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「来るわよ……!」
緊張を孕んださゆりの声に、龍介は頷いた。
気温の低下に、鼻をつく硫黄の臭いが増す。
五感に訴えかける、霊出現の前兆だ。
念のために鉄パイプを構えた龍介は、アイと霊の間に立ちはだかった。
引き剥がされるような冷気が発生し、前方の空間にもやがかかる。
もやでしかなかったそれは、龍介の眼前で一箇所に収束していった。
地上から二メートルほどの高さの一点に集まったもやは、次第に人の形をとる。
微細な表情まではわからないが、アイに似た衣装を着ているように見えるそれは、藍坂ナオの霊に違いなかった。
「藍坂ナオ……さん?」
呼びかけてみても、返事はない。
たぶんアイを見ているのだろう、顔を下方に向けたまま動かなかった。
もう一度呼んでみたが、聞こえているようには見えなかった。
「ねえ、何か様子がおかしくない?」
「ああ」
さゆりの問いに応じた龍介は、慎重にナオに近づく。
相変わらずナオの霊は龍介に無関心だったが、龍介が三歩目を近づいたところで、突然激しく叫んだ。
「ウタイタイウタイタイウタイタイウタイタイウタイタイウタイタイ」
繰り返される甲高い叫びが金属質のノイズとなって龍介達を襲った。
至近距離で声の刺突をまともに浴びた龍介は、たまらず地に伏して耳を塞ぐ。
しかし、突き刺さるような音の嵐は、耳を塞いだ手を貫通して脳に直接響いた。
目を閉じ、口を閉じても毛穴の全てから入ってくるような音の針に、龍介達は悶え苦しむばかりだった。
藍坂ナオがこのような攻撃をしてくると想定していなかったので、
アイを含めて部屋に居た人間はもちろん、龍介達が装備しているインカムを通して、支我にまで被害は及んだ。
「東摩ッ! 深舟ッ! 何が起こったッ!!」
とっさにインカムを外したので、瞬間的な頭痛で済んだ支我は、マイクに向かって叫ぶ。
だが、イヤホンからは金属音めいた雑音が許容量を超えて鳴るばかりで、
生きた人間からの返事は誰一人としてなかった。
彼らを助けに行こうとして、断腸の思いで留まる。
中で何が起こっているにせよ、霊が視えず、足も動かない自分に彼らを助ける方法などない。
全滅となれば霊が部屋を出て何も知らない人々に損害をもたらすかもしれない。
その危険を考えると、全滅は絶対に避けねばならず、一人でも生き残って誰かに事態を伝える必要があった。
「萌市ッ! 山河ッ! 聞こえているなら返事をしろッ!」
わずか数メートルの距離を行けないもどかしさに身を灼きながら、支我は必死に呼び続けた。
藍坂ナオの絶叫はまだ続き、室内の龍介達は、身動きさえままならないまま倒れ伏している。
互いの安否を気遣う余裕もなく、部屋中に乱反射して襲いかかる高周波を、身を固くして防ぐのがやっとだった。
しかし、いつ終わるともしれない絶叫は龍介達の気力を削ぎ、精神力に無数の穴を穿っていく。
龍介は頭に指を食いこませて耳を塞ぎ、儚い抵抗を続ける。
それもそろそろ限界に達しようかと言うとき、彼は小さな鈴の音を聴いた。
これだけ他の音が聴覚を、というより周りの空気全てを支配している状態で、なぜそんな音が聞こえたのかはわからない。
本当に鳴ったのかどうかさえはっきりしない。
もしかしたら、単なる幻聴に過ぎなかったのかもしれない。
だが、確かに鈴の音色は龍介の脳に届き、失いかけていた思考を、ほんのわずかだが取り戻させた。
力を振り絞って目を開けると、さゆりが横たわっている。
赤ん坊のように身を丸めて音の嵐に耐えている彼女と、鈴の音とが結びついたとき、龍介はひとりでに叫んでいた。
「鈴だッ! 鈴を鳴らせッ!」
龍介は叫んだが、部屋を圧する音にかき消されて数メートル先のさゆりに届かない。
このままでは全員やられてしまう。
龍介は強硬手段に出た。
床を這うようにさゆりに近づき、スカートのポケットに手を突っこむ。
音に打ちのめされているさゆりは気づいた様子もなく、龍介はすぐに目的の物を探し当てることができた。
家の鍵に結びつけられた小さな鈴。
祖母からもらったと言っていたこの鈴が、過去に二度、不思議な鳴り方をしたのを龍介は覚えていた。
いずれも、直後に霊現象が起きている。
下校時には言いそびれてしまったが、これには何がしかの力があるのではないかと龍介は思っていたのだ。
「こいつを鳴らせッ!!」
さゆりに鈴を突きつける。
高周波に意識が朦朧としているのか、開いたさゆりの目は焦点が合っていなかったが、龍介は鈴を握らせ、彼女を起こした。
スタジオの中央で声とも思念ともつかない音波を撒き散らしているナオの霊を指差し、さゆりの手を握って鳴らさせた。
鈴の音はナオの声に対抗するにはあまりに小さく、鳴ったかどうかさえ初めは判らなかった。
それでも、数度手を振っていると、ほんのわずかではあるが勢いが弱まったような気がした。
さゆりも龍介の意図を理解したのか、自分から手を振り、鈴を鳴らす。
鈴が十数回鳴った頃には、明らかに高音の勢いは減り、頭の内から外へと響く、刺すような痛みも収まっていた。
音が収まるにつれ、萌市や虎次郎も立ちあがる。
まだ頭の中で音が反響しているのか、さかんに首を振っているが、大きなダメージは受けていないようだ。
一安心したところで龍介は、アイが立つのに気づいた。
彼女には霊が視えないはずだが、幸か不幸か、ちょうどナオの正面に立っている。
「野々宮さん、危ないッ!」
龍介の呼びかけを無視し、アイは視えない友人に向かって呼びかけた。
「ナオ、私よ、ナオッ!! 一緒に歌いましょう? ねッ?」
「ウタ……ウタ……!」
しかし、ナオの霊は、それが禁断の言葉であるかのように身もだえする。
危険を感じた龍介がアイを庇おうとすると、錯乱したナオが飛びかかった。
龍介の背中に冷たい痛みが炸裂する。
広がる痛みと同時に、龍介の意識に自分のものとは異なる記憶が流れこんできた。
「ああ、遂に初舞台だね、ナオちゃんッ!! 私、緊張しちゃって……」
控室で野々宮アイが落ち着かなげに歩き回っている。
ナオは鏡に向かったまま応じないが、鏡に映るアイをずっと目で追っていた。
しびれを切らしたアイが、頬を膨らませて鏡のナオに語りかける。
「ねえ、ナオちゃん? ナオちゃんったら、聞いてる?」
子供のタヌキのようなアイの顔に根負けして、ナオは振り返った。
「聞いてるよ。私も、見て、膝がさっきから……」
「わっ、すごい、震えっぱなしだよ!? ナオちゃんでもそんなに緊張するんだ」
「するよ。私から見たらアイの方がずっと落ちついてるよ」
「ええっ、私はナオちゃんがうらやましいよ。だって、あんなに声が可愛くて、
歌が上手くて……私があんなに上手だったら自信満々よ。絶対緊張なんてしない」
他人が言ったなら、嫌味と受け取っただろう。
しかしアイは、ナオがアイドルとしてオーディションを受け、はじめは五人組のユニットとしてデビューし、
さらに本格的な歌手としてアイとナオがユニットとしてデビューした今日まで、
家族よりも強い絆を感じたパートナーだった。
軽いため息をつき、ナオはアイの額を人差し指で押した。
「何言ってるのよ、私はアイがうらやましいわ」
「ええっ、ダメダメ、私なんて。歌なんか下手っぴだから、いつも先生に怒られてるし」
「うん、それは確かに」
「ニャーっ!! ナオちゃんったらひどいひどい!!」
アイは耳まで赤くして怒っている。
目まぐるしく変化する表情に、ナオは胸郭が満たされる想いだ。
大人びた――アイが求めているであろう笑顔を向け、彼女は言った。
「でもアイは、私には出せない女の子のかわいさがある。ファンの子はみんなアイを見てる気がしちゃうんだ」
滑りこませた本心に、敏く勘づいたのか、アイがきょとんとする。
冗談であることを示すため、大げさに両手を広げたナオは、そのままアイに抱きついた。
「でもでも、アイは私のモノなの。ファンのみんなにはあげないんだ」
「ニャーっ、ナオちゃん、それ週刊誌が聞いたら変なこと書かれちゃう」
「大丈夫、週刊誌なんて私達に興味ないから」
腰に回した手は解かず、腹に埋めていた顔だけを上げ、真摯な表情で言う。
「……でもいつか、みんなに振り向かれるアイドルになりたい。
私ひとりじゃ自信ないけど、アイと一緒なら出来る気がするんだ」
「私もナオちゃんと一緒だったらなんでも我慢する。どんなに忙しくてもいい。
ケーキだって我慢しちゃう。だから、ずっとずっと一緒に頑張ろうね」
アイの瞳には無限の輝きがあった。
それは、ナオにとって世界で最も貴重な宝石だった。
ナオは眩しさに目を細めることなく、逆に全ての輝きを瞳に焼きつけようと大きく目を見開いた。
「もちろんだよ、アイ。アイがいるから私は完璧になれる。だから、ずっとずっとアイの隣で一緒に歌いたい。
ずっと、ずっと、ずっと」
「私もずっとずっと二人で一緒に踊りたい。ねえ、オバサンになっても続けるってのはどう?」
「いいね、ファンなんて一人もいなくてもさ、私達の子供たち相手にコンサート開こうよ」
「約束だよ」
二人は同時に微笑んで頷く。
「うん……でも」
「でも?」
アイの腹に顎を載せてナオは言った。
「ケーキは今からでも我慢した方がいいかな」
「ニャーっっ、ナオちゃんのイジワル!!!!」
弾けるような笑顔が、記憶の最後だった。
死して、霊となってなお忘れなかった、想い出。
萌市は正しかったのだ。
藍坂ナオは怨みで現世に留まったのではない。
果たせなかった約束を、守れなかった友情を、最後の心残りとして抱いたまま死んでしまい、
その無念が強すぎただけなのだ。
「藍坂さん」
背中の痛みも忘れ、ナオの方を向いた龍介は、再び襲いかかろうとする彼女に呼びかけた。
「野々宮さんは……アイちゃんは約束を覚えてます。一緒に歌いたいって」
ナオは戸惑ったようにみえた。
歌いたいという欲求に囚われて、大切な物が見えなくなっていたことに気づいたのだ。
「だから、藍坂さんも……一緒に歌ってください。野々宮さんと一緒に」
「ウタイタイ……アイト、イッショニ……」
ナオの呟きに、もう興奮は見られない。
龍介は支我に合図し、もう一度曲をスタートさせた。
「野々宮さん」
マイクを拾い、アイに渡すと、彼女は歌いはじめた。
ナオの霊も今度は邪魔をせず、やがて、龍介の耳に二種類の声が聞こえてくる。
美しく揃ったハーモニーは、だが、お互いの耳には聞こえていないかもしれない。
そのことに気づいた龍介は、アイの左手とナオの右手をそれぞれ取り、触れあわせた。
「アイ……」
「ナオ、ちゃん……!」
二人の少女は互いを認識する。
言いたいこと、伝えたいこと、謝りたいこと、幾つもの想いが、慌ただしく駆け巡る。
それらの想い全てを、アイとナオは言葉に乗せて歌った。
少女達の歌声に、全員が聞きいっていた。
萌市は言うに及ばず、さゆりや虎次郎でさえ半ば呆然と立ちつくし、
もう聴ける機会は二度と無いであろう歌を、万感胸に迫る想いで聴いていた。
「ナオちゃん、ううう」
「馬鹿野郎、泣くんじゃねェよ」
涙腺を崩壊させる萌市の肩に腕を回す虎次郎の声も、心なしか詰まっているように聞こえる。
だが、それを指摘する者はこの場にいなかった。
音を立てずにアイとナオから離れた龍介は、さゆりの横に並ぶ。
自身も感極まっている龍介は、泣いているところを見られたくないと思ったが、
さゆりの傍から離れる気にもなれなかった。
それは後から思い返すと全く不合理な感情なのだが、この時は誰か傍に居て欲しいという気持ちが確かにあったのだ。
さゆりはたまたまであって萌市でも虎次郎でも構わなかったのだ、
あの状況で他に移動するのは不可能だった、そう龍介は自分に抗弁し、脳内賛成多数でこの問題にけりをつけた。
しかし、数週間後、野々宮アイのデビュー曲としてこの曲がテレビなどでかかるようになると、
否応なしに記憶が甦ってしまい、そんなときは腕を振り回して叫びたくなるのを堪えなければならず、
これが、今回の依頼に関する夕隙社の損害となった。
歌が終わったとき、藍坂ナオの姿はなかった。
もうこの室内のどこを捜しても、この世界のどこを捜しても、
藍坂ナオの欠片と呼べるものさえ存在していないことを、野々宮アイは理解していた。
それを哀しいとは思うけれども、同時にアイの心には、異なる気持ちが芽生えていた。
アイドルとして精一杯の出来ることをして、絶対に成功してみせる。
日本中、いや、世界中の人に愛されるアイドルになってみせる。
それは約束ではなく、決意だった。
なぜなら、藍坂ナオの魂のひとかけらが、野々宮アイの中に入ったから。
そして、彼女と自分の想いが溶けあうのを、はっきりと感じたから。
「本当に、本当にありがとうございました」
顔を上げたアイの目に、涙はなかった。
任務を完了した龍介達が夕隙社に戻ると、外回りをしていた千鶴も戻ってきていて、
そのまま焼肉店十八に行くことになった。
八時近いとあって席はそれなりに埋まっているが、どうにか奥の個室を確保することができた。
飲み物と肉を慌ただしく注文し、それらが一通り並べられると、さっそく千鶴が音頭を取った。
「え〜、今日は皆お疲れ様。私が不在にも関わらず、大きな仕事を完了できたこと、頼もしく思うわ」
ジョッキを手に立つ千鶴は上機嫌だ。
「何てったって芸能プロダクションの仕事ですからね。これからガッポガッポと高額依頼が舞いこんで――」
怪しい雑誌にはつきものと言って良い、怪しいグッズの広告に使われている、
札束の風呂に自分が入っている姿を想像して千鶴は鼻の穴を広げた。
なんならそういったグッズの広告に出てもよいという妄想さえ展開する。
しかし、社長の野心を社員は共有していなかった。
長期的な計画よりも、目の前の肉に心奪われて浅ましい争いを繰り広げている。
「馬鹿野郎龍介ッ、まだ取るんじゃねェッ!!」
「で、でももう焼けてますし」
「まだ赤味が残ってるだろうが」
「そんな小指の先くらいの赤味でごちゃごちゃ言わないでよね、みっともない」
「その赤味が焼けるまでの時間はあと六秒だ」
「ちょっとあんたたち、聞いてんのッ!!」
聞いていないのは明白だったので、社員達に社長の尊厳を叩きこむか千鶴は迷ったが、
手にしたジョッキに心を蕩かす冷たい雫が垂れるのを見て、それは後日のこととすることにして、
立ったまま一杯目を豪快に飲みほした。
空になったジョッキを口元から離す動作と同時に腰を下ろす。
隕石のように落ちてきたジョッキが、テーブルに衝突して派手な音を立てた。
口に泡を付けたまま、千鶴は新顔に話しかける。
「で、何で火暮会がここにいんのよ」
「俺もここで働くことにしたんだよ」
「あたしの許可もなく働こうなんてそうは問屋が卸さないわよ」
建前としては完璧な企業論をぶち上げる千鶴の足を引っ張ったのは、隣にいる呑んだくれだった。
「まァいいじゃねェか千鶴。霊が視えるって奴ァ貴重だし、
ヒック、荒事だってこれからはこいつが引き受けてくれんだからよ」
左戸井法酔はヒラヒラとジョッキを振り、二人分の生中を追加注文した。
次に千鶴が口を開いたのは、届いたビールを一気に半分ほど開けてからだった。
「……言っとくけど、お上と揉めるのだけはゴメンよ」
千鶴の恫喝は、肉が小気味よく焼ける音にかき消されて、虎次郎の耳まで届かなかった。
肉と酒を半々くらいの割合で進める大人達と、肉だけをひたすら食べる未成年組とでは食べる速度が違い、
それに伴って会話の速度も異なるので、自然と両者は分かれていく。
未成年組のリーダー格である支我正宗が、新たな肉を網に置きながら言った。
「今日は良くやったな、皆。ノイズで通信が聞こえなくなったときは心配だったが、見事な対応だった」
「今日程度じゃちっと物足りねェけどな。たったの二匹、それも雑魚ときやがった」
虎次郎はビールを呑んでいるが肉を食べるのも未成年組と同様に早い。
というか、彼が合法的に酒を飲める年齢なのか否か、全員が気になっていたが、
どういう答えが返ってきても困る気がして、誰も訊けなかった。
「いずれもっと強い霊が出てくるさ」
「そう願いてェもんだな」
霊退治ができたので基本的には上機嫌である虎次郎は、隣に座る萌市と何やら話を始めた。
萌市は迷惑そうだが、彼にはもう少し虎次郎の話し相手になっておいてもらい、支我は、龍介に話しかけた。
「その肉、あと七秒で焼けるぞ」
「お、サンキュー」
七秒ただ待つのはもったいないと思ったのか、龍介は米を食べる。
茶碗を掲げ、ご飯を掻きこむ姿は行儀がよいとは言えなかったが、支我はその点には触れなかった。
「東摩の除霊の力はいよいよ本物だな。物理的に干渉できるだけでなく、霊と対話までできるとは」
「皆できるんじゃないのか?」
「いや、霊が視えるからといって声も聞こえるとは限らない。その逆も然りだな。
それに、聞こえても彼らの声を聞こうとする人間は少ないんだ」
「どうして?」
「霊は害をなす、と考えているからだろうな。実際、霊の叫びは人間に有害だとも言われている。
それに、現世に残した想いが強すぎると、その想いに囚われて錯乱してしまうケースは多いんだ。
今回の藍坂ナオの霊も、初めはそうだっただろ?」
「確かに」
龍介の返事が短いのは、食べるのを止めないからだ。
彼のためにトングで肉を並べてやりながら、支我は続けた。
「あのノイズ……藍坂ナオにとっては何かを叫んでいたのかもしれないが、俺達には甲高い雑音としか聞こえなかった。
東摩や深舟も危ない状況だったし、あの時点で力づくでの除霊を選んでもやむを得ない状況だった。東摩はなぜそうしなかった?」
龍介は初めて食べるのを止め、支我を見た。
ただし返事をしたのは、米と肉を溜めこんで膨らんでいた頬が元に収まるまで待ってからだ。
「なぜって言われても、霊って言っても女の子を殴るのは気が引けたし、アイちゃんの目の前でならなおさらだ。
そもそも支我だってなんとかなると思ったから依頼人を同席させたんだろ?」
「それはそうだが」
いつになく強硬な皆の態度に押し切られた、というのが支我の実感だが、
龍介に言われて彼は、もしかしたらその通りかもしれないと気づいた。
だがそれは、支我にとって好ましい認識ではない。
指示を出し、その代わりに作戦に対する責任は全て自分が負うべきだと支我は考えている。
なんとかなる、などという甘い認識ではいつか失敗するのは目に見えているし、今回も危うく全滅の危険があったのだ。
霊と戦う危険を、いっとき煙たがられても啓蒙する必要があるだろう。
そう支我は決意した。
ようやく虎次郎から解放された萌市が、グレープフルーツジュースをちびちび飲みながら述懐する。
「今回、僕は改めて思い知りました。アイドルの歌に対する思いが、こんなにも熱いものなんだって。
だから、これからはアイドルの歌を聴くときは、正座をして聴くことにします」
幸せそうに語る萌市に同調せず、さゆりは反対側に座っている男の方を向いた。
「ところであんた」
景気づけにウーロン茶を口にして、ジョッキを威圧的な音を立てて置いてから、さゆりは龍介を睨んだ。
「何だよ」
「女の子のスカートに手を突っこむなんて言語道断のセクハラよ。
出るところに出れば、あんたは社会的に抹殺されるってこと、覚悟は出来てんでしょうね」
「俺がああしなけりゃヤバかったじゃねェか! それに俺が手を突っこんだのはポケットの中だ、スカートじゃねェ!」
「同じ事じゃない」
「だったら気づけよ! お前の鈴だろ!」
ヒートアップする二人の口論を、耳ざとく聞きつけた千鶴が話に割りこんでくる。
「あら、なーに、あんた達痴漢プレイまで始めちゃったの?」
「「違いますッ!!!!」」
二人の本気の怒りは百分の一秒単位まできれいに揃ったハーモニーを奏でたが、
その程度で歴戦のセクハラ社長を恐れいらせることなどできなかった。
「若いうちからあんまり変なプレイに走ると、倦怠期に入ってから大変よ」
空のジョッキを振って笑う千鶴に、これ以上の抗議は無駄だと悟った龍介は、さゆりに毒づいた。
「ほら見ろ、お前のせいで誤解された」
「あんたがどさくさに紛れて私の身体を触ったのは事実じゃない。それに手まで握って」
いずれも事実ではあるが真実ではないと龍介は主張したかった。
「んー、いやらしいわね、もっとやんなさい」
しかし、目を爛々と輝かせて身を乗り出している千鶴に、急に徒労を感じて、残った野菜を片づけることにしたのだった。
「にしてもお前、リズム感ねぇのな」
野菜の中でもとりわけ嫌われているピーマンを網の上に置きながら、今日の戦いを振り返った龍介はしみじみと言う。
すると、たちまちさゆりは気色ばんだ。
「なッ……何よ、あんたはあるッての!?」
「鈴鳴らすだけだってのに、ナオちゃんの霊が怒りだしゃしないかとヒヤヒヤしたぜ」
さゆりの顔が度数の高いアルコールを一気飲みしたように赤くなる。
爆発に備えて身構えた龍介だが、どうしたわけかさゆりは一の挑発に百の反撃で応えようとしなかった。
言い過ぎてしまったか、と軽く後悔する龍介をよそに、千鶴が声を張りあげる。
「二次会はカラオケで決まりね」
「私、行きません」
「ダメよ。ウチは社長、つまり私の決定した行事は強制参加なんだから」
「そッ、そんなのモラハラでパワハラです」
「3Kも真っ青の職場に来ておいて何言ってんの」
「3Kって何ですか」
真顔で問うさゆりに、千鶴の顔が引きつる。
ああ、と今夜の運命を悟った龍介と支我は、無言で視線を交わした。
新宿という街は時間を言い訳に出来ない。
その気になれば夜通し過ごせる店が、そこら中で手ぐすねを引いて待っているのだ。
伏頼千鶴にはもう少し青少年育成条例というものを知って欲しいと思いながら、
二人はオールナイトのカラオケに行く覚悟を決めたのだった。
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