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東京都世田谷区某所。
元来昼間でも静かな高級住宅街は、夜ともなると車の音以外ほとんど聞こえなくなる。
飲食店はもちろんコンビニエンスストアも存在せず、街灯のみが灯りとなる、薄暗い区画。
その住宅街に、ひときわ暗い一角があった。
ほぼ一区画分に渡って街灯がなく、さらに、塀をはるかに超える高さの樹に囲まれていて、外からでは建物さえも良く見えない。
この辺りに住む子供は幽霊屋敷だとこぞって噂し、大人たちも否定する根拠を持たなかった。
この屋敷に住んでいたのは旧華族の血を継ぐ老人だった。
息子と孫を事故で失った彼は、使用人一人と共にこの屋敷に篭り、怪しげな研究に没頭していたという。
一説には魂を呼び戻す研究だったとも言われているが、真相は誰も知らぬまま、老人も使用人も消息を絶ち、
親戚を名乗る者も現れず、法律的には空き家となった。
これだけの土地であるから当然、開発しようという業者が現れたのだが、重機を入れようとした途端、
突然クレーン車の運転手が他の作業人をクレーンで襲いはじめ、全員を殺した挙句、
本人もクレーン車の前に身を投げ出して自殺したという。
その後再び投入された人員も、同じように悉く死に、以来三十年、この場所は誰も手をつけようとしないまま放置されていた。
これだけの土地を眠らせておくのはあまりにもったいないと考えた開発業者は、是が非にでも建物を取り壊し、
土地を分割して何件かの高級住宅を建てて売り出そうという意欲に燃えていた。
だが、こうした話は広まるもので、現場の作業員達は報酬を上乗せされても誰一人として仕事を請けようとはしなかった。
そこでまず除霊の必要があると考えた業者は、その道の専門家を探したのだった。
専門家である龍介達が依頼を受けたのは、このような状況だった。
「これは……気をつけてください、かなり大きな霊です」
「こちらでも状況を確認した。おそらく敵はレギオンだ。気をつけろ」
龍介に同行している萌市と支我の声が、インカム越しにせわしなく交錯する。
龍介より知識も経験もあるはずの彼らが抱く緊張は、最も新しい隊員である龍介にも素早く伝播した。
目的を見失った霊が、近隣をさ迷う同様の霊と混ざってしまう。
その霊がまた別の霊を取りこみ、個々の意志を失くしたまま、霊の集合体となるケースがあり、
夕隙社ではこれをレギオンと呼称していた。
こうなると説得して浄霊などできず、しかも生者に執着するため放っておくわけにもいかず、極めて性質の悪い霊体となる。
この春から霊退治を稼業とする夕隙社に勤める龍介は、初めて相対する強敵だった。
今回除霊を担当しているのは龍介の他には深舟さゆりと浅間萌市、それに後方担当の支我正宗の四人だ。
彼らはそれぞれの武器を構え、支我が予測する霊の出現地点を見据える。
明治時代に建てられたという屋敷は、入ってすぐに広間があり、両側に階段があるという洋館だ。
この広間だけでも現在龍介が住んでいるアパートより広く、全体となると見当もつかない。
ここで戦ったら空間を自在に移動できる分レギオンの方が有利となるが、龍介達には科学と非科学による秘策があった。
「よし、始めるぞ」
あらかじめ設置しておいた装置により、強力な磁場を発生させる。
霊が嫌う磁性の場は、二階の廊下を囲むように設置してあり、それ以上霊が上に行くことを許さない。
「ウオオオオオン……!」
レギオンの叫びが広間に、不快な波となって反響する。
レギオンには知性も理性ももはや失われているが、この不快な磁場を作りだしたモノが居ることには気づき、
霊体の表面に浮かびあがった複数の目らしきものが龍介を見据えた。
霊の存在を視ることができない普通の人間でさえ悪寒を抱かずにはいられない、生者への渇望と怨嗟に満ちた眼光だ。
無秩序に並んだ眼に一斉に視られるというのは、霊が視える龍介にとっても気味が悪く、
広間の入り口に立つ龍介は鉄パイプを握り直した。
これほどの大物は初めてであり、否が応にも緊張が高まる。
駆けだそうとして龍介は、隣で神楽鈴を持つ、深舟さゆりに声をかけた。
「お前はここで待ってろ」
「何言ってるのよ、私だって夕隙社の一員よ、行くわ」
さゆりの気色ばんだ声がインカムを通して聞こえてきた。
いつどこに現れるか判らない霊に対しては、五感を集中させて警戒しなければならないため、
龍介達はインカムを使って会話している。
「お前の鈴じゃ無理だろ、あんなデカい奴。寺の鐘でも持ってこねぇとどうしようもねぇよ」
龍介はさゆりを軽んじているわけではなく、今回は出番がないというだけにすぎない。
さゆりが持つ鈴の音色には、興奮している霊を鎮める効果がある。
最初から生者に害をなすことを目的としている霊には効果がないが、
執着に囚われている霊などは、案外執着から解き放ってやることで、戦わずして浄霊することもできるのだ。
無用なリスクは避けるに越したことはなく、彼女を起点にして霊退治を行うのは、龍介達の基本姿勢でもある。
だが複数体の意識が混ざったレギオンに落ちつけと言っても無理な話だ。
まして、これほど悪意を剥きだしにしているのだから、鈴の音などかえって興奮させてしまいかねない。
そんな程度のことは言わずとも解って良さそうなものなのに。
「そんなの、やってみないとわからないじゃない」
龍介に命じられたのが気に入らないのか、さゆりは反論してきた。
龍介は説得する労を惜しみ、ひとつ息を吸うと、全身をさゆりの方に向けて言い放った。
「いいからすっこんでろッ!!」
龍介の剣幕に驚いたのか、いつもなら浴びせられた罵声を三倍以上で返してくるさゆりは、
目を白黒させたまま口をOの字に開けている。
龍介は構わず向き直り、残る二人に檄を飛ばした。
「萌市、行くぞッ。支我、フォローを」
「はい」
「了解だ」
龍介は突進していく。
視界の端に呆けたままのさゆりを捉えたが、すぐに雑念を払って敵に集中した。
龍介の役割は突撃――つまり、先陣を切って霊と戦うのだ。
萌市の開発した霊を探知するための装置に頼らず、目視できる能力を持つ龍介でなければできない役割であり、
特に今回は、萌市の装備するプロトンガンが発動するまでの時間を稼がなくてはならない。
威力がありすぎて狭い屋内では使えない武器だが、今回は多少の被害が出ても良いという依頼で、
しかも相手がレギオンとあっては、鉄パイプではとても倒せないだろう。
あくまでも牽制が役割だと心得ている龍介は、レギオンの視界にわざと入る動きをしながら、鉄パイプを振り回した。
何度かは手応えを感じたが、さほど効いているようにも見えない。
レギオンは複数の意識が互いに干渉するのか、移動スピードは遅く、充分に余裕を持って回避できる。
龍介は建物の奥側へと回りこみ、萌市をレギオンから隠すように動いた。
チャージはあと十秒ほどで完了するはずで、九つ数えてから一気に逃げれば良い。
攻撃を盤石のものとすべく、龍介はあえて立ち止まり、隙を作ってみせた。
ところが、ここで誤算が生じた。
七まで数え、そろそろ逃げる体勢をと龍介が考えた矢先、レギオンが変形を始めたのだ。
歪な球体の三分の一ほどが、龍介の逃げる方向に伸びる。
汚らしい暗灰色の塊を突っ切って逃げるか、このまま立ち止まってプロトンガンのチャージに賭けるか。
即座に龍介は決断を下した。
「萌市、チャージが終わったらすぐぶっ放せッ!」
インカムから返事はなかったが、レギオンの背後がエメラルドグリーンに輝く。
まともに見れば一時的に失明するかもしれない輝きを、レギオンの霊体に透かして見た龍介は、
目を細めて科学の光が霊体を撃滅するのを待ち受けた。
翌日、新宿区内の病院の一室に龍介はいた。
そこそこ広い個室の部屋は、壁やベッドなど新しくはないが清潔感は保たれている。
しかし病院という空間そのものが馴染まないらしく、龍介は何十回目かのため息をついた。
天井を見ているのもいい加減飽きたので、ベッドを起こす。
幸いにしてレバーが右側にあったので、独力で行うことができたが、
もしも反対にあったら身体を起こすこともできずに憂鬱となっていたに違いない。
病室には窓があり、新宿が見える。
とはいっても病院の常として、木々によって外から内は見えないようになっており、
当然内から外もほとんど何も見えない。
何が見たいというわけでなくても、緑を見て和むという心境に達するのにはまだ五十年はかかりそうな
龍介としては、鬱蒼と茂る樹木には負の方向にしか感情を刺激されないのだった。
下り坂な気分は止まらず、この先どうなるのだろう、と不安な将来に思いを馳せたりもする。
常々千鶴から言われているのは、霊退治中に怪我をしても労災など下りないということだ。
言われてみれば当然で、怪我をした理由に「霊に襲われたから」などと書いて受理する役所など世界中探してもないだろう。
そのリスクの代わりに支払われる、まあまあ高いバイト代で納得はしていたのだが、いざ怪我をしてみると、
千鶴は即入院の手続きを取り、現場で気を失った龍介が次に目覚めたのはこの病室というわけだった。
いずれ入院費は請求されるのだろうが、あまり高いと払えないかもしれない。
金のことを考えて気が滅入ってきた龍介は、また一つため息を追加した。
それにしても、身体が自由に動かせないというのは思った以上にストレスを感じるものだ。
この方面の先輩である支我のことを思いだし、少なくとも龍介達の前では苛立ちや泣き言を
一切見せない彼の凄さを龍介は改めて思い知った。
自分などまだ数時間だというのに、何かに八つ当たりしたくてたまらなくなっているのだ。
好戦的な気分を紛らわせるために、さらに大きく、強いため息を龍介は吐きだす。
すると、それに被さるようにノック音がした。
「どうぞ」
息を吸うついでで、誰何するより先に応じてしまった龍介は、扉を開けた意外な人物に驚いた。
「……入るわね」
中を見渡してから入ってきたのは、深舟さゆりだった。
同僚であり同級生である彼女だが、龍介との相性は最悪に近い。
とにかく彼女と話をして穏やかに話が終わったためしがなく、大きくは編集方針の対立に始まり、
小さくは買い出しの菓子パンの種類に至るまで、何かにつけ言い争う始末だった。
最近では他の同僚達も慣れてきたのか、二人が言い争いを始めても無視して話を進めるようになっている。
それがまたこいつのせいで、と苛立ちを増幅させる結果となり、
お互いのためにも極力会話をしない方がよい、という結論に達しつつある龍介なのだった。
さゆりも心理的には同様のはずで、どうしてわざわざ見舞いになど来たのか。
さては昨日怒鳴りつけたのを根に持って仕返しに来たのか。
こうやって入院している以上、役割を完璧に果たしたとも言い難く、その点をあげつらいに来たのかもしれない。
普段ならうんざりするところだが、やることもなく、また意志があっても動けない龍介は、
むしろ退屈を紛らわせられると歓迎するようにさゆりを見た。
ところが、龍介と目が合った途端、さゆりは自分から視線を外してしまう。
拍子抜けもいいところで、龍介は行き場を失ったチャージしたエネルギーを、わざとらしいため息に変えて挑発してみせた。
さゆりは目を伏せたまま何も言わない。
こいつは一体何しに来たんだと思いながら、龍介は自分から話しかけた。
「編集部はいいのかよ」
霊退治がないときは毎月発行のオカルト雑誌の編集業務がある。
龍介達はアルバイトといっても貴重な頭数であり、二人抜けると雑誌の発行に影響が出るらしい。
龍介とさゆりはこの春に入ったばかりの新人で、そんな二人が抜けて業務に差し障る職場というのもどうかと思うが、
自分のせいで雑誌が出ないと言われるのはやはり嫌なものだ。
「編集長に行けって言われたの」
それはそうだろうと龍介は思った。
龍介に対して敵意か、そうでなければ隔意を抱いているはずのさゆりが自発的に来るわけがない。
むしろ、編集長命令でも来たことの方が驚きだった。
「はじめは浅間君が行くって言ったんだけど、産婦人科だから男はあまり行かない方がいいって編集長に言われて」
「産婦人科なのか、ここ!? なんだそりゃ!?」
さゆりのもたらした情報に、龍介は身を乗りだしかける。
半身が動かないことを見事に忘れており、思いだしたときには危うくベッドから落ちるところだった。
「きゃッ……! だ、大丈夫?」
「ああ、なんとか」
答えた龍介は、今の悲鳴は誰が発したのだろうかと疑問に思っていた。
日本人の大半が嫌っているであろうあの茶色の油虫を見たときでさえ、さゆりはこんな声は出さないはずだ。
それほど今の悲鳴は真に迫っており、龍介はむしろそちらの方に落ちつかない思いをした。
転落を免れた龍介は、どうにか体勢を立て直すと、努めて声を低くして訊いた。
「で、なんで俺は産婦人科なんかに居るんだよ」
なにしろ自力ではベッドから下りることもままならず、何という名前の病院なのかさえまだ知らない。
だが、おそらくもっとも縁遠そうな科目の病院に担ぎ込まれたという事実は、
対立関係にあるはずのさゆりを凝視させるほどの衝撃だった。
「編集長の昔からの知り合いだそうよ。それにしたって産婦人科はないと思うけど」
また目を伏せながらさゆりは言った。
もしかして正視に耐えないほどの怪我を負ってしまったのだろうか。
敵対関係を同情へと変える決意をさせるほど、致命的な怪我を。
さゆりのただならぬ様子に、龍介の不安はいや増していく。
「それで……怪我はどうなの」
見て判らないのかと僻みたくなるのをこらえ、龍介は今把握している病状を告げた。
「……なんか、霊と部分的に接触したらしくて、左半身が動かねぇ」
それほど悲観的に言ったつもりはないのだが、さゆりは軽くよろめくほど衝撃を受けていた。
口に手を当てるのが若干わざとらしくもあるが、驚きは本物のようだ。
「!! ……それで?」
「それで、特別な治療をするから入院が必要だって」
医者……たぶん医者が霊による怪我だとさらりと口にしたのも、それを治せるというのも気になったが、
なにより龍介と縦は等しく、横には二倍はありそうな彼女が、
特別なと言ったときの笑みと、魔女に唱和するヒキガエルのような笑い声が
龍介の感受性の部分を破壊していて、まだ完全に修復を終えていなかったのだ。
「そう……それじゃ、治るのね」
治療をすれば必ず治るのなら苦労はしない。
最近では医療ミスだって年に数回はニュースで聞くではないか。
そう言おうとしてそこまで自虐する気にはさすがになれず、龍介は軽くうなずくに留めた。
ところが、さゆりは目に見えて安堵している。
龍介の知っている彼女は、龍介が怪我をしても心配すらしないような冷血漢でこそなかったものの、
声をかけるにしても、さっさと治さないと私達の負担が増えるんだから、という嫌味を必ず添えて、
こんなふうに無心に案じるようなことは全くなかった。
それが今龍介の目の前に経っているさゆりは、薄く笑みさえ浮かべて喜んでいる。
ほとんど見たことのなかった笑顔が思ったよりも可愛いという印象以上に、
何か途方もない裏事情を抱えているのではないかと勘ぐらずにはいられなかった。
「そうだわ、これ、編集部の皆からお見舞い」
疑心暗鬼に陥る龍介をよそに、さゆりは果物のかごを持ちあげて言った。
メロンだのリンゴだのが山盛りのかごは、見るからに高価そうで、龍介の食欲をそそる。
誰の発案にせよ、ありがたく受けておくことにした。
「ありがとよ。後で食うからそこに置いといてくれ」
「後でって、身体が動かないんでしょ? 剥いてあげるわ」
「い、いいよ、そんなの」
そんな親切を受けたら、あとで百倍くらいにして返せと要求されかねない。
かなり本気で龍介は危惧し、動く右手をせわしなく振った。
だが、さゆりはさっさと座ってリンゴを剥きはじめてしまった。
ナイフを操る手つきに危なげなところはなく、規則正しい音は小気味よいくらいだ。
事態の推移についていけない龍介が言葉を選んでいるうちに、リンゴはきれいに八等分され、
紙の皿と共に龍介の前に差しだされた。
ここまでされていらないとも言えず、龍介は動く方の手で一切れ掴み、口に放りこんだ。
久しぶりの水分は身体に染みたが、味の方は堪能する余裕などなかった。
「どう、美味しい?」
「ああ」
「良かった」
さゆりはそれが自分の成果であるかのように喜んだ。
彼女が皿を下げようとしないので、龍介はさらにもう一切れ口に運んだ。
さゆりは龍介を見ていない。
皿を差しだしつつ微妙に視線を逸らしているのだ。
普通と言えば普通の態度だが、何かリンゴを食べる音に聞き耳を立てられているようで、龍介は落ちつかない。
そもそも彼女とこんな距離で話す話題を持っておらず、幸いなことにこの部分は左右とも無事な脳を
フル回転させて、この不気味な沈黙を打破しようと試みた。
「それで、あいつは斃せたのか?」
「覚えてないの?」
「いいのを当てたのまでは覚えてる」
その直後にいいのをもらい、それが最後の記憶となったことは伏せて龍介が答えると、
さゆりは気遣わしげに眉を寄せた。
「ええ、東摩君が攻撃を当てた直後、浅間君が攻撃して。それで霊はやっつけたわ」
「そうか、なら良かった」
こんな怪我を負わされた挙げ句逃げられたのではかなりみっともない。
自分の力だけではないにせよ、斃せたのなら一応面目は保てると龍介は安堵した。
ところがさゆりは唇を尖らせた。
「良くないわよ、一人で危険を背負いこんで」
「けど、ありゃあ萌市のプロトンガンでないと斃せそうになかったし、
プロトンガンはチャージに時間がかかるだろ? 囮になって時間を稼がないといけなかったんだって」
「それは……そうだけど」
さゆりは不満げに沈黙する。
これも彼女としては異例で、特に龍介に対しては、言いたいことは全て言い、
龍介の反撃も真っ向から破砕するというのが彼女のスタイルだった。
裏表がないというと聞こえがよいが、人間多少は裏も表もあるべきだというのが、この数ヶ月彼女と接して龍介が得た結論だ。
それが突如として裏面を作りました、などとされては、疑いを通り越して怖くさえなってしまう。
自分一人の犠牲ともいえぬ程度の犠牲で、あのような大物を退治できたのだから、
褒められても良いくらいだと龍介は思っている。
深舟さゆりにそれを求めるのは酷としても、編集部の皆がそういう態度を取ってくれていたら、
彼女だって少しは考えるところがあるはずだ。
それがないということは、献身はそうと認められてはいないということで、皆、案外冷たいのだとふて腐れたくもなるのだった。
湧いた負の感情を、龍介は手近な人物にぶつける。
「もう元気なのはわかっただろ、帰れよ」
「今来たばかりじゃない」
「トイレに行きたいんだよ」
それは帰らせるための口実であり、龍介は現在尿意を催してはいない。
そして、生理現象という天下無敵の大義名分に、さゆりは眉を曇らせた。
困ってなくていいから早く帰れ、と焦りと苛立ちを募らせる龍介に、彼女はとんでもないことを言った。
「わ、私がしてあげましょうか」
「はあッ!?」
度肝を抜かれる、とはこのことだった。
トイレ、と言っただけでセクハラだとあげつらい、口げんかをふっかけてくるのがこれまでのさゆりだった。
排泄の処理をするなどよほどの覚悟がないとできないことで、まして嫌いな男のなど死んでもしたくはないはずだ。
霊にとり憑かれたのかとまで龍介は思い呆然とさゆりを見た。
さゆりは耳を赤くしながら、不退転の決意を顔に漲らせて近づいてくる。
「それくらいだったら私にもできるわ。わざわざ看護士さんを呼ぶ必要もないでしょ」
「いッ、いいよ、何考えてんだバカ、よせって」
彼女が本気と知って龍介は焦った。
身体が動かせないので、とにかくシーツを掴む。
シーツを剥がそうとするさゆりと護ろうとする龍介。
男対女の力比べは通常なら男に軍配が上がるはずだった。
しかし、右腕しか使えず、しかも身体のバランスが取れない龍介は不利だった。
劣勢となった龍介は全力でシーツを引っ張る。
さすがにさゆりの力を上回り、挽回したまでは良かったものの、勢い余ってシーツ以外のものまで引き寄せてしまった。
「……!」
甘い香りが鼻腔を満たす。
短いが本気の綱引きで溜まった熱情を一気に醒ますような、それは香りだった。
急激に転回を強いられた感情が、乱流となって吹き荒れる。
今にも触れそうな距離にあるさゆりの顔から、龍介は目が逸らせなかった。
数秒が過ぎ、混乱は未だ収まらぬものの、並行して理性も甦ってくる。
これは不可抗力とはいえセクハラどころの騒ぎではなく、自分から顔を引けない龍介は、彼女が逃げるのを待った。
離れ際に平手打ちが飛んでくるかもしれないが、甘んじて受けるしかない。
ところが。
「……」
さゆりは離れようとしない。
それどころか、胸をかき乱す呼吸音を至近で聞かせ、さらには柔らかな身体で上から圧迫して、
元気とはいえない龍介の心臓に過剰な負担をかけてきた。
「お、おい」
呼びかけたつもりだったが、さゆりの反応は薄い。
聞こえていないのかと思い、もう一度呼びかけようと試みる龍介の前で、長い睫毛が動いた。
まばたきにしてはゆっくりな、蝶の羽ばたきのような優雅な動きに、喉から押しだそうとした空気を無理やり呑みこむ。
これが走馬燈という奴かもしれない、と頭の片隅で考えつつ、龍介の眼は新たに動くものを捉えた。
龍介を攻撃する鋭い矛となる、深い紅の部分。
形としてはむしろ盾に近い、楕円形状の器官が、上下に分かれ、わずかに震えるのを、龍介ははっきりと見た。
これは、わななくと言うのだったか。
オカルト雑誌の制作に携わるようになってから、語彙力の向上に努めている龍介だったが、
バニラの香りと唇の紅が意識の九割を占めていては、思考が干上がってしまってまともに考えられなかった。
触れるのか、触れざるのか。
触れることは死を意味する――
が、触れてみたくないといえば嘘になる――
いや、その前に向こうから近づいている気がする――
おそらく数秒後に訪れるであろう第三種接近遭遇を、龍介は息を呑んで待ち受けた。
だが、もたらされたのは第三種ではなく、第一種接近遭遇だった。
「こ〜んにちはァ〜」
ノックもなしに開けられた扉から、脳天に突き抜けそうな声と共に入ってきたのは、この病院の看護士だった。
茶髪はともかくボリュームたっぷりの巻き毛に膝上二十センチ以上はありそうなミニスカートで、
歌舞伎町辺りで働いている方が違和感のないいでたちだが、れっきとしたナース、らしい。
らしいというのは気を失っている間に担ぎ込まれ、
半身不随となった龍介にはここが病院であるかどうか確かめる術がないからだ。
C級オカルト映画でありそうな、マッドドクターとその助手の実験場という可能性もゼロではない。
馬鹿な考えではあるが、それほどこのナースと、午前中に会ったドクターは、
龍介の抱くこれらの職業のイメージからはほど遠かったのだ。
「あ〜ッ、病院の中でエッチなことしちゃダメだよォ〜」
「し、してません」
龍介の返事を聞いているのかいないのか、ナースは人差し指でバツ印を作った。
古くさい仕種なのだが、異様な色気に満ちていて龍介は目のやり場に困った。
ベッドに半ば以上乗っていたさゆりが、そそくさと椅子に戻る。
ナースはエッチなこと――事情はどうあれ、見た目は完全にエッチなことだった――をしていた二人を
それ以上とがめることもなく、スキップするように部屋に入ってきた。
「どこかァ〜、痛いところはないですかァ〜」
「な、ないです」
残念そうな顔をして、ナースが近づいてくる。
「それじゃァ、お熱を計りましょうねェ〜」
言うなり彼女は龍介の額に自分の額を当てた。
さゆりとは違う体香が龍介の嗅覚を刺激する。
香水ではない、甘すぎてむずむずする匂いだ。
それでも女性の匂いには違いなく、免疫の少ない龍介は動悸が激しくなるのを抑えられない。
「お熱はありませんねェ〜、いい子いい子」
「なッ、なんでそんな計り方なんですかッ!?」
ベッドの横でさゆりが叫んだ。
龍介の頭を撫でていたナースは、糾弾にも動じることなく笑顔を浮かべた。
今時は子供ですらなかなか浮かべないような、一点の曇りもない心からの笑顔で、さゆりも二の句を継げなくなってしまう。
龍介とさゆりがそれぞれ呆然としている間に、彼女は次の行動に移った。
「おトイレを済ませちゃいましょう〜」
止める間もなくさゆりとの攻防では護りきったシーツが剥がされる。
そこにはパジャマによって描かれた、股間を頂点とした錐がくっきりと姿を現していた。
さゆりとナースのどちらに反応してしまったのかは定かではない。
定かになっても誰も得をしないだろう。
ナースの方はさすがに見慣れている――しかしここは産婦人科だ――のか、取り乱したりはしなかったが、
さゆりは彼女が持ってきたリンゴにも劣らぬほど顔を赤くしていた。
もちろん、最も恥ずかしかったのは龍介である。
よりにもよって男の興奮の象徴を、好きでもない女性二人に同時に見られたのだ。
龍介が死にたいと思ったのはこれが初めてだった。
「あらあらァ〜、これじゃオシッコできませんねェ〜」
子供に対するような喋り方だが、内容は大人でないと意味が通じないものだ。
しかも彼女は腰をかがめ、股間を凝視しながら言うので、龍介の羞恥はいっこうに収まる気配を見せない。
もしも即死できるボタンがあるとしたら、衝動的に押してしまったかもしれなかった。
人差し指を頬に当てたナースは、少し考えるような表情をした。
「それじゃァ〜、後で先生と来るからァ、その時にしましょうねェ」
掌をひらひらと振りながら、彼女は友人に対するように「じゃあねェ〜」と言って出ていった。
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