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龍介の災厄は、彼を乗せた車が編集部に到着したからといって終わらなかった。
虎次郎を連れて夕隙社に戻ってきた龍介は、死刑の執行台に向かう気分でドアを開けた。
編集部内には事情を知らない哀れな子羊が一匹いた。
浅間萌市という名の子羊は、入ってきた龍介に、親しく挨拶する。
「お疲れ様です、皆さん。編集長なら取材で今は出て――ッ!?」
龍介の後に続いて入ってきた虎次郎を見た萌市の顔が、
C級ホラー映画の三流俳優よりもはるかに真に迫った恐怖に変貌するまで、一瞬は要さなかった。
「おう、邪魔するぜ」
「なッ、なななんでその人と一緒にッ!?」
それは龍介こそ教えて欲しかった。
車の中で編集部に向かう理由を訊ねても、虎次郎は頑として答えなかったのだ。
虎次郎と共にいる龍介を、敵対勢力とみなしたのか、萌市はへっぴり腰で後退する。
あげくに足を滑らせて転び、書類を撒き散らして狭い編集部をさらに狭くする体たらくだった。
「何やってやがる、だらしねェ」
ウサギがトラに出くわせば、身が竦んで動けなくなることもあるだろう。
萌市の反応は仕方ないと思う龍介だが、明日は我が身なので同情する余裕もない。
とにかく自由を得ようと、指先で距離を稼ぐように虎次郎から離れていった。
努力が実を結び、虎次郎が気づかないうちに、じりじりと足を動かし、一メートル近く離れることに成功する。
ここまで来れば思いきって大きく動いて離れられる。
タイミングを慎重に計り、次に息を吸ったときと定め、覚悟を決める。
虎次郎の視線が外れ、絶好の機が到来したと確信した龍介が、息を吸い、
狙い定めた斜め前方に身体を押しだそうとした瞬間。
編集部の扉が開き、さゆりと支我が入ってきた。
「あら、もう着いてたの。さすがに車だと早いわね。
まさかクラクションを鳴らしまくって他の車を押しのけて来たんじゃないわよね」
深舟さゆりは希有な才能の持ち主かもしれなかった。
挨拶で人を怒らせるなど、滅多にできることではない。
「誰がンなことするかッてんだッ!!」
もともと導火線が短いと思われる虎次郎はすぐに爆発した。
とりあえず龍介はひっくり返っている萌市を助け起こすことで、虎次郎と距離を置くことに成功した。
「どうかしら。それで一体何の用なのよ。まさか東摩君が除霊に失敗したとか?」
「そうじゃねェよ。親父はあれ以来ピンピンしてらァ」
「じゃあ何よ」
「それはだな」
ところが、虎次郎はまた口ごもってしまう。
はっきりしない態度はさゆりを苛つかせ、彼女は腰に手を当てて言った。
「もう、はっきりしないわね。男なんでしょ!?」
この挑発は強烈な一撃だったらしく、虎次郎は萌市がまたひっくり返るほどの怒気を発した。
二度目の爆発を警戒して龍介も虎次郎から離れる。
近寄ってきた龍介の制服を萌市が掴み、不意を突かれた龍介もひっくり返ってしまう。
二人のコントになど目もくれなかった虎次郎は、しかし、何を思ったか、
激発はせず、ポケットから細長い棒のようなものを取りだして咥えた。
煙草ではなくハーブだが、彼自身と異なって法を脱しているわけではなく、ただのハッカだ。
精神を落ちつかせるために愛用しているそうで、効果がどれほどあるのかは怪しいところだが、
とにかく、虎次郎はここでさゆりを殴りつけたりはしなかった。
「俺がここに来たのは、夕隙社の仕事に興味があってな」
「興味って……編集の仕事に!?」
目の前に現れた宇宙人に「あんた本当に宇宙人?」と訊ねるようなさゆりの口調だった。
ハーブを咥える口が不愉快そうにひん曲がったが、それでも虎次郎は激発しなかった。
「そっちじゃねェ、裏の仕事の方だ、裏の!!」
なお、そう思っているのは虎次郎当人だけで、彼の大声は立ちあがりかけていた萌市と、
彼の支点となっていた龍介のバランスを崩させた。
ふたたび諸共倒れた同僚を、視界の端で見やったさゆりは、彼らを完全に視界から消去して、虎次郎を直視した。
「裏って、霊退治のほう?」
「おう、ゴースト野郎をぶッ斃すんだろ? 面白そうじゃねェか」
「私達は遊びでやってるんじゃないわ。霊は脅せばひっこむって簡単なものじゃないのよ」
正論で、かつ一度は言ってみたい台詞を先に言われた龍介は、ようやく、今度こそ立ちあがると、
すっかり場を仕切っているさゆりを見た。
「知ってらァ、ンなこたァ。以前はゴースト野郎が出やがると呼吸の発作が出てたんだが、
お前らと一緒に親父を襲った霊と戦ってからは不思議と治まってる。
見たところ腕っ節なら俺が一番ありそうだし、その除霊の仕事って奴に連れてけよ」
さゆり自身、一ヶ月ほど前に働き始めた新人でしかなく、当然採用か不採用かを決める権限などない。
にもかかわらず、虎次郎に引導を渡してやろうと口を開きかけた彼女に、あくび混じりの中年男性の声が邪魔をした。
「いいんじゃねェの?」
「左戸井さん」
「何を好きこのんでか知らねェが、こんなヤクザな仕事をヤクザがやるってのも面白ぇじゃねえか」
「でも」
ヤクザなどというトラブルメーカーと一緒に仕事をするなどまっぴら御免だと、さゆりは不満を隠そうとしない。
しかし、自身もさゆりからトラブルメーカーではないが同類、つまり、役に立たない大人だと見なされている左戸井は、
まったく整えられていない髪を掻きながら言った。
「なんでもそのあんちゃん、銀玉鉄砲で霊を倒したそうじゃねえか。普通はそんなモン効きゃしねえ。
てことは結構な能力を持ってんのかもしれねえだろ? まあ、千鶴には俺から話しておくさ」
霊が視え、攻撃もできるという人材は貴重だ。
それが解っているからか、さゆりは形の良い唇を三角形が作れそうなくらいに曲げたが、ついに反対を取り下げた。
「……仕方ないわね。それじゃ、東摩君が面倒みなさいよね」
「な……!!」
「山河さんは東摩君に惚れこんだんですって。だったら東摩君が世話してあげるのが筋でしょ?」
これは酷い。酷すぎる。
龍介は助けを求めて編集部内を見渡したが、彼を助けようとする侠気あふれる人間はどこにもいなかった。
唯一の頼みの綱であった支我は、龍介と目が合うと一瞬同情を浮かべたものの、
眼鏡のレンズが反射して目線が遮られた後には、事務的な表情になっていた。
続いて発せられた言葉にも、龍介を救う福音はひとかけらも含まれていなかった。
「……俺達の指示には従ってもらうぞ? 従わなければ即辞めてもらうからな」
「へへッ、任せときな」
かくして龍介は早くも後輩を抱える立場になったのだった。
彼の手綱を上手く捌けるかどうか、龍介の双肩には小さからざる責任がのしかかる。
雑誌作りと霊退治と後輩の育成と、どれが一番大変か、考えたくもなかった。
苦悩する龍介を面白そうに見ていた左戸井が、こちらは本物の煙草に火を点けた。
さゆりが顔をしかめるのを、これも面白そうに眺めてから、天井に向けて煙を吐きだす。
煙を嫌うさゆりが、外に出て行こうとする寸前、左戸井は予想外のことを言った。
「それじゃ早速調査に行ってもらうとするかな」
「依頼があったんですか?」
驚く支我にうなずく。
「おう。テレビ局のスタジオに霊が出た。至急除霊して欲しいってよ。
ッたく、ウチは掲示板で依頼だっつってんのにファックスで送ってきやがって」
一人に一台インターネット端末を持つご時世で、ファックスの使用頻度はかなり低下している。
夕隙社にも一台だけある受信機は、左戸井の背後に置いてあって、いつも通りにうたたねをしていた左戸井は、
けたたましい受信音に叩きおこされたとあって感熱紙を持つ手が不機嫌そうだった。
「テレビ局? 俺のデビューに相応しい、派手な仕事になりそうじゃねェか」
拳を打ち鳴らす虎次郎に、揉めごとを起こさせるなとさゆりが龍介を牽制する。
無理だ、と視線で応じておいて、龍介は左戸井に訊ねた。
「早速行ってきます。依頼人の名前は?」
「えーと……野々宮アイってなってるな」
「ののの野々宮アイちゃん!? ちょっと左戸井氏、それを見せてくださいッ!!」
依頼人の名前を聞いた途端、こんな動きもできたのかというほど俊敏に左戸井に詰め寄った萌市が感熱紙をひったくる。
「新宿のスタジオに霊が出て困っています……夕隙社の皆さんなら解決できると聞きました。どうか助けてください。
十七時に歌舞伎町の喫茶店で待っています……野々宮アイ。直筆じゃないですかこれッッ!!
ももも萌エッッ!! 萌えェッ!!アイちゃん、この僕浅間萌市がすぐにアイちゃんを助けてあげますッッ!!」
絞め殺されようとしているガチョウのような奇声を発するが早いか、萌市は編集部を飛びだしていった。
「あっ、おい、ちょっと」
「浅間萌市、行きまーすッ!!」
ようやく龍介が言った時には、もう影も見えず、上ずった叫び声が聞こえるだけだった。
さゆりと顔を見合わせた龍介は、萌市が置いていった依頼書を手に取った。
文面は萌市が読みあげた通りで、いかにも少女らしい、小さく、丸い字で書かれている。
「野々宮アイって……昼の放送のか?」
「同姓同名かもしれないけど、浅間君があれだけ興奮したんだから」
「でも、あいつその子の字なんて見たことあるのか?」
「知らないわよ、そんなこと」
ここで二人から手渡された依頼書に目を通した支我が口を挟んだ。
「まあ、依頼のフォーマットは守っていない上に一方的に呼びだしているわけで、
悪戯の可能性はあるが、萌市が行ってしまったんだ、確認する必要はあるだろう」
「任せておけばいいんじゃないの? 偽物だったらしょげかえって帰ってくるでしょ」
「本物だった場合に二度手間になる」
さゆりが眉をしかめる傍らで、左戸井は再び安物の椅子に背を預け、眠る態勢に入った。
「歌舞伎町なら俺の出番もねえだろ。ま、後は任せたぜ」
先ほどの萌市には及ばないものの、呆れる早さでいびきをかき始めた。
ため息すら惜しむ形相で、さゆりが彼を見る。
「おい、どうすんだ、行かねェのか」
虎次郎に急かされ、リーダー格の支我が決断を下した。
「そういうわけだから、悪いが深舟、行ってくれるか。この時間の歌舞伎町を車椅子で行くのはちょっとキツいからな」
依頼を受けたさゆりは、なぜか龍介の方を向いた。
「仕方ないわね、行くわよ」
「俺もかよ」
何気なく言った龍介は、早足で歩み寄ってきたさゆりに胸ぐらを掴まれた。
何をはばかってか小声だが、だからといって棘が失われたわけではなく、
むしろボリュームが下がったためか、余計に大きく感じられて龍介を刺した。
「あんたアレの面倒見ろって言われたばっかりよね、もう忘れたの? 脳みそ何で出来てるのかしら?」
痛烈な罵倒は今日に始まったことではない。
それなのに龍介がとっさに反論しなかったのは、漂ってきたさゆりの香りに気を取られていたからだ。
言葉の攻性と香りの甘さのちぐはぐさは、思考をかき回すと言うよりも停止させられたようだった。
「何とか言ったらどうなの?」
同意の印に龍介が首を振ると、さゆりは目を細め、唇を引き結んでから手を離した。
もう一言何か言いたげであったが、小さく鼻を鳴らすと、身を翻して編集部を出ていった。
「お前、舐められきってるじゃねェか」
呆れたように言う虎次郎に、龍介は反論できなかった。
ファックスの送り主が指定してきた喫茶店は、歌舞伎町の外縁部にあった。
欲望と喧噪が渦巻く町の中と異なり、やや暗めの照明や、落ちついたBGMが、嘘のような静けさを店内に行き渡らせている。
指定の時間の十五分前に店に入った四人は、さゆりと虎次郎と龍介はコーヒーを、萌市はオレンジジュースを頼んでいた。
最初、虎次郎はビールを頼もうとしてさゆりに止められた経緯がある。
「何だよ、一杯くらいいいじゃねェか」
「これから仕事の話するってのにあんた舐めてんの?」
どうやらさゆりの怒りは職業的暴力人に対しても構わずに注がれるらしい。
虎次郎は不服そうにさゆりを睨んだが、正論であることは認めたようで、注文の変更に応じたのだ。
だが鬱憤は溜まったらしく、わざとらしく背もたれに背を倒し、隣の萌市の領域にまで腕を伸ばす。
縮こまる萌市を気の毒にも思う龍介だが、そもそも依頼人に話を聞く段階で四人も来る必要がなかったのだ。
だが、萌市は依頼人が彼が応援するアイドルである野々宮アイと聞いた途端、ロクに話を聞かずに飛びだしてしまったし、
虎次郎も初めての作戦行動とあってやはりついてきてしまった。
彼ら二人ではきちんと依頼を受けるかどうかの判断が無理だろうし、
さゆりはヤクザとオタクの面倒を見る気など毛頭無かったので龍介に押しつけ、結局四人の大所帯で来たのだ。
「依頼人はまだ来てないみたいね」
座ったまま背伸びして周りを見渡しながらさゆりが言う。
この喫茶店はテーブルの配置と観葉植物で巧みに隣の席が見えないようになっており、
完全とは言えないまでもプライバシーが尊重される作りになっていた。
「アイちゃんに何かあったら日本のアイドル界の損失ですッ!!
何としても僕たちの手でアイちゃんを護りましょうッ!! 必ずッ!」
両手で大事そうにグラスを抱えた萌市が力説する。
あれでは温くなってしまうのではないかと危惧する龍介をよそに、彼は爛々たる眼光で一同を見渡した。
「ちょっと、落ちつきなさいよ。皆注目してるじゃない」
だんだん声が大きくなっていく萌市をさゆりがたしなめたが、普段は聞こえないことさえある彼の声は、
凶暴化する薬でも飲まされたかのように大きく、激しくなる一方だった。
「これが落ちついていられますか!? 否、断じて否ッ!! アイちゃんが霊に襲われるなんてッ!」
隣で虎次郎が興味なさそうにコーヒーを啜る。
「たかが女一人のことで大騒ぎしやがって、みっともねェ」
「みっともないィィィッ!!?? アイちゃんは僕の女神なんです、それをみっともないとは、
僕に対する侮辱ですッ!! 取り消してください、今すぐ取り消してくださいッ!!」
「何だよ、ムキになりやがって」
体当たりしてきそうな萌市に、カップを手にしたままの虎次郎がわずかに避ける。
ヤクザをも退けた萌市の熱意は、だが、残念ながら誰にも伝わらなかった。
向かいの席で小競り合いを始めた二人を見て、さゆりは龍介に、心底嫌そうに言った。
「ちょっと、止めなさいよ」
「俺が?」
「他に誰が居るってのよ」
一人だけ逃げ遅れて全責任を負わされた掃除当番のような顔をしながら、龍介は前方を見る。
趣味で熱くなっている男を止めるか、暴力を否定どころか好む男をたしなめるか。
不毛な二者択一ではない、第三の選択がないものかと、龍介はスマホを見た。
「あ、そろそろ時間だな」
真実は誰にも歓迎されなかった。
危機対応能力ゼロの同僚に、わずかに唇をわななかせたさゆりは大きなコーヒー味のため息を吐きだし、
萌市と虎次郎はそもそも全く聞いていなかった。
「僕はアイちゃんのためならこの命、賭けても良いと思っていますッ!!」
「堅気の人間が軽々しく命賭けるとか言うんじゃねェよ。命賭けるッてのは本気で――」
「馬鹿にしないでくださいッ!! 命を賭けられるのがあなたたちのような人間だけではないということを、
僕が証明してあげますよ」
「面白ェ、堅気の人間がどこまでできんのか見せてもらおうじゃねェか」
二人の言い争いは徐々に店内の空気を圧しはじめる。
加速度的に険悪になっていく空気に、たまりかねたようにさゆりがテーブルを叩いた。
「もう、いい加減にしてよね」
重厚なテーブルはそれくらいではびくともしなかったが、上に乗っていたカップ類は小躍りし、
それらの陶器の音が萌市と虎次郎の不毛なやり取りをようやく中断させた。
虎次郎は顔をそむけ、萌市も珍しく不満を露わに口を曲げている。
この劣悪な空気で依頼人を迎えるのはどうかと、対面の二人は思ったが、
彼らの機嫌を取るのもうんざりで、白々しい沈黙がテーブルを支配した。
「おう、今何時だ」
どれくらいの時間が過ぎたか、恫喝めいた虎次郎の問いに、龍介がスマホを見る。
すでに指定の十七時は五分ほど過ぎていた。
「どうせ悪戯だったんだろうよ。女なんて所詮こんなもんだってわかっただろうが」
勝ち誇る虎次郎に、萌市は悔しげに唇を噛む。
「どうするのよ、もう帰る?」
このまま居ても先ほどのやり取りが再開されるだけだ。
そう考えたさゆりは龍介に小声で囁いたが、龍介は同意しなかった。
「いや、十五分くらいは待たないと駄目だろう」
龍介もアイドルが霊退治の依頼などしてくるはずがなく、これは悪戯だと思っていたが、
金銭が絡む以上、適当な判断で動くのは良くない。
さゆりもその辺りは解っているようで、龍介の反論に不満は申し立てず、
すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
「チッ」
聞こえるように虎次郎が舌打ちする。
それが対象を小さくする呪文であるかのように、萌市は身を縮こめていった。
さらに二分が過ぎ、場にいる全員が限界を感じ始めた頃。
ふいに一人の少女が彼らのテーブルの前に立った。
「あの、ひょっとして夕隙社の方でしょうか?」
第三種接近遭遇したかのように龍介達は驚き、声も出ない。
ただ一人異なったのは浅間萌市で、彼は少女を見た瞬間、天井に突き刺さりそうな勢いで立ちあがった。
「ははははははいッ!! 僕が夕隙社の浅間萌市と言いますッ!!」
「お待たせしちゃったようですみません。私、依頼人の野々宮っていいます」
「ア、アイちゃんッ!! アイちゃんですよねッ!!
あ、あのッ、ファンですッ!! ずーっと前からファンなんですッ!!」
この少女が野々宮アイ本人であるのは、萌市の壊れようからして間違いない。
東京では芸能人やロケ現場に出くわすのもそう珍しいことではないが、
こんなに間近にアイドルを見た経験はなく、龍介はまじまじと観察してしまった。
アイは変装なのだろうか、少し大きめのジャケットに地味な色のスカートを履いている。
だが、そこまで手が回らなかったのか、髪型と薄いメイクはそのままで、独特のオーラに満ちていた。
龍介は野々宮アイを今日の昼に知ったばかりだが、確かにその可愛らしさにはもう魅了されかけている。
「あ、ご、ごめんなさい、収録が押しちゃってメイク落とす時間までなくって、変ですよね」
「ううん、気にしないで。あ、狭いけどここに座って。ほら、詰めなさいよ」
阿呆面を晒す龍介に肘打ちを食らわし、さゆりが自分の隣にアイを座らせた。
テーブルと同様、椅子も今風ではない、少しゆったりしたサイズだったが、二人がけの椅子に三人座るのはやはり苦しい。
さゆりは依頼人のために場所を広く取ったので、しわ寄せを食った龍介は苦しい姿勢を強いられ、
しかも彼女が身体を依頼人の方に向けたので、彼女の尻に押しこまれるような形になった。
いくら四六時中言い争いをしている相手でも尻は尻で、龍介はやや落ち着かない気分を味わった。
龍介がひそかに意識しているなどとさゆりは知らなかったし、
知ったとしても勝ち誇った軽蔑の眼差しで一瞥をくれるだけだろう。
深舟さゆりは依頼人と四人中唯一の同性ということで気を遣う必要があったし、
もう一人、牽制しなければならない人物がいたからだ。
「デビューの時からイベントも全部行ってます、ほら、ほらッこれ見てくださいッ、
デパートの屋上でやったイベントで抽選に当たった人だけ貰えるサイン入り生写真!!
こっちはソロデビューの新曲発表会で配布したステッカー、それにこのチケットの半券は、忘れもしない二〇一二年の――」
鞄から次々とグッズを取りだし、身を乗り出してアイに見せる萌市は、
オタクの負を具現化した存在そのもので、さゆりはたまりかねて叫んだ。
「ああもうッ、落ち着きなさいよッ」
「武士の情けです深舟氏ッ、もうちょっとだけ語らせてくださいッ!!」
「あんた武士じゃないでしょッ」
本気で腹を立て、テーブルの下で萌市の脛を蹴りつける。
悶絶し、ようやく引き下がった萌市に、塩の代わりにテーブルに置かれた砂糖でも撒いてやりたい衝動を抑えて、
さゆりは頼りにならない男どもの代わりに依頼人と会話を始めた。
「ごめんね、野々宮さん。ビックリしたでしょ?」
「大丈夫ですっ、熱心なファンの方の応援は、どんなときでも嬉しく思っています」
「こんなのでも嬉しいだなんて、プロのアイドルって凄いのね……」
オタク同様、アイドルという存在にもやや偏見を持つさゆりだが、
アイの謙虚かつ礼儀正しい態度は、自然と彼女に好印象を抱かせる。
身体を使ってさらに龍介を隅に押しやったさゆりは、アイに名刺を渡した。
「改めて初めまして。夕隙社の私が深舟で、こっちが東摩。それからこれが……」
「おい、これたァなんだこれたァ!」
指示代名詞ごときで腹を立てるなんて器が小さいわねという感想をさゆりは抱いたが、言い返さずにやり過ごした。
いつ暴走するか判らない萌市だけでも手に余るのに、虎次郎にまで暴走されたらアイが逃げてしまうかもしれない。
もう一人、全く役に立たない男のことはあえて考えないようにして。
「俺は山河ってモンだ。よろしく頼むぜ」
「初めまして、野々宮アイです。よろしくお願いしますね、山河さん」
いつの時代も人の心を溶かすのは朗らかな笑顔であるらしい。
律儀に頭を下げるアイに、虎次郎は親しく話しかけたりはしなかったものの、普通に座りなおした。
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