<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>

(2/5ページ)

 高校の図書室というのは、現代日本では最も不遇な場所のひとつであるかもしれない。
蔵書はそれなりにあって、図書委員も居るのだが、そこに来る生徒は一日で五人も来れば大入りといった具合で、
龍介達が入った時も、貸し出しカウンターに座っている図書委員が一人、ちらりと顔を上げただけで、
他には男女問わず一人の生徒も居なかった。
唯一の先住者であった図書委員の女生徒も、一見で龍介達が真面目に本を借りに来た生徒ではないと見抜いたらしいが、
四人に声をかけることもなく、手元の、おそらくは読んでいる本に視線を戻す。
うるさくすればもちろん怒るだろうが、ある程度なら干渉しないという無言の意思表示だ。
聖域に立ち入ったのは龍介達の方だから、彼女の邪魔にならぬようなるべく奥の机に陣取って、小声で話し始めた。
「あのね、昨日急にお爺ちゃんが老人ホームに入るって言い出して」
 長南莢の話は未熟な高校生達の意表を突きすぎて、三人は揃って眉を微妙な形に曲げた。
莢はそれを知ってか知らずか、マイペースで話を続ける。
「あ、老人ホームにはそろそろ入らないとなあって前から言ってたんだけどね、
昨日は具体的に『ここに決めた』って言い出してね、あたしびっくりしちゃって」
 それはまあ、家族はびっくりするかもしれない。
家族ではない龍介はそう思いながら、同時に空いた小腹のことを考えていた。
編集部に行く前に、何か食べていくのも悪くない。
夕隙社に参加して以来、不規則な睡眠と不規則な食事が当たり前になっているが、
幸いなことに太らない体質なのか、体重が増えた気配はない。
きちんと計ると増えているのかもしれないが、腹が出てこなければいいだろうとズボラに考える龍介は、
割と自由な食生活を送っていた。
 ただ今日は、この流れだとさゆりと一緒に夕隙社に行くことになりそうだから、買い食いはできないかもしれない。
別に龍介が太ろうが生活習慣病に罹患しようが彼女には関係ないと思うのだが、
一緒にいるときに何かを食べようとするとめざとく見つけて説教をしてくるのだ。
肉体労働は腹が減るという理屈も、小菅君みたいになりたいのと実例を出されると負けを認めるしかなく、
一日で最大二十時間近く起きている日でも、食事は三食間食なしという節制を強いられるのだった。
 目下の所龍介は、身長は日本人男性の十七歳平均よりも七センチほど高く、体重は三百グラムほど少ない。
だがそれをさゆりのおかげだとは思っておらず、体重が少ないのはあくまでも激務のせいで、実際は減少傾向にあるはずだと
信じて疑わない龍介は、今日はなんとかして夕隙社に行く前にラーメンでも食べていく、
そのためにはどこかでさゆりを撒く必要がある、と企みを練ることにした。
「あたしとママでもうちょっとじっくり考えようよって説得して」
 龍介が思考の六割を聴覚ではなく思考力に回している間も、莢の話は続く。
「でもね、お爺ちゃんは頑固だから、あたし達が言うほど意固地になっちゃって、
そんなに反対するなら来週から一週間体験入所するからお前達も来い、なんて言い出して、
そしたらママが『そんな急に言われても都合がある』って喧嘩になっちゃったの」
 暮綯學園から夕隙社に行くルートマップを頭の中に描き出し、その途中にあるラーメン屋を地図に重ねていく。
スマホで調べれば手っ取り早いが、今は莢の話を聞いている最中なのでそれはできない。
思い浮かべたラーメン屋から、龍介は今日の気分で醤油ラーメンを選び、三軒ほどに絞りこんだ。
「あたしはどうしたらいいか分かんなくて、お爺ちゃんにどうしてその老人ホームに決めたの? って聞いたのね」
 最終的にどの店にするかは実際に歩いて決めるとして、次はどうやってさゆりを撒くかだ。
やはり学校に忘れ物をしたというのが基本かつ有効な嘘だろう。
何も一時間以上も遅れるつもりはなく、ラーメン一杯でせいぜい三十分といったところだろうから、龍介の罪の意識は薄く、
店が決まり、方針も決まり、あとは行動に移すだけとなった。
「そしたらお爺ちゃん、『そこには守護霊様が居るんだ』って言って」
 霊というキーワードが空腹の具合を調査していた龍介の脳に届くまで、一秒ほどの時間を要した。
しかし、それはほとんど話を聞いていなかった龍介だけでなく、まじめに聞いていたであろう支我とさゆりも同様だったらしく、
龍介が彼らを見たとき、彼らも同様に首を動かした。
「守護霊……様? 老人ホームに出るってこと?」
 ラーメンの湯気をひとまず頭から追い出した龍介は、座り直して彼女に質問した。
「うん。北区にある老人ホームで、名前は、えっと……『光の門』だったかな?」
 老人ホームの名前にどのような傾向があるのか龍介は知らず、関心もないので何もしないでいると、
隣で支我がノートパソコンを開き、さゆりはメモに書き留めていた。
二人が優秀だから自分は記録しなくてもよいというのは、雑誌社でアルバイトする立場では良くない考え方だろう。
そう思いつつ今更メモを取りだすのもわざとらしい気がして、龍介は結局何もしなかった。
「一ヶ月くらい前から幽霊を視たって人が出始めて、何人か退去する人も出てるんだって」
「普通そうよね。でも莢のお爺さんはその話を知ってなお入りたがってるのよね」
「それがね、お爺ちゃんが言うには、その幽霊は良い幽霊なんだって」
「良い幽霊って……」
 幽霊が全て悪いわけではない。
そう分かってはいても、悪い霊を退治する仕事をしている龍介達には、中々受け入れにくい。
「うん。その幽霊の言う通りにすると、心が綺麗になって天国に行けるんだって」
「長南、その守護霊は具体的に何をしろと言ったのかわかるか?」
 ここまでノートPCに何かを打ちこんでいて、一言も話さなかった支我が、腕を組んで訊ねた。
莢はしゃっくりをしたような顔をして、目をぱちくりさせる。
龍介やさゆりとは違う、真面目な雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
「えッ? ん〜と……そうだ、守護霊様に犯した罪を告白しなさいって」
「それだけか?」
「たぶん……あ、あと、守護霊様に逆らうようなことをすると、地獄に落とされるとも言ってたかな?
詳しいことはお爺ちゃんに聞かないとわからないけど」
「……引っかかるな」
 疑問を口にする支我に、全員の視線が集中した。
龍介なら泡を食ってしまうところだろうが、支我は落ちついて自らの考えを語る。
「守護霊とやらは懺悔を要求しているだろ。懺悔というのは普通、その人自身が神に赦しを得たいと願って罪を告白するものだ。
誰かに言わせられるような類のものじゃない。それに、『罪を告白すれば』天国に行けるというのも少しおかしいし、
逆らうと地獄に堕ちるというのはもっとおかしい」
「そうよね……私もそこは変だと思うわ」
「ずいぶん厳しい守護霊も居たもんだよな」
 別に龍介は軽口を叩いたつもりはないのだが、なぜかさゆりに睨まれた。
訳が分からないので訊ねようとすると、それより早く莢が口を開いた。
「あッ」
 いかにもすっぽ抜けた感のある声は、龍介達を飛び越えてカウンターにまで届いたらしく、軽い咳払いが聞こえる。
首をすくめた莢は、小声にした代わりに身を乗りだして続けた。
「あと、財を抱えているのは良くないことだから、寄付をするのもいいとか」
「寄付って……守護霊がそう言ったの?」
 今度はさすがに疑問を感じてさゆりが訊いた。
さゆりの知識は宗教には寄付がつきものだという程度の漠然としたものでしかない。
それでも、霊が直接寄付を募るなどという話は――もちろん、世の大半の人々は、
実際に霊が存在するとは思っていないのだが――初耳であり、相当にいかがわしいものを感じるのだ。
隣で間抜けそうな顔をして聞いている東摩龍介でさえ同じ考えらしく、納得できないというように頭を振っていた。
「そうみたい。お爺ちゃんの友達がそのホームに入ってて、守護霊さんを本当に視たって話なの。
その幽霊が現れてから、ホームの他のお爺ちゃんたちも気持ちが明るくなったり、病気が治ったりしたんだって。
でもそんな幽霊本当にいるのかな? って、さゆりちゃんたちに相談しようと思ったの」
 三人とも即答はしなかった。
まずさゆりが、もっとも知識が豊富な支我に訊ねた。
「支我君はどう思う? 守護霊って言うくらいだから、霊の一種よね。そんな霊って存在するの?」
「そうだな」
 腕を組む支我に三人の視線が集まる。
彼は一語ずつ言葉を選ぶように語った。
「一般的に守護霊って言うのは、人や家に憑いて、善に導くと言われている。
日本では祖先の霊が子孫を護ってくれるって聞くだろ? 座敷童なんかも家に憑く守護霊って解釈もある。
海外だと神の使いだと信じられて、死んだ聖人がなるとも言われている」
「どっちにしても、基本的には良い霊ってことよね」
「そうなるな」
 支我が頷くと、莢は安心したようだった。
「そうなんだァ。それじゃ、守護霊さんの言うことを聞けば天国に行けるってお爺ちゃんの話も正しいのかなァ?」
 しかし、これには支我は頷かなかった。
莢ではなく机を見ながら、彼は思うところを口にした。
「守護霊が交換条件を出すというのが気になるんだ。守護霊っていうのは人を護ろうとする霊だ。
手助けこそすれ、霊自身の利益や欲望のために行動することはないとされている」
「霊自身が寄付を要求するなんて、明らかに変よね」
「一度調べた方が良いかもしれないな」
 支我が言うと、莢は目を丸くした。
ひとつひとつの仕種が少女らしく大げさなのだが、彼女自体が少女らしさを自然と醸しているからか、
それほどわざとらしさはない。
「凄〜い、支我君たちってそんなこともできるのォ!?」
「あッ、いや……特別な機材がバイト先にあるんだよ。何と言ってもオカルト専門の出版社だからな」
 これ以上突っこまれたら危ういところだったが、莢はあっさり納得したようだ。
三人を順番に見渡し、判ったような判らないような顔で何度も頷いた。
「ほえ〜、凄いんだねェ、出版社って」
「でも、老人ホームなんてどうやって調べるの? 私達じゃ見学って年齢でもないわよ」
 さゆりの疑問に支我はあっさり答えた。
「取材って名目なら中には入れるだろ」
「なるほどね」
 さゆりは感心しただけだが、莢は大げさなくらいに感動したものだった。
「凄いね支我くんって。いつも冷静にぱぱっと考えられて。食べてるものが違うのかな?」
「ありえるわね。東摩君はその辺に落ちてるものとか平気で口に入れるもの。ね?」
「ね? じゃねェよ、んなことするわけないだろ」
 突っかかってくるのはそろそろ慣れても、謂われのない中傷を、それも女の子の前でされるのは耐えられない。
龍介は声を荒げたが、さゆりは冷ややかに龍介が忘れていた事実を指摘した。
「転校初日に床に落ちてた塩を舐めたじゃない」
「あれは」
「あれは、何?」
 一方の温度は上昇し、一方は下降していく。
暖気と寒気が衝突すれば、おおむね天気は悪化する。
それは新宿区立暮綯學園内に局地的に発生した場合でも同様だったが、
雨が降り出す前に、強い陽差しが不穏な気流を強く照らした。
「わァ〜、さゆりちゃんと東摩くんってそんなすぐから仲良しだったんだァ〜」
「ちッ、違うわよ莢、たまたま、そう、たまたま東摩君が塩を舐めるところを見たのよ」
「どこで?」
「ど、どこって……それより支我君が食べてるものが気になるわ、私」
 酷いごまかしだと全員が思った。
が、この波に乗るべきだと考えた者が、少なくとも三人いた。
支我はその中ではおそらく最も積極的ではなかったが、事態の収拾を図れるのは彼だけのようなので、さゆりの疑問に答えた。
「別にそんなことはないさ。冷静に考える癖がついているのは、研究者だった祖父の教えを守っているからかな」
「薫陶を受けているのね」
「そういうことになるかな。……そろそろ時間だ、それじゃ、一度夕隙社に行ってアポを取ってから行くことにしよう」
「みんな、ありがとう〜、守護霊さんに会ったらよろしく伝えてね〜」
 莢と別れて図書室を出た三人は、支我が部活に顔を出す時間なので、そのまま校舎を出るまで一緒に行くことにした。
 まだ陽は傾いておらず、廊下は陰よりも陽の方が多い。
その陰の方を歩く龍介が、支我に話しかけた。
「意外だな」
「何がだ、東摩?」
「正式な依頼じゃないだろ、これ。莢さんから調査費もらうわけにもいかないし、
俺か深舟ならともかく、支我がこういうの率先して受けるなんて思わなかったんだ」
「それは私も思ったわ」
 支我を挟んで龍介の反対側を歩くさゆりが同調する。
「長南には一飯の恩があるからな」
 龍介が口にしたならきっとさゆりが怒るだろう冗談は、五秒ほどの沈黙を二人にもたらした。
さゆりはやや唇を尖らせて龍介を睨み、話を続けろと促す。
謂われなく睨まれた龍介が、それでもさゆりの意向に応えようと、支我に話しかけようとすると、彼の方から真意を語った。
「……守護霊と名乗る霊が現れて、告解や寄付を要求する。かなり珍しいケースだからな。好奇心が刺激されたんだ」
 一応は納得できる解答ではあり、龍介もさゆりもそれ以上は追及しなかった。
しかし、普段はむしろ淡々と霊退治をこなす彼が、好奇心という言葉を用いたのは、不思議だという気もした。
その考えは相性などという言葉を持ち出した瞬間、全力で互いを最悪だと断言するであろう二人において
同じだったようで、全く期せずして、龍介とさゆりは同時に互いの方を向いてしまう。
驚いて今度は顔をそむけたところで、この話題は終わりとなってしまったのだった。
「それじゃ、俺もなるべく早く行くから、先に編集長に話を通しておいてくれ」
 支我と別れ、龍介とさゆりは編集部に向かう。
 学校を出て最初の赤信号で立ち止まったところで、さゆりが呟いた。
「ああ、でも校了が近かったのよね。編集長行かせてくれるかしら」
「とりあえず、言うだけ言ってみよう」
 龍介の返事にさゆりは珍しく素直に頷く。
小憎らしくない横顔は、龍介の頭の中にある、何かの感性をつかさどる弦を弾き、
そのせいかどうか、単独でラーメンを食べに行こうと目論んでいた龍介が予定を思いだしたのは、
編集部に到着してからだった。
「ダメよ」
 龍介の話を聞き終えるなり千鶴は言った。
「金にならない仕事はしないっていうのがウチの社是よ。何度も言ってるでしょ?
除霊依頼があったわけでもない。そもそも悪霊かどうかもわからない。そんなものを調査するのに労力は割けないわ」
 千鶴は零細とはいえ企業の社長であるから、社員の無駄働きなど許さない。
情にかられてタダ働きなどしていたら、夕隙社程度の出版社はあっというまに潰れてしまうのだ。
裏の稼業が最近は好調ではあるけれども、綱は常に引き締めておく必要があった。
「あんた達は高校生でバイトだけど、働いている時間は社員だし、給料も発生しているのよ。
同級生の悩みを解決してあげたいっていうのは、心がけとしては立派だけど、
夕隙社としてやりたければ、ウチが動く理由を証明してみなさい。そうでなければ勤務時間外にやる。わかった?」
「でも」
 龍介は食い下がる。
バイトの環境にも慣れて、そろそろ増長する時期なのかもしれない。
ここはひとつ、雷を落とした方が良いかもしれない。
千鶴は眼鏡を直し、彼の主張を粉砕するための準備を内心で始めた。
「その霊、老人ホームの人達から財産を巻きあげてるみたいなんですよ」
 呼んだ雷雲を千鶴は待機させた。
示しがつかない、とも考えたが、龍介の言葉には聞き捨てができないものがあった。
「……どういうこと?」
 改めて事情を聞いた千鶴は、態度を百八十度転換させていた。
「いいわ、行ってきなさい」
 事の成り行きにむしろ戸惑っている様子の二人に構わず、千鶴は決断を下した大人の態度というものを示した。
「それじゃ私は出かけるけど、その件の報告は逐一入れるように。来月号の記事の校正は萌市に頼んでおきなさい」
 彼らが急に態度を変えた理由を訊きたがる前に、千鶴は編集部を後にした。
いつか話すときが来るかもしれない――が、少なくとも今ではない。
千鶴はまだ、龍介とさゆりを全面的に信用しているわけではなかった。
「ま、見込みはあるけどね」
 乗りこんだエレベーター内でひとりごちた千鶴は、喉の奥で小さく笑う。
階下に到着したエレベーターの扉が開くと、ちょうど支我が来るところだった。
「編集長」
「外回りに行ってくるわ」
「お気をつけて」
 支我とはつきあいが長いので必要最小限の会話で事足りる。
軽く手を挙げてエレベーターを降り、千鶴は立ち止まった。
「そうだ、支我……あんた、新入り二人の面倒、ちゃんと見なさいよ。
余計なことに首を突っこんでないで、この世で一番大切な物はお金だってこと、噛んで含めるように言い聞かせなさい」
「わかりました」
 きまじめな返事に満足して、千鶴はビルを出ていく。
 彼女はオカルト雑誌の編集長などをしていても、また、霊を視る超能力を持っていたとしても、
千里眼までは持っていなかったから、上昇を始めたエレベーターの中で、支我が含み笑いをしていることまでは知り得なかった。
 千鶴が去った編集部内では、龍介とさゆりが顔を見交わしていた。
そっぽを向かなかったのは、編集部の奥から聞こえる左戸井のいびきの他には、誰もいなかったからである。
「どうして急に気が変わったのかしら」
「さあ?」
「『さあ?』って間抜けな顔して即答してないで、少しはあんたも考えたらどうなの?」
「んなこと言われたって……あの人『ゴースト・イズ・マネー』っていつも言ってるだろ。
そのゴーストに金を持ってかれるのが嫌なんじゃないかと思って言ってみたんだけど」
「安直すぎるわよ」
「いいだろ、上手くいったんだから」
 それに対してさゆりが言い返そうとしたところに、支我が入ってきた。
「あ、支我くん。編集長の許可は取れたわ」
 功績を奪われてて何か言いたそうにしている龍介に微笑を誘われつつ、支我は頷いた。
「それじゃ早速アポを取ろう。二人はその間に準備をしてくれ」
 支我が電話を始めたので、二人もロッカーに向かった。
今回は除霊ではないので、大がかりな装備を持ってはいけない。
龍介がそれほどの時間も要さずに準備を整えてしまうと、スマホが新着のメールを知らせた。
差出人は浅間萌市で、現在は階下にいるはずだ。
彼が来れば事足りるのにわざわざ呼ぶのはなぜだろうと龍介は首を傾げた。
「萌市が来て欲しいって。なんだろう」
「知らないけどさっさと行ってきなさいよ。私達も準備ができたら下に降りてるから。あ、校正を頼んでおくの、忘れないでよ」
 引越ししてきた家族にゴミの分別を口うるさく説明する近所のおばさんのようだと龍介は思い、無言で出ていった。
そういうおばさんはうかつに口答えしようものなら、とたんに烈火の如く怒り出すものと相場が決まっていたので。
 夕隙社の同僚である浅間萌市は、地下に専用のラボを持っている。
ラボと言っても三畳ほどの小さな、本来は掃除用具を収納しておくような場所で、
彼はここで原稿も書きながら、日々夕隙社の裏の稼業である幽霊退治に必要な道具デバイスを開発しているというのだった。
 かつて龍介はここに招待されながら、丁重に辞退……というか、うやむやにしてしまったことがある。
怪しい科学の怪しい工房、というのは、ごぽごぽ音を立てていて爆発したりする薬品や、
びりびり電気がリークしていてうっかり触ると爆発する機械や、
小生意気な会話能力を持ち、人間を尊敬しないばかりか論理の矛盾を突かれると爆発するコンピュータに
埋め尽くされているのではないかという偏見混じりの恐怖があったからだ。
 だからできれば、この際さゆりでもいいから同行して欲しかったのだが、
嫌いな相手に向こうからついてきてもらうという、屏風から虎を出すのに匹敵する難事はあえなく失敗し、
龍介は一人で度胸を試す羽目に陥ったというわけだった。
 エレベーターを降りた龍介は、真横にある金属製の扉を開けて中に入る。
中は暗く、扉を閉めると何も見えなくなってしまいそうなので、ドアを半開きにしたまま龍介は室内を見渡した。
 初めて上階の編集部に足を踏み入れたときも、自分の部屋にも負けないほどの汚さに驚いたものだが、
この魔窟はさらに上を行っている。
部屋に入ってすぐの所から始まっている、金属製のラックと物置は迷宮のように部屋中にそびえ、
それらの中には得体の知れない装置が所狭しと並べられていた。
外界からの光に透かして霧のように埃が立ちこめているのを見てしまった龍介は、
うかつに入れば死ぬかもしれないと陽と陰の境界線上でためらう。
オカルト雑誌の制作で得た知識によれば、天国と地獄も何層かに分かれていて徐々に過酷になっていくそうだが、
ここはいきなり最下層に繋がっているような気配だ。
なぜ今日に限って今まであれだけ避けていたこの場所に足を踏み入れようと思ったのか、
自分の心の動きを問いただしたい龍介だった。
「……浅間?」
 なんとなく小声で呼びかけてみる。
 返事はない。
何が居るか知れたものではなく、暗がりでスイッチを探す気にはなれなかった。
もう一度だけ呼んでみて、返事がなかったら地上に帰還しようと定めて、龍介はもう一歩だけ踏みこむ。
呼ばれたのは数分前だから、居ないはずはないのだが、居ないで欲しいと心から願いながら、同僚の名を呼んだ。
「浅間? いないのか?」
 義理は果たしたと判断して、後ずさりで部屋を出ようとする。
その時前方で、影が動いた。
 不覚にも龍介は驚き、足を滑らせてしまう。
幸い尻を打っただけで怪我はなかったが、水しぶきのように舞った埃が、嫌でも目に入ってしまった。
悪戯にしては悪趣味で、息を止めたまま怒りを溜めた龍介は立とうとする。
 その動きを封じるように、目の前に何かが突きつけられた。
青白い輝きは細長く、龍介の眼前から上方に一メートルほど伸びている。
何が起こっているのかさっぱり判らないでいる龍介に、萌市が語りかけてきた。
「問おう、貴方がマスターか」
「……!!?? マスター!?」
 喫茶店の店主? それとも何かの達人?
どちらにも心当たりがない龍介は怒るのも忘れて、何かに頭をやられたとしか思えない萌市を
――正確にはその影を、呆然と仰ぎ見た。
「東摩氏……やはり貴方は僕が見こんだ通りの人です」
「は、はあ」
「ナオちゃんの」
 萌市は声を詰まらせる。
ナオというのは先日除霊した、アイドルの霊の名だ。
彼女の熱狂的なファンだった彼は、まだ名前を口にするだけで哀しみが抑えられないのだろう。
「ナオちゃんの霊を斃すことなく安らぎで満たし、アイちゃんのわだかまりをも解いてくれました」
「……」
「その結果、アイちゃんが僕の名前を覚えてくれるという栄誉に浴することができました。
これはもう、奇蹟と呼んで差し支えありません」
「あの、俺、ちょっと急ぐんで……」
 龍介の囁きは荘重に無視された。
せめて灯りをつけて欲しいという願いも、当然ながら伝わりはしない。
「東摩氏こそこの武器を使うのに相応しい」
「武器……?」
「はい。これは僕が開発した、東摩氏専用の武器です」
 ようやく龍介は立ちあがった。
萌市は青白い物体を垂直に立て、次に水平にする。
何かの儀式を摸しているようだが、それには構わず、龍介は武器を凝視した。
それはどうやら、棒状の武器らしかった。
「僕の……いえ、夕隙社のマスターともあろう方がいつまでも鉄パイプなど使っていてはいけません」
 適度な重さのある鉄パイプは、武器を振っている感があって悪くはない。
霊相手なら曲がる心配も少ないし、たとえ曲がっても安価で調達できる、対霊用特効兵器と呼んでも差し支えないくらいだ。
だが、萌市の差しだす不思議な棒にも興味を惹かれる。
結局好奇心が勝り、若干ためらいつつも龍介は武器を受け取った。
 熱さは感じない青白い光は、龍介が握ると輝きを増した。
一定の明るさではなく、微妙に強弱が変わっている。
「マイナスの電荷を持つ粒子を発生させる装置を束の部分に組みこんであります。
スイッチは底の部分で、一回の充電でおおよそ十五分の駆動が可能です」
 手探りでスイッチを押してみると、辺りは真っ暗になった。
萌市のシルエットも消失したので、慌ててスイッチを入れ直した。
暗闇に浮かぶ彼の影は不気味だったはずが、今の龍介には賢者にも見える。
「刃の部分は伸縮式で、携帯できるようになっています。
それから、粒子発生装置を強化プラスチックの筒で包む構造になっていますが、鉄パイプに較べると耐久性は落ちます。
壁などにぶつけると割れてしまうかもしれませんから、取り扱いには注意してください」
 説明を聞き終えた龍介の、口から深い吐息がを漏れる。
「凄いな」
「気に入っていただけましたか」
「ああ、とても」
 実際の効果は試してみなければわからない。
もしかしたら、鉄パイプよりも使い勝手が悪いかもしれない。
しかし、使い手を昂揚させるという要素も武器には必要で、これは龍介のやる気を二倍ほどに増加させていた。
映画やゲームで出てくる空想の武器が遂に手に入ったという思いすらある。
これこそ主役が持つ剣、魔王だろうが暗黒卿だろうが真っ二つにする伝説の武器だ。
 酔いしれる龍介の懐で、振動が発生する。
相手はおそらくさゆりで、用件は言わずもがなだろう。
現実に立ち返った龍介は、幾分テンションを落としながらも、心から礼を言った。
「ありがとう……早速使ってみるよ」
「はい。戦果を期待しています。マスターなら上手くやれますよ」
 萌市の工房から出た龍介の気分は、秘密の洞窟から生還した勇者そのものだった。
 地上に戻るとさゆりが腕組みをして待っていた。
「用事は何だったのよ」
「ん、まあ大した用事じゃなかった」
「その割に時間がかかったわよね」
 秘密の研究所で新しい武器を手に入れたという完全無欠の事実が、
ひどく子供っぽい気がしてお茶を濁す龍介に、さゆりは厳しい指摘をした。
返答を詰まらせる龍介に、支我が助け船を出す。
「アポの時間にまだ余裕はあるが、早速出発しよう」
 たしなめられた形となったさゆりは、くっと顎を引くと、先頭に立って駅に向かった。
 龍介が目で礼を言うと、支我は、驚いたことに、わずかに笑ったようだった。
たまたまそう見えただけなのか、笑ったとしたらなぜ笑ったのか。
さゆりの難詰などより遙かに気になる龍介だった。



<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>