<<話選択へ
次のページへ>>

(1/3ページ)

 ここは天と地の狭間、閉ざされた場所。
訪れる者とてない黄昏の神殿に、一柱の女神がいた。
 彼女の名はイシター。
戦いと慈愛の女神である彼女は、椅子に座り、一人瞑想に耽っていた。
 彼女がこの神殿に留まって、もう一週間になる。
その間に彼女が恩寵を与えていた王国は、すっかり崩壊してしまっていた。
神が与えた力を求め、王国に隣接する帝国が攻め入ったのだ。
多くの殺戮、そして不遜にも神に手をかけようと建てた塔。
怒り狂った神々は人間達を見限り、見捨てられた人界は一層の混沌が支配していた。
その結果、遂には神々が封じたはずの悪魔ドルアーガまでが復活していたのだ。
 他の神々はそれを知らない。
子供が玩具に飽きるように、人の世を捨てた神々は、天高くにある彼らの世界に篭ってしまったからだ。
神の加護を失った人間が悪魔に敵うはずもなく、王国を滅ぼした帝国でさえも、
一昼夜にしてドルアーガの支配下に置かれていた。
 しかしそんな中でも、イシターだけは天と地の狭間にあるこの場所に留まっていた。
彼女が人間に信仰の証として与えたブルークリスタルロッド。
混乱の発端となったとも言えるこの宝具を、
悪魔の手から取り戻させようとイシターは一人の少女に命じたのだ。
イシターの最も敬虔な信徒である彼女の名前は、カイという。
彼女はまだ成人も迎えていない少女であり、悪魔に抗する術など持ちあわせているはずもない。
それでも彼女が選ばれたのは、既に畏れ、敬う心を失った人間達に神の声は届かず、
かろうじて彼女が祈りを捧げていた時に神託を与えることができたからだった。
 突然神託を受け、驚いているカイに、イシターは勇気を身軽さに変えるティアラを与え、
ブルークリスタルロッドを取り返しに行かせた。
人間にまだ信仰が失われていないことを、早々に見切りをつけた他の神々に示すために。
 しかしドルアーガの魔力はイシターの予想を超える強さを持ち、
塔の内部に入ったカイの気配は以後イシターにもわからなくなってしまった。
判断が軽率だったことを認めざるを得ないイシターだったが、
慈愛の女神であるイシターは自らを信じた人間を見捨てることは出来ず、
他の神々が天界に篭ってしまった後も、この最も人界に近い場所でカイの帰還を見守っていたのだ。

 訪れるものとてない神殿の扉が開く。
彼女自身が閉ざして以来、一度も奏でられたことはない重厚な音に、
イシターは行っていた瞑想を止め、立ちあがった。
 扉の向こうから、一組の男女が現れる。
彼女達こそは、神が待っていた者達に違いなかった。
「イシター様。ブルークリスタルロッドをお返しに参りました」
 落ちついた、勁い意思を感じさせる声を、イシターは知っていた。
彼女が神託を与えた巫女。
神々が地上を見捨てた後も信仰を捨てず、
悪魔の巣窟と化した塔にも臆することなく入っていった敬虔な彼女の名は、カイという。
神託を受けた巫女である証拠として、カイの額にはイシターが与えた、
勇気を身軽さに変えるティアラに嵌めこまれた宝石が薄赤い輝きを放っていた。
 そして彼女の隣には、鎧に身を包んだ騎士がいる。
彼のことをイシターは知らない。
おそらく彼女の王国の騎士だろう。
それよりもイシターは彼が手にしている、一本のロッドに目を奪われていた。
あの輝きは間違いなくブルークリスタルロッド、イシターが祝福を授けた聖なるロッドだ。
ということはカイは、見事塔を走破したということだ。
武器も持たぬ小柄な少女が、神の力を遮るほどの魔力を持つドルアーガの目を盗み、
神託を遂げたことに、イシターは我がことのように喜んだ。
「見事です、カイ。それにしても……よく無事で」
「はい、悪魔に囚われてしまったのですが、こちらのギル……ギルガメス王子が助けだしてくれました。
ブルークリスタルロッドも、彼の助力で」
 悪魔に囚われた、とカイが告げた時、イシターの心に暗雲が立ちこめた。
しかし彼女は王子の手により救出され、ロッドも奪還したという。
イシターはカイに微笑で応え、ギルガメスにも同じ栄誉を与えた。
「そうですか……礼を言わなければなりませんね。ギルガメス、私の巫女を助けてくれてありがとう」
 騎士はカイと共にひざまずく。
両手を組み、神に祈りを捧げるカイの、頭に触れることで最高の賛辞を与えたイシターは、
彼女を手ずから立たせた。
神の威光に即して健康的な頬を紅潮させるカイに、イシターは慈愛に満ちた笑顔を向ける。
 そこからふと、跪いたままの騎士に視線を移した。
神の前で兜を着用したままなのはまだいい。
しかし、彼の雰囲気が、率直に言ってイシターは好きではなかった。
人間に清らかな神性を求めるのは筋違いであることはわかっている。
だがギルという名の騎士は、邪悪とすら感じられる、妖気めいたものを全身から放っていたのだ。
むろん本当に邪悪ならば、神の前に立つことすらできない。
だから彼は単に、イビルの要素が強いだけなのだろう。
それに神託を受け取ることができるほどの巫女の恋人が、真の悪であるはずがない。
イシターはそれと悟らせない、たおやかな動作で頭を振ると、騎士に向けて右手を差し出した。
「では、ロッドを返してくれますか」
「はい」
 答えたギルが立ち上がる。
静から動へ、一瞬の出来事。
素早い騎士の行動に、イシターは何が起こったのか理解できなかった。
人の世にはいない蟲の紡ぐ糸によって織られた、真珠の輝きを放つ薄衣。
彼女の一つの側面である、大いなる愛を象徴するローブは、騎士によって力任せに引き裂かれた。
「なっ、何を……!」
 豊潤な乳房が大きく揺れる。
想像さえしていなかった騎士の狼藉に、イシターは神罰を与えることすら忘れ、
普通の女のように男を突き飛ばそうとするのがやっとだった。
だが鎧に触れた途端、イシターの掌に鋭い痺れが走る。
立て続けの衝撃に驚くばかりのイシターは、人間の騎士が腰を抱き、
恐ろしいほどの力で、半ば体当たりのように押し倒すまで自失してしまっていた。
「止めなさい、何を考えているのですか!」
 ちぎれた衣を手繰りよせ、懸命に肌を隠そうとするイシターだが、
ギルは子供が昆虫の羽根を毟るように服を破っていく。
程なくイシターは、豊穣の神にふさわしい、肉感的な身体の全てを人間の前に晒されてしまった。
「あ、あなた達は……」
 まだ現実を受け入れられないでいるイシターは、
乳房と恥部をかろうじて手で押さえ、ギルの傍らで腕を組んで立っている巫女に問いかける。
 彼女は仕える女神が眼前にいるというのに、不遜ふそんとも言える態度をしていた。
人間にかどわかされようとしている神を前に、事態を楽しんでいるような眼をしている。
ようやくイシターは、これが周到に張り巡らされた罠なのだと理解した。
「あなたは……一体何者ですか!」
 神の問いに、巫女は法衣を脱ぐことで答えた。
豊穣の女神とは較べるべくもない、しかしみずみずしい若さに満ちた肢体を、
惜しげもなく晒したカイはしゃがみ、イシターの顎を摘まむ。
つい先ほどまで敬虔さに満ちていた瞳は、嘲弄するように踊っていた。
「あら、本物のカイよ、この娘は。今はあたしがちょっと借りてるだけで」
「借りてる……?」
「そう。どこかの女神さまが魔物がうようよいる塔に女の子一人行かせたせいで、
その女の子は魔物に捕まっちゃったのよ。
慌てて恋人の男の子が助けに向かったけど、もうその女の子は心が壊れた後だったの」
「そん……な……」
 悪魔の告げた事実など、信じるいわれはない。
しかし神託を与えた巫女の肉体と、何よりブルークリスタルロッドの輝きが、
彼女の語る言葉が嘘ではないと示していた。
 カイの中に入りこんでいる悪魔──名はサキュバスと言う──は、
白に近い金色のイシターの髪を、指先ですくいながら続ける。
「そこに優しい悪魔が現れて言いました。
男の子の魂を少し、女の子に分けてあげれば女の子は助かるわよって」
 自分の過ちを突きつけられたイシターは動揺せずにいられなかった。
ロッドの奪還の失敗。
信仰は力となり得なかったのだ。
 自らを否定されたも同然のイシターは、それでもなお女神としての威厳を保って声を張った。
「ギルガメス、王子ともあろう貴方が悪魔の戯言に惑わされてはいけません」
「あら、言ってくれるわね、あたしだって契約は守るわよ。ギルみたいにいい男だったら特にね」
 たとえ魂を分け与えたとしても、カイが甦るわけではない。
あくまでもギルの中に存在する、彼の思い描く理想のカイ、つまり自己の願望に肉が宿るだけなのだ。
それは良く出来た人形と変わらない。
 それを、サキュバスはギルに説明していない。
彼女はドルアーガと行動を共にする悪魔であり、そこまで人間に親切にしてやる理由はないのだ。
 彼女が告げたのは事実のみ。
イシターの神託を受けたカイは、武器も持たずに塔に忍び込み、そこで捕まった。
帝国の騎士達、そしてスライムやローパーなどの異形のものに身も心も嬲られ尽くした彼女は、
生ける屍となってしまった、と。
それで充分だった。
それだけでこの、恋人を救いに単身塔に乗り込んできた若い騎士の心は折れ、
悪魔につけいらせる隙を与えてしまったのだ。
 ほとんど全身をおびただしい精液と粘液に汚されたカイを見たギルの手から、剣が滑り落ちる。
それを拾い上げたサキュバスの、あたしならカイを助けてやれるけど、
という囁きに、ギルはためらいもなく魂を差し出すことを了承した。
その交換条件──イシターを陵辱し、ロッドの聖なる力を弱めるという禁忌も、
絶望に支配された騎士の判断を損なわせることはできなかった。
このロッドの力が儀式には必要だ、でもこのままでは聖なる力が強すぎて扱えない。
そう告げるサキュバスに、騎士はならば今から女神の許におもむこう、と言ったのだ。
もちろんサキュバスに否やはない。
完全な状態ではドルアーガさえ持つことが叶わず、やむを得ず三本に分けていたロッドを一本に戻し、
カイの精神に宿ったサキュバスは、イシターが下界を見守っている神殿にギルと二人、向かった。
 悪魔の身では決してくぐることの出来ない門扉も、
イシターの巫女であるカイの身体ならば空気と変わらない。
そしてロッドの聖なる輝きはまさしく本物であり、
カイの肉体を通してさえ魔をはらう力はサキュバスに及んだが、
それもギルガメスがロッドを持つことで回避できる。
 かくして悪魔と、悪魔に魂を売った男は、
ドルアーガに天界へと攻め入らせるための道具を得るために女神をかんするのだった。
 サキュバスによって与えられた、偽りの鎧を解いたギルは、女神を組み伏せる。
ブルークリスタルロッドがないとはいえ、人間などとは比較にならない力を持つイシターは、
その魔力を不埒ふらちな人間にぶつけようとした。



<<話選択へ
次のページへ>>