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その建物に意志があったなら、きっと辟易していただろう。
住む人のことを優先して為された設計と、充分に吟味された資材が、職人によって仕上げられた、
今時の東京では珍しいといえるくらいの建物だ。
きっとここで終の生活を送る人達は、幸福な最期を迎えられるに違いない。
建物が完成したときに行われた見学会に呼ばれた近隣住民は豪華な建物にため息をつき、
後日配布された広告に記載された入居価格に、またため息をついたものだった。
しかし、その羨望も、入居した住人達の実態を知れば、安堵に代わるだろう。
建物内では日々罵詈雑言が飛び交い、小綺麗な廊下や壁を汚していく。
「ちょっと、いい加減にやめなさいッ。いい歳してみっともない」
今日も始まった罵りあいに、住人達の世話をする職員がうんざりしつつ仲裁に入る。
ここの入居者は皆七十歳を超えていて、他人を妬む必要がないだけの財産を持っているというのに、
ほとんど全ての入居者が、入居したその日から互いを敵と見なして口論を繰り返すようになった。
「何を言っとる。この婆さんが悪いんじゃ。わしを誰だと思っとるんだ」
「ふざけるんじゃないわよ、このクソジジイ。あんたが誰だろうと知ったことか!!
どこぞの会長だったか知らないけど、もうそんな肩書き通用しやしないんだよッ!!」
「わしがどれだけこの社会に貢献してきたと思っとるんじゃ、この恩知らずがッ!!」
仲裁も空しく激しさを増していく罵倒合戦に、あきらめ顔で職員は離れていく。
「全くなんてところだろうね、施設は立派なのに住んでる人間がクズばっかだよ!!」
職員はこういった施設を複数渡り歩いており、その中には決して住人同士の折り合いが良くはないところもあったが、
ここはその中でも極めつきだった。
他よりも高額の給料のために辛抱してきたが、もう限界だ。
早く他の就職先を見つけて、こんな所は止めてしまわないと。
もはや職員は住人の世話のことなど頭になく、帰りに就職情報誌を買うことだけを考えて去っていった。
職員が去った後も、老人達は罵りあいを続けている。
コミュニケーションというには我欲や妄執が濃すぎる口論は、終わる兆しさえみせずに続けられていたが、
唐突に中断を強いられた。
老人達の知らない女性がいつの間にか立っていたのだ。
「まあまあ、地位も名誉もある人間同士、いがみあってもいいことはありませんのよ?」
その言葉だけでは、老人達の諍いを止めることなどできなかっただろう。
彼らがまがりなりにも口を閉ざし、新たに現れた女性を見たのは、彼女が、あまりに場違いな格好をしていたからだった。
中東の踊り子のような生地は薄く、身体のラインを惜しげもなく見せる服をまとった美女を、老人達は唖然として見る。
その視線が驚きから猜疑に変化するのに五秒とかからなかったが、女性は意に介さず老人達に語りかけた。
「皆さん、せっかくお金で幸せを買っているというのに、今のままで人生を終わらせても良いのでしょうか?
お金を有効に使ってきた皆さんだからこそ、力を合わせてできることがあるのでは?」
「何を勿体ぶって……あたし達を誑かそうったってそうはいかないよ」
「そうじゃ、こちとら百戦錬磨じゃ」
ついさっきまでいがみあっていた老人達は、新たな敵を前にしてたちまち結束している。
彼らはいずれも一代で財をなしただけのことはあり、女性のうさんくささを瞬間的に嗅ぎとっていたのだ。
女性は艶やかな、その実全く心のこもっていない微笑を老人達に向ける。
「あなた方が百戦錬磨なのは現実のビジネスの世界。私はあなた方の、この人生の後の話をしに来ているのです。
人生の黄昏を美しく生き、誰にも平等にやってくる死を有意義に迎えませんか?
通販では手に入らない物をお見せしましょう。死後に未来はあるのです……」
ホールに老人達を集めた女性は、銅板を見せて言った。
「皆さん、この鏡にお祈りをしてください。皆さんのお祈りが届けば、守護霊様が御姿を顕わしてくださいます。
守護霊様は遍く皆さんを導いてくださるでしょう」
老人達は露骨にうさんくさげな表情をし、祈ろうともしない。
だが、女性は構わず鏡を頭上の高いところに置くと、率先して祈り始めた。
「天にまします我らの父よ。我らに罪を犯す者を赦すが如く我らの罪を許したまえ。
願わくば、その御姿を我らに顕わし天国への階段を賜らんことを――」
女性は同じ文言を二度繰り返した。
老人達の大半はまだ白けた顔をしていたが、幾人かは唱和を始める。
三度目の祈りが終わった時、それは唐突に現れた。
「迷える子羊たちよ。汝らのその願い、我が聞き届けん」
光に包まれた人の姿をしたそれは、背中に羽根のようなものが生えている。
現実世界で世知辛く生き抜いてきた老人達も、初めて見る形而上の存在に対しては、
初歩的な観念でしか対応する術を持たなかった。
「しゅッ、守護霊じゃ……」
「守護霊様の降臨じゃッ!!」
光と羽根というイメージが、容易にそれを善性のものと認識させる。
注視し、観察するなど思いもよらず、それは彼らを守護するために現れたのだと信じて疑わなかった。
「我は汝らを光へと導く守護霊。さあ、汝らの犯した罪を告白なさい。
我が全てを引き受け、その魂を光の国へと解き放たん。さすれば天国への階段は、汝らの前に姿を現わすであろう――」
全ての老人がいっせいに姿勢を正し、現れたものに対して頭を垂れた――
気がついたとき、六時限目の授業は終わっていた。
顔を上げ、周りを見渡してすでに教師がいないことを確認すると、慌ててノートを見る。
どうやら真面目に授業を受けていたのは初めの十分ほどで、あとはずっと寝てしまっていたようだ。
目をこすり、頬を軽くはたいて、龍介は目を覚まし、同時に反省した。
一応まだ進学の目も残しておきたいので、まるっきり授業を受けないというのは避けたいところだ。
少なくとも、いつ寝てしまったのか自覚もないのは、いくらなんでもマズいと思うのだ。
特に昨日はまあまあ早い――といっても九時は過ぎていた――時間に帰れたというのに、
そこからぐずぐずだらだらして結局寝たのは日付が変わってからという体たらくは、誰のせいでもない。
まあ済んでしまったことは仕方がない。
これから気をつければ良いのだ、と四回目の反省を終え、龍介は大きく伸びをした。
深舟さゆりが近づいてきたのは、龍介が伸びを終えたタイミングだった。
彼女が近づいてくるのを認めた龍介は、さりげなく、しかし素早く両腕を格納する。
寝ていたなどと彼女が知れば、また嫌味を言われるに違いないだろうから。
「東摩君」
学校でのさゆりは、知り合いと友人の間という絶妙なイントネーションで話しかける。
おかげで龍介は、彼女が学校で話しかける数少ない男子生徒にも関わらず、交際関係を噂されたことはただの一度もなかった。
煩わしさを避けられる、それは大きな利点ではある。
だが、龍介は、さゆりを恋愛の対象としてみる男どもに、
こいつはお前達が思っているような女じゃないんだぞと叫びたくなるときもあった。
鞄を持ち、龍介の前に立つ深舟さゆりは、仮に龍介がそう叫んだとしても、
信奉者たちに戯言と一蹴させるだけの容姿を備えていた。
いまどき一切染めておらず、しかもそれが最も良い選択だと有無を言わさず認めさせる、
一分の隙もなく彼女の頭を包む漆黒の髪は、深窓の令嬢と言われても通用するかもしれないし、
髪と同じ色の瞳は、黒くありながら光を放って見る者を吸引せずにおかない。
赤というより紅と形容するのがふさわしい唇も、形良く尖った鼻も、「可愛いけど」などという、
逆接を必要としない形容が許される顔を構成する役目を果たしていた。
それでも龍介は、「可愛いけど」と主張したいのだ。
けどに繋げるのは容姿の欠点ではなく、性格の方だ。
こんなキツい女は、東摩龍介の人生で出会った全女性の中でも二位に大差をつけての筆頭に位置する。
まったく、同僚でなければ最低限の会話も遠慮しておきたいというのが本音で、
運命の悪戯によって同じクラスに、そして同じバイトになってしまったことを、毎日嘆く龍介だった。
「帰る準備できたの?」
「いや、まだだけど」
龍介の返事にさゆりはやや顎を引いた。
そこで嫌味かキツい一言を発射しなかったのは、一応彼女なりに気を使っているということだろうか。
それとも単に口を動かす労を惜しんだだけなのだろうか。
龍介には判断がつかなかったので、軽く目をこすって態度を曖昧にしておいた。
何も寝起きでいきなり口喧嘩を始める必要もない。
皆がほんの少し優しくなれば、世界はきっと平和になるのだ。
「今から夕隙社に行くんでしょ?」
「ああ」
答えながら龍介は思った。
深舟さゆりとは仲良くアルバイト先に一緒に行く間柄だったろうか?
答えはノーだ。
同じ教室で同じ方向に行くのだから、結構な確率で一緒に行くことになるとしても、
こんな教室内から連れ立つような親しさはなかったはずだ。
龍介の不審をさゆりは予め予測していたのか、短く唇を噛んでから彼女は理由を告げる。
いつも背筋を伸ばしている彼女が、しおれた向日葵のように見えて、龍介は内心で驚いた。
「……また、居たら嫌だから」
それだけで龍介は諒解した。
さゆりが指しているのは、自殺が失敗したと思いこんで毎日飛び降りる男の霊や、
嫉妬に狂った挙げ句に自殺し、それでも怨みが晴れず包丁を振り回す女の霊などではなく、
同じ夕隙社のバイトで、もちろん生きた人間である山河虎次郎のことだ。
先日、彼は下校する龍介達を待ち伏せて拉致し、夕隙社に連れていったことがあった。
その行動自体はさゆりが怖れるようなこともないのだが、高校生には似つかわしくない黒塗りの高級車と、
明らかに一般的なサラリーマンとは思えぬ虎次郎の風貌は、龍介達と同様下校途中だった暮綯學園の生徒達に
強いインパクトを与え、特に独り車に連れこまれた龍介はしばらくの間、廊下を歩くだけで
幾つもの囁きを生みだすほとんど伝説の存在と化したのだった。
さゆりと支我は間一髪難を逃れたが、現場には目撃者も多く、龍介ほどではないにしても噂の対象となるのは避けられなかった。
さゆりは現役の暴力団員である虎次郎にも臆することなく正論をぶつけられる気概の持ち主ではあるが、
学校中で噂になって耐えられる精神力などは持ち合わせていないだろう。
面と向かって言われない分、堪えたのかと思うと、幾分かは同情する気にもなる龍介だった。
「分かったよ、すぐ片づける」
龍介の反応にむしろさゆりは驚いたようで、大きく目を瞠り、真意を探るように龍介を見た。
彼女と目を合わせた龍介は、彼女の瞳から放たれる意志の強さを遮るように目を細めたが、それ以上は何もせずに立ちあがった。
何か言いたげだったさゆりの口が、再び引き結ばれる。
そうやってお互い少しだけ譲りあえば、案外上手くいくものだと思いながら、
龍介は手にした鞄を背中側にぶら下げて廊下へと向かった。
とは言ってもまっすぐ教室を出るのではなく、先にもう一人の友人の所に行く。
「支我」
「東摩か」
帰る支度どころかまだノートを広げて何やら書き連ねている支我正宗は、龍介が声をかけると軽く手を挙げて応じた。
「深舟も一緒ということは、これからバイトか?」
「ああ。支我はどうする?」
不要な誤解を受けぬためにも、できれば三人で行きたい。
という龍介のささやかな願望を、残念ながら支我は汲んでくれなかった。
「俺は部活にちょっと顔を出すんで、バイトには少し遅れて行く。編集長にはそう伝えておいてくれ」
「そうか、わかった」
支我は学業も優秀で、夕隙社のアルバイトについても、雑誌部門と除霊部門の双方で必要不可欠な人材だ。
そして、彼はそのいずれもについて全く手を抜こうとしないのは、つきあいが短い龍介でもすでに充分把握していた。
「すまないな。校了が近いから、なるべく早く行くよ」
「ああ」
去ろうとする龍介に、支我は何かを思いだしたのか、ノートパソコンを開いた。
「来る時に幾つか道具を買って来るように言われているんだ。すまないが途中で4−Bに寄っていってくれないか」
4−Bとは夕隙社が御用達にしているコンビニで、普通のコンビニにある雑誌やら食料品やらから、
普通のコンビニには置いていなさそうな、神職が用いる大幣や、
夕隙社の面々以外に誰が買うのか不明な、悪霊に効果を発揮する札まで扱っていて、龍介達にとってはなくてならないコンビニだ。
「おやすいご用だけど、何を買っていけばいいんだ?」
「待ってくれ……今メールで転送しておいた」
目の前にいるのだから、直接言えばいいのにと思う龍介は、年齢は十八でも考え方が少し古いのかもしれない。
メールならば言った言わないで行き違うこともなく、何を買うのか忘れてしまうこともない。
しかし、家のお使いではないのだから仕方ないとしても、顔を見ないで話をするというのは、やはり味気ない気がする。
などと龍介が思っていると、支我が顔を上げた。
考えを見透かされたような気がして焦ったが、むろんそんなことはなく、単に注意を喚起しただけだった。
「領収書を忘れずに貰ってくれよ。でないと経費で出せないからな」
業務で使うのだから一括で仕入れればいいのにと思い、龍介はそう意見したこともあるのだが、
社長である伏頼千鶴に倉庫代がかかるという理由で提案を却下された。
まあ、コンビニで手軽に調達できるのだからその通りかもしれないが、在庫が切れていたらどうするのだろうか。
実は龍介の悩みは、龍介自身が引き起こしたものでもある。
龍介が夕隙社で働く以前は、除霊に対応できるメンバーが少なく、依頼に関しても全てを受けるというわけにはいかなかったのだ。
それが霊を視ることができ、かつ実力行使で排除できる龍介が加入したことで、
夕隙社が引き受けられるキャパシティが飛躍的に増えたのだ。
それによって消耗品の使用頻度も増加し、それまでコンビニで都度調達でも充分間に合っていたのが、
こうやって社員に買い出しの回数を心配されるまでになっていたのだ。
このままでは遠からず、龍介の言うように仕入れ業者を選定する必要が出てくるだろう。
領収書の話が出たので、龍介は財布を覗いてみた。
「立て替えた分って今日払ってもらえるのかな?」
「編集長が居れば大丈夫だが……不安なら、俺が出しておこうか」
「……そうしてくれると助かる」
龍介のなんとなく恥ずかしい、という気分は、さゆりによってただちに増幅された。
「夕隙社のバイト代って結構良いはずなのに、無駄遣いしてるんじゃないでしょうね」
「してない……と思う」
頼りない返事はだらしない印象を与えたようだった。
「お金はきちんと自己管理しないとあっという間に破滅するわよ」
「わかってるよ」
さゆりの言は真実であるだけに不快感を伴って心に深く刺さり、龍介の返事にはその反響が滲んでいた。
「いや、いきなり買い出しを頼んだ俺も悪いんだ」
「別に支我君は悪くないわよ。高校生にもなって手元不如意な東摩君が悪いんでしょ」
それを察したのか、支我が如才なく補うものの、さゆりは口を休めることなく鋭い舌鋒を叩きつけた。
数分前の友好的なムードもどこへやら、龍介も反撃しようと態勢を整え始める。
さゆりがさらにそれに反応して、いよいよ暮綯學園三年B組の空気が局地的に悪化する中、
開きっぱなしの教室の扉から、一人の少女がひょこりと顔を出した。
「さ〜ゆりちゃん」
緊張というものをまるで感じさせない長南莢の声は、この場では清涼剤にも等しい。
脱力感に崩れ落ちそうになった龍介は、制服の胸元を軽く扇いだ。
「東摩くんと支我くんも一緒だ。……あれれ、どうしたの?」
「なッ、なんでもないのよ。どうしたの、莢」
さゆりも半オクターブほど声を上げつつ、率先して換気する。
険悪なムードを中和するという功績を立てたさゆりの友人は、気づいているのかいないのか、
一触即発だった龍介とさゆりを見て、いかにも楽しそうに微笑んだ。
「うふふッ、みんな仲良しさんだねェ〜。
さゆりちゃんは入学したときからあまり誰かと一緒にいることがなくて一人のことが多かったから、
こうやって友達と一緒にいるようになってあたしは嬉しいなァ」
「よ、余計なことは言わなくていいのよ、莢。別に私はひとりでも気にしてないんだから」
莢の罪のない残酷な指摘に、さゆりの耳が紅く染まる。
こいつでも恥ずかしがることがあるのかと龍介は思ったが、これは友人が居ないという事実そのものよりも、
事実を友人の口から暴露されていたたまれなくなったのだろう。
「それよりどうしたの?」
さゆりは極めて強引に話題をすり替えたが、莢は話題を引きずることもなく、さゆりの制服の袖に触れて言った。
「そうそう。今日はさゆりちゃんと一緒に、放課後になったら図書室に行こうかな〜って思ってェ、呼びに来たの」
「図書室……?」
「うん。東摩くんたちも一緒にどうかな?」
さゆりは首を傾げ、龍介と支我は顔を見合わせる。
「えっとね、ちょっと聞いて欲しいことがあってェ」
話をするなら図書室は不向きではないのか。
支我は思ったが指摘はしなかった。
それよりも早く龍介が答えたからだ。
「ああ、うん、それなら別にいいけど」
そして、別に良くはないのではないか。
そうも思ったが指摘はしなかった。
それよりも早くさゆりがなじったからだ。
「馬鹿、何ホイホイ行くとか言ってんのよ! これからバイトだって話してたところじゃないッ!」
しまった、という顔をする龍介を、支我は無表情に見やる。
この二人の会話は聞いていて飽きない――というより、笑いそうになることが多々あるのだが、
笑ってしまうとたぶん、二人とも気を悪くするだろうから、今のところはなるべく我慢した方が良いと考える支我だった。
「バイトォ? それって、オカルト専門だっていってた出版社のアルバイトの事ォ?」
「そうよ」
さゆりはさゆりで、龍介と莢と同時に会話をすると、感情の切り替えに一苦労するという悩みを抱えている。
龍介にもう少し思慮と分別があれば、いちいち苛立たせられることもないのだろうが、
彼にそういったものを期待するのは、ミステリーサークルを作成している宇宙人に
インタビューが成功するくらい確率の低いことだ。
そして困ったことに、莢はこの変人を気に入っているらしく、彼と支我が一緒に居るときでも、
明らかに龍介の方に積極的に話しかけていた。
さゆりとしてはゲテモノ食いも大概にしておかないと腹を壊すと言ってやりたいところだが、
何故と訊かれて説明に困るのが容易に想像できるので、仕方なく静観するしかないのだった。
「さゆりちゃん幽霊の話とか嫌いなのに、オカルトとか大丈夫なのォ?」
「えッ、ええ、大丈夫よ」
さゆりが幽霊の話を嫌うのは、怖いからではない。
本当に幽霊が視える者の孤独を知っているからなのだが、莢にはそこまで語っておらず、あいまいに頷いた。
ところが莢は不思議そうに首を傾げると、さゆりが思ってもいない質問を繰りだした。
「ふ〜ん……ね、東摩くんたちはさゆりちゃんが幽霊嫌いなの知ってるのォ?」
「えッ……あ、ま、まあ、そんな話を聞いたことがあったかな」
どうせ下手な返事をするのなら、いっそ知らないと嘘をつけば良かったのに。
さゆりは罪のない男を軽く睨みつけたが、彼女の受難はそれで終わらなかった。
「すごいねェ、東摩くん。ついこの間転校してきたばっかりなのに、そんなことまで知ってるなんてェ」
両手を合わせて感心した莢は、再び、今度はより深く首を傾げて龍介に問うた。
「ね、ね、東摩くんってもしかしてさゆりちゃんと付きあってるの?」
「なッ……!! 何言ってるのよ莢、そんなことあるわけないでしょッ!!??」
頭の中で何かが爆ぜる音をさゆりは聴いた気がした。
絶対にあってはならない誤解、してはならない錯誤を莢はしている。
最悪の形で発動した、良い友人である長南莢の唯一の欠点である思いこみの激しさを、
今回ばかりは笑って受け流すわけにはいかない。
こんな男を恋人に選ぶくらいなら一生独身を通すという覚悟を、たとえ夜通しかかって肌が荒れようとも、
莢に納得させなければならないとさゆりは決心した。
「えェ〜、でもォ〜」
尖らせた唇に人差し指を当ててなお莢は言い募ろうとする。
彼女でなければ首を絞めているところだと、さゆりが怒りをぶつける場所を探していると、
それまで全く口を挟まなかった支我が笑いだした。
「なッ、何よ支我君、笑ったりして」
「いや、何でもない」
彼にも半日ほどかけて言い含める必要がある――が、今は莢だ。
彼女に世の中の男女は全て一緒にいるだけで恋人にはならないということを教える必要があった。
「東摩君はバイトが同じなだけで、本ッッ当になんにも無いんだから。ね、そうよね、東摩君」
たいそう真摯な表情で龍介が頷くと、莢は残念そうに受け入れた。
自分の否定よりも、彼の表情の方に信を置いているらしいのがさゆりには気に入らなかったものの、
ここで混ぜっ返すのは泥沼に嵌りこむだけだと自重した。
「あたし二人はお似合いだと思うんだけどなァ?」
「もッ、もうその話はいいわよ。ほら、図書室行くんでしょ?」
どこをどう見て似合いと言うのか、本気で問いただしたくなったさゆりは、
親友に牙を剥いてしまう前に、彼女の本来の関心に注意を向けさせようとする。
「えッ? でもさゆりちゃん、さっきはバイト行くって」
「莢の頼みなんだからそっち優先に決まってるでしょ。
東摩君、そういうわけだから私と支我君は遅れるって編集長に言っておいてくれる?」
もう莢の思いこみ攻撃から逃れるには、物理的に龍介を隔離するしかないと悟ったさゆりは、
彼に強引に役目を押しつけようとした。
「でもォ、できれば皆で聞いて欲しいんだけどなァ」
ところが、今日の莢はさゆりにとってまったく良い友人ではなかった。
さゆりの望まないことばかりを言い、知られたくないことを次々と暴露されてしまった。
半分以上は龍介のせいだとしても、もう少し気を遣って欲しかった。
さゆりは怨めしげに莢を見たが、莢には伝わっていないようだった。
莢の頼みに龍介と支我は、困惑した顔を再び見合わせた。
さゆりはともかく自分たちは莢とそれほど親しいわけでもなく、断ってしまった方が後顧の憂いがなくて良いような気がするのだ。
「ねっ、ちょっとだけでいいからあたしの話を聞いてほしいの。ダメ?」
二人の気配を察したように莢が重ねて頼む。
龍介も支我も、こういった表情の女の子をあしらう術は、まだ身につけていなかった。
「部活までまだ少し時間はあるか……よし、わかった」
支我が同意したことで、自動的に龍介も同意したことになる。
少なくとも莢はそう考えたらしく、さゆりが異議を唱える前に、さっきの表情はなんだったのかというくらい
満面の笑みを浮かべて礼を述べた。
「ありがとうッ。それじゃ、行こ」
こうして結局三人は、いつも通り三人揃っての行動を余儀なくされたのだった。
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