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 今日中に決着をつけたい、という千草の強い要望により、龍介達はすぐに出発することにした。
慌ただしく準備を整え、機材を車に積みこむ。
「まったくよぅ、お前らが来てからほとんど毎日出動じゃねぇか。俺の平和な日々を奪いやがって」
 運転手である左戸井法酔が、あくびをしながらぼやいた。
やる気など足の爪先ほども感じられないが、アルコールを採っていないだけで上出来というべきだろう。
彼に人員の運搬以上のことを期待する人間は、夕隙社にはいない。
 龍介達には二足のわらじを履かせ、容赦なくこき使う千鶴が、運転以外に何もしない法酔をなぜ雇っておくのか、
夕隙社に籍を置いたことがある人間は誰でも一度は疑問に思っていた。
その急先鋒は深舟さゆりで、彼女は支我と龍介に何度となく法酔についての不満を語っている。
「別にあの人が嫌いって言うんじゃないわ。でも、仕事をしていない大人が厳しい目で見られるのは当然じゃない?」
 さゆりの主張は全く正しいものであると、支我も龍介も思ったが、二人に夕隙社の人事権があるわけでもない。
さゆりにしても、彼が夕隙社内で千鶴の他に唯一運転免許証を所持していて、
その希少性が彼の存在理由だと理解してはいるのだ。
ただ納得はしがたいらしく、龍介が彼に「俺の給料のために頑張ってこい」などと言われるたび、
龍介に言い返さないのかとなじったりするのだ。
龍介にしてみれば法酔とさゆり、二人分の不快感を引き受けさせられるのはたまったものではないのだが。
 その法酔の運転するワゴン車には龍介、支我、さゆり、それに久伎千草が乗っていた。
「編集の仕事はほとんどしてないんだから、それくらい当然でしょ」
 後ろの席からさゆりが応じる。
ギアを一段落とし、やや回転数を上げて左戸井は助手席の龍介に囁いた。
「おい、なんとかしろ東摩。このままだと編集部に千鶴が二人になっちまうぞ」
「聞こえてるわよ」
 二人は同時に首をすくめた。
 バックミラーを睨みつけたさゆりは鼻を鳴らし、足を組む。
夕隙社の社用車として用いられているこの車は、三列シートになっていて、乗り降りの都合上支我が二列目を一人で使い、
助手席に龍介、三列目に残りの人員が座るように最近はなっている。
今日はさゆりと千草が三列目で、つまりさゆりは支我を超えて左戸井と龍介の会話を拾ったことになるのだった。
 千草は興味津々といった態で車内を眺めている。
「君達はどれくらいいつも出動しているの?」
「そうね、ばらつきはあるけど……多いと週に五日って時もあるわね」
「そんなに!? 東京ってずいぶん霊が多いんだね」
「生きている人が多い分、霊も増えるのかもしれないわね」
 龍介達は普段車内であまり会話をしない。
三列シートに三人別々に座っているのと、この車が静粛性に関しては、お世辞にも快適とは言い難く、
あまり陽気に会話をしようという気分にはなれないからだ。
 そんな事情も初めて車に乗る千草には関係ないらしく、隣のさゆりになお話しかけていた。
「君……深舟さんだっけ、あなたは普段から霊が視えるの?」
「え……ええ、でも、霊自体昼間はあんまり視えないのよ」
「どうして?」
「さあ、わからないわ。支我君は知ってる?」
「いや、俺も知らない。光の屈折の関係という説明もあるし、霊体を構成する成分のためだという意見もある。
まだまだ霊については知らないことが多いのさ」
 真剣な表情で頷いた千草は、さらに別の質問をした。
「鳥の幽霊っていうのは良く居るものなの?」
「少なくとも俺は初めてだな。そもそも、人間以外は何が霊になるのかというのも謎なんだ。
犬や猫は聞いたことがある。狐や狸、蛇なんかもあるが、カメやうさぎの霊は聞いたことがない。
では、動物の境界線はどこにあるんだろう。人間に飼われていたペットなら霊になりうるんだろうか?」
「人間と気持ちが通わせられる動物じゃない?」
「それだと、牛や馬もということになるな。まあ、牛や馬に未練があるとも思えないが」
「そうね……未練が霊となって現世に留まる条件の一つなら、鳥にも未練はなさそうだけれど」
 魂を持つ生物のみが霊となるのか、そもそも魂というものは存在するのか。
そして、少なくとも現世に未練を感じるだけの思考能力が必要だと仮定すると、
鳥というのは霊となるか否かの境界線上にある動物なのかもしれない。
 霊について哲学めいた議論を交わす後部座席の三人に、左戸井はハンドルを握ったまま肩をすくめた。
「おいおい、後ろはずいぶん小難しいこと話してやがんな」
「左戸井さんは霊について何か持論があるんですか?」
 左戸井の龍介へのぼやきを耳ざとく聞きつけたさゆりが、声を尖らせる。
明らかに挑発的な少女にも、左戸井はまったく感応しなかった。
「いーや、なんにも。俺はありがたいことに霊も視えねえからな。お前らを運ぶのが俺の仕事、
あとは冷たいビールを呑れりゃあ、理屈なんてなーんにも要らねえ」
 臆面もなく信条を披露した左戸井に、さゆりの眉がつり上がる。
だが、これ以上話しても無駄だと思ったのか、彼女は左戸井を無視して千草との会話を再開した。
 車内の空気が二等分されたかのようで、前席の龍介は心中穏やかでない。
左戸井はともかくさゆりとはこの後もインカムで会話をしなければならず、
それでなくても龍介に隔意を抱いている彼女の機嫌が悪いと、要らぬとばっちりを食ってしまうからだ。
できれば大人の左戸井に譲歩して欲しいが、言ったところでのれんに腕押し――龍介はこのことわざを、
まさに左戸井法酔という人物と知り合ってから覚えた――なのは明白で、
かといってさゆりに彼と真剣に言い争うのは止めるよう忠告する義理もなく、
かくしてさゆりと左戸井が顔を合わせるわずかな時間であるはずの車内は、龍介にとって火薬庫のような趣となるのだった。
 幸いなことに、今回爆発はしたが久伎千草という消火役が居てくれたので、燎原の大火にはならず、
病院の敷地に入った社用車は目立たない隅のスペースに停まった。
「そら、着いたぜ」
「それじゃ、行ってきます」
「おう。後は任せた、せいぜい俺のビール代を稼いできてくれよ」
 龍介達が降りると左戸井はさっさとシートを倒してしまう。
機材を下ろすのを手伝おうとは欠片も思わないようで、さゆりは歯がみしたが、
龍介と支我はもう慣れたもので、手早く必要な装備を下ろした。
「さて、この後だが」
 目立たない木陰に移動した四人は、今後の段取りを詰める。
といっても、今回は龍介単独での作戦になるので、龍介の照射するブラックライトにキアラが反応した後は、
彼の双肩に夕隙社の評判が懸かるということになるのだった。
「ねえ、本当に大丈夫?」
 さゆりが再度訊ねる。
彼女なりに心配してのことなのだが、龍介には力量を不安視されているとしか聞こえない。
その苛立ちが、初めてとなる鳥の霊の除霊に対する緊張と微妙に化学反応を起こして、龍介はつい怒鳴ってしまった。
「うるさいな、やってみなきゃ判らないだろ」
 さゆりは反撃に一旦は怯んだものの、すぐに口を尖らせた。
「そんないちかばちかのやり方で駄目だったらどうすんのよ」
「お前らだけ逃げればいいだろ」
「夕隙社の信用がかかってるって言ってんのよ!」
 二人の言い争いはヒートアップし、それに応じて声も大きくなる。
支我は呆れながらも止めようとすると、前方に人影があるのに気づいた
「おい、誰か来るぞ」
 支我の警告に二人はさすがに大声は止めたが、なお小声で喧嘩を続ける。
「見つかったらあんたのせいよ」
「お前のせいだろ」
 本気で腹を立てかけた支我が、それでも抑制して怒声を放とうとしたとき、幸か不幸か人影が近づいてきた。
龍介はさりげなく装備を木の裏に隠し、さゆりも一見暗がりで男友達との会話を楽しむ女子高生のように振る舞う。
龍介達が最も出会いたくない、二人組の職業制服人ならばこんな小細工も通用しないだろうが、どうやら人影はひとつだった。
それも小柄で、男でもなさそうだ。
「おい、あれ、まさか……」
 辺りはすっかり夜だったが、東京の夜というのはなかなか真の暗闇というのには程遠い。
駐車場には灯りが幾つかあるため、顔は見えずとも服装くらいは判別できた。
その服装が、夜目にも鮮やかな上下のコントラストとなって龍介の眼には映ったのだ。
その人物の意外性に、さゆりもさっきまで喧嘩をしていたことも忘れて龍介に返事をした。
「まさか昼間と同じ人ってことはないわよね」
「江東区って大勢の巫女が歩き回る区なのか?」
 龍介をひとにらみしたさゆりは、自分から打って出た。
「ねえ、ちょっと、そこのあなた」
 数メートル向こうで人影は随分驚いた。
どうやら彼女は龍介達を目指して向かってきたのではなく、単にこちらに来ただけだったようだ。
黙っていれば素通りしたのではないかと龍介は思ったが、もう遅い。
さゆりの積極的にうやむやにする作戦に付きあうしかなかった。
「こんなところで何をしているの?」
 やはり彼女は昼間の少女だった。
巫女装束を着た、たぶん巫女だ。
紫色の袋に入った、身長よりも長い何かを携えている。
彼女も龍介達がここに居ることに心底驚いたようで、おとなしやかな彼女の声が少しうわずっていた。
「どうしてあなた達は私の行く場所にいつもいるんですか?」
「それは私達の台詞よ。昼間はともかくとして、こんな場所で偶然で会うなんてありえないわ」
 怪しさなら龍介達も相当なものであるのに、さゆりの態度はそれを微塵も感じさせない。
黒いカラスも白だと言い張りそうな強気は、彼女の思惑通り巫女の少女を一歩後退させた。
だが、巫女の少女が退いた分前に出ようとしたさゆりは、思わぬ停止を強いられた。
「私は曳目ていと言います。ここには除霊をしに来ました」
 街中を歩く巫女は確かに珍しいけれども、絶無というわけではないだろう。
他の神社にお使いに行ったり、たとえば地鎮祭のために移動しているということがあるだろうから、
東京都内をくまなく監視できるカメラが仮にあれば、案外一日に数人は居るかもしれない。
しかし、除霊という言葉はそれらよりは遥かに低い、ほとんどゼロに近い確率でしか聞けない言葉であるはずだった。
まして除霊を生業とする龍介達が他人の口からその言葉を聞くとき、
それはゲームや妄想の類ではなく、現実味を帯びた真実となる。
千草を含めた四人は、それぞれの表情で驚いた。
「除霊――ですってッ!? まさか、鳥の霊を!?」
 さゆりの発言に、今度はていが驚く番だった。
「!! あなた達は、いったい……」
 さゆりとていが絶句するなか、支我が千草に囁きかけた。
「久伎君、まさか君が依頼したのか?」
 ダブルブッキングというのは除霊業界でもある話だ。
夕隙社は冗談や悪戯を防ぐため、半金を前払いしなければ依頼を受けないようになっているのでこの手の事故は少ないが、
それでも支我は過去に同業と現場で出くわしたことがある。
夕隙社のように霊能力と科学を併用しない、つまり純粋な霊能力者は、ほとんどの場合己の力を過信して共闘を拒む。
そして科学を用いる夕隙社を最初からインチキと決めつけ、自分は除霊に失敗した挙句、
責を夕隙社に押しつけるという事態さえあった。
ゆえに千草に対する支我の警戒は、詰問すれすれの厳しいものだったが、千草はきっぱりと首を振った。
「ううん、僕が頼んだのは君達夕隙社だけだよ」
「……そうか、疑ってすまなかった」
 千草の依頼の仕方が少し変わった――本人曰く、慎重――だったので支我も一度は怪しんだが、
千草は今日綺羅の病室で初めて会ってから、ずっと行動を共にしている。
巫女の少女にこっそり連絡をしていた気配もなく、千草の主張に嘘はないだろう。
「ううん、それよりそろそろ時間じゃないかな。キアラが行ってしまったら、作戦は失敗してしまうよ」
「ああ、そうだな。東摩、ブラックライトの準備はいいか?」
「あ、ああ、大丈夫だ」
 さゆりとていに気を取られていた龍介は、慌ててブラックライトのスイッチを入れた。
「何をなさっているんですか?」
 袋から何かを取りだしながらていが訊ねる。
「キアラは――鳥の霊は、紫外線に反応して人を襲うんだ。だからこっちで紫外線を用意しておびきよせる。
……君は何を用意しているんだ?」
「弓です」
「霊を射つ?」
「はい」
 弓とはまた古風な、と龍介は感じたが、神社には破魔矢というものがあったと思いだした。
 現在神社で授与される破魔矢は、土用の丑の日にウナギを食べる習慣を仕掛けた、平賀源内の発案によると言われているが、
邪を退ける、破邪としての破魔矢は、破魔弓とセットで用いることで効力を発揮し、こちらの歴史は古い。
ていが弦を張っているのもこの破魔弓で、修行を積んだ者が扱えば、高い効力を発揮するだろう。
 彼女から空へ、龍介は視線を移す。
今日は雲が少し出ていて、月明かりが煌々と照らすというわけにはいかないが、建物の影が判るくらいには明るかった。
時間を確かめた龍介は、ブラックライトのスイッチをオンにすると、綺羅少年が眠っている病室の窓に目を凝らした。
普通の光と違って、紫外線は人間の目には見えない。
電球部分が光っているから、きちんと紫外線が投射されているのは確かだが、
空に光が浮かびあがるわけではないので、人間である龍介には全く見えなかった。
 逸る気持ちを抑え、照射を続ける。
支我やさゆりも何も言わず、龍介と同じ方向を見つめていた。
 三十秒ほどが過ぎた頃、病室から白いもやのようなものが出てきた。
「出てきたわ……!」
 囁きの後に、さゆりが息を呑むのが聞こえる。
 ブラックライトの効果はすぐに現れ、白いもやは龍介に向かって方向を転じた。
迫ってくる霊体に対して、龍介は萌市お手製の対霊用のマイナスイオンを放出する剣を構えた。
 できれば最初の一撃で決着をつけてしまいたい、という龍介のもくろみはあっさり崩れた。
カラス程度に見えた白い塊は、近づくにつれ冬瓜ほどの大きさであることが判明し、
しかも予想以上の速度で突っこんできた。
上段から振り下ろすつもりだった龍介は、大きく開かれたかぎ爪が迫ってくるのを認めると、迎撃を諦め慌てて避ける。
「うわっと……ッ!!」
 横転し、起き上がりざまに霊を目で追うと、人の頭ほどもある大きな白い塊が上空に向かって飛んでいった。
塊は数メートル上空まで上昇し、形が薄れていく。
「何やってるのよ、しっかりしなさいよ」
「あんなデカいと思わなかったんだよ」
 耳元で聞こえるさゆりの叱責に、龍介がぼやきで応じると、久伎千草が割って入ってきた。
「キアラはフクロウなんだ」
「そりゃ全然話が違うな」
 ぼやく龍介に、呆れるさゆりの声がかぶさった。
「違うってそもそもあんた、話なんて聞いてないじゃない」
「お前だって聞いてなかっただろうが!」
 緊張感のない会話に、インカムからため息が漏れる。
だが、誰が嘆いたのかを確かめる余裕は、龍介にはなかった。
 フクロウは森の狩人と呼ばれるほど狩りが上手く、音もなく獲物に接近し、猛禽類の特徴でもある鋭いかぎ爪で捕らえる。
飛行速度は猛禽類の中では速い方ではないが、どうしたわけか、霊が視えるはずの龍介にもキアラの姿は朧にしか見えない。
うかつに手を出せばかぎ爪に肉を抉られてしまうと思うと、剣をやみくもに振り回すわけにもいかず、
何もできないまま防戦一方に追いこまれた。
「どうすんのよ!」
「いいからお前は下がってろ!」
 とにかく、自分以外の人間が狙われることがないよう、龍介は支我達から離れた。
 支我はウィジャパッドを凝視し、なんとか龍介に有効な情報を伝えようとするが、
ウィジャパッドにキアラの霊は表示されていても、このソフトでは二次元でしか表示できないので、
上空から飛来するフクロウには適切に対応できない。
しかも今回は屋内空間ではないから、センサー類の設置もできず、どうしても反応が一手遅れてしまうのだ。
今のところ龍介はよく躱しているが、このまま打開策が見つからなければ一時撤退も検討する必要があった。
 龍介がなすすべなくキアラの五回目の攻撃を避けたところで、
それまで弓を構えたまま、慎重に狙いを定めていたていが矢を放った。
矢は違いなくキアラの方向に飛んでいったが、勢いに欠け、避けられてしまう。
そして避けたキアラは素早く向きを変えると、ていに向かって突進してきた。
「危ないッ!」
「きゃッ!」
 キアラのかぎ爪がていの頭を掠める寸前、龍介が横合いからていを突き飛ばす。
二人はもつれるように芝生の上に倒れた。
「大丈夫か?」
「は、はい、ありがとうございます」
 彼女の無事を確かめた龍介の鼻を、蜜柑のような、けれども確実に蜜柑ではない独特の臭いがかすめた。
おそらくていのシャンプーかボディソープの匂いなのだろうが、少し癖があって異性を惹きつける匂いとは言い難い。
聞きたい衝動に駆られたが、初対面に近い女性にそんなことを聞いてはならぬと思いとどまり、
また、そんな状況ではないことも思いだし、必要なことを訊ねた。
「なあ、曳目さんはあの鳥の霊がはっきり視えるか?」
「え? ……いえ、そう言われれば、あまりはっきりとは」
「だよな。俺だけじゃなくて良かった」
「東摩……様?」
 龍介が目をしばたたかせたのは、自分の名前に敬称がついていたからだ。
病院の受付以外で様をつけて呼ばれることなどこれまでの人生で記憶になく、面映ゆさで背中がムズムズした。
 至近距離で龍介に凝視されたていは、夜目にも判るほど顔を赤くした。
「あ、あの……東摩様……恥ずかしい、です……」
「……! ああ、ごめん」
 名前の呼び方などを気にしている場合ではないと思いだし、龍介は立ち上がった。
ていと鼻が触れそうな近さに居たことに今になって驚いたが、謝る暇はない。
素早くていから離れ、ブラックライトをキアラにむかって照らした。
「退がってた方がいい。いくら君が弓が上手くたって、はっきり視えない鳥を撃ち落とすのは難しいだろ」
 キアラの襲撃を躱しながら龍介は叫ぶ。
とはいえ、龍介にも打開策があるわけではなく、ていが襲われないよう引きつけるのがやっとだった。
 キアラは高い角度から接近し、一度の攻撃で離脱する。
まさに天性の狩人といった攻撃で、護る側としては大変に厳しい。
銃でもあればもう少し状況も変えられるかもしれず、霊に有効な銃を持っている
山河虎次郎に声をかけなかったことを龍介は後悔した。
鳥ごときで呼びつけやがってと怒るのが容易に予想できたので、今回は連絡しなかったのだが、
後日苦戦したと聞かされれば、何故呼ばなかったとやはり怒るだろう。
なかなかに面倒な男――それが、山河虎次郎という龍介の知人だった。
 この場にいない虎次郎のことは一旦頭から追いだし、龍介は上方に向かって闇雲に剣を――
刃がないので厳密には棒なのだが、そう呼ぶのは頑なに拒否する、何せイオン棒ではまるで駄菓子だ――振り回す。
霊の苦手なマイナスイオンを発生させる剣は、触れるだけでも効果がある。
だから龍介は上段に構えて剣先に渦を描かせるのだが、するとキアラは小馬鹿にしたように側方、
あるいは後方に回りこんで、結局龍介に回避行動を強いるのだ。
このままでは埒があかないという焦りに、滲む汗を拭う余裕もなく龍介はぼんやりと月が浮かぶ空を睨めあげた。
 龍介達の苦戦を、久伎千草は苦渋の思いで見ていた。
彼らが霊を視ることができ、戦う能力を持っているのは疑いない。
千草には鳥の幽霊は全く視えず、龍介に襲いかかるときにかすかな風音が聞こえるのみだからだ。
そして、彼らも鳥の幽霊というものに対するのが初めてで、そのため苦戦しているのも理解できる、
 けれども千草は歯がゆかった。
夕隙社の彼らに対してではなく、友人の危機に際して何も出来ない自分に。
千草は華奢な外見の通り、力が強いわけではなく、そもそもチェス以外の争いごとなど好まない。
だが、もし千草に霊と戦う力があったならば、ためらわず使っただろう。
 インターネット上で千草と互角にチェスを指せる人間は大勢いるし、千草より強いプレイヤーも然りだ。
千草は彼らとほとんど毎日チェス談義に花を咲かせていたが、
年齢が近く、チェスの実力も拮抗し、そして実際に顔を合わせることができる綺羅は、その中でも一番大切な友人だった。
彼と直接チェスを指すのが楽しみで腕を鍛えてきたし、彼が事故にあったと聞かされたときは心底悲しかった。
そして、当人は知らぬ事とはいえ、彼が飼っていた鳥が他人を傷つけていると気づいた時、千草は驚き、
是が非でも止めたいと思った。
だからこれまでチェスの大会で得た賞金を惜しみなく使って事件について調べ、
キアラの霊を無力化できる存在――夕隙社を探し当てた。
彼らは千草の期待に違わぬ実力を発揮し、キアラを退治する手はずを整えた。
しかし、あと一歩――チェックをかけたものの、チェックメイトにまでは至らない。
チェスの初心者が闇雲にチェックをかけて逃げ回られてしまうような拙劣さで、
王の逃げ道を塞ぐ、決定的な一手が足りなかった。
 焦慮に唇を噛む千草の鞄が、不意に震動した。
千草はスマートフォンを持っているが、バイブレーション機能はオフにしてあり、このような震えるものは鞄に入っていない。
不思議に思った千草は、龍介とキアラからは目を離さずに手探りで鞄を開ける。
震えていたのはチェス盤と、駒の入った袋だった。
「なんで……?」
 このチェスセットは携帯性を重視したプラスチック製で、何の変哲もないものだ。
だが、触ってみるとほのかに温かく、鞄に熱を持つ物品など入れていない千草は混乱した。
壊れても惜しくはないとはいっても、チェスの道具は全て大切にする千草は、袋から駒を出して調べてみる。
すると、盤の上に拡げられた駒の幾つかが立っていた。
将棋の駒なら振ってどのように立つかという遊びもあるが、チェスの駒は自立などしない。
袋から振りだした三十二の駒のうち、ひとつなら低い確率で起こりうるかもしれないとしても、
白が五つに黒が一つの、六個も駒が立っていたのだ。
何が起こっているのか、固唾を呑んで見守る千草の前で、六個の駒は小刻みに震える。
そして信じられないことに、ひとりでに動き始めたのだ。
白い駒のうち三つはほとんど動かず、一つはゆっくりと動き、残る一つは、黒い駒とぶつかるように激しく動いている。
チェスでは相手の駒を排除するときに駒で駒を倒すことはあっても、このようにぶつけたりはしない。
この違和感が、千草に事態を把握させた。
 このチェスの駒は、目の前の現実を模している。
白い駒は人間で、黒い駒はおそらく霊だ。
つまり、黒い駒とぶつかり合っているのは龍介ということになる。
ボードから顔を上げた千草は、駒と自分たちの位置関係が相関していることを確信した。
龍介の駒から見て大きく左手に移動する黒い駒に、千草は叫んだ。
「東摩君、キアラは左から来るよっ!」
「どういうことだ、久伎!?」
 ウィジャパッドをモニターしながら支我が叫ぶ。
ウィジャパッドは肉眼では視えない霊をセンサーによって捉え、どこにいるか表示することができるが、
センサーが情報を処理して画面に表示するまでにどうしてもタイムラグが生じるのだ。
人間の霊はそれほど高速で移動しないのでそれでも通用するが、今回のような高速移動体だと数秒後の情報になってしまう。
下手をすれば肉眼の龍介達の方が的確な情報を得られるわけだが、キアラの霊は元々鳥であるからか、
霊体反応が非常に弱く、龍介であってもはっきりとは視えないようだった。
それが千草には視える……いや、彼は戦闘を見ていない。
目の前に置いたチェス盤を見て、指示を出しているのだ。
彼にも何か超能力があるのかもしれない。
支我は固唾を呑んで戦闘を見守った。
「……っと!」
 身を低くして龍介は左方からの攻撃を躱す。
避けることはできたが、反撃はできない。
「今度は後ろに回りこんでる!」
 千草の指示に疑いもせず反転すると、キアラが目の前にいた。
慌てて後ろに倒れてかぎ爪を避ける。
「うわッ」
「ちょっと、せっかく久伎君が教えてくれてるんだから、さっさとやっつけなさいよ」
「んなこと言われたってよ」
 反撃したいのは山々だが、何しろ敵は鳥だけあって素早い上に立体的に移動する。
その上目視しづらいとあって、避けるのが精一杯だった。
「なんか荒ぶってるんだよ、あの鳥」
「……あんた、鳥の気持ちまで解るの?」
「いや、なんとなくそう感じるだけだけど」
「舐めてんの?」
 龍介は真剣に会話をしているつもりでも、意識のほとんどを霊鳥に向けていたので少し間が抜けていたかもしれない。
 まだお互いに有効打は受けていないものの、圧倒的に不利なのは明らかだ。
状況を打破する方法を必死に考える龍介の耳に、何かの音が聞こえた。
戦闘している場面にはいささか場違いな間の抜けた、何かが震える音だ。
龍介が素早く眼球を移動させると、いつのまにか近くに来ていた巫女のていが、弓を構えていた。
弓が自分の方に向けられていたので龍介はぎょっとしたが、良く見ると彼女は矢をつがえていない。
何を遊んでいるのかと怒鳴りたいのをこらえ、龍介は叫んだ。
「ここは危ないから、もう少し下がっててくれ」
 ところがていは指示に従わず弓を放った。
音の正体はこれで、矢のない弓の弦が鳴っていたのだ。
「危ないって!」
 ていは運動神経が良さそうには見えない。
キアラが目標を変更したら、一撃でやられてしまうのではないかと危惧した龍介は、
もう一度強い調子で下がるよう命じようとした。
 その機先を制するように、弦が鳴る。
ていは真剣で、初めて龍介は彼女の行動に意味があるのではないかと思ったが、
いずれにしてもここは危険だと無理やり彼女を支我達のところに連れていこうとした。
「東摩君、右!」
 頭を下げた龍介の眼に、去っていくキアラの姿が視えた。
――視えた?
龍介は目を凝らす。
キアラの姿が、かなり離れても視えるようになっていた。
それはおそらくていの鳴らした弦によるものだと直感した龍介は、もうひとつ、霊に効果のある音源を思いだした。
「お前も鈴を鳴らせッ!」
 さゆりが持つ、祖母からもらった鈴は、霊の興奮を鎮める力があるらしい。
その効果に気づいたのは最近で、彼女自身忘れていることが多いのだが、
とにかく、龍介に言われて、さゆりは慌てて鈴を取りだし、鳴らしはじめた。
 さゆりに音楽の素養はないらしく、鈴の音はていが鳴らす弦の音と全く揃わない。
霊を落ちつかせるのにリズムが必要かどうかは謎としても、あまりに不協和音ではやはり苛立つのではないかと
龍介は思ったが、幸いなことに数度鳴らすうちに音は効果を発揮したようだった。
 キアラのスピードが目に見えて落ちている。
これならば一太刀浴びせられる、と龍介は剣を握り直した。
ところが、キアラはていの弓の上に停まると、今まで龍介達を襲っていたことなどどこ吹く風で、低く一声鳴いた。
そして龍介を見据えると、もう一度鳴き、翼を拡げて飛び去っていく。
あっけにとられる龍介達が見守る中、高く飛翔したキアラは出てきた場所、つまり綺羅少年が眠っている病室に入っていった。
「……どう思う?」
「霊体反応はまだ消滅していないな」
「いや、そうじゃなくて……あれ、なんか俺達に来いっていう感じじゃなかったか?」
 冷静であるがいささかピントがずれているような支我の指摘に面食らった龍介は、同意を求めるようにさゆりを見た。
「そうかしら……鳥が人間を呼ぶなんて、ありえるのかしら?」
 懐疑的なさゆりの隣で、ていは龍介に同意した。
「はい、私にもそう見えました」
 ていに勇気づけられた龍介は、素早く決断した。
「どのみち行ってみる必要はあるよな。ちょっと見てくるから待ってくれよ」
「私も行きます」
「僕も行くよ」
 千草は霊が視えないし、ていは弓を病室で射るわけにはいかないので、何かあった場合龍介が二人を護らなければならない。
そのリスクを考えると、一人で動いた方が都合がよいのだが、二人とも危険は承知だと頑なで、
説得する時間も惜しかったので龍介は二人を連れていくことにした。
「それじゃ、三人で行こう」
 支我とさゆりにはここで待っているよう言い、龍介達は病室に向かった。



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