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午前八時二十分。
学校が始まるにはまだ三十分以上、予鈴が鳴るまでにもまだ充分時間があるこの時間に、
東摩龍介はすでに暮綯學園三年B組の教室内に座っていた。
登校している級友は、まだ片手の指で数えられる人数だ。
男子が二人、女子が三人という内訳の彼らは、それぞれの席に座ってそれぞれの作業を行っている。
彼らに混じって龍介は、国語の教科書をなんとなく開いていた。
なんとなく、であるから明治の文豪の作品が載っているページを開いていても、読んでいるわけではない。
龍介が早く登校したのは、受験生である自覚を持って早朝から勉学に励むなどという
殊勝な心がけをしているわけでも、友人とコミュニケーションを深めようという意図があるわけでもなく、
早く目が覚めてしまったので早く登校しただけのことだった。
もっとも、早く目が覚めた理由については、「だけ」と切って捨てるのは難しい。
昨日東摩龍介が遭遇した出来事は、大抵の人間には経験すらできないことで、
その興奮は今なお小型の発電所のように龍介の体内で活動していた。
龍介が席について程なく、新たな同級生が教室に入ってくる。
昨日転校してきたばかりの龍介は、まだ同級生の名前どころか顔さえ覚えているのは数人といった有様だったが、
入ってきた彼については顔も名前も完全に覚えていた。
車椅子を自分で押して入ってきたのは、支我正宗だった。
先に教室にいたクラスメートと挨拶を交わしながら、龍介の一つ置いて隣の彼の席に収まる。
彼が鞄を置いたのを見て、龍介は彼の方から声をかけた。
「おはよう」
「お早う、東摩。昨日はよく眠れたか?」
「ん? いや、別に良く寝たけど」
龍介の返事には語尾に疑問が含まれていた。
なかなか寝つけなかったのは事実だが、寝てしまえば熟睡していた。
早く目が覚めたのも確かだったが、寝不足を感じてはおらず、むしろ心身共に気力が漲っていたのだ。
「昨日あんな事があったからな。眠れないのが普通じゃないか?」
「ああ、そういうことか。確かに興奮はしたけどな」
支我は顎に手を当て、感心したように頷いた。
「編集長は強引な女(ひと)だが、人を見る目はあるからな。
お前なら夕隙社で上手くやっていけるよ。放課後、一緒に編集部に行こう」
昨日、龍介はこの暮綯學園に転校してきた初日に霊と出会い、交戦の末これを退けた。
その素質を見こまれて霊退治を請け負う夕隙社の社長に現場でスカウトされ、今日が正式な出勤となるのだ。
支我正宗はすでに夕隙社でアルバイトをしていて、龍介にとっては先輩になる。
「服とかは普通でいいのかな」
「ああ、制服で構わない。それに作業着も支給されるから、そっちを着てもいい」
「なるほど」
感心した龍介が、さらにバイト事情について訊ねようとする。
すると、背後から彼らに挨拶する声があった。
「おはよう」
表面上はいかにも愛想の良い女声は、龍介のテンションを一気に冷ました。
いやいやながら振り向くと、そこにはやはり表面上は笑顔を浮かべた深舟さゆりが立っていた。
「……おはよう」
社交儀礼だと渋る己を説得して龍介は応じる。
ところがさゆりは龍介が応じた途端、彼など眼中にないとばかりに顔をそむけ、支我の方を向いた。
「転校二日目なのに随分仲が良いのね」
朝から浴びるにはかなり烈しい眼光を、支我は平然と受けとめる。
「同級生なんだからこれくらい普通だろ?」
支我の余裕ある態度を挑発と受け取ったのか、さゆりの眼光が烈しさを増し、攻撃目標を変えた。
「昨日、あれから何があったの?」
「別に」
支我を倣って龍介も冷静に応じてみる。
とはいえ大きな瞳の圧力は予想以上に強く、意図したようには声は出なかった。
支我はよく平気だな、などと思う暇もなく、言葉の槍が飛んでくる。
「とぼけないでッ! 私、今四階に行ってみたのよ。
そうしたら昨日見つけた塩が無くなっていたの。どうしてかしらね?」
龍介の対応に早くも沸点を超えてしまったのか、さゆりは目と口と肩と腕と足、
つまり動く部分全てをいからせて食ってかかった。
まだ教室には同級生は少ないから良いものの、この怒りっぷりを目の当たりにすれば
多くの生徒が引くのは間違いないだろう。
ドロップアウトしている学生でもない限り、孤立しないために高校生といえども教室内では多少なりとも
自分を偽る膜を張って過ごすものだが、彼女はそういったリスクを怖れないのだろうか。
ずいぶん度胸があるもんだ、と感心しながら、龍介は著しい指向性を持った彼女の攻性の言動を
真っ向から受けるつもりはなかった。
「腹ペコのネズミが食べたんだろ」
「一粒残らず綺麗さっぱり? それに、教室の机や椅子が乱れていたわ。
ネズミだとしたら随分大きなネズミよね。人間並に」
「……」
細かいチェックに龍介はとっさに誤魔化せない。
声を詰まらせる龍介に、さゆりが勝ち誇った笑みを浮かべる。
そのさゆりに水を差したのは、支我の落ちついた声だった。
「深舟」
「何よ」
「この世界には知らない方が良いこともある。お前が何かを怖れ、
その何かから逃げているのだとしたら、俺達には関わらない方が良い」
龍介ができなかった難事を支我は成功させた。
さゆりは一文字に唇を引き結び、煮えたぎる言葉の溶岩を撃ちだすのを止めてしまったのだ。
そして支我にではなくなぜか龍介に、殺意すら垣間見える眼差しを浴びせると、
音がしないのが不思議なほど猛った足どりで自分の席に戻っていった。
ライオンに襲われたが奇跡的に助かった旅行者のような面持ちで、龍介は助けてくれた狩人を見る。
支我は眼鏡を直して龍介の視線を受けとめたが、口にしたのは至って高校生的な台詞だった。
「一時間目は数学か。東摩は得意なのか?」
「いや、全然得意じゃない」
「そうか。困ったときは言ってくれれば教えてやるよ。俺は結構得意なんだ」
「……その時はよろしく頼むよ」
こいつのこの反応も神がかっていると思いつつ、龍介は一時限目の準備をはじめた。
放課後はいつでも嬉しいものだが、龍介にとって今日は特別な放課後だった。
今日から夕隙社でバイトが始まる。
それも、コンビニやファストフード店といった高校生の定番バイトではなく、
雑誌づくりと霊退治という、なかなか経験できない類のバイトなのだ。
雑誌づくりと霊退治の、どちらがメインでどちらがサブかはまだわからないが、
どちらも興味があったし、どちらも手を抜くつもりはない。
期待に胸を躍らせて、龍介は新しい世界の水先案内人である支我正宗の席に赴いた。
ところが、彼は龍介の顔を見るなり言ったものだった。
「すまない、用事ができてしまってな。三十分くらい待ってくれないか」
出鼻をくじかれた龍介だが、この程度ではへこたれない。
一度自分の席に戻り、出版社でアルバイトをするのだから、これまで大して興味もなかった
時事ネタでも拾っておこうとスマートフォンを取りだして操作しはじめた。
ところが、一つ目の記事もロクに読まないうちに、深舟さゆりが近づいてきた。
支我は教室にいない――というより、支我が出ていくのを待っていたのだろう。
彼女が近づいてくるのに気づいた龍介は、携帯端末を注視して気づかないふりをした。
「東摩君」
「何だよ」
スマートフォンから目を離さず龍介は応じる。
むろん意図的に行ったのだが、さゆりはそんな小細工など鼻息一つで蹴散らしてしまった。
「四階に行くからついてきて」
「はあ? なんでだよ。朝行ったんだろ?」
「……朝は教室に入れなかったのよ。もう一度だけ、あそこに行ってみたいの」
龍介は深舟さゆりと知り合ってまだ二日でしかないが、喋り方はある程度知っている。
水と油という人間関係が存在することを龍介に知らしめた、
ほとんど嫌っているのではないかというくらいキツいあの口調で言われたのなら、断固として断っただろう。
けれども、一呼吸置いてから紡ぎだされた彼女の声は、電子音声ではなしえない、
龍介が思わず無機物の塊から顔を上げてしまうほど繊細なものだった。
本当にさっきの声が彼女から発せられたのか信じられず、龍介はさゆりの唇を凝視した。
「……何よ」
龍介の目の前で動いた紅唇は、やはりあれは幻聴だったのだと落胆させる低い声をつぶてのように撃ちだした。
とはいえ、どんな理由があろうと女の子の顔を凝視してしまったのは間違いない。
そこまでしておいて真正面から断れるほど神経が図太くない龍介は、ため息をこらえて立ちあがった。
「わかったよ。あまり気乗りはしないけどな、さっさと行こうぜ」
「え……ええ」
驚きから不審を経て安堵に移ろうさゆりの表情を横目で見ながら、龍介は先に教室を出た。
昨日に続いて龍介とさゆりは四階に赴く。
龍介は二度目、さゆりに至っては三度目で、これでは立ち入り禁止の意味がないと、
人目を避けて四階への階段を素早く上った龍介は皮肉っぽく考えた。
さゆりはそんなことには無頓着のようで、背筋をまっすぐ伸ばして歩いている。
上半身がぶれない、お手本のような歩き方は、彼女の見た目である上品さを強調していた。
全く外面だけなら、深舟さゆりは今時珍しい正統派の美少女なのだ。
大きな瞳に細く高い鼻に、血色の良い美しい唇、それに、腰まで伸ばした艶のある黒髪。
アイドルかモデルになっていないのが不思議なくらい、どこを取っても欠点のない外見だった。
なのに学校内ではあまり話しかけてくる男子生徒がおらず、女子生徒ともグループを作っていないようなのは、
ひとえに口の悪さによるものだろうと龍介は信じていた。
大概の男はあの口調で言われたら百年の恋もしぼむどころか割れてしまうだろうし、
女にしたってあれだけ気が強く自己主張が激しいのは歓迎されないだろう。
昨日ぶつかった莢という少女は友人らしいが、クラスは違うようで、
もしかしたらさゆりはB組で孤立しているのかもしれない。
だとしても、そういった気配をまったく匂わせないのは大したものだった。
だからといって、ストレス解消のはけ口にされるのはたまったものではない。
などというようなことを龍介が考えているうちに、件の教室の前に到着していた。
さゆりが無言で龍介をちらりと見る。
彼女の求めを理解したと思われるのはしゃくだが、支我が戻ってくるまでに済ませなければならないので、
龍介は彼女の代わりに教室の戸を開けて中に入った。
一度入った場所なので、怖れも怯えも特にはない。
あとはさゆりがなるべく早く探求心を満足させてくれるのを祈るばかりだった。
堂々としている龍介の態度をさゆりは不思議に思いつつも、彼に続いて教室に入った。
この教室が封鎖されてまだ半年は経っていないはずなのに、ずいぶんと寂れた――もっと言えば、朽ちた印象がある。
カーテンが閉めきられて、光が射していないのが一因だとしても、
やはり、人が生活していないのが大きな理由なのだろう。
忘れ去られたものは、人でも物でも哀しい。
どこから調べようか考えているさゆりをよそに、龍介が倒れた机を直し始める。
倒れている机と椅子は十セット程度あったので、さゆりも手伝おうとするが制された。
「いいからお前は調べてろよ」
「でも」
龍介は頭を振って再び制する。
そうしているうちに彼は手際よくほとんどの机を直してしまった。
並べ直すだけでなく、音を立てないよう気を遣ってもいる。
仕方がないのでさゆりは、机の中を一つ一つ見ていくことにした。
龍介も反対側の列から調べはじめる。
机の中は当然全て空だった。
遺書や何かの証拠となるようなものが見つかるなどと期待していたわけではない。
それでも、人の手を離れた机はあまりに冷たくて、数脚調べただけで続けるのが嫌になった。
だが、自分から来ようと言った手前、あまりすぐに帰るというわけにもいかない。
仕方なく、さゆりは龍介が何か言うまで、調べるふりを続けることにした。
ところが、龍介は数分待っても何も言わない。
彼の方を見るのも不自然な気がして我慢していたさゆりだったが、痺れを切らして振り向いた。
龍介は教室の後ろの方で突っ立っていた。
間の抜けた後ろ姿に、さゆりは自分を棚に上げて怒りがこみあげてきた。
「ちょっと、何してるのよ」
龍介の返事はない。
無視されたと思い、さゆりは大股で歩み寄った。
窓際から二列目の机の前に居る龍介の背後に立ったさゆりは、さらに怒りをぶつけようと口を開き、
口内に流れこんでくる冷気に驚く。
一旦口を閉じると、彼が見ているものに気づいた。
白いもやのようなものが浮かんでいる。
形ははっきりしないが、大きさは龍介よりも少し小さく、
誰かに伝えようとするなら人間大というのが最も適当だろう。
カーテンが閉めてあって薄暗い教室ではあるが、埃にしては濃く、ある部分だけに集まる埃というのも変だ。
では、あれは一体何だというのか。
さゆりの心臓は、意志と無関係に鼓動を早めた。
「ねえ」
「しっ」
話しかけようとすると龍介に制されたが、不愉快には思わない。
彼に倣って呼吸を低め、さゆりももやを見つめた。
もやは濃くなったり薄くなったりしながら、形自体は変わらない。
どこかへ漂ったり散ったりもせず、自然現象ではありえなかった。
固唾を呑んで見守る二人の前で、目に見える変化はない。
変化があったのは、聴覚に対してだった。
「ありが……とう……」
「何……どういうこと?」
そのもやが発した声なのか、ただ自分と龍介ではないという消去法で、
そのもやが言ったと仮定してさゆりは訊ねた。
しかし返事はなく、今度は目に見える形で、もやはゆっくりと薄れていく。
「……!」
十数秒ほどでもやが完全に消え去っても、さゆりは身じろぎもしなかった。
龍介も同じく固まったままだ。
このまま永遠に動かないでいるかと思われたが、龍介が錆びついた人形のようなぎこちなさで振り向いた。
「何……今の」
彼が答えなど持っているはずがないと知りながら、彼の顔を見た途端、さゆりの口は自動的に動いていた。
「お前は何だと思う」
「し……知らないわよ」
さゆりは怯えと怒りのないまざった叫びを発していた。
龍介の態度がおかしい。
昨日は同じように驚いていたはずなのに、今日は落ちついている。
まるでそういったものが存在することを受け入れたかのように。
「俺も知らない。でも、何か聞こえたんじゃないか」
「……!」
「今のがお前の言っている子だったのかどうかはわからないけど、
実を言えば、俺には礼を言われる心当たりがある」
「……」
「もしかしたら、これがお前の探している真実」
「止めてよッ!!」
さゆりは叫んでいた。
龍介が言葉どころか感情さえ人間とは異なる異星人に思えた。
両耳を塞ぎ、彼を頑なに拒んだ。
それは同時に、外界からさゆり自身を閉ざすと彼女は気づかない。
「馬鹿言わないでッ、そんなことあるわけないじゃないッ!!」
何かを言おうとした龍介を圧して睨みつける。
目に熱を感じたが、構わずに彼を見た。
「昨日、ここで何があったのよ。教えなさいよッ!」
さゆりは立ち入り禁止の場所にいるというのも忘れたかのように叫んでいる。
こんな状態では昨日の話をしたところで理性的に聞くはずもないと、
龍介は身体の向きを変えて出口へ向かった。
「もういいだろ。俺は行くぜ。支我と約束があるんだ」
「待ちなさいよッ」
金属片にも似たさゆりの声を背中に受けて、龍介は出ていった。
残されたさゆりは、龍介が去った後も、彼の幻影を鋭く睨みつけていた。
龍介は昨日転校してくるまでは、飛び降り事件があったことさえ知らなかった。
なのに今日は、全ての真相を知ったかのような態度をしている。
その鍵を握っているのは、間違いなくこの教室だ。
ここで彼は何を見たのか。
脳裏に浮かんだ数分前の映像をさゆりは無視した。
あれが真実であるはずがない。
きっと龍介は自分をからかおうと性質の悪い悪戯を仕掛けたのだ。
色つきのガスを使って、音声もそれらしいものを用意して。
だとしたら、許すわけにはいかない。
捕まえて白状させなければ。
さゆりは急いで龍介を追った。
後を追いかけられたら逃げなければならないかもしれない。
内心ひやひやしながら早足で四階の廊下の端まで来た龍介は、そこで振り向いたが、
長い一本道にはどんな気配もなかった。
胸をなで下ろしながら教室に戻ると、すでに支我がいた。
トイレにでも行っていたと思ったのだろうか、教室に入ってきた龍介を見ると、軽く頷く。
「ちょうど良かった。こっちの用事は終わったから、編集部に行こう」
どこに行っていたのか訊かれないのは幸運だったから、龍介はすぐに応じ、鞄を持って教室を出た。
校門を出てしばらくしたところで、支我が口を開いた。
「ひとつだけいいか」
「ん?」
「霊退治の仕事っていうのは公にできるものじゃない。霊そのものの存在が万人に知られていないというのもあるし、
霊に悩まされているということを世間に知られたくないと依頼人は考える。つまり」
「あんまり霊に関わっていることを言いふらさない方が良いって言うんだろ?」
「ああ、そうだ」
支我が朝の件について話しているのは明確だったので、龍介は反論した。
「それは判ってるんだけどな、あの女の方から絡んでくるんだぜ。
しかも、なんかあいつも霊が視えてるっぽいんだよな」
「本当か!?」
「ああ。実は昨日お前に会う前に、別の幽霊を視てるんだよ」
前方から車が来たので二人はやり過ごす。
支我はおそらく交通量の少ない道を選んではいるのだろうが、
東京にあってそれはかなりの難題で、何度となく龍介は道路の端に寄る必要があった。
龍介が再び支我の横に並ぶと、支我の方から話を再開させた。
「別の幽霊って……四階でか?」
「俺達と同じ歳くらいの女の子でさ、制服は着てなかったけど、ずいぶんはっきり視えた」
「襲ってはこなかったのか」
「全然。『紅いコートの男を斃して』って言ってすぐ消えちゃってさ。
何言ってるか意味判らなかったけど、俺達が斃したあの幽霊のことを指してたんだな」
昨日は前後の事情も知らないまま、伏頼千鶴が苦戦していたために加勢した龍介だが、
結果的にはあの少女の幽霊を救ってやったことになる。
人と幽霊を助けてやったのはそう悪い気分でもない、といったような顔をする龍介に、支我が訊ねた。
「その女の幽霊について、もう少し詳しく教えてくれないか」
「いや、それだけだよ。はっきり視えたって言っても五メートル以上は離れてたし、顔とかまでは。
あれ? でも今日視た奴とは全然違うな、そういえば」
「今日!? まさか東摩、お前」
失言に気づいた龍介だったが、手遅れだった。
険しい表情の支我に、軽く頭を振りつつ謝罪する。
「深舟に頼まれてつい、な」
「やれやれ……こうなったら全部話してもらうぞ」
「わかったよ」
龍介は今日の分の支我が知らないであろう話を始めた。
「授業が終わったあと、支我が三十分くらい待ってくれって言っただろ?
その時に深舟に頼まれて四階に行ったんだよ。で、昨日塩とかは片づけたけど椅子と机は暴れたままだったから、
直してたらいつの間にか目の前にいたんだよ」
「それはどんな幽霊だった」
「姿はぼやけた……っていうかほとんどもやにしか見えなかったな。
男か女かも判らなかったんだけど、『ありがとう』って言ったんだよ」
「なるほど、それで」
「それで、幽霊はそれだけ言って消えた。だから俺は、その幽霊が深舟が言ってた飛び降りをした子なのかと思ったんだけど」
龍介は言いながら不審に思っていた。
「あれ、おかしいな。なあ支我、幽霊って形が変わったりするものなのか?」
「そうだな……その前に、どうして死んだら幽霊になると思う?」
支我の反問に、龍介は歩きながら腕を組んで考えた。
「ありがちなのは怨みだよな。怨めしやってくらいだから」
「ああ、それが最も大きな理由だろう。怨みや無念を抱えたまま死ぬと、幽霊になりやすい。
このタイプはその念がかなり強くて、元の人間の姿を保っていない場合が多いんだ」
支我の説明が続く。
「もう一つは、自分が死んだことを知らない場合だな。この場合は死ぬ直前の服装のまま幽霊になることが多い」
「死んだことを知らないで死ぬってどういう時だ?」
「たとえば交通事故で横や後ろから追突された場合は判らないだろうな。
足を滑らせて頭をぶつけた場合なんかも、死ぬっていう認識をする前に死んでしまうかもしれない」
龍介は納得して頷いた。
そして、できれば幽霊になるような死に方はしたくないものだと思った。
「で、さっきの質問だが、普通は幽霊の形が変わることはないし、俺もそういったケースを見たことはない。
可能性として考えられるのは、幽霊になった原因が取り除かれたために成仏する、最後の瞬間だったのかもしれない」
「なるほど……でもなんか声が違ったような気がするんだよな」
「それはその場にいなかった俺には何とも言えないな。
同じ幽霊なら形が変わったときに声も変質したのかもしれないし、もしかしたら二体居たのかもしれない。
ただ、どちらにしても原因は取り除かれたはずだから、もう現れることはないと思うが」
「そう……だよな」
応じつつ、龍介にはどこか引っかかるものがあった。
落ちついて考えればその棘を探しだせたかもしれないが、道路を歩きながらでは思考をまとめられなかった。
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