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……神の使いとして崇められることもある龍。
未確認生物としてはあまりに巨大であり、もしも実在しているのならこれほど目撃情報が少ないはずがない、
空想上の生物に決まっていると思う読者諸氏も多いことだろう。
だが、二十世紀末には新宿上空に龍が現れたという信頼できる情報を我々は極秘に入手している。
龍は決して空想上の生物などではなく、実際に存在する神獣なのだ!
我々はこれからも龍について情報を集める予定である。
続報を期待して待たれたい。
「うーん……」
原稿を読み直して龍介は腕を組んだ。
これまで雑誌の文章など上手い下手を気にして読んだことなどなかったのだが、
書く側に回ってみるとこれが実に難しい。
気をつけていてもいつのまにか同じ表現を繰り返してしまったり、
やたらと逆説の接続詞を使ってしまっていたりするし、
そもそも限られた文字数で明確にテーマを伝えることができていないのだ。
この点は残念ながら同僚にして同級生である深舟さゆりと歴然とした差があり、
オカルトの知識が多少勝っているという点を差し引いても、
彼女の方がすでに採用されている記事の本数は上だった。
頭の良さを彼女と競うつもりはないとしても、この分野では負けたくない。
それにはもっと本を読み、文章を書く練習をしなければならないだろう。
道は険しいが、学校の勉強よりも確実に楽しく、やりがいもある。
夕隙社に一生就職するかどうかはまだ決めかねていても、一つの選択肢として悪くないと思うようになっていた。
気配を感じて龍介は顔を上げる。
「ナァゴ」
いつのまにかシークロアが、龍介の机に積まれた本の上に乗っていた。
黒い毛並みにトパーズの眼を持つ、夕隙社のマスコット猫だ。
彼と真正面から見つめあった龍介は、視線を外さないまま、手探りで机の上にあった猫じゃらしを掴むと、
不意を突いて二人の顔の間に出現させた。
「フニャア!」
シークロアが驚き、両手で捕まえようとする。
龍介はこれを上手く躱し、彼の手が届きそうで届かないところに次々と移動させていった。
追いかけてくるシークロアの手から逃れつつ、乱雑に積まれている本や資料を崩さないように、編集部の隅に移動する。
彼の鳴き声が変わったところで猫じゃらしを捕まえさせてやり、ごろごろと転げ回っているうちに、
冷蔵庫に行って彼用の牛乳を取ってきて、彼の前に置いてやった。
「ナァオ」
わかっているじゃないかとばかりに喉を鳴らし、シークロアは牛乳を舐めはじめた。
この黒猫は決して人懐っこくはないらしいのだが、龍介にはなぜか初対面から懐いていて、
暇になると龍介に遊び相手を要求するのだ。
それが何故か龍介の行き詰まっているときとタイミングが重なることが多く、
絶好の気分転換として龍介は重宝していた。
「ふう」
「ニャア?」
龍介のため息を話しかけられていると勘違いしたのか、シークロアが顔を上げる。
図らずも彼の食事の邪魔をしてしまった龍介は、何でもないのだというように仔猫の喉を掻いてやった。
「フゴォ」
ところがこれは意に添わなかったようで、シークロアは顔をそむけて龍介の手の届かないところに行ってしまう。
肩をすくめ、原稿執筆に龍介が戻ろうとすると、シークロアが低く唸った。
龍介に対してではなく、夕隙社の入り口の方を向いている。
誰かが来るのだろうという予測は当たり、ほどなく扉が開き、浅間萌市が入ってきた。
彼は龍介の同僚、つまり夕隙社の一員で、龍介と学校は違うが同じ高校三年生だ。
彼の通う工業高校は制服がないらしく、詰め襟学生服のまま夕隙社に来る龍介と異なり、いつも私服だ。
今日も緑色のフランネルシャツと、黒のジーンズをやたらと余っているベルトで留めるという、
これが制服なのではないかと疑ってしまうくらいいつもと同じ服装をしていた。
身だしなみに関しては偉そうなことはまったく言えない龍介は、彼の服について指摘したことはない。
しかし、同じ服装を何着も持っている可能性は低いと思われ、
そうなると導き出される結果についてはあまり考えないようにしていた。
「やあ、東摩氏。お仕事中ですか」
「まあな……浅間は自分の分は終わったのか?」
「はい」
萌市はあまり編集部にいることがない。
いつもはこのビルの一階奥にある研究室で、霊退治に役立つ様々な装置を開発しているらしい。
では彼は出版の方は手伝っていないのかというとそうではなく、
彼の得意領域である境界科学において存在感のある記事を毎号に渡って執筆していた。
ちなみに境界科学とは、龍介が聞いたところによると、「現在の科学理論で証明できない科学」だそうで、
霊やUFO、UMAなど現在オカルトと呼ばれるものほとんど全てがあてはまるのだという話だった。
それならば彼の守備範囲は相当に広くなるはずで、実際、萌市は夕隙社で扱われるどのような話題でも
かなりの知識を有している。
おそらく彼が居なければ夕隙社が毎月発行している雑誌はかなり穴が空くことになり、
その点では龍介と比較にならないくらい存在価値があった。
「何か用事が?」
「はい、飲み物を取りに」
「下に冷蔵庫はないのか?」
「ええ、あまり電力を消費すると、ブレーカーが落ちてしまいますから」
ひとり暮らしをしていても、その辺りを気にしたことはないが、
仮にも会社が冷蔵庫を一台追加したくらいでブレーカーが落ちてしまうなど、少し電力事情に不安があるのではないか。
とはいえ無駄な経費はとことん嫌うのが龍介達のボスである伏頼千鶴であるから、やむを得ないのかもしれない。
そんなことを龍介が考えていると、編集部の奥から枯れた声がした。
「お〜い、萌市く〜ん」
気持ちの悪いくらいの猫撫で声は、おそらくシークロアを振り向かせることはできないだろう。
龍介は自分が呼ばれているのではないのを幸いに、聞こえないふりをした。
呼ばれた当人である萌市は、あからさまに怪しい呼びかけにも律儀に応じてしまう。
「あッ、はい、なんでしょう左戸井さん」
「タバコ切らしちまってよ、買ってきてくんねぇかな」
「えッ!? いえ、あの……僕は高校生なのでタバコを買いに行く事は……」
「変装してきゃいいだろ。マスクとかカツラとか、その辺に転がってんだろ」
一転して横柄な口調で左戸井は言った。
四の五の言わずに買いに行け、と思っているのがありありとわかる態度だ。
形だけとはいえ上司である左戸井の命令に対して、萌市はメガネを正して反論した。
「科学とは――組織化された知識である」
「は……?」
「お言葉ですが、コンビニや駅などの監視カメラにも導入されている最新の顔認証システムでは、
変装程度で別人だと認識させることはできません。
新宿駅の人混みの中からだって一人の人間を捜し出せるのが現代の科学の力です」
左戸井はうんざりしたように首を振った。
「ちッ、わァったわァった。後で自分で買いに行くよ。
しかしな萌市、科学だ何だってそんなに理屈っぽいと女にモテねェぞ? なあ東摩」
確かに、こんな理屈を述べたところで、そもそもまともに聞いてくれる女の子は居そうにない。
だからといって常に白衣を着て無精髭を生やした男がもてるとも思えないのだが、
年長者の顔を立てて、龍介はあいまいに頷いておいた。
「女心は科学じゃ測りきれねェってな」
自分で切らしたと言っておきながら、胸ポケットから煙草を取りだそうとして左戸井は舌打ちする。
彼の苛立ちに追い打ちをかけるように、萌市が言った。
「ご心配なく、僕は世間の女性には興味ありません。僕にはアイちゃんがいますから」
「アイちゃん? 誰だよそりゃ」
「野々宮アイちゃんです。 元はグループで活動していましたが、今はソロで活動しているアイドルです。
僕は彼女が新人の頃から注目していてですね、先週の金曜のバースデーライブは盛り上がりましたァ。
そうそう、グループ卒業も衝撃的でしたが、雨の代々木体育館のライブは今でも伝説に――」
いきなり饒舌になる萌市に、龍介はやや薄気味の悪さを覚えた。
趣味は人それぞれと解ってはいても、度が過ぎていると、他人には受け入れがたくなる。
これは龍介が萌市のように熱中する趣味を持っていないがゆえの感想かもしれないが、
左戸井が吐き捨てるように口にした感想には、共感できるものがあった。
「なんだ、アイドルかよ……軟弱な日本男児が増えるわけだぜ」
「ふっふっふ、照れますね」
「褒めてねェよ」
ある種漫才のようなやり取りが一段落したとき、龍介達の背後で突然扉が開いた。
ノックも挨拶もなく、非礼極まりない。
扉に背中を向けていた萌市などは腰を抜かさんばかりに驚いて、素早い動きで龍介の後ろに回りこんだ。
男は一番近くにいた龍介に、右肩を突きだすように正対する。
「邪魔するぜ。夕隙社ってのはここか?」
「そう……ですが」
こういったケースは初めてで、龍介がやむなく応対すると、男は一切の前置きを省いて本題に入った。
「上のモンはどこだ」
名前すら名乗らない失礼な男に、龍介は圧倒されている。
こうしたいかにも恫喝と暴力で世の中を渡っていそうな輩と出会うのは初めてで、
百の理屈も吹き飛んで少し怯えたのは、霊が視える以外何の変哲もない高校生とすれば無理もなかった。
「おい、なんとか言えよ。ナメんじゃねェぞ、ゴルァッ!!」
気持ちの上で半歩退いた龍介を見逃さず、男は物理的に肩を半歩前に出す。
ほとんど接触しそうになった男の身体からは、男とは思えないほど爽やかかつ芳醇な匂いが漂ってきたが、
龍介はそれどころではなく、生唾を呑みこむのがやっとだった。
訊いてからまだ五秒と経ってはいないのに、さらに苛立ちを募らせた男は、ついに龍介の胸ぐらを掴む。
一体何がどうなっているのか、状況の推移が全く掴めないまま、
龍介が理不尽極まりない暴力を浴びせられようとしたとき、予期せぬ方向から救援が現れた。
「夕隙社に出入りたァいい度胸じゃねェか。どこのモンだ?」
「さ、左戸井さん」
サンダルの音をぺたぺた鳴らしつつ左戸井が近づいてくる。
その歩き方はいつもと変わらぬだらしないものに龍介は見えたが、
男はわずかに胸ぐらを掴む手を緩め、左戸井の方を向いた。
「てめェが責任者か?」
「俺はしがない運転手さ。で、ヤクザが何しに来たんだ?」
「……」
龍介にはあれほど返答を急かしたのに、男は苦虫を噛み潰したような表情のまま、
左戸井を睨みつけるだけで無言だった。
「フン、まあいいさ。ウチのボスは今屋上だ。東摩、案内してやんな」
龍介は落胆した。
一瞬でも彼を格好良いと思った自分を恥じた。
彼は結局いつものようにトラブルを避け、居ても居なくても同じ、怠惰な日常に戻ることにしたのだ。
窮地は救われたものの、上役とはいえ女性にトラブルを押しつけようとする左戸井を本気で睨みつけた。
龍介の苛烈な眼光に刺されても、左戸井は全く動じなかった。
白衣のポケットに手を突っこんだまま、龍介を助けようともせず、夕隙社への侵入者を撃退しようともせず、
男が龍介を引きずるように編集部の外へ連れだそうとしても、動こうともしなかったが、
男が部屋を出ていこうとするときにようやく声をかけた。
「おう、そうだ。ボスが依頼を受けなかったからっておかしな真似はすんじゃねぇぞ。
下手な真似しやがったら今日が火暮会の命日になるぜ」
「――ッ!?」
それは烈しくも上ずってもいない、煙草を編集部の誰かに頼むときの、いつも通りの左戸井の声だった。
だが、男は一瞬声を詰まらせ、思わず左戸井の方を振り返った。
そこに居るのはボサボサの髪に無精髭を伸ばした、見るからに冴えない風貌の中年男だけだ。
それでも男は龍介にそうしたような因縁をつけたりはせず、黙ってエレベーターに向かったのだった。
男が口を開いたのは、エレベーターが動きだしてからだ。
「おい、あの野郎何モンだ? 一瞬だがあの野郎の見せた殺気はハンパなかったぜ」
気のせいだろうと龍介は思った。
殺気など感じなかった。
きっとこの男はそれほど大した奴ではなく、左戸井のハッタリに怯えただけなのだ。
左戸井程度のハッタリを見抜けないのなら、どうということはない。
それに幽霊に怯えるヤクザなど、笑い話のネタにしかならないではないか。
そんなことを考えていると、エレベーターが到着を告げるベルが鳴り、舌打ちした男に肩を小突かれた。
「ちッ、使えねェ野郎だな、さっさと案内しやがれ」
案内も何も、エレベーターが屋上に着いたらあとは一直線だ――そう言ってやりたいのを、
龍介は呑みこんで屋上へと繋がる扉を開けた。
伏頼千鶴は沈む夕陽を見ていた。
夕隙社のあるビルは五階建てに過ぎず、街を見渡すなどといった風情は全く味わえない。
だが、太陽が二本の巨大なビルの間を埋め尽くす時間があり、小さな夕隙社のビルの屋上全てを、
異世界のように染めるのが好きだった。
自身の伸びた影がビルの正方形を丁度二分する位置に、太陽を背にして千鶴は立つ。
子供じみたこういった行動が、千鶴は好きだった。
人の世はこんな風に両断することはできない。
時には強く、時には折れ、あるいは混ざるのも良しとしなければならない。
少女と呼ばれる年齢はとうに過ぎ、世間の荒波に揉まれつつも、転覆もせずにどうにか渡ってはきた。
その舵取りに自信はあっても、また、針路を変えるつもりなどなくても、
これくらいの他愛もない空想をするくらいは許されるはずだった。
柵にもたれた千鶴は、視線を上に戻す。
もう太陽は舞台袖に姿を消そうとしており、そこには灰色――汚いが、千鶴が生きる世界があった。
これで仕事に戻ろうと彼女が煙草の最後の一息を吸い、吐きだしたところで、
彼女以外には訪れる者もない、屋上へと続くドアが開け放たれた。
あと数秒、余韻に浸りたかったという気持ちを、煙草と一緒に揉み消した千鶴は、
花園に入ってきた無粋な男達を出迎えた。
「あら、東摩じゃない。どうしたの?」
「えっと、この人が――」
案内しようとした龍介を押しのけ、男が前に進み出た。
苛立つ龍介など気にも留めない。
一目で千鶴は男がどのような職業の者か見当をつけたが、まずは出方をうかがうことにした。
「俺は火暮会の山河虎次郎ってモンだ。江戸川区で任侠やってる。あんたが責任者か?」
「夕隙社社長の伏頼千鶴よ。ヤクザが何の用? 取り立てに来たのなら、貧乏出版社なんで無駄よ」
「……」
さすがの貫禄というべきか、千鶴は男がヤクザと聞かされても顔色一つ変えなかった。
自信たっぷりに腕を組み、虎次郎の挑むような視線も平然と受けとめている姿は、
背負った夕陽と相まって映画の主人公のような力強い印象を龍介に与えた。
「あなた、肩に何か憑いてるわね」
「何だと……? クソッ、こんなトコまで来やがるたァ、姿を見せやがれッ!」
千鶴が言うや否や虎次郎は構えを取り、虚空に向かってパンチを繰りだした。
何の格闘技も学んでいない龍介と異なり、拳は鋭く、さまになっていたが、何者の影をも捉えることはできなかった。
シャドーボクシングというには拳に力が入りすぎている虎次郎の動きを、高笑いが止める。
「冗談よ。悪霊なんて憑いてないわ、安心なさい」
「なッ――このアマ、上等じゃねェかッ、ぶっ殺してやるッ!!」
からかわれたと気づいた虎次郎は、本物に近い殺意を肩に乗せて突進しかけた。
止めに入ろうと龍介が動きかける。
すると、千鶴は左手を腰に当て、右手は前に突きだして人差し指を立てた。
そのポーズはやはりさまになっていて、龍介に憧憬を抱かせる。
「でも、悪霊が現れたのは本当。そうでしょ? そうでなければヤクザがウチに血相変えて乗りこんできたりはしない」
「……」
停止した虎次郎は拳を固めたまま、ぐっと肩を震わせる。
舌先三寸で暴力を防いだ千鶴は、安堵しかけた龍介をよそに、さらに良く燃える油を注いだ。
「だけど残念ね、ウチはメールで依頼が基本なのよ。悪いけど出直してちょうだい」
「……」
虎次郎の前方の空気が、陽炎めいて揺らめく。
見たこともない西部劇の決闘を龍介は想像した。
挑発されたとはいえ、こんなに本気で人が怒るのを初めて見るが、千鶴は平然としたものだった。
「と、言いたいところだけど、ヤクザも怖れる悪霊なんて興味があるし、いいわ、まずは話を聞いてあげる」
これが大人というやつなのだろうか。
ヤクザを怖れないというのもさることながら、血相を変えて飛びこんできた男を相手に一歩も引かずに交渉し、
あっという間に立場を有利にしてしまう。
かといって完全に拒絶もせず、あくまで依頼人として扱う交渉術は、龍介が初めて見る世界だった。
このまま夕隙社に就職するのか、それとも違う道を見つけるのか、まだ自分でも解らない龍介だが、
この千鶴の話術は学んでおいて損はないはずだ。
さすがに小さいとはいえ出版社を切り盛りするだけはある、と龍介は尊敬の念を新たにした。
当初の勢いを削がれた虎次郎は、ややふて腐れたように話し始めた。
「別に怖れてなんざいねェ。いねェが、親父が悪霊に取り憑かれたなんて他の組に知れたら、
すぐに縄張りを奪おうって下衆共が群がってきやがる。だからこの件は組じゃねェ、俺個人で動かねェとならねェんだ」
そう前置きした虎次郎は、疑わしげに千鶴を見た。
「どんな霊でも祓えるってのは本当だろうな?」
「報酬さえ払うのなら」
言い切る千鶴に、プロフェッショナルを感じたのかもしれない。
虎次郎は同意したが、念を押すのも忘れなかった。
「……よし、いいだろう。親父に憑いている霊を祓ったら幾らでも払ってやる。
だが、いいか、もししくじりやがったらそん時ァ――」
「言われるまでもないわ。お互い非合法同士、腹を割って話そうじゃない」
千鶴の態度に信用できると判断したのか、虎次郎は語り始めた。
「事の起こりは一週間ほど前だ。俺の親父――火暮厳次郎の具合が悪くなってな、
それまでも調子が悪そうにすることはあったんだが、どうも今回のは只事じゃねェんで医者に診せようってなってな。
そうしたら親父の奴、医者なんかにゃ絶対に治せねェって梃子でも動きやがらねェ。
まァ医者が嫌いなのは今に始まったことじゃねェが、あまりにも強情なんでな、
こっちも意地になって下のモンに無理やり運びださせようとしたら、ポロっと漏らしやがったのよ」
「幽霊に取り憑かれているって?」
「あァ。まァ、最初はそんな直球じゃなくて、この世のモンにゃ治せねェとかだったがよ、
とにかく、霊が取り憑いているってことはなんとか聞きだせた。
どうも一ヶ月くらい前から憑いてやがったらしい」
「なるほどね。どんな霊が取り憑いているのかは訊いた?」
「それが――」
虎次郎は言いよどんだ。
龍介と千鶴の態度を伺っているようでもあったが、二人が真剣に聞いていると判断したのか、程なく話を再開した。
「それが、ガンマンの霊だってんだ」
「……ガンマンの霊とは、また珍しいのが現れたわね」
虎次郎の話を聞いて、千鶴は腕を組んだ。
まず、日本に当然ガンマンという職業は過去にも存在しない。
そして霊は海を渡ることはないと言われている。
証明されたわけではないが、霊が現世に留まるのは、何らかの強い未練があるからだと考えられていて、
そのような未練は当然、霊が――霊となる前の生者が死んだ場所と、距離を隔てて存在する可能性は低いだろうし、
たとえば、大切な物を奪われて殺された場合などは、その物に強い執着をして憑くことができなければ、
死んだ場所で霊となるのだ。
「もう何人も祓い屋や祈祷師を呼んでみたが、祓うのに成功したヤツはいねェ。
霊の野郎は親父の枕元に立っちゃァ『カエセ』って言いやがる」
「カエセ、ね。親父さん……火暮厳次郎さんが昔何かを借りたとかは?」
「ガンマンからか? 親父は昔ながらの任侠で、外国嫌いで有名だ。
そもそも親父は借りを作るのが大嫌いで、にわか雨に傘を借りるのだって嫌がる始末だ。
外国人に何かを借りるなんてありえねェな」
「他には?」
「霊の野郎が現れるのは二日に一度らしい」
「二日に一度? それは正確にそうなの?」
千鶴の質問が鋭さを増した。
龍介には何故だかわからないが、何か引っかかる点があるのだろうか。
「お、おう……親父はそう言ってるが、本人に訊くのが確実だろう」
そこまで聞いて千鶴は両手を打ち鳴らした。
乾いた音が紅色に染まる魔都に、弾けて消えた。
「昔ながらの任侠の親分に取り憑くガンマンの霊。……いいわ、この件、夕隙社が受けたわよ。
東摩君と……今日は萌市が居たわね、二人でただちに現地に行って調査してきなさいッ」
虎次郎を押しつけた時点で屋上から逃げておかなかったことを龍介は後悔した。
霊退治が嫌なのではなく、任侠の親分に会いに行くということは、当然ヤクザの家に乗りこむということだ。
自分をまっとうな高校生だと信じている龍介は、ヤクザなどには極力関わりたくなかったのだ。
とはいえ、千鶴の命令が覆される可能性は、ツチノコを捕獲するよりも低い。
龍介は生贄……ではない、頼りになる同行者をつけてもらうよう提案してみた。
「あの……支我は?」
「深舟と小菅の三人で北区の飛鳥山公園で見つかったミステリーサークルの取材に行ってるわ」
本当なら龍介もその取材に同行していたのだが、原稿がボツを喰らったために居残りを選んだのだ。
格好をつけて――というか、さゆりの安易な挑発に乗って支我と別行動を取ってしまった自分に、
龍介はほぞを噛む思いだった。
龍介がヤクザの本拠地に乗りこむのを好まぬように、素人が仕事に来ることを好まぬヤクザもいる。
千鶴ではなく龍介が霊退治に行くと聞いて、虎次郎は憤慨した。
「おい、こいつはアルバイトじゃねェのか!? こんな野郎に霊が祓えるのか?」
龍介は学生服を着ていたから、虎次郎が疑うのも無理はない。
龍介は見た目に筋肉隆々ではなく、怪しい術を使いこなしそうでもなく、
そこら中にいそうな高校生にしか見えず、事実そこら中にいる高校生でしかなかった。
ただ一点を除いては。
「霊を祓うのに歳は関係ないわ。東摩はウチの期待のホープよ」
「だけど、いくら何でもよ……」
半信半疑どころか一信九疑くらいで虎次郎は千鶴を見たが、
彼女の返答は最後までヤクザという非合法な存在を毛ほども怖れていなかった。
「信じられないというならそれでもいいわ。依頼はなかったことにして、別の業者を当たることね」
「くッ……」
引き下がらざるを得ない虎次郎は、溜まった憤りを龍介にぶつける。
彼の眼光は千鶴とはまた異なった威圧感に満ちていて、龍介はたじろいでしまった。
それがまた虎次郎の怒りを招いて、龍介は謂われのない暴力を受けそうになる。
「それじゃ頼んだわよ」
険悪な二人などどこ吹く風で、千鶴は手を振ったのだった。
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