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「おはよう、東摩くん」
背後から予想外の挨拶をされた龍介は、あくびをしながら振り向いた。
声の主を知って慌てて口を閉じるが後の祭りで、吸った空気の先にいた
――つまり、彼女の匂いも少し吸ったかもしれない――深舟さゆりの瞼が三分の一ほど下がった。
血色のよい彼女の肌は、朝日を浴びて白金にも似た輝きを放っている。
写真を撮って投稿すれば、素材の質だけでどこかの賞にはひっかかるかもしれないほどの美しさだが、
彼女は自覚しているのかいないのか、なめらかな額の中心にしわを作っていた。
もっとも、これは朝から他人の喉の奥など見せられたからかもしれず、
そうであれば龍介にも責任があることになる。
まさかさゆりに挨拶されるとは思っていなかった、というのが龍介の言い訳になるが、
それはあまりに情けない主張と思われたので、龍介は頭を掻いて面目ないという態度を取ってみせた。
「人が昨日から悩んでるっていうのに、間抜けな顔してお気楽なものね」
さゆりは大きくため息をついた。
肩まで落としてみせるのがなんともわざとらしく、これくらいの雑言は甘受すべきだろうと思っていた龍介に、
朝ひとつめの後悔をさせる。
歩きはじめたさゆりに肩を並べる形で、龍介も学校に向かった。
「おはよう……悩みってなんだよ」
悩みを打ち明けあうような仲では断じてないはずだ。
そう思いつつ龍介が訊いたのは、「あなたになんか言う必要がないわ」という逆方向の返事を期待したからだ。
いくら龍介が寝起きが良いといっても、深夜の二時まで霊退治を行い、一度夕隙社に戻って
それから帰宅したので睡眠時間は四時間に満たないのでは眠気の取りようがなく、
さゆりとの会話中にも再度あくびが出かけて奥歯で噛み殺す始末だ。
相談などされてもまともに答えられるとは思えず、話を打ち切るのはいわばお互いのためだ。
だが、さゆりは心持ち肩をすぼめて龍介をまっすぐ見ると、そこから心持ち視線を逸らして言った。
「東摩くんは……霊が視えることが怖くないの?」
意図がわからず小首を傾げる龍介に、さゆりがもう一度、今度はより大きなため息をつく。
まだぎらついてはいない、生い茂る葉を青々と輝かせる陽光の下には似つかわしくない嘆息に、
龍介は、三度目の生あくびをかみ殺してさゆりを見た。
「わからないのなら、誰かに話してみたら? 友達がいない東摩くんには難しいかもしれないけど」
さゆりの表現が悪意に満ちていたので、真意を理解するのに時間を要したが、
一度途切れた木陰に再び入ったところで彼女が言いたいことを悟った。
霊が視える、というのは才能ではあるが、一般に羨ましがられる類のものではない。
そういったものが本気で好きな人もいるとしても、
世の多くは「話としては好きでも本当に視えるのはごめんこうむる」と考えているだろう。
まして、仮に霊が視えたとしても、その情報を共有することはできない。
どれだけ声高に「あなたの後ろに霊がいる」と叫んだところで、
視えない大多数の人々には気味悪がられるだけであり、嘘つき扱いされるのがオチだ。
つまり、霊が視えるというのは喜ばしい能力などではなく、むしろ邪魔でしかないとさゆりは考えているのだろう。
龍介はまだ、自分が霊が視える体質であると気づいたのに日が浅く、夕隙社の面々以外に話したこともない。
そして、彼らと出会ったのが幸運であると、さゆりの発言によって改めて知ったのだった。
おそらく深舟さゆりは、霊が視える苦悩を抱えて生きてきたに違いない。
視たくもないものが視えてしまい、視えたと話せばさらに面倒なことになる。
彼女が当初、視えているはずの霊を頑なに否定したのは、その苦渋を舐めさせられてきたからかもしれなかった。
「……考えたこともなかったな」
龍介が静かに応じると、さゆりは大きな目を軽く瞠った。
だがそれも一瞬のことで、唇を引き結ぶと黒い瞳に炎を宿して睨みつける。
朝に似つかわしくない激情は、しかしどちらかといえば人形的な美しさのさゆりに、生気を注いで輝かせていた。
「そんなことだろうと思ったわ。万事にそんな感じなんでしょうね、東摩くんは」
「なんでお前に俺のことがわかるんだよ」
さゆりの美しさを龍介が認めたのはあくまでも外面であって、性格に関しては全面的に認めていない。
とにかくこの、棘が九割でできているような発言は、今までずっとこの調子で良く刺されずに生きてこられたと
感心するほど龍介の心を逆撫でるのだ。
「別にわかりたくもないけど、単純で底が浅いからわかってしまうのよ」
「底が浅くて悪かったな。あいにく俺は霊が視えるからって困ってなんかないし、
これで食いっぱぐれないならむしろ歓迎したいくらいだね」
今度はさゆりが血を昇らせる番だった。
肌が白いゆえか、それとも龍介よりも血の気が多いのか、白い顔にさっと赤みが差した。
大きく息を吸い、さらなる一撃を放とうと唇を開き、それを見た龍介も身構える。
爽やかな朝に似つかわしくない険悪な雰囲気を路上に放つ二人を邪魔したのは、後方から割って入った女性の声だった。
「おはよう、さゆりちゃん」
「お、おはよう、莢」
さゆりの顔から一瞬で怒りが消える。
その鮮やかさはブラインドを開け閉めしたかのようだったが、いずれにしても戦闘は寸前で回避されたようだった。
さゆりと同じ制服を着た、さゆりよりもわずかに背の低い少女は、龍介に気づくと大仰に身体を倒して覗きこんだ。
「あれれ? あなたは……」
おっとりとした喋り方と、豊かな栗色の巻き毛に龍介も覚えがある。
彼女は二日前に龍介にぶつかった少女だった。
「ああ、えっと……莢さんだっけ」
「あなたは……お名前を聞いてもいいかしら?」
龍介が名乗ると莢は親しみのこもった笑顔で応じた。
邪心のかけらもない笑顔は、これこそ朝にふさわしく、龍介はつられて微笑む。
隣でさゆりの眉が上下動しているのは、感情を整えているのだろう。
小気味よく龍介が思っていると、莢が無邪気に訊いた。
「それでぇ、さゆりちゃんと龍介君は何をお話ししていたの?」
龍介は自分に非がないと思っているが、答えにくい質問には違いなかった。
それこそ、霊がどうのなどといきなり言われたら、大抵の人間はその相手とつきあいを考えるだろうから。
「いいのよ、莢。行きましょう」
困惑する龍介を救ったのはさゆりだった。
理想の受け答えからはほど遠いとしても、とにかく龍介は品性を落とさずに済んだのだ。
「え、でも〜、ごめんね、もしかしてお邪魔しちゃった?」
莢は何か良からぬ方に勘違いしているようだが、もう龍介は何も言わないことにした。
さゆりも危険を感じたのか、これ以上龍介をあげつらったりはしなかった。
「もう、変な気を回さないで。莢のことを邪魔だなんて思ったことはないわ」
莢に対するさゆりの態度は完全に別人だ。
別に自分にこのように接して欲しいとは龍介は微塵も思わないが、
さゆりが同級生にこんな態度を取っているところも見たことがない。
それはつまり、莢以外は邪魔だと思っているのかもしれず、
これまでの人生で嫌いな奴というのがほとんど存在しない龍介には、さゆりの激しい性格はやや理解の外にあった。
龍介がさゆりの性格について考えている間に、当のさゆりは莢とすっかり仲良し女子高生という衣をまとっている。
それは龍介などには直視しがたい華やかさを持っていて、特に朝から霊の話などしていた龍介は、
塩をかけられたナメクジのような居心地の悪さを覚えた。
「うん、それじゃ〜ね」
幸いなことに彼女たちは龍介から離れていく。
龍介も速度を落とし、彼女たちの声が聞こえない距離まで離れると、首を軽く回して学校に向かった。
教室に着くとさゆりはいなかった。
いたのは支我正宗で、ノートを広げて勉強していた彼は、龍介に気づくと気さくに手を挙げた。
「よォ、東摩。体調はどうだ?」
「眠い」
簡潔な返事に支我は肩を揺らして笑った。
「まあ、当然だな。昨日は遅くまで大変だったな」
「支我は眠くないのか?」
「少し運動してきたからな」
支我の完璧ぶりに龍介は降参とばかりに頭を振った。
鞄の教科書を机にしまいながら、ごく自然に会話が進む。
「東摩は何かスポーツはしないのか?」
「今のところは」
仮にやったとしても、深夜三時まで起きた後に朝練などとてもする気にはなれない。
この支我正宗という男はどこにそんな体力を詰めこんでいるのか、不思議に思う龍介だった。
「そうか……俺はテニスをやっているんだが、一緒にできたらと思ってな」
「テニス……?」
車椅子に対する偏見は持っていないつもりだったが、反射的に目をやってしまった。
気づいて慌てて後悔めいた表情をすると、支我は大人の度量で受け流してくれた。
「ああ、スポーツ用の車椅子というのがあってな。健常者には及ばないが、これでなかなか激しく動けるんだ」
「へえ」
「今度一度見に来るといい」
素直に興味が湧いたので龍介が頷くと、支我は予想以上に喜んだ。
支我にはもちろん友人として以上の感情は抱いていないが、
彼との会話は少なくとも深舟さゆりよりは遙かに快適で、
彼となら上手くやっていけるだろうという確信を龍介は強くした。
「それはともかく、油断するなよ」
ノートを畳んだ支我が表情を改める。
「深舟も目の下に隈を作っていた。夜も遅かったし、昨日は色々経験しただろうからな」
そういえば少し顔色が悪かったようにも見えたが、隈の存在には気がつかなかった。
まださゆりが登校してそれほど時間も経っていないのに、いつの間に観察したのだろうか。
底知れぬ支我の能力に、龍介は驚くばかりだ。
「あいつは少し真面目すぎるところがあって、自分の弱みを人に見せることを嫌っている。
これからどうするかも悩んでいるんだろうが、誰にでも相談できる事じゃないからな」
「なら、なおさら俺に相談するはずが……」
答えかけて龍介は、朝さゆりと交わした会話を思いだした。
霊が視えるという悩みは、確かに誰に話しても良いというわけではない。
相談相手を龍介に選んだのは、彼女としては相当不本意な消去法だったのだろう。
相談される側も不本意であったとしても、もう少し親身になるべきだったのだろうか。
……それならそれで、あの悪意に満ちた話し方をなんとかするべきではないのか?
「……もし何か言われたら、その時は適当に流さずに考えるよ」
色々考えた末に龍介が発したのは、逃げともいえる呟きだったが、支我は追及しなかった。
「ああ、そうしてやってくれ」
左手で顎をつまんだ支我は話題を変える。
「そういえば、今朝編集長から連絡があって、新たな依頼があったそうだ。
あとで深舟に伝えて……そうだ、しばらくの間、深舟と一緒に行動してくれないか?」
「なんで俺が」
思わず正直すぎる感想を口にする龍介に、支我は落ちついて答えた。
「俺だとどうしてもいくらか気を遣わせてしまうからな」
龍介と支我の違い。
それは言うまでもなく、支我は車椅子に頼らなければ移動ができないことだ。
龍介は支我が他者に不満や鬱憤をぶつけるところを見たことがないが、
たとえば彼と歩いていれば先回りして扉を開けたりはするし、
移動の障害になりそうなものがあればどかしたりする。
そういったことを龍介はもちろん気にしていないし、支我も気にしている様子はない。
出会って数日ながら、おそらく二人の波長はかなり相似形を描いているのだろう。
支我の言い分はわかるとしても、さゆりとの波長は完全な逆位相としか思えない。
初対面から今日まで、口を開けばお互い気分を悪くするようなことしか言っていない気がするのだ。
それが気を遣わせないということなら、龍介の精神的ストレスの上に成り立っているわけで、
容易に認めるわけにはいかない。
「スマホで連絡すれば」
「残念ながら、俺は深舟のIDを知らない。東摩は教えてもらったか?」
「……いや」
夕隙社の方針として業務連絡はSNSを使わず、メールで行う。
同じスマホを使うのに、メールとSNSの差がどこにあるのか、詳しくない龍介にはわからないが、
だから龍介もさゆりのIDは知らない。
真正面から聞いて教えてもらえるとも思えず、また業務以外に話すこともなさそうなので、
別に知ろうとも思わなかったのが、ここにきて仇となったようだ。
「直接会えるんだから、その方が早いだろ?」
「でもなあ……俺よりは支我の方が適任だと思うけどな」
さゆりと接触を避けるのはお互いのためでもある。
そう龍介が熱弁を振るおうとしたとき、無情にも授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
「そういわずに頼むよ」
絶妙のタイミングでセリフを置いて支我は自分の席に戻っていく。
運まで彼の味方をしているのかと空しく開いた口を閉じ、龍介もうなだれつつ授業の用意をととのえた。
しなければならないが気乗りがしないことというのは、
どうしてする気になると済ませることができなくなるのだろう。
世の不条理を嘆きながら、龍介は深舟さゆりを探していた。
不本意ではあっても重要な用件だから、連絡はしないといけない。
しかたなく、休み時間になると龍介は彼女を探したが、
龍介が未だ暮綯学園の地理に不案内だからか、それとも反発する磁石のように出会えない運命なのか、
さんざん空振りした挙げ句、ようやく中庭の芝生に座っているのを見つけたのは、昼の休み時間になってからだった。
「おい」
言いかけて挙げた手を急停止させる。
彼女は一人で昼食を取っていると思ったのが、莢と一緒だったのだ。
しまった、と思ったのも後の祭りで、めざとく莢は気づき、大きく手を振った。
「こんにちはァ〜」
「ああ、うん、こんにちは」
警戒心など一グラムも感じさせない、綿菓子のような彼女の声に対すると、龍介も自然とのんびりした喋り方になる。
さゆりに対するために構えていた心の盾が溶けていくのは大変に気持ちが良かったが、
能面のような表情をしているさゆりに気づいてせきばらいをした。
「何かご用? あッ、お昼を一緒に食べたいとか〜?」
「い、いや、そうじゃなくて」
さゆりの、莢からは見えない方の半面がひきつる。
邪魔者であるとわかりきっていたので、龍介は手短に用件を告げた。
「深舟さん、放課後ちょっといいかな」
なぜか莢の顔が、咲くのを待ち焦がれていた花のように輝いた。
その華やかさは龍介をたじろがせ、思わず上体を引かせた。
「放課後ね、わかったわ」
だが、莢の豹変の理由を確かめるよりも早く、さゆりが答えた。
早く去れと言わんばかりの事務的な言い方で、龍介も上昇気流を捕まえる渡り鳥のように
逆らわずここを離れることにした。
「あらら、もう行っちゃうの? 東摩君、じゃあねェ〜」
甘く漂う莢の声を背にした龍介は、さゆりがどんな顔をしているのか想像するのは止めておくことにした。
放課後、帰り支度を整えた龍介は教室を見渡す。
言っておいたにも関わらず、さゆりの姿はなかった。
苛立ちつつ龍介は、同級生に彼女の居場所を訊いたり、探したりするような手間はかけずにすぐに教室を出た。
役目は果たしたのだから、あとはさゆりの責任だ。
俺は一切悪くない、とむしろ歓迎する気持ちになって下駄箱へと向かった。
ところが、夢気分は廊下を曲がったところまでであえなくしぼんでしまった。
「間抜けな顔してどこへ行くつもりよ」
深舟さゆりは帰ったわけではなく、単に用事をこなしていただけのようだ。
不機嫌ではないがもちろん愛想など微塵もない彼女から、龍介は目を逸らした。
「え、あ、いや、どこってこともないけど」
「そう。まさか自分から話があるって言っておいて、夕隙社に行くつもりじゃないわよね」
「まさか、そんな」
「それならいいわ。鞄を取ってくるから、少し待ってなさい」
一瞥を与えて深舟さゆりは教室へと戻っていく。
その後ろ姿を眺める龍介は、おあずけを言いつけられた腹ペコの犬のような顔をしていた。
校門を出るまで深舟さゆりは東摩龍介に話しかけなかった。
彼女の意図は明白で、龍介に罰を与えているのだ。
それが龍介にはわかり、実際、校門までの数百メートルで、龍介は胃の辺りに小さな痛みを覚えていた。
さゆりは話しかけるときも、龍介の方を向いたりはしない。
前を向いたままで眼球すら動かさず、傍から見れば姫と従者にしか見えなかった。
「で、何?」
不機嫌全開のさゆりに、まさか昼からずっと不機嫌だったのではあるまいな、と龍介は思う。
だとすればもう、二人の関係は本能的に嫌とか生理的に嫌とかに違いない。
そんな相手が同僚というのは、とても不幸だ。
自分の予想が外れていることを切に祈りつつ、龍介は眉根を寄せているであろうさゆりに告げた。
「新しい依頼があったってよ」
おそらくそれは、深舟さゆりの心中にある林檎を貫くことのできる、唯一の矢だった。
そして矢は見事命中し、さゆりは、龍介の言葉に振り向く。
振り向いたことを後悔したような表情を一瞬だけひらめかせたものの、
お互いのために龍介は気づかないふりをした。
「俺達で渋谷に行って欲しいって」
「支我くんは?」
「社長に頼まれて別の用事があるってさ」
「……そう」
それなら行かない、という返事を期待した龍介だったが、さゆりはそれほど軟弱な女性ではなかった。
「仕方ないわね。駅に行きましょ」
彼女は向きを変え、新宿駅へと歩きだす。
実は新宿駅の方向が良く判っていなかった龍介は、内心安堵しながら彼女についていった。
半歩先を歩くさゆりが、不意に話しかける。
「どうしてあんな誤解を招くような言い方をしたのよ」
「誤解?」
さゆりの肩が小さく揺れたのは、わずかにため息をついたのだろうか。
「あの子、私達が仲いいって思ってるのよ」
「ああ」
龍介もため息をつきたくなった。
女子というのはどうして男女が少し人より多く話すだけで恋仲であると勘ぐるのだろう。
これまでの学生生活でそういった噂とは縁がなかった龍介も、ついに対象となったわけだが、ちっとも嬉しくはなかった。
「根はいい子なんだけど、ちょっと夢見がちっていうか、先走りやすいっていうか」
「なんとなくわかる」
しみじみと頷いた龍介に、さゆりはしばらくなりを潜めていた攻撃性を刺激されたようだ。
続けた言葉にはやや強い調子があった。
「だからそのうちでいいから、ちゃんと説明してあげて」
「でも、否定するとかえって怪しまれないか?」
「じゃあどうすればいいのよ」
さゆりは困惑をあらわにする。
友人である莢に誤解されたままでいたくないという気持ちが、
どちらかといえば嫌っているであろう龍介に弱さをみせてしまっているのにも気づかせないのだろう。
その態度は年頃の少女そのもので、年頃の男が持つ何かを刺激された龍介は真面目に答えた。
「放っておけばいいと思う。俺達が話してるとこを見りゃ、仲が良くないってのはそのうち気づくだろ」
「……そうね」
ずいぶんと納得した様子のさゆりに、かえって龍介は一言付け加える必要を感じた。
「言っとくけどな、俺は別にお前のことが嫌いってわけじゃない」
「なッ――」
さゆりは立ち止まって振り向いた。
顔は赤いが怒っているのかどうかははっきりしない――まさか照れているということはないはずだが。
それでも龍介はフォローの必要を感じ、用意してあった続きを急いで言った。
「好きでもねぇけどな。お前が突っかかってこなけりゃ普通に話すくらいはするよ」
「私は別に突っかかったりしてないわ。思ったことをそのまま言っているだけよ」
それで険悪にならないと本気で思っているのだろうか。
龍介が彼女には判らないくらい微妙に、斜め後方に上体を反らすと、さゆりは今度は明確に照れた。
彼女は目を伏せ、小声で言ったのだ。
「でも……東摩くんがそういう風に感じているのなら、少し改めてみるわ」
龍介は目と口で三つの丸を作っていた。
宇宙人が目の前に現れたときにするかもしれない表情だった。
「な……何よ。改めるって言ったって東摩くんのレベルに合わせるだけなんだから、勘違いしないでよね」
さゆりは怒って早足で行ってしまう。
数歩遅れてついていく龍介の影は、頭の部分がしきりに揺れていた。
山手線はまだ帰宅ラッシュは始まっていないが、自由に立っていられない程度には混雑していた。
龍介とさゆりは密着でこそないものの、お互い不本意な距離で立つことを強いられる。
背中を向けて立つわけにもいかず、見つめ合うのは論外で、龍介は彼女のつむじを眺めて時が過ぎるのを待つことにした。
新宿から渋谷までは二駅で、そう長い時間ではない。
これくらいなら我慢できると踏ん張る力を両足にこめた途端、電車が揺れた。
背中から押された龍介は、とっさにドアに右手をついた。
それは自分の身を守るためであったが、ドアとの間にさゆりがいたため、図らずも護った形になった。
「……」
大きな瞳が下から見上げる。
ミサイルの発射口のように、開けば龍介を攻撃する口は、攻撃の口実があり、
弾薬を積んで目標も設定したはずなのに、龍介に向けて武器が発射されることはなかった。
それだけで済んだのは、反射神経と筋力の賜物で、彼女の身体に一ミリたりとも触れていなかったからだろう。
もしも不可抗力にせよ触っていたら、きっとさゆりは人前であろうとお構いなしに罵倒したに違いない。
そうならなかったことに安堵した龍介の鼻腔を、甘い香りがくすぐった。
多くの人の様々な臭いが入り交じった電車の中で、その匂いだけがひときわ強く漂ってくる。
どこから、と問えば答えは一つしかなく、龍介は発生源である、淡い光の輪が浮かぶ黒い海を見下ろした。
それは紛れもなく良い匂いで、持ち主に対する好悪とは別に、自然とより多く体内に導き入れようとする。
すると、見上げるさゆりと目が合うのは必然だった。
「な、何よ」
龍介にとって予想外なことに、さゆりは目が合った途端狼狽するように顔を伏せた。
近くで見るなくらい言われると思っていたので、龍介は柄にもなくさらに押してくる人波から強固にさゆりを護った。
とはいえ、混んでいる車内では、腕の長さ分の空間を確保するのも容易ではない。
どこか近くの後方で舌打ちが聞こえ、それに対して龍介が尻を押しだすようにして抵抗したとき、
渋谷に到着するというアナウンスが聞こえた。
「ほら、降りるわよ」
開くドアがこちら側であったのが幸いして、さゆりと龍介は弾きだされるように降りる。
乗り降りする人波に揉まれながら、二人は必死に改札口へと向かった。
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