<<話選択へ
次のページへ>>

(1/5ページ)

 爽やかな音を立てて、ボールは試合終了を告げた。
「ゲーム、セット、アンドマッチ!」
 続いて審判が正式に試合終了をコールする。
あまりにあっけない勝負は、白々しいほど内容を無視され、結果だけが残された。
「支我先輩、お疲れ様ですッ!」
 終わるや否や、観戦していた何人かのテニス部員が、支我の元に駆け寄っていく。
様々な意味から当然なのだが、龍介のところには誰も来ない。
疲労だけをまとわりつかせて、龍介はコートの外で座りこんだ。
タオルくらい持ってくるべきだった、と見通しの甘さを悔やみながら、
体操座りをした膝の上にかけた腕に額を押し当て、汗を拭う。
 負けてみると、やはり悔しい。
だからといって本格的にテニスを始めようとまでは思わないが、もう少し、せめて勝負になるくらいはできるようになりたい。
とりあえずラケットを買うところから始めようか、などと考えていると、頭上から甘ったるい声が降り注いだ。
「東摩くん、お疲れ様、惜しかったねェ〜」
 声の主は隣のクラスの長南莢だった。
一ゲームも取れずに負けるのを惜しいと言われても、さすがに慰めにはならない。
顔を上げた龍介が、苦笑いで応じるしかないでいると、支我のサーブにも劣らない、鋭い口撃が飛んできた。
「全然惜しくないわよ、莢」
「え〜、でも、東摩くん頑張って打ち返してたよ〜?」
 どうやら莢はテニスのルールを全く知らないらしい。
 龍介は彼女達にいいところを見せようと目論んでいたわけではないが、まるっきり邪心がなかったかというとそれも違う。
特に莢の方にはあわよくばちょっとくらい格好良いところを、などという気持ちが心の片隅にはあったわけで、
いずれにしても全く無益な努力というわけだった。
「もう少しは勝負になると思ってたけど」
 火照った身体も凍りつくような事実の指摘に、龍介は忌々しげにさゆりを睨みあげるが、反論を思いつけない。
 今日は五時限目で授業が終わり、バイトまで時間があったので、テニス部である支我が、龍介を誘ったのだ。
一セットマッチということで始まった勝負は、六ゲーム連取で支我の勝利、
試合時間は四十五分とバイトに遅刻しない見事な終わり方だった。
 そもそもきちんとテニスをやったことがなく、とにかくコートに返すのがやっと、
という龍介に対して、きちんとライン際を狙ってくる支我に、勝てる要素など皆無で、
むしろ支我が一切手加減せずに叩きのめしてくれたので、恥をかかずに済んだという一面もあった。
 莢は別に慰めに来たわけでもないらしく、隣に立ったさゆりと会話を始める。
「さゆりちゃんもテニスやるの?」
「やったことはないけど、たぶん東摩君になら勝てると思うわ」
「きゃッ、今度はさゆりちゃんが挑戦!?」
 いくらなんでもこんな舐めた言い種の女に、と龍介は思うが、確かさゆりは陸上部で、運動の素地はあるかもしれない。
もし負けたら一生言われ続ける可能性があると考えると、容易に勝負を持ちかけるのは危険だった。
「……」
 無言でいる龍介の前に、突然タオルが突きだされた。
どんな暗喩が込められているのか把握できず、戸惑っていると、タオルを手にしたさゆりが怒ったように言った。
「顔ぐらい拭きなさいよ。どうせ何にも持ってきてないんでしょ?」
「あ、ああ、ありがとう」
 純然たる好意などあるはずがなく、何か裏があるに違いないと邪推する龍介は、
雑巾かもしれないと受け取った後もタオルをしげしげと眺めた。
「何見てるのよ」
「いや、別に」
 タオルの見た目はきれいだ。
では、唐辛子でも練りこんであるかもしれない。
龍介が幾つかの可能性を検討した結果、どうやら、莢の前では理想的な少女として振る舞いたいのだという結論に達した。
つまり、敗者にも気遣いを見せる可憐な少女という役柄を。
「ねえねえ東摩くん、さゆりちゃんとテニスするときはあたしも呼んでねッ。あたし、さゆりちゃんのテニスウェア見た〜い」
「ああ、じゃあ莢さんも一緒にダブルスでやろうよ」
「えッ? あたし? 駄目だよォ、あたし運動苦手だもん」
「でも莢さんにテニスウェアって結構似合うような気がするな」
「ええ〜? そんなことないよォ〜」
 などと言いながらも、莢はまんざらでもなさそうだ。
 莢との会話で気力と体力を回復させた龍介が立ち上がると、 ようやく後輩達から解放された支我が来た。
「お疲れ、東摩」
 彼はいつも通りの表情で、勝ち誇りも龍介を気遣いもしていない。
いかにも爽やかなスポーツマンといったところで、悪意を抱きようもないのだが、
息の一つも切らせていないのは、対戦相手としてはやはり情けなくもあった。
「参った」
「ほとんど初めてだったんだろ? その割にボールには反応できてたじゃないか。もう少しやればすぐに上達するさ」
「そうかな」
 これもおそらくお世辞ではないと思うと龍介は浮かれ気味になる。
すると気持ちが顔に出たのか、すかさずさゆりが嫌味を言った。
「お世辞に決まってるでしょ。あんな惨敗しておいて、ちょっと褒められたくらいで良く浮かれられるわね」
 どうしてこの女は人のいい気持ちに水を差すのだろう。
龍介は顔をしかめてみせたが、さゆりは鼻を鳴らしてよそを向いただけだった。
「ねえねえ支我君、今度さゆりちゃんとあたしもテニスやってみたい」
「ん? もちろん歓迎するぞ。なあ東摩」
「ああ」
 それに較べて莢の気持ちを和ませることといったら。
さゆりではなく莢がバイト仲間だったら良かったのに、としみじみ思う龍介は、
着替えてバイトに行くために、支我と更衣室に向かうのだった。

 編集部に着いた龍介達に、彼らの上司である伏頼千鶴はさっそく今日の仕事を告げた。
「最近、江東区で事故や怪我人が多発していて、事件の裏に霊の兆候があるらしいの。
『被害が増える前に除霊して欲しい』っていうのが依頼内容よ。依頼人のハンドルネームは『Azure』。
それ以外の情報は何もなし。ただし報酬は前金で半額をすでに振り込み済み」
 夕隙社では除霊の依頼はインターネット上の掲示板を通して受けつけている。
そのため、依頼人の氏名も正式な契約が交されるまではハンドルネームで通されることが多いのだが、
着手金の振り込みの段階で、依頼が本気であることを確認する意味も含めて氏名を訊ねるのが通例だ。
 だから、着手金が振り込まれさえすれば、ハンドルネームのままでも構わないということになる。
千鶴によれば最初のコンタクトから振り込みまで前例のない速さで行われたそうで、
とまどいつつも引き受けることにしたという話だった。
しかも、依頼人であるAzureは、起きた事件についてレポートまでつけてよこしたそうだ。
「昨日の夜、江東区の若洲海浜公園で二件の事件が発生しているわ。
一件は高校生なんだけど、負傷したということ以外の情報はなし。
もう一件は夜釣りをしていた釣り人が何者かに襲われて、海に落ちて溺れたという事件。
幸い警備員が溺れているところを見つけたそうで、命に別状はなし。
裏を取ってみたけど、確かに加害者不明で原因も不明という事件みたいね」
 それはすなわち、常人には視ることのできない存在が引き起こした事件である可能性が高いということだ。
「これは、ここ最近で起きた事件の被害者リストよ。あと、江東区で起きた事故、事件、
夜釣りの男が入院している病院もリストアップしてあるわ」
 ここまでお膳立てを整えられては、引き受けるしかないといったところだ。
現在編集部にいるのは支我に龍介、さゆりの三人だけなので、現地調査はこの三人が行くということになる。
それで龍介は別に構わないのだが、どうやらさゆりは構うらしく、通学鞄を自分のデスクに置くと、辺りを見回し、
なぜか最初に目が合った龍介ではなく、支我に訊いた。
「ねえ、支我君」
「なんだ、深舟」
「オタクの人とかデブでヒゲの人とかも私達と同じ立場よね? どうしてこういう事件の調査とかはしないの?」
 唐突に投げこまれたキーワードがツボに入った龍介は、二の腕を口に当てて噴きだした。
むせる龍介の隣で、支我が笑いそうになったかどうかは定かでない。
彼は眼鏡を押しあげ、微妙に表情を晦ませたからだ。
「萌市は霊退治の道具を開発するのがメインだし、小菅は最近スタジオミュージシャンが忙しいらしいんだ」
「たるんでるわね。そんなのお腹だけで充分なのに」
 再び龍介が噴きだす。
さゆりが笑わせようとして言ったのではないのが、余計にハマってしまい、龍介は笑いを制御できなくなっていた。
「そこッ、うるさいわよ。準備ができたらさっさと調査に行きなさいッ」
 ついに千鶴が怒りだし、三人は慌てて編集部を飛びだした。
「もう、あんたのせいで怒られたじゃない」
 編集部の入っているビルを出たところで、さっそくさゆりが龍介をなじった。
この程度で怒るようではさゆりと同僚としてつきあってなどいけないので、龍介は軽く肩をすくめるだけで反論しない。
 反論がなければないで無視されたと感じるさゆりは、さらに龍介に突っかかろうとしたが、タイミング良く支我が口を挟んだ。
すぐに本道から逸れがちな龍介とさゆりの会話の軌道を修正する要領を、支我も最近では覚えている。
「リストは全部で五件か。今日中に終わらせるには効率よく回らないとな」
 支我は早速地図アプリを呼びだし、五軒の住所を入力してどこから順番に回るか設定している。
彼が仕事をしているのに、龍介をなじるのはさすがに大人げないと思ったのか、さゆりは口を閉じた。
だが、口が面白くなさそうな形にひん曲がっていて、機会があればいつでも再攻撃しそうな気配を隠そうともせず放っている。
雨というか雷が落ちそうな場所から龍介が避難しようとすると、一歩遅く言葉の雷が炸裂した。
「今日はあんたが聞きこみしなさいよ」
「なっ、なんでだよ」
「いつまでも人に任せてばっかりだと成長しないでしょ」
 完全な正論に、龍介の喉がぐうと動くが音は出ない。
反論がないことで溜飲を下げたのか、さゆりは大股で駅へと歩いていく。
龍介は最後尾を担当し、支我は、肩を揺らさぬ程度に笑いながら二人に挟まれて行くのだった。
 江東区の住宅街に龍介達が到着したのは五時になろうかという頃だった。
今から五軒回るとなるとそれなりに急がなくてはならない。
幸いにして龍介達には支我という心強いパートナーがいるので、
電車での移動中にどの家から回るか、しっかり道筋は決めてあった。
 小綺麗だがややくたびれた感のある一軒家が、龍介達の最初の目的地だ。
「最初の被害者はこの家に住んでいる主婦、四十五歳。四日前に怪我をして病院で手当を受けている」
 支我の説明を聞いて、龍介は呼び鈴を押した。
軽く喉の調子を整えたところで、インターホン越しに女性が応じた。
「突然すみません、夕隙社という雑誌社の者ですが」
 雑誌社という名乗りにも驚かなかった代わりに、彼女の反応は冷淡を極めた。
「ご用件は?」
「先日、こちらの方が事故にあって怪我をされたと聞いたんですが」
「……」
 女性は警戒しているようで、沈黙が長い。
飛び込み営業をかけるセールスマンめいた緊張をしながら、龍介は食い下がった。
「あの、差し支えなければその時のことを教えていただけませんでしょうか」
「あの日の事なんて思いだしたくもない。お答えすることは何もありません」
 彼女の言葉に被さるようにプツッ、という音がし、小さなインターホンから全ての反応が消えた。
完全に失敗した龍介は、消沈して支我を見た。
 支我は怒らなかった。
「これ以上この人から話を聞くのは無理そうだな。仕方がない、次の被害者のところへ行こう」
「ごめん」
「いや、出てきてくれないんじゃどうしようもない。東摩は悪くないさ。よほど嫌な経験だったみたいだしな」
 支我のフォローに安堵した龍介は、嫌な流れを払うように首を振る。
その余計な動作で、さゆりと目を合わせてしまった。
「何よ」
「……いや、別に」
 てっきりさゆりは嫌味を言うと思っていたので、かえって龍介は戸惑った。
大きな瞳で龍介をじろりと見たさゆりは、肩にかかる髪を払って言った。
「駄目なものは駄目だったんだから、いつまでも気にしていたって仕方ないわ。さっさと次に行きましょ」
 突き放されているのか、励まされているのか、判断に迷う龍介だった。
 二軒目は大きめのマンションだった。
縦ではなく横に大きなマンションで、それほど最近建てられたものではなさそうだ。
オートロックも装備されていないのは、龍介達のような存在にはありがたい。
何の面識もない女性の家の、とりあえず玄関までは行けるのだから。
「501号室……ここだな。女性、二十三歳。二日前に怪我をしたらしい」
 再び龍介が呼び鈴を押すと、全く反応がなかった。
焦れて二回目を押そうとした時、のそのそと言った感じの足音の後、いきなり扉が開いた。
チェーンロックは掛かっているが、ずいぶんと不用心だ。
「はァーい?」
 現れた女性は防犯だけでなく全般的に不用心なようで、大きめのTシャツをラフに着ているが、下半身は剥きだしだ。
まさか下着一枚ということはないだろうと思いつつも、目のやり場に龍介は困った。
 女性の方は龍介を全く意識していないようで、恥じらうでもなく眠たげな眼を龍介に向けている。
落ち着かない気分のまま、龍介は用件を切り出した。
「突然すみません、夕隙社という雑誌社の者ですが」
「雑誌って、なんの雑誌?」
「オカルト専門誌です」
「オカルトぉ? それって幽霊とかUFOとかのやつぅ?」
 歳の割に甘ったるい話し方の女性は、もしかしたらそういう話し方が喜ばれる職業に就いているのかもしれない。
先日の事件のときに事情を聞いて回った、水商売の女性達に雰囲気が酷似していた。
「そんな感じです。良かったらお話をうかがえませんか?」
「ちょっと待っててぇ」
 女性は学生服で雑誌記者を名乗る龍介達に疑問を抱くこともなく、一旦扉を閉めると、ジーンズを履いて再び現れた。
「聞きたい話って?」
「ある事件のことを調べているんですが、先日怪我をされたとか」
 思い当たることがあったのか、女性は大きく頷いた。
「あ〜、あれね。マジで意味わかんなかったわァ」
「襲われたのは、どこですか?」
「どこって、部屋の中よぉ。夜、仕事から帰ってきてぇ、ご飯食べてテレビ見てぼーっとしてたんだけどォ、
ネイルがボロボロになっちゃってたから塗り直そうと思ったのね」
「ネイルをですか?」
 さゆりが横から口を挟んできた。
ネイルなんて話の本筋に関係ない、と龍介は思うが、彼女なりの会話術かもしれない。
事実、女性はさゆりに嬉しそうに自分の手を見せた。
「そうそう。この爪見てよ」
「かわいいですね」
 女性の爪は確かにカラフルで可愛いが、さゆりが褒めたのは半分以上お世辞だ。
陸上部に入っているため、爪を伸ばしてさえいないので、その辺りのファッション事情に関しては興味もあまりなかった。
だが、やはり同性の気安さもあってか、女性はさらに話題に乗ってきた。
「でしょ〜? 最近ジェルネイルにハマってるんだよねぇ」
「ジェルネイル?」
「あッ、知らないのぉ? ジェル状の樹脂を塗ってさ、UVライト当てて固めんの。
ジェルだと簡単でかわいいネイルができるから今人気なんだよォ」
 さゆりが頷いている隣で、龍介も解った顔をしているが、実際はちんぷんかんぷんだった。
樹脂を固める? UVライトで? 剥がすときは痛くないのか? というか普段は邪魔じゃないのか?
ジェルといえば整髪料かひげ剃り用としか思い浮かばない龍介にとって、女性の化粧品は全く未知の領域だった。
 それはどうやら支我も同じらしく、珍しく彼は一言も口を挟まない。
事件に関係がないからなのかもしれないが、無表情で話を聞いている支我に、龍介は奇妙な仲間意識を覚えた。
 聞きこみは龍介に任せる、と言った割に結局さゆりが中心となって話を聞いている。
先日知り合った楓伊久ほどではないにしても、インタヴュアーとしての資質が彼女にはあるのかもしれなかった。
ただし、好悪の感情が表に出すぎるのと、質問が直接的すぎるのは今後の課題だ。
 そう支我に値踏みされているとも知らず、さゆりは女性と話を続けた。
「それで、そのネイルを塗り直そうとしてどうしたんですか?」
「ああ、そんでぇ。臭いがキツいから窓開けて、窓際に机置いて作業してたのね。
そしたら急に電気が消えて身体が動かなくなっちゃったの。怖かった……動きたいのに何もできなくてさ、
そしたら、窓から黒い影が入ってきて襲われたの」
「襲われた? 人にですか?」
 さゆりの疑問に女性は手を振って笑った。
「まさかァ。ここ五階よ。人じゃなくて、鳥よ、鳥」
「鳥、ですか?」
「そう、真っ暗でどんな鳥かはわかんないけど、バサバサって羽広げて、すっごく大きい鳥!
でもあんなおっきな鳥、この辺にいないよねぇ……あ、でも、あなたたちオカルト専門なんでしょ?
あの鳥もなんかそういうのだったりするわけ?」
 空を飛ぶUMA――未確認飛行生物には、一九六〇年代にアメリカで目撃例がある、
人間を直接は襲わないが災厄をもたらすといわれるモス・マンや、ビデオカメラでしか確認できないほど高速で移動する
スカイフィッシュ、人の姿に似ているところから名付けられたフライング・ヒューマノイドなどが有名だが、
案外に数は少なく、この三種以外には龍介もとっさに名前が出てこない。
もちろん、新種のUMAという可能性は常にあるとしても、
もう少し情報が集まらなければ、今の段階では何とも言いようがなかった。
「それを今調査中なんですよ」
「そっかぁ、ね、ね、もしあれがそういうのだったらさ、あたし第一発見者になるわけぇ?」
「その時はまたインタビューさせてもらいに来ますね」
「うん、待ってるから頑張ってねぇ」
 手を振って見送る女性と別れた龍介達は、次の聞きこみに向かった。
 道すがら、さゆりが口を開く。
「鳥に襲われたんだったら、今回の事件とは関係ないんじゃないの?」
「もし本当の大きな鳥だったら誰か見てるんじゃないか? そんな遅い時間の話でもないみたいだし」
「じゃ何だっていうのよ」
「それを調べてるんだろ」
 龍介の正論に、さゆりはさらに反論しようとする。
そこに、支我が割って入った。
「次の角を左だ。いずれにしても、もう少し情報を集めないとな」
 冷や水を浴びせられた格好の二人は、不本意ながら沈黙し、角を曲がった。
「次はここだな。男子高校生、十七歳。三日前に怪我をしている。軽傷だったらしく、今は退院して家にいるみたいだ」
「はーい。あら、もしかしてあの子のお友達かしら?」
 呼び鈴を押すとすぐに反応があった。
インターホンなのだが、いきなり玄関が開いて女性が出てくる。
情報からすると男子高校生の母親のようだった。
龍介達が学生服なので、母親は誤解したのだろう。
あえて誤解は解かず、龍介は話を進めた。
「彼の様子はどうですか?」
「それが……怪我をしてからあの子、部屋に篭ったままなのよ。怪我は大したことなかったのに、
あれ以来人が変わってしまったみたいで」
 母親の顔に疲れが滲む。
息子を案じているのは明白で、訊ねることに龍介はためらいを覚えた。
「何があったんですか?」
「詳しいことは何も話してくれないのよ。ただ、鳥が、鳥がって、うわごとのように繰り返すだけで。
せっかく会いに来てくれたのにごめんなさいね」
「いえ、また来ます」
「わざわざありがとうね。それじゃあ」
 情報らしい情報は得られず、龍介達が次の聞きこみに向かおうとした時、一人の男子学生がやってきた。
この家に用があるらしい彼は、龍介達を見て怪訝そうな顔をした。
龍介と支我はともかく、さゆりのセーラー服が自分たちの高校とは違うと気づいたのだろう。
「お見舞いですか?」
 龍介が先に話しかけると、学生はいくらか驚いた様子を見せながらも頷いた。
それほど悪い人間にも見えなかったので、龍介は思いきって彼にも訊いてみた。
「俺達は夕隙社っていうオカルト雑誌の出版社でバイトしてるんだけど、彼が襲われた時のことを何か知らないかな」
 学生は龍介達を等分に眺めた後、さゆりに視線を寄せながら答えた。
「それが、全然ワケがわかんねぇんだよ。あん時は一緒に帰ったんだけど、急にあいつが騒ぎだして」
「騒いだって、どんな風に?」
 さゆりが訊ねると、学生はまっすぐ彼女を見つめた。
警戒心を、特に異性の警戒心を解くのに美貌は大変有効であるのを実証した形だ。
外見で満足しておくのが華だぞ、と龍介は初対面の彼に心の中でアドバイスを送った。
「それが……『鳥が襲ってくる』って。でも俺には鳥なんて見えなかったし、一緒にいたのに襲われたのはあいつだけだった」
「見えなかったって、全然? 羽ばたき音も?」
「ああ、全然。だけどあいつの顔からは確かに血が出るし、鞄をメチャクチャに振り回すもんだから、
俺も一緒になって鞄を振り回したんだ。夢中になってやってたらあいつがひっくり返って、慌てて救急車呼んだんだよ。
警察にもすげぇしつこく話聞かれたけど、結局何が何だか判らないままで怒られたしよ、たまんねぇよ。
あんた達オカルト雑誌の編集部でバイトしてるって言ったよな? そういう化け物っつーか妖怪っつーかが居んのか?
ハーピーって鳥の化け物が居るけど、まさかあれじゃないよな?」
 ハルピュイアとも呼ばれるハーピーは、ギリシア神話に登場する顔から胸までが人間の女性で、残りが鳥という魔物だ。
昨今では漫画やゲームといったメディアで頻繁に見かけるので、かなりメジャーな魔物と言えるだろう。
「まだ調べはじめたばかりだから、何とも言えないのよ」
「そうか……正体が判ったら仇を取ってやろうと思ったのにな」
「ね、他に何か気づいたことはなかった? どんな小さいことでもいいから」
 学生はかなり真面目に考えこんだが、結局頭はゆっくり横に振られた。
「そう……ありがとう。彼に会えたら、早く元気になってって伝えて」
「わかった。えっと、夕隙社だったよな? 本を探してみるよ」
「よろしくね。それじゃ、さようなら」
 学生と別れて少し歩いてから、常のようにさゆりが最初に口火を切った。
「お化けの鳥って、そんなのいるの?」
「お化けというか妖怪なら、鳥の妖怪は結構居るぞ。さっきの学生が言っていたハーピーは有名だし、
北欧神話ならフレスベルグ、霊がらみだと自分の死を受け入れられない少女の妖怪であるモー・ショボーというのが居るな。
日本でも山地乳やまちちという蝙蝠が年を経て妖怪化した奴や、
以津真天いつまでという、きちんと葬られなかった死者の霊魂が妖怪になったものがある。
あと、こいつも入るな。Uちゃんはどっちかって言うと神の使いだが」
 支我が示したノートPCの天板には、三本足の烏が描かれていた。
これはヤタガラスという名で、日本神話に登場する、神武東征を導いた霊鳥だ。
太陽の化身であるともいわれ、最近ではサッカー日本代表のエンブレムとして用いられているので知名度もそれなりにある。
「でも、妖怪は架空の生物よね? 妖怪か鳥の霊かって言ったら、鳥の霊の方が可能性がありそうだけど」
 オカルト雑誌の制作に携わっているとは思えない発言に支我は思わず苦笑した。
 支我の苦笑に何かを触発されたのか、さゆりが龍介に顔を向ける。
しぐさがかなり急だったので、一枚の大きな布のような黒い髪が飛沫のように舞った。
これが太陽の下での微笑みだったらコマーシャルに使えるくらい絵になっていたが、
今は夕方で、しかもさゆりは笑顔どころか眉を逆八の字にしていた。
「ところで、どうして私にばっかり聞きこみさせるのよ」
「今のは彼がお前と話したがってたんだからしょうがないだろ」
「何よ、話したがってたって」
「はあ? いや、見え見えだったろ。なあ、支我」
「ああ、そうだな。少なくとも俺達よりは深舟と話したかったみたいだな」
 龍介はともかく支我に肯定されてさゆりは困惑した。
「何よそれ。意味が分からないわ」
「……本気で言ってるのか?」
 龍介が問うと、憤然とした反応が返ってきた。
「どういうことよ、本気に決まってるでしょ」
 深舟さゆりは一見すると超正統派の美少女だ。
大きな瞳に艶のある黒髪、筋の通った鼻梁に鮮やかな椿色の唇と、顔の特徴を列挙すればアイドルか女優でもおかしくはない。
だが、一度彼女と話をすれば、質量を伴った冷たい言葉の針にたちまち心をずたずたにされてしまうだろう。
さゆりはどうやら自分の美貌に気がついていないようで、それを説明してやる必要があるのか、龍介は深刻に悩んだ。
敵に塩どころか調味料のセットを贈るようなものではないのか。
「ちょっと、知ってるなら教えなさいよ」
「……いや、知らない」
 真剣なさゆりの表情に、親切心を発揮しそうになった龍介はすんでのところで自制した。
さっきの奴はお前が可愛いから話したがっていたなどと、どう考えても素面ではとても言えたものではなかった。
「ああもう、支我君でもいいわ、知ってるなら教えてよ」
「……そろそろ次の聞きこみ先に到着するな」
「ちょっと、話を逸らさないでよッ!」
 三人の高校生は、高校生そのものといった賑やかさで夕方の東京を往くのだった。



<<話選択へ
次のページへ>>