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東摩龍介が暮綯學園に転校して、一月半が過ぎていた。
この期間で学んだことはと問われれば、第一に、購買に一秒遅れると死ぬのだと彼は答えるだろう。
龍介の所属する3−Bの教室は、最も遠いA組に次いで購買への距離がある。
しかも龍介の席は扉から遠く離れた窓際で、この地理的なハンデを克服すべく、
龍介や他の数名の男子生徒は四時限目の終わる数分前から、
出塁した野球選手がリードを取るように椅子から半分身を乗り出し、
すぐにダッシュに赴けるよう右足を机の外に出しておく術を身につけていた。
真剣さにおいてはプロ野球選手にも劣らない、龍介達の食欲に対する努力だが、中にはこれを認めない教師もいる。
チャイムが鳴る、あるいは授業の終わりを教師が告げるのを待ち焦がれる生徒達に対し、
牽制球を投げるように睨みをきかせ、肩すかしを食わせる教師は、龍介の知る内三人はいた。
中でも陰険さにおいて比類ないのが数学の教師で、龍介達が黒板の方を向いていないのを見つけようものなら
わざと授業を引き延ばしにかかり、チャイムが鳴ってからことさら嫌味に口の端を曲げて授業の終わりを告げるのだ。
そんな日は当然目当てのパンは買えないことになり、
龍介は怒りを食欲に転化させてどうにか確保したパンをむさぼり食うのだった。
水曜日の四時限目は龍介達の担任でもある小太りの教師が受け持つ日本史だ。
彼は生徒達との交流を諦め教科書の進行具合にのみ心血を注ぐタイプでも、
逆に生徒達に媚を売るように聞きかじった流行をさも詳しいように語るタイプでもなく、
結果として太っている以外の印象が薄い、定年まであと十年ほどと見られるごく普通の教師であるが、
長い教師生活で押さえるべきポイントは把握しているのか、授業にはそつがなく、
何より昼休み前の授業では必ずチャイムが鳴る前に授業を終えてくれる、欠食高校生達には神のような存在だった。
「じゃあ授業はここまで。各自ちゃんと復習しておくように」
B組の生徒のおよそ五分の一が購買組であり、一番乗りを目指すのはその半分、四人ほどだ。
彼らはそれぞれの姿勢でシグナルが青になるのを待ち受けていて、教師が教壇を降りるのがその合図だった。
龍介のポジションは窓際ではあるが、扉に対しては一直線に走れる。
おかげで一人ずつしか通れない扉を最初に抜けられる割合は三割を超えていたが、
この日はチェッカーフラッグを受けることはできなかった。
立ちあがった拍子に左足を机にぶつけてしまい、机の上の物を派手に落としてしまったのだ。
「おわっ」
餌を撒かれた鳩のように慌てて拾い集めた龍介だが、全てを回収して机の中に放りこんだ時には、
他の三人は影すら見あたらなかった。
舌打ちしつつ扉を抜け、それでもまだ勝負は捨てていないと加速態勢に移ろうとする。
最小限の動きで身体の向きを変えた龍介は、進行方向から少女が近づいてくるのを見て慌ててブレーキをかけた。
もう完全に第一波には間に合わないが、購買に行く途中で女生徒とぶつかり、怪我でもさせたら高校生活は終わる。
いさぎよく諦め、龍介は道を譲った。
横に避けた龍介に、女生徒が立ち止まって声をかける。
「あッ、東摩くん」
「ち……莢さん」
龍介がさゆりの友人であるこの少女を名前で呼ぶのは、彼女と親しい間柄というわけではない。
長南と書いてちょうなん、と読む変わった苗字の特に発音を、
本人はどうやら他人が思っている以上に気にしているらしく、
顔見知りといった程度にすぎない龍介にも、姓ではなく名で呼ぶよう強く要求されたのだ。
とはいえ、彼女とはクラスが違うため、呼びかける機会が少ないのでうっかりすると禁忌を犯してしまいそうになるのだが、
今回はギリギリセーフらしく、莢は人好きのする笑顔で龍介に挨拶した。
「こんにちは。さゆりちゃん、いる?」
「ああ、ちょっと待って」
教室に引き返した龍介はさゆりを呼んだ。
龍介に呼ばれて一瞬、羽ばたく鳥の翼のように眉の形を変えたさゆりは、
龍介が親指で指し示した先で莢が手を振っているのを見つけると、再び鮮やかに表情を変えて駆け寄った。
「あれッ、今日は一緒に食べる約束してたっけ?」
「えへへッ、実はね、お弁当を作りすぎちゃって、一緒に食べてくれないかな〜って」
出遅れすぎてもうめぼしいパンは残っていないだろうが、とにかく何かを食べないと寝ることもできないので、
用は済んだと判断した龍介が購買に向かおうとすると、莢に呼び止められた。
「東摩くんも一緒にどう?」
「俺!? いいの?」
龍介の声が幾らかうわずったのは、女の子の弁当を食べるというイベントが人生初めてだったからだ。
彼女が自分に好意など持っていないと判っていても、何しろ女の子の弁当には夢が詰まっている。
龍介が思わず小躍りすると、莢がいかにも可笑しそうに笑った。
「もちろんッ。それじゃ、外に行きましょう」
「良かったわね、東摩君。莢のお弁当が食べられるなんて。他の男子に妬まれるかもしれないけどね」
さゆりの声には花園に害虫は必要ないというニュアンスがはっきり滲んでいたが、
龍介は図々しく相伴に預かることにした。
三人が廊下を歩いていると、支我と行き会う。
おそらく職員室に行っていたのだろう彼は、三人を見ると気さくに手を挙げた。
「おッ、みんな集まって昼食か。相変わらず仲がいいんだな」
「支我くんも一緒にどう?」
「いいのか? ありがとう、長南。それじゃ弁当を取ってくるよ。中庭だな?」
莢は支我には名前で呼ぶよう通達を出していないようだ。
自分と支我の差がどういった理由によるものか、少しだけ龍介は気になったが、
この藪にはかなり危険な毒蛇が潜んでいそうなので、あえてつついてみようとは思わなかった。
暮綯學園の中庭にはそこそこの大きさの芝生があり、昼食をここで採る生徒も当然ながらいる。
今頃の季節は風が心地よいのもあって、十組を超えるグループが思い思いの場所で昼食と雑談に花を咲かせていた。
支我が弁当を取りに行っている間に、龍介も購買で残っているパンを適当に買いに行く。
戻ってくるとちょうど支我も来たところで、三人は芝生の上に、支我は車椅子のままで弁当を広げた。
ただ一人の購買組である龍介は、さりげなく各人の弁当を見る。
支我は普通のサイズで、それより一回りは小さな弁当箱のさゆりも、女性であることを考えればおかしくはない。
次いで莢の弁当箱を見た龍介は、支我のより一回り大きく、さらに二段重ねになっているのを見て絶句した。
まるで重箱で、作りすぎた、というのは社交辞令だと思っていたのだ。
「みんなで食べてくれたら、たくさん作ってきた甲斐があるってものだよ」
「莢は本当に料理が上手なの。お母さんが良く教えてくれてたみたいで」
「いつか愛する人に毎日作ってあげるための修行なのよん、なんちて」
「いい奥さんになれそうだよね、莢さんなら」
莢が軽妙に話すので、龍介も軽く乗ってみると、途端にさゆりに睨まれた。
「な、なんだよ」
「東摩君、まさか良からぬ事を考えてないでしょうね」
「良からぬことってなんだよ」
実は見当はついている。
考えすぎにも程がある、というのを暗に言いたくて、あえて知らぬふりをしてみたのだ。
「調子に乗って莢にちょっかい出したりしないでしょうねって言ってるのよ」
ところが、さゆりは少し印鑑の場所がずれただけで一から書類の書き直しをさせる役人のように、
この件に関しては一切の妥協をしないと凄んだ。
「出さないよ、出すわけないだろ」
「それもちょっと傷つくなあ」
莢がおどけて言うが、さゆりはなお龍介を睨んでいる。
正直勘弁して欲しい、と龍介が思いはじめたところで、莢が弁当箱を開けた。
弁当箱の中は色とりどりのパラダイス……ではなかった。
一面に広がるのは黄金色で美味しそうではあるが、圧倒的な量で大きな箱を埋め尽くす唐揚げだった。
「うっかりしちゃって鶏肉一パック全部作っちゃったの」
それは確かにさゆりだけでは足りないだろう。
てへ、と舌を出す莢が二段目を開けると、そこにはアスパラベーコンとフライドポテトが所狭しと並んでいた。
詰め方に女の子らしさはあるが、量が男用すら凌駕しているので混沌としている。
「唐揚げを一杯作っちゃったから、これはもうパーティー風にして誤魔化すしかないなと」
「なるほど。それじゃパーティーしないわけにはいかないな」
「そうなのだ、いかないのだ。さ、食べて食べて」
龍介がしかめ面で頷くと、莢も真面目くさって応じ、同時に破顔した。
どうやら莢とは波長が合うようだが、隣のさゆりは遺産の独り占めをもくろんで関係者を殺したのに、
あと一歩というところで見破られて名探偵を睨みつける悪女のような顔をしている。
和やかな席でこれだけ敵意を見せるのも凄いと思いながら、
龍介は奇妙な吸引力のあるさゆりの眼光から意図的に目を逸らし、山ほどある唐揚の一つをつまんで口に入れた。
「ああ、美味しい」
「本当? やったァ」
褒める龍介と喜ぶ莢は、いかにも仲の良い男女だ。
その一方でさゆりが龍介に向ける眼光は焦げそうですらあり、
情念の渦から離れたところにいる支我は、二つの感情に挟まれる男を興味深く見ていた。
「ほら、支我も食べてみろよ」
さゆりの視線から逃れるためだろう、龍介が唐揚を取ってよこす。
受け取って食べた支我は、礼儀正しく感想を言った。
「ああ、本当だ。美味しいな、これは」
できればあとほんの少し、三秒半ほど揚げ時間を早くしたらもっと美味しくなったに違いない。
けれども支我はそんな考えはおくびにも出さなかった。
「わァい、支我くんにも褒められたァ」
「良かったわね、莢」
さゆりの反応を見て支我は、彼女が龍介に見せた苛烈な反応は、何より莢を中心に物事を考えているのだと知った。
要は莢が誰かと仲良くするのが気に入らず、特に波長が合っていそうな龍介はほとんど敵であるというわけだ。
過剰とも思えるさゆりの態度だが、龍介の方は転校当初よりも大人になったらしく、
彼女の敵意をまともに受けとめようとはしない。
龍介に対するさゆりの突っかかりようを見ればそうならざるを得ないのだろうが、
さゆりが龍介にのみ激しい態度を見せるという事実も注目すべき点だ。
好意の裏返しなどということはないとしても、溜めこむよりは良いはずだ。
同僚である以上、仲が悪いよりは良い方がいいに決まっている。
ならばしばらくは余計な介入をせずにおくべきだろう。
唐揚げ一個を食べ終える間に、同僚と友人の関係についてカウンセラーばりに分析していた支我は、
自分の名前が出されたところで意識を外に戻した。
「さゆりちゃんだってちゃんと作ったら、支我くんも東摩くんも喜んで食べてくれるよ、ねッ」
「ん……」
「そうだな」
男子二人の微妙な返事に莢が小首を傾げる。
女子の友人に対するひいき目を抜きにしても、確かに大抵の男子ならさゆりの弁当を喜んで食べるだろう。
だが、二人の返事がさざ波だとすれば、さゆりの主張は波濤だった。
「嫌よ、自分のならともかく、何で男子にわざわざお弁当なんか」
これほどの本音を龍介は聞いたことがない。
二十一世紀が十分の一ほど過ぎた昨今では、弁当に対する男女の意識も変わってきてはいるが、
胃袋を鷲掴みにするというのが愛を手に入れる一つの方法であるのは間違いない。
察するところ、さゆりにはまだ気になる異性がいないのだろう。
……だからなんだというわけでもないが。
三人の間の微妙な空気を読んでか読まずか、莢が矛先を変える。
「支我くんと東摩くんはお弁当作ったりしないの?」
「やってみようかと思ってはいるんだけどね」
嘘ではないが、夕隙社でバイトを始めてから帰宅が翌日になることが当然のようになり、
それどころではないというのが実情だ。
きっと、少なくとも学生の間は挑戦さえすることはないだろう。
「どうせやらないんでしょ、口だけで」
相手の喉に剣先が届くのを待っていたかのようなさゆりに、龍介は苦笑で応じた。
「そんな気がするよ」
「そうだな、俺もだ。今時は男だって料理の一つくらいできなくてはと思うんだが、中々挑戦する機会がなくてな」
「支我君は勉強もスポーツも忙しそうだものね」
なお挑発するさゆりに、さすがに龍介が苛立ったとき、場違いに明るい割れた音楽が、
校舎の中央に備えつけられたスピーカーから流れだした。
「元気にお昼食べてるッ? 今日も二十分、暮綯學園放送局がお送りするよッ」
ややハスキーな女子生徒の声に、龍介は毒気を抜かれた、さゆりはしらけた顔をそれぞれした。
支我は無表情で、ひとり莢だけが嬉しそうに上体を揺らす。
「あたし、お昼の放送大好き。いつもいろんな曲をかけてくれるからね。
さてここで問題ですッ!! 莢が好きな音楽のジャンルはなんでしょう? はい東摩くんどうぞッ!!」
突然指名されて焦った龍介は、口をもつれさせながら答えた。
「え……クラシック?」
「ぶっぶーッ!」
正直、まださゆりに対する感情が渦巻いていて、楽しくクイズをする気分ではないのだが、
莢は安易に答えを言おうとせず、なぜか他の解答者に解答権を移そうともせず、龍介ひとりに答えさせようとする。
「ジャズ?」
「ぶっぶー」
「ポップス?」
「ぶっぶー」
「演歌? ロック? ヘビメタ? ヒップホップ? レゲエ? テクノ?」
「ぶっぶー、全部はずれッ。ていうか一杯知ってるね、音楽好きなの?」
「うんまあ、友達に詳しいのがいて」
龍介が言う友達というのは、夕隙社で共にバイトする小菅春吉のことだ。
彼は基本的にはロックなのだが、スタジオミュージシャンをする関係でほとんど全てのジャンルの音楽を聴くのだという。
その中で気に入った曲を龍介に聴かせたりするので、自ずと龍介も詳しくなったのだ。
「答えはアイドルでした〜。正解者の莢さんには東摩君のお弁当を食べる権利が与えられま〜す」
「いいッ!!??」
「止めなさいよ莢、お腹壊すわよ」
「期限は卒業までで〜す。頑張って練習してね」
柔らかい莢の言い方は、かえって本気か冗談か計りにくく、龍介は内心で頭を抱えた。
この時ばかりはさゆりにもっと強くけなしてもらえないかとさえ思ったほどだった。
龍介の葛藤をよそに、放送は続く。
「今日の一曲目はペンネーム、巻き髪ガールちゃんから」
「これこれ、野々宮アイちゃんッ!! あたしこの子大好きなの」
「ふーん、莢が好きそうな感じの曲ね」
さゆりの反応がやや薄く感じるのは、もしかしてアイドルの野々宮アイにまで嫉妬しているのだろうか。
アイドルについて詳しくない龍介だが、見知らぬアイに深舟さゆりと出会わぬよう願いをかけた。
「野々宮アイ……最近人気があるアイドルだよな?」
「うんッ、振りつけも覚えたし」
支我に答えながら莢は上半身を動かしてみせる。
アイドルっぽい振りつけは良く再現されていて、かなり研究しているのだろう。
「上手じゃない」
「長南にそういう才能があったとはな」
二人に褒められて莢はピースしてみせる。
莢には確かにアイドルっぽい要素があって、龍介も気持ちが和むのだ。
「鏡見た方がいいわよ。鼻の下が伸びて、みっともない顔になってるわ」
それを台無しにするのが深舟さゆりで、敏腕マネージャーというより、
群がるファンを押しのける親衛隊めいたおもむきで、龍介をこき下ろした。
さらに彼女は返す刀で野々宮アイをも斬り伏せる。
「野々宮アイってフリフリの派手な衣装で歌ってる子よね?
あんな衣装、人前で良く着られるわよね。私なら恥ずかしくて絶対無理だわ」
「そう? さゆりちゃんなら結構似合うと思うけどな」
「冗談やめてよ、あんな衣装、莢ならともかく私に似合うわけないじゃない」
「ん〜、東摩くんはどう思う?」
だから何故俺に振ると言おうとした龍介の頭に閃くものがあった。
「似合うんじゃないかな。一回見てみたいよね。莢さんとユニット組むとか」
「あッ、やっぱりそう思うでしょ〜?」
「ばッ、馬鹿じゃないのッ、浮かれた頭でいいかげんなこと言ってんじゃないわよ」
湯気が見えなかったのが不思議なくらい、さゆりの顔が赤くなった。
これは一本ものだろう、と龍介は自画自賛する。
実際、深舟さゆりにアイドル風の衣装が似合うとは、これっぽっちも思っていなかった。
これはさゆりの顔がアイドルを目指せるレベルではないとかではなく、
むしろ、平均よりは上と思われる彼女の美貌は、アイドルの方向には向かっていないのは明らかだからだ。
意志の強そうな眉と眼に、それ以上に意志の強うそうな口元は、
偶像というポジションにはとうてい収まらないだろう。
どちらかというとマネージャーのコスチュームの方が似合いそうだ。
もっとも、アイドルも今では多様化しているから、顔と服がちぐはぐでも、思わぬ人気が出たりするかもしれないし、
自分のファンを罵倒するキャラクターも、受ける可能性は充分にありそうだった。
「ねッ、ねッ、服を作ったらさゆりちゃん着てくれる?」
「いッ、嫌よ、いくら莢の頼みでもそれだけは絶対に嫌」
「え〜」
指を口に当てて不満そうにする莢に、さゆりは困り果てている。
これ以上追いつめるのもかわいそうだと、龍介は助け船を出した。
「莢さんは服も作れるの?」
「うんッ、まだちょっとお母さんに手伝ってもらわないとダメだけど」
「へえ、でも凄いな」
「あたしね、旦那様の取れたボタンを付けてあげるのが夢なんだ」
「料理は毎日作ってくれて、ボタンも付けてくれる……う〜ん、こりゃ完璧だな」
「後はお相手だけなのよね〜」
なんとか話が逸れた、と思っていると、さゆりに睨まれた。
「ねえ、莢、本当に、本っ当にこんな男に言い寄られても引っかかったら駄目よ。
もしこいつが身の程知らずにも手を出そうとしたら、すぐに私に言うのよ」
莢の両肩を掴んで揺さぶるさゆりに、一体お前は俺の何を知っているんだと龍介が言おうとしたところで、
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「あッ、いっけな〜い、おしゃべりに夢中でご飯まだ終わってなかった」
龍介達も手伝って、なんとか巨大な弁当箱を空にすると、四人は急いで教室へと戻っていくのだった。
午後の授業もつつがなく終わり、龍介とさゆり、支我の三人は揃って下校していた。
三人の内一人は嫌々だったかもしれないが、同じところから同じところへ同じ方法で行くので、
揃って歩くのはある意味必然となる。
「今日は除霊の依頼は入ってるのか?」
「いや、今のところはないな」
「てことは編集作業に集中できるのね」
表向きはオカルト専門の出版社である夕隙社でアルバイトしていることになっている三人は、
そのまま夕隙社の裏の稼業である霊退治のスタッフも兼任する形になっている。
これは夕隙社が専門家に記事の執筆を依頼し、上がってきた原稿を編集する業務がメインだからできる業態で、
通常の雑誌のように全てを自分たちで制作するスタイルではとても両方の業務をこなすことなどできないだろう。
「でも、ウマ先生の原稿まだ上がってないんだろ? あの先生いつもギリギリにならないと書いてくれないからな」
ウマ先生というのは名前ではなく、UMA――未確認生物を意味する英語の略称からきた渾名だ。
そもそもこれはUFO、未確認飛行物体を参考に考案された和製英語で、
UFOの方も日本人はユーフォーと読むことが多いが、アメリカではユーエフオーと読む方が主流と、読み方は統一されていない。
UFOの読み方に従うなら、ユーマ、もしくはユーエムエーと読むべきだが、
まだ龍介が夕隙社でアルバイトを始めて間もない頃、この見慣れぬ単語をウマと読んでしまい、
以後未確認生物の研究を日夜行っているこの専門家はウマ先生と呼ばれることになったのだ。
「本当、どうしていい大人が締め切りを守るっていう、人として最低限の常識を守れないのかしら」
「常に最新の情報で執筆しようとしてくれているんだ、ある程度ギリギリになるのは仕方ないさ」
「支我君は甘いわね」
さゆりは断じたが、龍介に言わせればこんなものはおもちゃの刀で叩いた程度に過ぎない。
彼女が龍介に浴びせる罵倒は研ぎ澄まされた真剣並なのだ。
ひとしきり今日の段取りの打ち合わせが済んだところで、龍介は思いだしたことがあった。
「ああ、そういえばお前の持ってる鈴なんだけど」
「どうしてあんたが私の持ち物を知ってるのよ」
「自分で話しただろうが! おばあちゃんにもらったって」
「で、それがどうかしたの」
「ッたく……ん?」
「言いかけたんなら最後まで言いなさいよ、男らしくないわね」
「うるさいな。ちょっと様子がおかしいぞ」
「東摩君の様子がおかしいのはいつものことよね」
暮綯學園の前の道は、交通量が少ないのもあって、登下校時は歩道はおろか車道にまで広がって歩く生徒が後を絶たない。
もう成人に近い年齢の集団が取る行動としてはいささかお粗末なのだが、今、龍介達の前方には、
無秩序な人波ではなく、アリの隊列のように歩道の、それも端を歩く高校生達がいた。
宇宙人にマインド・コントロールされたみたいだ、とオカルト専門の出版社で働く人間らしい感想を抱きつつ、
龍介は原因を探るべく視線を動かす。
「あッ」
高校生達が突然マナーを守るようになった理由を発見して、龍介は思わず声を上げてしまった。
慌てて両手で口を塞いだが、その芝居がかった仕種に誰からもツッコミが入らない。
それもそのはずで、支我とさゆりも龍介とほとんど同時に、車道に停車している黒塗りの高級車と、
その傍らに立つジャケットを肩にかけた若者を発見していたからだ。
「……」
三人は期せずして顔を見合わせ、各人の顔に自分が浮かべているはずの表情を見た。
そしてそっと顔の向きを戻し、アリの列に加わる。
「それで昨日やってたお笑いのテレビだけどさ、あんまりバカバカしくてうっかり笑っちゃったんだよ」
「ああ、それ私も視たわ。本当、くだらなかったけどつい笑ってしまうわよね
「へえ、そんなに面白かったのか。俺も視ておけば良かったな。ちなみにどんなネタだったんだ?」
それはどこにでもありそうな高校生同士の会話だった。
だが彼らを知るものが聞けば、違和感を覚えたに違いない。
彼らは無言かつ高度な連携で、彼らを特定されるどんな小さな情報も漏らさないよう細心の注意を払って、
普通の高校生を装ったのだ。
隊列を崩さぬよう速度を調節しながら、三人は男に近づいていく。
目線を正面から逸らして、より一層慎重に、男の前を通り過ぎようとしたが、彼らに気づいた男は気さくに手を挙げた。
「よォ」
「それは……ボンレスティラミスゴンザレスってんだけど、台詞だけだとちょっと伝わらないな」
「そう、顔とポーズが絶妙なのよね」
「そう言われると視たくなってきたな。あとで動画サイトをチェックしてみるか」
「おいって」
声を大きくする男の、真横を通り過ぎる。
龍介とさゆりは軽く笑いあったりさえして男に気づかぬ風を装ったが、龍介が彼に背中を向けた瞬間、思い切り襟首を掴まれた。
「おいてめェらッ!!」
男は昼間の新宿を圧する大声を発し、隊列の前後はたちまち蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
取り残された三人の内、少なくとも一人は逃げようかと考えたが、捕まった鈍くさい男はともかく、
もう一人を置いて逃げるのは色々な意味で良くないと考えなおし、仕方なく別のパターンを採用した。
「あッ、あなたは確か……」
「あなたは確かじゃねェッ!! 一週間前にゴースト野郎と一緒に戦ったばかりじゃねェかッ!! なんて薄情な女だ」
男は大声で怒鳴り散らし、再び注目を集める。
このパターンも失敗だったと舌打ちをこらえながら、さゆりは通常モードに切り替えた。
「品行方正な高校生とチンピラに接点なんてないんだから、薄情も何もないでしょ。
だいたい、そんな黒塗りの怪しげな車と派手な格好でいつからいたのか知らないけど、よく通報されなかったわね」
「べ、別に学校にカチコミかけようってんじゃねェんだから、いいじゃねェか」
「学校にカチコミとかいつの時代の不良よ」
宙に投げた竹を真っ二つにするようなさゆりの態度に、男は当初の勢いを削がれ、口をもごもごと動かした。
男は山河虎次郎という、現職のヤクザだ。
彼の依頼で龍介達は彼の父親に取り憑いたゴーストと戦い、これを撃退した。
その時、彼の父親――当然、彼もヤクザだ――から、虎次郎の友人になって欲しいと龍介は頼まれ、
今後会う可能性も少ないだろうと仕方なく同意した経緯があったのだが、まさかこれほど早く、
彼の方から来るとは思っていなかったのだ。
問題事を連れてきたというさゆりからの非難の視線が龍介に刺さる。
お前はあの状況で断れたのか、と声に出したかったが、文字通り虎に首根っこを掴まれている状態では何も言えなかった。
「先生に言って警察呼んだ方が良くない?」
遠巻きに見ている生徒達の囁きが聞こえる。
実際には言っていないかもしれないが、似たようなことは言っているに違いなく、
警察など呼ばれては虎次郎との関係や、龍介達が相当いかがわしいアルバイトをしているのが明るみに出てしまうだろう。
こういう時に頼りになるのは支我正宗で、彼は本職のヤクザを刺激しないよう、
かつなるべく早く事態が進展するよう言葉を選んだ。
「それはいいとして、どうしてここに?」
「おッ、おう……その、何だ。この前は随分と世話になっちまったからな」
虎次郎の歯切れの悪さを支我は見逃さなかった。
この辺りは上がりの遅い原稿を取り立てるために身につけたスキルが役立っている。
「わざわざ礼を言うためだけに来たんじゃないと見ましたが」
「ふん、何でもお見通しって訳か。さすが俺が惚れこんだだけのことはあるぜ」
「今なんて言ったの?」
さゆりのツッコミは早すぎた。
今は聞き流して、もっと決定的な機会に有効利用すべきだった。
コンピューターじみた冷静さで分析する支我だったが、相手は締め切りを破ることにかけては百戦錬磨の
執筆者ではなく、言葉よりも腕力で物事を解決する傾向が強い極道だ。
さゆりの指摘は思いもかけず虎次郎の足下を掬い、事態の進展を促した。
「なんでもねェよッ!! それより、おう、龍介、ちょっとツラ貸せや」
「えっ、いや、俺は今から編集部に……」
「んなもん乗ってきゃいいだろうが」
虎次郎は自らドアを開け、龍介を招く。
黒く、厚い扉が地獄の門に龍介には見えた。
「じゃ、東摩くん、また後でね」
「それじゃな、東摩」
二人はマークが外れた瞬間ゴールに向かって駆けだす、一流のサッカー選手のように逃げていく。
フェイントに利用された龍介はアイコンタクトで助けを求めたが、必死の目線も彼らに届くことはなかった。
「オラ、さっさと乗れや」
怒っているようにしか聞こえない虎次郎の声を、何人かの生徒が聞いていて、
これこそが、在校生にヤクザの組員が居るという、暮綯學園七不思議のひとつが誕生した瞬間なのだった。
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