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 扉の前で龍介は、二人にここで待っているよう言う。
「少し待って物音がしなければ、入ってきてくれ」
「うん」
「わかりました」
 右手に剣を握った龍介は、そっと扉を押しやるように開けた。
部屋の中は暗いが、電気をつける必要はなかった。
綺羅少年が眠るベッドの傍らに、先ほどのフクロウが白く浮かびあがっていたからだ。
 キアラに敵意はないようで、首を傾げて龍介を見る。
どうしたものか龍介が反応に困っていると、いつの間にか入ってきた千草が、龍介を押しのけるように進みでた。
「キアラ……なの? そこにいるの?」
 千草の呼びかけに、キアラはホゥ、と低く鳴いた。
「どうして……知らない人を襲ったりしたの?」
 今度はクルル、と小さく鳴き、首を傾げる。
その仕種は千草には視えないが、視えている龍介には質問の意味を理解できていないように見えた。
「襲ったつもりじゃない……みたいだな」
「……どういうこと?」
「遊ぶつもりだったか、それとも他の理由か……もしかしたら、俺とも戦おうとしたんじゃなかったのかもしれない。
あんなかぎ爪で来られたら、襲われるって思うに決まってるけど」
 その時、千草の鞄が震えだした。
先ほどの現象を思いだして千草がチェス盤を取りだすと、はたして駒はひとりでに動き始めた。
ただし今度は全ての駒が盤の両端に整列する。
それはチェスの正式な並べ方だった。
霊が視える龍介とていも、物体がひとりでに動く超常現象を目の当たりにするのは初めてで、
囁き交わした声にも、驚きと興奮がありありと含まれていた。
「どういうことでしょうか……?」
「わからない……けど、サイコキネシスの一種かな」
 オカルト雑誌の編集部員らしいところを龍介は披露したが、残念なことにていには伝わらなかった。
彼女は神道の語句には詳しくても、オカルト用語には疎かったのだ。
「どうしてかは判らないけど、さっきも急に駒が震えて動きだしたんだ。
駒は僕達とキアラの位置関係を再現していて、それでキアラが次にどこから襲ってくるか判ったんだ。
でも、今回は違うみたいだけど」
 三人が見守る中で、盤面を挟んだ千草の向かいにキアラが降り立つ。
そして、嘴で器用に駒の一つを加え、移動させた。
「f4……バード・オープニングかい?」
 呟いた千草は、自分の前に並べられた手駒を一つ動かした。
彼の眼にはキアラは視えず、駒がひとりでに動いているようにしか視えないのだが、
そんな異常事態にも彼は動じずに勝負を始めた。
 ほぼ間を置かず、相手側の駒が動く。
この時点でチェスのルールを知らない龍介とていにも、千草が誰かと勝負しているのだということは解った。
「あのフクロウは、自分の意志で駒を動かしているのでしょうか……?」
「いや……もしかしたら、綺羅君じゃないかな」
 ていに囁き返した龍介は、ベッドで眠る綺羅を見た。
この部屋にもう一人だけいる、チェスのルールを理解している人間。
事故で昏睡状態に陥っているはずの彼が、不思議な力でキアラと感応していると考えるのが、
この場では最も納得できる説明だった。
 静かな病室内で、駒が動く小さな音だけが響く。
八手目を指したとき、千草が口を開いた。
「どうしてキアラを自由にしてあげないの? 君がキアラの死を認めてあげないと、
キアラはずっとこの世を彷徨うことになるんだよ」
 柔らかな、兄が弟を諭すような口調。
千草にも、チェスの相手が誰なのかは判っているらしかった。
 相手のいないチェスを指す千草と、それを見守るフクロウの霊。
『霊』という常人には視えない存在をこの春から何件も視てきた龍介だが、これはその中でもひときわ不思議な光景だった。
そして、その不思議さに拍車をかけるように、どこからか声が聞こえてくる。
「キアラは……僕の友達だった。ずっと……寂しかった……ひとりぼっちで……お母さんも……
忙しくて来てくれない……友達も……お見舞いに来てくれなくなった……僕は、忘れられていくんだ……寂しい……怖いよ……」
 それは、綺羅少年の魂の叫びだった。
彼は意識がなくても、誰が病室に来たのかを知ることができていた。
だが、応じることができなければ、見舞いにくる人々はどうしても減っていく。
彼の母親は息子を案じてはいても、少年の高額な入院費を捻出するために働かねばならず、
どうしても毎日来ることはできなかった。
 それが、少年にはたまらなく堪えた。
事情は理解できても、感情は孤独を受けとめられない。
少年は死ぬことよりも、存在を忘れられることの方が嫌だった。
「僕の友達は、キアラだけなんだ……いつも、僕のそばにいてくれた……ずっと、一緒なんだ……これからも、ずっと……」
 綺羅少年の声は、頑なだった。
子供っぽさと言い換えられるかもしれない。
千草は答えず、盤面を凝視したまま駒を動かす。
さらにお互い一手ずつ指したところで、再び綺羅少年が喋った。
「五手先ではクイーンを動かせないよ」
 チェスにおいてクイーンは極めて重要な役割を果たす。
クイーンを失うということはゲームに負けるのとほぼ等しい――勝利を得るために、あえて捨てるという局面以外では。
つまり綺羅少年は、この盤面の決着を読み切ったと宣告したのだ。
 しかし、千草は落ちついていた。
「さすがだよ、綺羅君。チェスの名手は五手先を読む。
でもね――チェスの天才は一手だけ先を読むけれど、その一手はいつも正しいんだよ」
「ボビー・フィッシャーかい? それで僕に勝てるかな?」
 ボビー・フィッシャーとは二十世紀に存在した、十四歳にしてアメリカ王者となり、
二十九歳ではソビエト連邦の代表を打ち破った、天才の名を欲しいままにしたチェスのプレイヤーだ。
「勝てるよ。勝ってみせる」
「そうか……そうじゃなきゃ、面白くない」
 綺羅少年の魂が宿ったフクロウの霊の動きが止まる。
しんと静まりかえった二分が過ぎ、ナイトの駒が動いた。
今度は千草が読みを開始し、三分が過ぎても駒を動かさない。
彼の頭の中でどれほどの思考が展開されているかと思うと、龍介もていも呼吸音さえ立てるのを憚られた。
「君は言ったよね? 友達はキアラだけだって。みんなに忘れられるのが怖いって。だからキアラを縛りつけるの?」
 千草はポーンを前進させる。
「違うッ!」
 駒を置いた音に被さるように、綺羅少年が叫んだ。
「僕はそんなつもりじゃない、ただ、気がついたらキアラが……キアラが居てくれたから……
ずっと傍に居て欲しいって……そう思っただけなんだ……」
「でも、キアラは天国に行けなくて困ってる。それどころか、君を探して関係ない人を傷つけてしまっているんだ」
「そんな……だって……」
 知らぬ事とはいえ、他人を怪我させたという事実は、少年に少なからぬショックを与えていた。
フクロウは中々動こうとせず、ようやく動かした駒も、あきらかに勢いが弱まっていた。
目を細めて盤面を眺めた千草は、静かな確信を宿してビショップを動かした。
「!? 僕の読んだ五手先と……違う!?」
 綺羅少年の狼狽が、龍介達にも伝わってくる。
慌てて新たな筋を読み始めるが、狼狽から回復することができぬまま、決定的な一打を千草に許してしまった。
「……」
 フクロウが小さな声で鳴く。
龍介達にはそれが、敗北を認めたように聞こえた。
「僕は、君のことを忘れてなんてないよ」
「嘘だ……」
「嘘じゃない。僕がこれからも毎日、君のところへ行くよ。いっぱい話をして、チェスをしよう。君は、ひとりじゃない」
 再び訪れた沈黙は、だが、長くはなかった。
綺羅少年はそれまでと違う、年相応の子供らしい声で、対局相手ではなく、パートナーに話しかけた。
「ごめんね、キアラ。縛りつけちゃって。今までありがとう……僕はもう、大丈夫だよ」
 フクロウは一声いななき、そして存在を薄れさせていく。
霊の気配が消えたとき、それと入れ替わるように新たな気配が生じた。
気づいた千草がベッドに近づく。
龍介達も近づくと、そこには、長い眠りから覚めた綺羅少年の瞳があった。
「綺羅君……おかえり」
 千草が呼びかけると、少年は目だけで微笑んだ。

「もう、ずいぶんかかったじゃない」
 戻ってきた龍介達に、開口一番不平を述べたさゆりだが、事情を聞くとたちまち態度を翻した。
「そう……綺羅君は目覚めて、キアラは成仏……っていうのかわからないけど、未練はなくなったのね」
 千草は意識を取り戻した綺羅少年のためにナースコールを押した。
面会時間は過ぎていたのだが、ほぼ回復は不可能と思われていた患者が目覚めたので医師達は大騒ぎになり、
そのどさくさに紛れて龍介達はなんとか病室を抜け出したのだ。
「凄いわね、こんな奇跡のようなことが起きるなんて……」
 さゆりが声を詰まらせているが、確かに奇跡としか言いようがなかった。
ていも眼鏡を外して滲む涙を拭い、龍介と千草も深く頷いた。
顎に拳を当てた支我は、自らの思考を整理しながら、静かに語った。
「昏睡状態というのは、肉体と霊体との間の接続エラーだと見ることもできる。
綺羅君はキアラの霊体を通し、久伎君とチェスをすることで、エラーを修復することができたんだろう。
人によってそれが大好きな音楽を耳にすることであったり、大切な娘が結婚する日という刺激であったりと様々だ。
もちろん、どれほど望んでも奇跡は起こらないことの方が多い。
だが、ひとつだけ言えることは、肉体と霊との関わりは、現代科学が証明できた事柄よりも、ずっと柔軟で複雑だと言うことだ。
そして、その柔軟さの中に、様々な奇跡が眠っているんだろう」
 一同が静かに聞きいる中、更に支我は続けた。
「東摩」
「ん?」
「俺はキアラを斃すことしか考えていなかったが、もし斃してしまっていたら、綺羅君は目覚めなかったかもしれない。
見事な判断だった」
 どういう顔をして良いか判らず、龍介は顔の下半分を手で覆い、やたらと撫でた。
「……たまたまだって、俺だって斃そうと思ってたんだよ。ただ、攻撃が当たらなかっただけで。
その後の病室じゃ、もうキアラは襲ってこなかったしな」
 龍介の返事には、残念ながら謙遜は一グラムも含まれていない。
「キアラを落ちつかせたのは曳目さんと……まあ一応、深舟のおかげだよ」
 これも龍介の認識では完全な真実だった。
 突然褒められたさゆりは、こぼれおちそうなくらいに目を瞠り、何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わなかった。
彼女の表情の変化を龍介は奇妙に思ったものの、彼もまた何も言わなかった。
 そんな二人を支我は眺めやる。
霊を浄めたのみならず、依頼人の意向に完璧に応えたのだから、もう少し功績を誇っても良いと思うのだが。
控えめな龍介に支我は微笑を浮かべるに留めて、撤収を始めることにした。
 機材を片づけている龍介のところに、曳目ていがやってくる。
「今日はお世話になりました」
 初めて出会った時と同様、彼女は深く頭を下げた。
あまりの礼儀正しさに、つい龍介も同じく頭を下げた。
「いや、こっちこそ。あの弓を鳴らすやつ、あれがなければもっとずっと苦戦していたよ」
「そう仰っていただけると嬉しいです」
 ていが再びお辞儀する。
儀礼的な挨拶を終えたらすぐにていは帰ると思っていたのだが、なぜか彼女は去ろうとしない。
邪険にもできず、龍介は戸惑いつつも話を続けた。
「曳目さんは、ひとりで除霊の仕事を?」
「はい、といっても、私のご奉仕している神社にご依頼があったときだけですが」
「ああ、心霊写真とか良くない人形とか、神社や寺に持ちこむって話は聞いたことあるけど本当だったんだ」
「ええ、除霊をしますとお知らせしているわけではありませんから、いらっしゃる方はそれほど多くはありませんけれど」
「ふうん……除霊をするのは曳目さんひとり?」
「はい。私で手に負えない場合は、権禰宜様が出てくださることになっています」
 ごんねぎという言葉を龍介は知らないが、たぶん人名ではないのだろう。
それにしても、喋り方からも判る、おっとりした性格な彼女が、ひとりで除霊できるものなのだろうか。
その点が気になった龍介が、さらに会話を重ねようとすると、
「まだ片付けが終わってないの? 報告書だって作らないといけないんだから、さっさと帰るわよ」
 深舟さゆりが口を挟んできた。
「これで終わりだよ。それじゃ、曳目さん、俺達はこれで」
 仕方がないので龍介の方から別れを切りだすと、彼女は意外なことを言いだした。
「あの……よろしければ、私も皆様のお手伝いをさせていただけないでしょうか」
「え!? それって……夕隙社でバイトがしたいっていうこと?」
「はい。見事な除霊をなさった皆様のお側で、私も学ばせていただけたらと思うのですが。
神職の修行ということで、アルバイト代は結構ですから」
 最後の一言に、三人は顔を見合わせた。
「あー……それは多分、何も問題がないと思うけど」
「タダで良いなんて言ったら、あの人何も訊かずに採用するわよ、絶対」
「そうだな……俺としては労働の対価はきちんと得た方がいいと思うんだが、本当にそれでいいのか、曳目?」
 三者三様の婉曲な表現で考えなおすよう促してみたが、ていの考えは変わらなかった。
「はい、皆様の上司の方に、よろしくお取り次ぎ願えませんでしょうか」
 そうなると龍介達に断る理由もない。
ほぼ採用は決まりだが、一応選考の結果後日改めて連絡すると話はまとまった。
すると、これまで黙っていた久伎千草までとんでもないことを言いだした。
「あ、あの、僕も駄目かな」
「久伎君も!?」
「うん。僕にあんな力があったなんて、全然知らなかったんだ。
それに、今日の君達は僕の予想を超える働きだった。君達となら、新しい定石を見つけられるかもしれない」
「うーん……」
 仕事に行ってバイトを、つまり人件費を増加させて帰ってくるのでは、
千鶴にどのような嫌味を言われるかわかったものではない。
とはいえ、ていを許可して千草を許可しないというのも筋が通らず、結局、彼も千鶴に伺いを立てることになった。
直接霊は視えなくても、霊の移動を予知できる能力は確かに貴重だから、採用はされるであろうけれど。
 ていと別れ、千草とも今日はここで別れた龍介達は、社用車に戻って乗りこんだ。
起こされた左戸井は、これまでずっと寝ていただろうに、さらにあくびを一回してからエンジンをかけた。
「なんだ、今日は早ぇじゃねえか。ちゃんとビール代は稼いできたのか?」
「そのうちビール代なんて出なくなるかもしれないわよ」
 さゆりの嫌味に左戸井は血相を変えた。
「何ィッ!! どういうことだ東摩、説明しやがれッ!」
「さ、左戸井さん、運転中です、前、前!!」
「前なんざどうでもいいんだよ、お前に何の権利があって俺の楽しみを奪おうってんだ、ええッ!?」
 自分たちの生命のために、龍介が運転手を必死で宥めようとするところに、さゆりがさらに油を注ぐ。
「東摩君がまた二人拾ってきたのよ」
「なんだあ!? ッとにお前はよう……」
 左戸井が頭を掻く。
危難は脱した、と思ったのも束の間、龍介はいきなり胸ぐらを掴まれた。
「いいか東摩。売り上げが増えて人手が足りなくなったら初めて人を雇う。
で、人が増えたらその分売り上げを増やす。それが健全な会社組織ってモンだ。
それを何だお前は、売り上げを増やす前に人ばっかり増やしやがって。
責任は当然、新しい人間を増やしたヤツが負う。つまりお前はそいつらが一人前になるまでの間、
三人と俺のビール代の分働く必要があるってワケだ。わかってんだろうな?」
 社員を増やしたのは龍介ではないし、売り上げだって責任は千鶴にあるはずだ。
それに健全な会社組織を謳うなら、左戸井はもっと仕事をしなければならない。
そう反論したかったが、車内はすでに龍介が全責任を負うということで決着した空気に満ちてしまっていた。
いびきかあくびかビールを呑むためにしか使われないと思われていた左戸井の口がこれほど能弁になったので、皆面食らったのだ。
 左戸井から後席のさゆりへと、龍介は恨めしげな視線を移す。
後席を一人で占領するさゆりは、腕と足を組んで凄んでいた。
千鶴には及ばないものの、軟弱な男など余裕で蹴散らす迫力だ。
「何よ」
「いや」
 疲れて彼女に突っかかるだけの気力はもうない龍介は、すごすごと座りなおした。
だが、弱った敵は見逃さないさゆりが、後方から言葉の槍を投げつける。
「そういえばあんた、曳目さん押し倒したわよね」
「人聞きの悪い言い方するなっての! キアラから庇うための当然の行動じゃねぇか」
「どうかしら。押し倒した後、中々起き上がらないでこそこそ話してたし、
のべつまくなしに押し倒して、あわよくば、なんて考えてるんじゃないでしょうね」
「何がどうなったら戦闘中にあわよくばなんて考えるんだっての!
だいたい、お前がもうちょっと早く鈴を鳴らすのに気づいてりゃ、こっちも楽になったのによ。
曳目さんが弦鳴らすまで気づかないってのはプロとしてどうなんだよ。リズムも酷えモンだったし」
 後ろを向いて応じた龍介が見ているなか、さゆりの顔は暗い車内でもそれと判るほど紅潮した。
「うるさいわねッ、鈴なんて鳴ればいいのよッ。鳥にリズムなんて判るわけないでしょッ!」
 強弁するさゆりに龍介がさらに反撃しようとすると、左戸井が口を挟んだ。
「ほう、唐変木かと思ってたが、やるじゃねェか。その調子でいっちょ千鶴も押し倒してみろよ。
案外あっさり落ちるかもしれねえぞ。んで俺のビール代を経費で落ちるようにしてくれよ」
 のんびりした口調よりも、むしろそのあらゆる意味で品がなさ過ぎる内容に、
戦闘の当事者二人は揃って口を開け、そして閉じた。
天使が通り過ぎた後に、さゆりは別人のような穏やかさで龍介に話しかけた。
「……帰ったらすぐに報告書を作りたいから、東摩君は機材を片づけてくれる?」
「わかった。機材は俺一人でいいから、支我は報告書の方を手伝ってくれ」
「了解だ」
 偽りではあっても平和には違いない。
それが誰によってもたらされたかは考えないようにする各人を乗せて、
夕隙社の社用車は新宿の街に帰るべく、夜の東京を走るのだった。



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