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 四月の東京の空は、雲一つない青だった。
東摩龍介は何気なく空を見上げ、そこに心を映す何ものもないことに怒りも落胆もせず、
視線を地面に戻して歩いた。
 初めて歩く道、初めて通う学校。
龍介は制服を着て歩く男女の群れと時にはぐれ、時に共に、同じ方向へと向かった。
彼らの中には友人、あるいは部活動の先輩後輩を見つけ、挨拶を交わす者もいる。
声をかけてくれる知りあいもいない龍介は、無言のまま歩き続けた。
 前方に校門が見えてくる。
龍介が通うことになる新宿区立暮綯學園高等学校は、
駅からは離れた立地にあり、幹線道路からも奥まった場所にある。
そのため校門前の道路は登下校の時間ともなると生徒であふれかえり、毎日の風物詩といった風情だ。
学年度初日となる今日も例外ではなく、高校生が持っている緊迫感にはやや欠けているものの、
雀を思わせる賑やかな群れが次々と吸いこまれていた。
 彼らに続いて龍介も行く。
まだ時間に余裕はあるはずなので、急ぎもしないで歩いていたところ、
いきなり背中に軽い衝撃を感じた。
「痛てッ」
 衝撃自体は大したことがなくても、不意打ちなので龍介はよろけてしまう。
転びはしないでどうにか済んだところで、加害者を探した。
「きゃッ、ごめんなさい! よそ見しちゃってェ」
 龍介にぶつかったのは手入れの行き届いた栗色の巻き毛を持つ少女だった。
なんとなく上品な顔立ちで、少し巻き舌なしゃべり方もそれほど嫌みには聞こえない。
「あたしったらドジで、いつもママによそ見をしないようにって言われてるのにィ」
 細い眉を餌の隠し場所を忘れたリスのようにしかめる少女は、
両手を胸の前で合わせてあからさまに怯えている。
それほどいかつい表情はしていないつもりだった龍介は、
不本意げに眉をしかめたが、それでも怒りはしなかった。
「君は大丈夫か? 鼻が赤くなってるけど」
「えっ? 嘘、やだァ」
 どこにしまってあったのかというほど素早く手鏡を出した少女は、被害者そっちのけで自分の顔を覗きこんだ。
様々な角度から眺め、チェックしている彼女に龍介は呆れる。
だが、彼女はうっすら赤くなった鼻を、世界の終わりに等しいような顔で見つめているので、
大した怪我もなかったことだしと置いて立ち去ろうとした。
すると、その足を縫いつける声があった。
「莢、何してるの? 早くしないと遅刻するわよ」
 鏡を見ている少女と同じ制服を着た少女が、勢いよく歩いてくる。
 今時珍しい全く染めていない黒髪、それも一切手を加えず、ただ伸ばしただけの髪が、
陽光を浴びてきらめいていた。
胡桃の形をした大きな目と、熟する寸前の桃の色をした唇は極めて印象的で、
龍介は自然と少女を凝視していた。
「何、あなた? この子に何か用?」
 彼女の一声に龍介が答えようとするより早く、龍介にぶつかった少女――莢という名らしい――の
鼻に気がついた彼女は、朝も裸足で逃げだすほど大きな目を細め、口の端をつり上げた。
「ちょっとあなた、莢に何したのよ」
「いや、俺は何も」
「おはようさゆりちゃん、これはね」
 彼女の感情の入れ替わりについていけず、龍介は戸惑うが、
それは龍介だけでなく莢も同じらしく、鼻声でさゆりを宥めようとした。
「嘘おっしゃいっ、どうせ朝からナンパしようとして振られた腹いせに手を出したってところでしょ、最低ね」
 しかしさゆりは友人の声に耳を傾けようともせず糾弾する。
現場を見てもいなかった人間にあらぬ疑いをかけられて、龍介は思わず叫んでいた。
「ンな訳あるか、なんで朝から通学路でナンパしなくちゃなんねぇんだよ」
 その程度でさゆりは自説を曲げたりはしなかった。
「声を大きくすれば怖がると思ったら大間違いよ、さあ、白状しなさいッ」
「さゆりちゃん、違うの」
 沸点近くまで上昇した怒りを、今まさに龍介がぶつけようとしたとき、莢がさゆりの腕を掴んだ。
「あたしが時計見ながら歩いてたからこの人にぶつかっちゃっただけで、この人は何にも悪くないの」
 明らかになった真実に、龍介はどうだざまあみろと鼻を膨らませる。
だが、白い喉をさゆりが詰まらせたのは一瞬だけだった。
「それにしたって、後ろから女の子がぶつかりそうになったんだから避けるべきだわ」
 中身は段差を超えた箱詰めのトマトのようにめちゃくちゃで、
しかもそれを承知で受け取り印を押させ、挙げ句印が傾いていると指摘した配達員。
龍介が絶句するほどさゆりの態度は悪びれず、心底加害者は龍介であると思っているようだった。
 ほとんど一方通行と言っても良いくらいの人の流れの中で、
立ち止まっている三人はいかにも奇異に映っている。
歩きながらちらちらと自分たちを見ている多数の視線に、龍介は嫌でも気づかざるを得ない。
こんな女を野放しにしておくのは社会正義にもとるが、悪目立ちするのは避けたい。
両者を天秤にかけた結果、龍介は無念の撤退をすることにした。
「今度から気をつけなさいよ。さッ、莢、こんな奴放っておいてさっさと行きましょ」
「う、うん、本当にごめんなさい、それじゃ」
 ところが、半瞬の差でさゆりは捨て台詞を投げつけ、莢を伴って学校の方に行ってしまった。
 同じ方向に行くしかない龍介は、朝からどしゃ降りに出くわしたような顔をして、
先に行った少女達の後をかなりのスローペースで追った。
 百歩ほど歩いた龍介は、まだ渋面をしたままだ。
教室に行くまでには直さなければと思っているものの、
不快な記憶は踏んでしまったガムのように容易には剥がせなかった。
 蹴っ飛ばせる石かカンでもないかと下を見ながら歩く龍介の足が、ふと止まった。
先ほどの少女達に追いついてしまったからではない。
つまずいたからでも、忘れ物を思いだしたからでもない。
自分でも何故そうしたのか判らぬまま、立ち止まった龍介は、左手にある校舎を見上げた。
高校の校舎など全国どこでもそれほど違いはない。
そう思っていた龍介だが、この学校の校舎は、四階建てのちょうど半分のところで
ケーキの層のように明確に色が異なっていた。
何か理由があるのだろうが、先に通うこの高校の生徒のほとんどと同じく、
学校の歴史などに興味はない龍介は、通うにあたって事前に学校史などを調べたりはしていない。
どうしても気になるのならば教師にでも訊けばよいのだ。
「……?」
 確かに目を惹く校舎の色だが、そのために立ち止まったとは思えない。
ではなぜ自分は、朝の忙しい時間にのんびり校舎を見上げているのだろう?
困惑しつつ龍介は、さらに校舎を眺めた。
 ほとんど真横から見る形になっている建物は、それほど多くの情報を与えてはくれない。
廊下の端にあたるであろう部分の窓は小さく、下からでは全く中は見えなかった。
人影、というより動く影は見あたらず、一言で言ってしまえば気のせいということになる。
このまま観察を続けたところで、面白みのない建物を見ている変わり者というレッテルが貼られるだけだろう。
誰かに見とがめられる前に、龍介は校内に入ってしまうことにした。
「そこの君! 職員室に案内してくれないかしら?」
 龍介の横合いから投げつけられた女性の声は、獲物を見つけて滑降する海鳥のように颯爽としていた。
まだ自分が獲物だと気づいていない龍介は、女性の方を振り向きもせずに行こうとする。
しかし、女性はヒールの音を響かせながら、龍介の前に回りこんだ。
「君よ、君に話しかけたんだけど」
 ようやく顔を上げた龍介に、女性は笑いかけた。
その笑顔は友好を求めているようには見えず、唇の端と目元に意地の悪さが滲んでいる。
「何を見ていたのかしら?」
 たとえその質問をしたのが龍介の恋焦がれる相手だったとしても、龍介は答えなかっただろう。
まして彼女は知り合いですらない。
無視してしまいたいが、肩幅より広めに足を広げ、腰に手を当てて立つ彼女は、
どういうわけか龍介を通すまいとしているようだった。
「別に何も見てません」
「そう? その割に一点を見つめていたみたいだけれど」
 余裕のある態度を崩さない女性に、龍介は苛立った。
「仮に俺が何かを見ていたとしても、あなたに話す必要はないと思います」
「そうね、何かを見ていたのならね」
「……?」
 意味が分からず眉をひそめる龍介に、女性は軽く手を振った。
「いえ、こっちの話よ。ところで、職員室まで案内して欲しいのだけど」
 改めて龍介は女性を見た。
 歳は三十代か四十代だろうか、二十代ということはなさそうだ。
少しきつめの目とそれよりもう少しだけきつそうな眉、
それに濃い紅に塗られた唇は、たぶん美人に属するのだろう。
着ている服は紫色のスーツに赤いシャツ。
シャツのボタンは大胆にスーツの衿に合わせて開けられ、
くっきりと陰影を作る谷間が無造作ともいえるくらいに覗いている。
生徒の保護者にしては派手で、教師としては派手すぎ、水商売にしては地味な印象の彼女は、
結果として職業不詳の非常に怪しい女性にしか見えない。
それに彼女から漂う、香水の匂いと煙草の臭いが混ざった香りは相当に不快で、
龍介は彼女に好感を持ちようもなかった。
「俺も知りません」
「あら、ここの生徒じゃないの?」
「今日から生徒になるんです」
 龍介の反応は冷淡だったが、言い様が琴線をくすぐったらしく、女性は、今度は自然な笑顔を見せた。
「そう、それじゃ一緒に行きましょ」
 面倒くさいことになった、と龍介は思わずにいられなかった。
職員室に行く必要は確かに龍介にもあるが、こんな女性と連れだって行けば何を言われるかわかったものではない。
と言って、ここで振り切って逃げたところで職員室で再会する可能性は高く、
要らぬトラブルを回避するには彼女と行くしかなさそうだった。
 先ほどのさゆりといい、とんだ女難を龍介が嘆いていると、携帯の呼び出し音が鳴った。
龍介が懐を探るより早く、名前も知らない女性が携帯を取り出す。
今時スマートホンではない、折りたたみ式の携帯電話を開くや否や、彼女は猛烈な勢いで通話をはじめた。
「私よ。どうしたの? そうね、今現場に着いたところよ。
何か連絡でも入ったの? その件じゃない? 何ですって、こっちに来れなくなった?
……ええ、そうよ、確かに今日ではないと聞いているわ。
そう……仕方ないわね。わかったわ、計画変更よ。それはそっちで対応しておいてちょうだい。
こっちは私が対応するから」
 龍介に逃げる暇を与えず、一気呵成に通話を終えた女性は、片手で携帯を畳むと彼の方を向いた。
「ごめんなさい、ちょっと急な用事が入っちゃって、職員室は一人で探すわ。
……また縁があれば、その時にでも」
 女性は軽く手を挙げて去っていく。
彼女のヒールの音が聞こえなくなっても、龍介は動けなかったが、
校舎から大きなチャイムが鳴って我に返った。
初日ということもあって余裕をもって出てきたはずだったのに、
とんだ災難に巻きこまれて時間を浪費してしまったようだ。
いつの間にか周りには登校する生徒も少なく、このままでは初日から遅刻という不名誉なことになりかねない。
視線を地上に戻した龍介は、今度は早足で学校に向かった。

 龍介は教壇から室内を見渡している。
三年B組の教室にはすでに着席している四十人ほどが、程度の大小はあれ興味深げに転校生を見つめていた。
十八歳ともなればもう成人に近く、露骨な好奇のまなざしを初対面の人間に向けるのは
マナー違反だと知っている年齢のはずだが、高校生という肩書きに護られているゆえか、
彼らの視線に容赦はなかった。
初めての転校で洗礼を浴び、龍介は内心でたじろいでいるが、
なんとかこの通過儀礼を無事に済ませなければ、残りの一年は異端者として排除されることになる。
特別顔立ちが良いわけでも、スポーツに優れているわけでもなく、
無難に高校を卒業したいと考えている龍介としては、ここでつまずくわけにはいかなかった。
 教師が自分について説明しているのを聞き流しながら、龍介は一人の生徒に目を留めた。
短く刈った髪を立てた彼は、縁なしの眼鏡をかけ、いかにも理知的な顔立ちをしている。
悪相ではなく、同年代の女子にはかなり人気がありそうだ。
といっても、彼の顔が龍介の興味をそそったのではない。
龍介の興味を惹いたのは、彼が学校に用意された木とパイプを組み合わせた椅子ではなく、
車輪のついた大きめの椅子に座っていたからだ。
 座ったまま移動ができる椅子に座るからには、相応の理由があるはずだ。
微少の時間ではあったが、心構えができていなかった龍介は驚く。
するとそれを敏感に感じ取ったのか、車椅子の彼が視線を合わせてきた。
龍介はうろたえ、視線を外そうとする。
だが、それよりも早く、彼は軽く手を挙げ、低い、落ちついた声で龍介に質問した。
「東摩君。君は……幽霊の存在を信じるか?」
「へっ?」
 豪速球を待ち構えていたところに超スローボールを投げられた。
あるいは、女だと思っていた相手が男だった。
それらに劣らぬ、肩が前のめりになる驚きに、龍介は頭のてっぺんから抜けるような声を出した。
教室もざわめきが一瞬で静まり、八十個の目が揃って一点に集中する。
 これは暗号の一種なのだろうか。
それとも、早くもイジメが始まったという合図なのだろうか。
龍介の背中を四月に似つかわしくない冷たい汗が伝った。
「テ……テレビの心霊特集は好きだけど」
 龍介の成績は上の下といったところである。
数学や物理よりは国語が得意だが、これほどの難問に遭遇したことはなく、
しぼりだした答えにも全く自信は持てなかった。
この受け答え一つで、暮綯學園におけるこれから一年間のポジションが決定してしまうかもしれない。
質問を寄越した車椅子の彼が、學園における実力者であったならば、
無視ならばまだましといった待遇を与えられるかもしれないのだ。
 教室は静まりかえったままだ。
まずい、と感じた龍介がとにかく何か言おうとしたとき、教室の後方から笑い声が響いた。
「はははッ、そうか、俺も心霊特集は観るよ」
 笑いを収めた車椅子の生徒は、改まった口調で言った。
「いや、変な質問をしてすまなかった。俺は支我正宗。一年間よろしく」
 どうやら通過儀礼は無事終了したようだ。
教室の空気も目に見えて安楽なものとなって、龍介は内心で安堵した。
 龍介はそれほど女の子受けする容姿というわけでもないが、
この時期の転校生は珍しいとあって以後も質問は続く。
小太りで口ひげを生やす担任は見た目通り悠然としていて、
龍介が明らかに辟易していても、生徒達を止めるでもない。
結果として龍介は、おおよそ十五人分の好奇心を満たすまで、教壇から解放されなかった。
 高校三年生となれば、始業式の日から授業がある。
猛烈な進学校ではない暮綯學園でもそれは変わらず、
龍介の転校生というステッカーはすぐに剥がされることとなった。
 もっとも、当の龍介はそれを歓迎している。
小中学生ならともかく、高校生になってまで珍奇なものを見る目で見られるのは嫌だし、
特技や得意な何かを持っているわけでもないので、なぜか転校生に期待されるヒーロー性など
皆無であると判明したときの失望感に晒されるのはもっと嫌だった。
 暮綯學園の生徒は隆介が思っているより真面目なのか、
それともおそろしく飽きっぽい性格の持ち主ばかりなのか、
休み時間になっても、朝の自己紹介時の質問攻めが嘘のように誰も話しかけてこなかった。
「東摩」
 唯一の例外が支我正宗で、一つ離れた席に居た彼は、
龍介が教科書を畳むと同時に見計らったかのようなタイミングで話しかけてきた。
「ん?」
「あと一年しかないが、改めてよろしく。見ての通りの車椅子で、
移動教室の時なんかは頼らせてもらうかもしれない。ほとんどは大丈夫なんだがな」
「ああ、こっちこそよろしく」
 ずいぶんと律儀な奴だという印象を受けながら、
龍介はおそらくこの学校で最初の友人となりそうな男に挨拶した。



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