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 龍介の困惑など知る由もなく、女性は扉の前に立った。
「ガス管に通過反応有り。出現は三分後と推測されます」
「オーケー、それじゃ行ってくるわ。バックアップ、頼んだわよ」
「了解しました。気をつけて」
 そこからの女性は素早かった。
一人分の隙間だけ扉を開けると、身体を滑りこませて教室に入り、素早く扉を閉める。
カーテンが閉められ、暗くなっている教室の一番前に、黒板を背にして陣取った。
「支我、状況は?」
「室内温度はさらに低下中。教室の右奥の隅が特に下がっています」
 小型のインカムで外の支我と通話をしながら、油断なく辺りを見渡す。
はっきりと目視はできないが、気配が感じられた。
鉄パイプを握り直した彼女は、ヒールの音を響かせて突っこんだ。
 激しい物音が連続して響く。
離れたところから龍介は辛抱強く見ていたが、ひときわ大きな音が鼓膜を騒がせるに至って、
いてもたってもいられずに支我の元へ駆け寄った。
「おい、大丈夫なのか!?」
 ノートPCの画面を注視していた支我は、突然肩を叩かれて驚いて振り返った。
「東摩か……帰っていなかったのか」
「中に女の人が居るんだろ? 今の音はただ事じゃないぜ」
 だが、支我は再びノートPCを見やり、龍介には目もくれない。
その画面にはおそらく大事な情報が表示されているのだろうが、
彼の態度はいかにも冷たいように見えた。
「何やってるのか知らないけどよ、助けに行った方がいいんじゃないのか」
「……今忙しい、後にしてくれないか」
 支我の態度に、龍介の頭の中で何かが弾けた。
 支我を上から睨みつけた龍介は、それ以上時間を浪費せずに、勢いよく扉を開ける。
音に支我が気づき、顔を上げたときにはもう、龍介の身体は半分以上教室に入っていた。
「待てッ!」
 支我の鋭い制止は、龍介の背中に弾き返されてしまった。
塩による結界を張った扉を開けてしまえば霊に逃げ道を与えてしまう。
そうなれば依頼は失敗となり、夕隙社の信用も落ちる。
何の備えもない一般人が霊に対抗できるはずもなく、
義憤に駆られたであろう龍介の行動はほとんど意味がない。
こうなったらせめて、彼が社長の救出に専念してくれることを支我は祈った。
 女社長は苦戦を強いられていた。
一張羅のスーツは埃まみれとなり、しかも転がった際に生地が裂ける嫌な音を聞いている。
おそらくはもう使い物にならないはずで、経費には計上できない、つまり無駄な出費を作ってしまった。
理由についてはこのところ実戦から遠ざかっていたというのもあるし、
昨日呑みすぎたのも祟っているかもしれず、もしかしたら、
認めたくはないが年齢による肉体の衰え的なものもあるかもしれない。
とはいえこのゴーストが強敵なのも確かで、鉄パイプを振り回しながら、彼女は次の作戦を考えていた。
 まず、このまま戦って勝つ確率はおそらく半分以下だろう。
両腕の疲労は早くもピークを迎え、これから先致命傷を与えられる可能性はどんどん低くなっていくからだ。
 次に、増援は期待できない。
そんなものがあるなら最初から働かせているからだ。
廊下でサポートをしている支我正宗は有能な人材だが、
車椅子では広い空間ならともかく、机が並ぶ教室で霊相手に立ち回るのは不可能だ。
 では――最後の選択肢、逃走は。
実のところ、これが一番確実だった。
今ならまだ充分に逃げるチャンスはあるし、教室外に出れば塩の結界によって霊は追ってこれない。
だが、報酬は当然ゼロになるし、信用も失ってしまう。
社長自らが失態を犯せば、社員もついてこなくなる。
 これだけ一方に大きく錘が乗った天秤の釣り合いを取るには、
よほどの理由が必要で、煙草以外に何も入っていない、
もう三年着古しているスーツの内側からは、およそそんなものは出てくるはずがなかった。
鉄パイプを強く握りしめて、彼女は立ちあがった。
 彼女の視界の端に赤い揺らめきが映る。
紅いコートを着た男の霊は、右手に握るナイフをゆっくり舐めた。
「ケケケッ、その肌切り刻んでやるゥゥゥッッ!!」
「下品な霊ね……さっさと成仏しなさいッ」
 吐き捨てた彼女が、鉄パイプを振りかぶったとき。
 いきなり教室の扉が開き、高校生が乱入してきた。
支我ではない、つまり社員ではないことを半瞬で確かめる。
霊に対抗できるのは素質を持ち、訓練された者だけだ。
素人が生兵法で大けがでもされたら、責任問題に発展しかねない。
次の半瞬で彼女は、怒鳴りつけるために唇を開いた。
「下がってなさいッ!」
「伏せてッ!!」
 学生の叫びは千鶴の怒声を圧し、彼女は反射的に伏せた。
頭上を冷たい空気が流れ、机と椅子が倒れる音が鼓膜を塞ぐ。
音が半ば収まったところで顔を上げた彼女が見たのは、対峙していた霊に素手で殴りかかっている学生の姿だった。
 教室に入った龍介の正面に、赤い男がいた。
まとっているコートだけではなく、手と顔までくすんだ赤色をしている。
輪郭がわずかにぼやけ、さらには龍介の腰の高さに浮かんでいる男は、明らかに人間ではなかった。
朝方龍介が出会った女性に襲いかかろうとしている、手に何かナイフのようなものを持っている男に、
それ以上観察する暇もなく夢中で殴りかかる。
「なッ、何だてめェェェッッッ!!」
 横合いから殴られ、驚く霊を尻目に連打を繰りだす。
龍介は特に武術の経験があるわけではなかったが、機先を制したのが幸いしたのか、
ほとんど一方的に攻撃を加えることができた。
パンチが当たる感触はない。
だが、当てた拳を引く都度、男を構成する赤い霧が薄れていく手応えがあった。
そしてそれは、龍介にも当てはまり、男が反撃で繰りだしてきたナイフが身体を掠めると、
電気に似た痺れが走る。
後刻、みみず腫れが身体のあちこちにできているのを知って驚く龍介だが、
この時はこの不思議なメカニズムを考察する余裕もなく、人生初となる霊との死闘を繰り広げていた。
「くッ……この野郎ゥッッ!」
 紅いコートの霊は自在に動き回り、龍介の側面や背後に回りこもうとする。
龍介は阻止しようとするが、実体を持たない霊の方が有利であり、
次第に防御を強いられるようになっていた。
「しゃあァァッッ!!」
 龍介の左側方から霊がナイフを繰りだす。
これはかわしたものの、避けた拍子に机にぶつかり、大きく体勢を崩してしまった。
「殺してやるぜェェッッ!!」
 霊が浮かびあがる。
龍介はまだ立ち上がれず、机が邪魔して横転もできない。
ヤバい、と両腕で頭を庇った龍介に、霊は上方から突っこんできた。
「おごおおおォッッ!!」
 濁った悲鳴がほとばしる。
交差した腕のすぐ向こうで、霊が苦悶にのたうちまわっていた。
「今よッ!!」
 霊の横っ腹に鉄パイプのフルスイングをかました女社長が叫ぶ。
龍介は立ちあがる勢いを利用して、拳に全体重を乗せて突きだした。
「消えるッ! オレの体が消えるゥゥゥッ!!」
 身体の中心を撃ち抜かれた霊が急速に薄くなっていく。
その勢いは姿が見えなくなるまで止まらず、紅い姿は霧となり、その霧もやがて闇に同化した。
「消えたくないッ、もっと女を切らせてくれよォォォッ……!!」
「この世界にオマエの居場所はないわ。さっさと本来行くべき場所に行きなさい」
 断末魔の叫びに被せるように、女性がスーツのポケットから液体の入った小瓶を取りだし、
空中に振りまいた。
無臭の液体が床に落ちる音が止むと、教室には静寂が訪れた。
「……」
 乱れた呼吸を整えながら、龍介は今起こった出来事を反芻していた。
 テレビの心霊特集の再現フィルムのような光景は、本当に現実なのだろうか?
支我と彼女が協力して、再現フィルムかその類の撮影に、素人の自分を騙して巻きこんだのではないか?
もしかしたらさゆりもグルで、龍介一人を巧妙に罠に陥れたのではないか?
 真相を問いただそうと龍介は女性の方を向いた。
「やるじゃない――助かったわ」
 龍介の視線に気づいた女性が手を差しだす。
握手に応じようとして、龍介は急に目を逸らした。
「――あら、これは失礼」
 スーツが乱れ、ブラジャーが見えていることに気づいた女性は、
龍介の前で堂々と服を直すと、あらぬ方を見ようと努力している少年を、いきなり抱きしめた。
「――ッッ!?」
「ありがとう、これはほんのお礼よ」
 狼狽して眼球を上下左右に動かす龍介の手を掴み、教室を出た。
 廊下では彼女の部下である支我正宗が、冷静な表情のまま、それでも安堵を滲ませて社長を出迎えた。
「無事でしたか、良かった」
「彼が助けてくれたのよ」
「東摩――君は『霊』が視えるのか?」
 なぜ彼が顔を赤くしているのかという疑問はひとまず置いておいて、支我は最大の疑問を口にした。
「あ、ああ……そうみたいだな。俺も初めて知った」
 人を食った返事に聞こえたかもしれないが、支我と女性はそれぞれ頷いた。
「霊が視えるようになるのには、さまざまなパターンがある。いずれ詳しく話を聞かせてくれないか」
「そうね……あなた、ウチで働いてみない? バイト代は弾むわよ」
「!? 社長」
 支我が驚くが、女社長はスカウトを止めない。
「彼は霊が視えるだけじゃないわ。霊に素手で干渉できる力を持っている」
「なんですって……!」
「人によっては霊の出現の兆候があっただけで精神や肉体に異常をきたす。
手足の痺れや金縛り、動悸、息苦しさ、幻覚や錯乱――
症状は様々だけど、多くの人間が何らかの影響を受ける。でも――東摩君、あなたはどう?」
 問われた龍介は肩や頭を動かしてみたが、特に何の変化も感じられなかった。
「いえ……そういったのは、別に」
「でしょう? あなたは稀に見る特異体質なのよ」
 霊が視える、というだけでも何百人に一人という貴重な才能だ。
まして素手で直接干渉できる能力など、百万人に一人もいるかどうかというレベルだろう。
支我は驚嘆の眼差しで今日知り合いになったばかりの男を見た。
 龍介は支我に劣らず驚いていた――自分自身に。
勉強も運動も芸術も、自慢できるほどの才能はないと見極めつつあった龍介だが、
まさか霊が視えるなどという能力を持っていたとは。
あまりありがたくはないとしても、とにかく、おいそれとはない能力らしい。
龍介はおとなしく彼女の話を聞いた。
「ウチはオカルト関係を専門にやっている夕隙社という雑誌社で、
私はそこの社長っていうのはさっき話したわよね。
この支我はバイト。そして同時に、依頼を受けてこの世ならぬ存在――
霊退治を請け負う幽霊退治屋でもあるわ」
「ゴースト……ハンター……」
 つい数分前まで、龍介は東京都新宿区にある暮綯學園に転校してきたごく普通の高校生だったはずだ。
しかし、うっかり覗いてしまった現実の向こう側へと続く穴は、見知らぬ世界へと彼を連れ去ろうとしていた。
「ウチは実力主義だから、ちゃんと働けば給料上がるわよ。
見たところあなたはがっちり稼げそうね、どう? 悪い話じゃないと思うけど」
「い、いや、ちょっと考えさせて――」
 性質の悪い催眠術にでもかけられたのではないかという疑念が渦巻いている龍介は、
とにかく一度この二人から距離を置くべきだと考えた。
「あなたはまだ若いけれど、人生は思っているほど長くはないし、
決断の瞬間というものは不意に現れて不意に消えるものよ。そして、二度とは選べない」
 女社長は龍介の逃げ腰を見透かして詰め寄ってくる。
女性にしてはかなり長身の彼女は、ヒールを履いているので龍介と目の高さがほぼ等しい。
正面から彼女に見つめられた龍介は、逃げだすように視線を下に転じる。
そこには一度直したはずなのに、どうしたわけか再びはだけかけている胸があった。
沈みかけた夕陽を浴びて、陰影が濃く浮かびあがった丘陵に瞬間、龍介の意識は奪われる。
「困ったことがあれば支我に相談すればいいし、同じ学校……クラスも一緒なの?
それならますます都合がいいわ。こんな条件で働けるなんてウチを逃したらもうないわよ。
さあ、決めちゃいなさい」
「は、はあ、それじゃよろしくお願いします」
 龍介が自分が発した承諾の重さを自覚する暇もなく、彼女は大きく手を打ち鳴らした。
催眠術から醒めたかのように龍介ははっとするが、事態はあっという間にに引き返せないところまで進んでいた。
「決まりね。明日から早速来てちょうだい。会社の場所は支我に聞けばいいわ。それから、これ」
 彼女は龍介に名刺を渡した。
そこには夕隙社社長、伏頼千鶴と書いてある。
「ふせより……ですか?」
「ふくらい、よ。あなたは東摩君、だったわね」
 千鶴が龍介の手を掴んで握る。
「よろしく、東摩君。あなたの名刺もそのうち作ってあげるわ」
 龍介の肩を叩いた千鶴は、颯爽とした足取りで去っていった。
残った支我が後片付けをはじめたので、龍介も手伝う。
 鉄パイプをバッグにしまいながら、支我が言った。
「……東摩、本当にいいのか?」
「実はまだちょっと迷ってる」
 霊を、退治する、仕事。
文節の全てが龍介の知らない世界であり、その三つが合わさると加算ではなく乗算の破壊力を持っていた。
それだけでも頭を落ちつかせるのに半日はかかりそうなのに、
そもそも霊が視えるという特異体質の持ち主だなどと、受け入れるのに熱いお茶が三杯は欲しいところだ。
 半ばは考え、半ばは考えないようにしながら龍介は扉の隅に置かれた盛り塩を回収する。
純白であるはずの塩は、一部分が黒く変色していた。
それも山を縦に割ったようにきれいに二分されていて、
不思議に思った龍介が眺めていると、支我が声をかけた。
「盛り塩は簡易的な結界を作るんだ。霊がそこに近づくとそうやって変色する。
強力な霊は結界を破ることもある……今回は大丈夫だったが」
「……そういうのはリアリティを高めるための設定だと思ってたよ」
「他にもお札なんかもあるぞ。ちょうど今日はコンセントに使っているから、悪いが回収してきてくれないか」
「そのまま剥がせばいいのか?」
「ああ」
 教室の隅に行き、コンセントを探す。
見つけたコンセントの上には文字なのか絵なのか良く判らないものが描かれた、
いかにもイメージ通りの札があった。
 回収しながら龍介は、気味が悪いとは思わなかった。
それどころか、彼女――伏頼千鶴や、同級生の支我正宗が属する世界に足を踏み入れたいと思いはじめていた。
 新しい世界を、知ることができる。
自分の好奇心は意外と多かったのだと龍介は気づいた。
「これでいいのか?」
「ああ、ありがとう」
 支我に札を渡したとき、龍介の心は決まっていた。
「ゴーストハント――やってみるよ」
 札を受け取った支我は、龍介の顔を正視した。
強い意志が感じられる彼の眼は、なぜか強い圧力をかけているように龍介には感じられた。
だが、夕陽を眼鏡の端に映した支我は、やがて小さくうなずき、手を差しだした。
「そうか。それなら、俺達は同僚というわけだ。これからよろしくな」
「ああ、こっちこそ」
 彼と握手を交わし、龍介は高校三年生の他にゴーストハンターという肩書きを手に入れたのだった。
 後片付けを済ませた二人は帰路につく。
支我は雄弁ではなく、龍介も今日知り合ったばかりの彼と何を話せば良いかわからず無言だったが、
下駄箱まで来たところでおもむろに支我が口を開いた。
「ところで、東摩。今日の報酬なんだが――」
「ああ、今日は採用面接みたいなもんだろ? 別にいいよ。なんだ、社長に説得するよう言われたのか?」
「いや、そうじゃなくて……」
 支我は言えなかった。
今回の件は東摩の活躍によって成功したのだから、彼には報酬を請求する権利があると。
そして支我の上司である伏頼千鶴は、知っていてとぼけているのだと。
正当な労働には正当な報酬をと考える支我は、当然龍介に教えてやりたい。
しかし千鶴の本性を知らない龍介をそそのかすのは危険と言えた。
他のことには話の良く解る出来た上司である彼女も、金のこととなると全く話の通じない怖ろしい上司と化す。
うかつに機嫌を損ねて龍介どころか自分の収入源まで断ってしまうリスクは犯せなかった。
 もちろん支我は知らない。
龍介への報酬は千鶴がすでに支払い済みで、さらには龍介が今後の人生を左右しかねない重大な選択を、
色香に迷って決めてしまったことを。
「俺、バイト自体初めてなんだ。キツいかな?」
「……簡単じゃないだろうが、すぐに慣れるさ」
 楽しそうに話す龍介に、諦めたのか、支我は静かに相づちを打つ。
二人の声は人気の無い四階の廊下に反響し、やがて消えていった。



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