと」
心底嬉しそうに言うルキアに、シャロンはぼんやりと頷く。
負けたショックが大きすぎて、負けた方は勝った方の言うことを一つだけ聞かなければならない、
という賭けを履行しなければならないという事実も、今の彼女には些細なものでしかなかったのだ。
「それじゃさ、アタシの部屋行こ!」
ルキアに手を引かれるまま教室を出るシャロンは、
何故か自分よりも冷たい彼女の手の感触だけをはっきりと意識していた。
勉強机に備え付けられている椅子を引っ張り出し、
ベッドの前に置いたルキアは、そこにシャロンを座らせた。
自分はベッドの上に適当に腰かける。
意思持たぬ者のように従ったシャロンは瞳に映る、ほがらかな笑みを湛える、
短い紅色の髪をした少女のことを、考えるでもなく思い浮かべていた。
ルキアとは同級生ではあるものの、性格も環境も何もかもが違いすぎるため、
これまで彼女があれこれと積極的に話しかけてきても、シャロンは必要最低限の返事しかしなかった。
それはルキアだけでなく、誰に対してでもあり、
一方ルキアは誰とでもすぐに打ちとける性格だった為に、
常に彼女の周りには誰かがいて、自然と二人は疎遠になっていったのだ。
だから今回、テストの点数で勝負しないか、とルキアに持ちかけられた時、
シャロンは意外さを禁じえなかったのだ。
何故彼女はこうも自分に構うのか。
その興味が背中を押し、また、彼女にテストで負ける訳がないという自信も手伝って、
賭けなどという愚劣な行為を受けたのだ。
それが蓋を開けてみれば、彼女に負かされ、部屋に連れてこられている。
一時の屈辱が過ぎた今、シャロンの心には大きな空洞が出来ていた。
認めなければならない現実。
受け入れなければならない敗北。
それらに内側から侵食された彼女の心は、元から人形的な美しさを持つ彼女を、
無機的な美に彩っていた。
「シャロン?」
名を呼ばれたシャロンが顔を上げると、
ベッドの上に座っているルキアが心配そうにこちらを覗きこんでいた。
両方の足を身体の外側に置き、お尻をぺたんとつける、いわゆる女の子座りをして、
上半身を乗り出しているルキアは、とても可愛らしい、と思う。
女の子、ではなく女性であることをずっと求められてきたシャロンにとっては、
子供っぽいとも言えるそんな仕種が似合うルキアが羨ましくさえ思えるのだった。
その、自分には決して似合わないだろう仕種をして、
良く動く大きな瞳でこちらを見ている彼女が、小声で呟く。
「……そんなに、悔しいの?」
「当たり前ですわ!」
ルキアの口調に馬鹿にされた響きを感じ、シャロンの頭の中で何かが弾けた。
屹と睨みつけ、端正な唇に怒りを乗せて撃ち出す。
「どうしてわたくしがあなたに負けなければなりませんの!? ありえない屈辱ですわ」
間近で罵声を浴びせられ、ルキアの、淡い緑色の瞳が大きく見開かれる。
その輝きは激情を跳ね返すものであり、シャロンはまだ続けようとした醜い言葉を呑みこまされた。
汚い悪態は、それにふさわしく苦い味がした。
しかし、自業自得も省みず、シャロンが更に続けようとすると、
ルキアが床に向けて声を落とす。
「アタシね、一杯勉強したんだよ。シャロンに勝とう、って」
およそ彼女らしくない寂しげな呟きに、シャロンは悔いていた。
負けたことばかりを騒ぎ立てていて、彼女が努力したという事実を無視していた自分が、
ひどくちっぽけなものに思えた。
「……ごめんなさい、少し言いすぎましたわ」
「ううん、いいの」
シャロンが語勢を弱めると、ルキアは性格を良く表している短い髪を小さく揺らしたが、
それ以上何も言わない。
あまり人付き合いの上手くないシャロンは、
他人と二人きりになることなどほとんどなかったので、こういう時何を話せば良いか全く解からなかった。
仕方なく、逃げるように部屋を見渡す。
彼女の部屋は雑然としているくらいで珍しいものは特になかったが、
幾つかのぬいぐるみが彼女の興味を惹いた。
その中でも一番大きな、ふわふわとした毛が気持ち良さそうな、赤い、丸々とした竜。
彼女の頭くらいはありそうなそれに視線を止めていると、
気付いたルキアが小さく笑うのが聞こえた。
「あ、それ……おかしいよね、アタシがそんなの持ってるなんて」
「そ、そんなことはありませんわ。ただ、ちょっと」
「ちょっと……何?」
つい言いさしてしまったシャロンは、答えなければならない。
それは彼女がたぶん、初めて口にする言葉だった。
「か、可愛……らしい……と思いましたの」
何故こんなに恥ずかしいのか、自分でも判らない。
ルキアとまともに目を合わせられず、顔をそむける。
するとルキアは、ますますおかしそうに笑うのだった。
「な……なんですの」
シャロンはむくれてみせたが、そこにいつもの小さな棘はない。
何のことはない、彼女が周りを遠ざけていたのでも、周りが彼女に近づこうとしなかったのでもなく、
ただほんの少しだけ付き合い方が上手くなかっただけのことだったのだ。
「ううん、なんでもない。シャロンもさ、ああいうの好きなんだなって」
「悪かったですわね」
シャロンは頬を軽く膨らませる。
そうしなければ、むくれているはずの自分も笑ってしまいそうだったから。
しかしルキアが肩を震わせているのを見ると、それも難しくなってしまうシャロンだった。
「それじゃさ、始めよっか」
思っていたよりもずっと豊かな表情を見せるシャロンにひとしきり笑ったルキアは、唐突に告げた。
「え?」
「罰ゲームだよ、罰ゲーム!」
その為に来たのだから当たり前なのだが、やはり罰という言葉はシャロンを落ちつかなくさせる。
ルキアに対する不安はだいぶ薄れているものの、身体はどうしても硬くなってしまうのだった。
「な……何をなさいますの」
「えっとね……目、閉じて」
言われるままに目を閉じる。
何をしようというのか、というわずかな恐怖がシャロンの脳裏を掠めた時、
ルキアが動いたのが伝わってきた。
「な、何を」
「へへっ、シャロンの手さ、綺麗だから前から触ってみたかったんだ」
ルキアの両手が自分の右手を取り、撫でている。
全く予想外の行動に、シャロンは動けなかった。
「やっぱり……きれいで、滑らかで。少し冷たいけど、でも気持ちいいな」
「そ……そう」
他に答えようもなく、シャロンはそう答える。
ルキアが甲やら掌やらやたらに撫でまわすため、くすぐったさに耐えねばならず軽く唇を噛んで。
「……っ」
掌に温かいものが触れる。
目を閉じてしまっているために判らないが、
どうやらルキアは掴んだ手を自分の頬に押し当てているようだった。
それは別に驚くことではないかもしれない……けれど、ルキアの頬ははっきりとした、
熱に近い温もりを伝えてきて、シャロンは微かに腕を強張らせてしまった。
それはいくらか増幅されてルキアに伝わる。
<<話選択へ
次のページへ>>