<<話選択へ
<<前のページへ
(4/4ページ)
そうしている間に、呼吸を整えたていが再び呪詞を唱えはじめた。
低く、高く、意図的に不安定に発せられているようにも聞こえる言霊が場を浄め、
この世ならざる存在に呼びかける。
翔太の霊はすぐに現れたが、母親の方はなかなか呼びかけに応じないようだ。
だが、ていを除いたこの場にいる全員が、一言も発さぬまま辛抱強く待ち続けた。
十分以上も時間が過ぎたとき。
龍介は辺りの気配が変わるのを感じた。
インカムを通して支我が囁く。
「気温の低下を確認……来るぞ、東摩」
固唾を呑む龍介の眼前に、先ほどの翔太よりも二回りほど大きな白いもやが現れた。
おぼろげながらも人の形を取りつつあるもやに、翔太の霊が呼びかけた。
「お母さん……!」
その一言は劇的な効果をもたらし、それまで輪郭でしかなかったもやが、
雲一つ無い夜の月のように、明瞭な女性の形となった。
「翔太……翔太なのね……!」
「お母さん、お母さん……!!」
親子の霊は抱きあい、再会を喜ぶ。
その姿は霊であっても、人間の親子と変わるところは何もなかった。
「ごめんね、お母さんそばにいれなくて。辛い思いをさせてごめんね、怖かったでしょう?」
母親の霊は翔太を抱きしめて離そうとしない。
子供は喜びながらもやや辟易してもいるようで、どこにでもいる男児と母親の光景でしかなかった。
「ああ、ようやく、ようやく会えた……もう離さない、絶対に」
「ごめんね、お母さん。こんなにお母さんのことを悲しませて」
「……どうしてお前が謝るの?」
冷気が龍介達の頬を撫でる。
風向きが変わったかもしれない、と目配せをする間もなく、母親の霊は龍介達を指差した。
「あいつらが……あいつらが、翔太を非道い目に遭わせたのね……ッ!!」
弁解する機会もないまま、強い冷気が吹き抜ける。
突進してきた母親の霊を、龍介は横転して躱した。
「お兄ちゃんっ……!」
「大丈夫だ。お母さんに酷いことはしない」
霊から目を離さぬまま立ちあがった龍介は、
事態の急激な変化に固まっているさゆりとていに呼びかけた。
「俺が引きつけるから、深舟と曳目さんはなんとか落ちつかせてくれ」
「わ、わかったわ」
「わかりました」
二人はそれぞれ弓と鈴を取りだし、打ち鳴らす。
彼女達から離れつつ、龍介は女性の霊を引きつけることにした。
「お前が、お前が……!! 許さない……絶対に許さないッ……!!」
足が竦みそうになるほどの強烈な敵意に龍介は逆らい、
自分一人に霊の意識が集中するように、ぎりぎりまで引きつけ、最小限の動きで避ける。
だが、反転の動作をする必要がなく、かなり素早い幽霊の動きをずっと避け続けるのは困難だった。
「くッ……!」
幽霊が掠めた左腕が冷たく痺れる。
「東摩、危険だ。反撃しろッ」
緊張した支我の声がインカムを叩く。
彼の助言を龍介は聞いていたが、武器を手にしようとはしなかった。
襲いくる母親の、すでに人の形はなしていない霊を挑発する。
霊の姿が薄れ、見失ったと思った次の瞬間、上半身に凄まじい衝撃を受けた。
物理的な衝撃ではなく、精神的な衝撃だ。
絶望、憤怒、悔恨といった負の情念の塊が体内で炸裂する。
視界と思考が黒く染まり、耳を削ぎ落としたくなるような高音と低音に同時に聴覚を冒されて、
平衡感覚を失った龍介は大きくよろめき、膝をついた。
「東摩ッ!!」
支我が叫び、さゆりとていも龍介を見る。
龍介は無事であることをアピールしようとしたが、手足が認識できなくなるくらい五感が失われていて、
その場に倒れてしまった。
「東摩様ッ!!」
ていの悲鳴ももはや聞こえず、龍介は地面に伏す。
もはや霊を落ちつかせるどころではないが、弦を打ち鳴らす儀式を行っていたていは矢をつがえておらず、
さゆりも霊に直接攻撃する手段を持っていない。
離れた場所にいた支我は、このような事態を予測していなかった自分を強く罵りながら、
身を挺して龍介を護ろうと車椅子を前進させた。
だが、龍介までの距離は絶望的なまでに遠い。
車輪を操る手ももどかしく、呪詛めいた焦慮を吐きながら進む支我を、白い塊が追い抜いた。
塊は龍介の前で人の形となる。
豹変した母親を呆然と見ていた、翔太だった。
「止めてっ、お母さんッ!」
「翔……太……?」
息子の呼びかけに、母親は戸惑ったように立ち止まった。
「このお兄ちゃんは、僕を殺した人じゃない。僕とお母さんを会わせようとしてくれた人だよッ!」
「……」
人の形を成していない白いもやは、困惑しているのだろうか、濃くなったり薄くなったりしている。
この隙に、支我が龍介の所に着いていた。
「東摩、しっかりしろ、東摩ッ!」
「う……」
低く、弱々しかったが、反応があって支我は安堵した。
怒りや怨みを持つことが多い霊は、生者の精神を侵蝕し、汚染する。
正式な手順を踏んだイタコや霊媒といった能力者でなければ、霊との直接的な接触はきわめて危険なのだ。
龍介の容態を慎重に見極めつつ、支我はさゆりとていに指示を出した。
「深舟と曳目は浄霊を続けてくれ」
「え、ええ、わかったわ」
「はい」
動揺を抑えつつ二人は浄霊を再開する。
翔太が呼びかけを続けたのも効を奏したのか、母親の霊はそれ以上暴れようとはしなかった。
「翔太……」
「お母さん……もっと静かなところに行こう。ずっといっしょに居られる、静かなところへ」
実際の年齢よりはるかにおとなびた口調で翔太少年は言った。
母親の方がむしろ年下の、少年の妹のように素直に従っている。
いずれにせよ、彼女が生者を脅かすことはもうなさそうだった。
「い痛痛……」
鉄パイプを杖代わりにして、ようやく龍介は身体を起こす。
意識はあれども肉体が喪失したような感覚はまだ続いており、
鉄パイプこそが現実を認識させる頼みの綱だった。
倒れていた間に事態は収束したようで、なんとも面目がない。
それでも結末を見届けるため、龍介は足を引きずるようにして翔太に近づいた。
「お兄ちゃん、それからほかのお姉ちゃん達もありがとう」
「ああ……元気でな」
それは死者に手向ける挨拶としては、少しおかしかったかもしれない。
翔太少年は小さく笑い、龍介も応じた。
めでたしめでたし、などと言うつもりはない。
かろうじて、考え得る最悪の可能性は回避できただけだ。
報酬はないに等しく、受けたダメージからすれば割に合わないこと甚だしい。
それでも、龍介はこの依頼を受けて良かったと思った。
罪もなく離ればなれにされてしまった親子を、引き合わせる手伝いができたのだから。
去ろうとしている翔太の霊に、龍介は声をかけた。
「なあ、ちょっと俺に触ってくれないかな」
「こう……?」
少年の霊が触れた龍介の頭に、少年の記憶が流れこんできた。
十年にも満たない少年の膨大な記憶は、ほとんどが楽しかったことで埋められている。
しかし記憶の中には、彼の最期を記すものもあった。
少年を誘拐した男の人相や車の種類までもが鮮明に映る。
目を閉じて得た情報を記憶させた龍介は、ひとつうなずくと少年に語りかけた。
「なんとか犯人を捕まえられるようにするよ。……お母さんと仲良くな」
「うん……それじゃあね。本当にありがとう」
少年の霊が手を振り、龍介も応じる。
やがて二人の姿は薄れ、消えていった。
静謐な空間を裂いてしまうのを畏れるように、ていが小声で呼びかけた。
「東摩様……」
「あの子の無念を晴らしてやりたいと思ってね」
注意されていた、霊との接触をまたしてもおこなってしまったわけだが、ていは怒らなかった。
「私にもお手伝いできることがあれば、なんでもおっしゃってください」
「うん、その時は頼むよ」
そう答えはしたものの、この件に関する限り、彼女の出番はもうないと龍介は思った。
二体の霊を消滅――成仏させた。
これで、依頼は完了したのだ。
あとは個人的な拘りの領域だった。
代わって支我が話しかけてくる。
「ところで身体は大丈夫なのか、東摩」
「ああ、なんとか。気分はかなり悪いけど」
実際はかなりどころではなく、冷たい水をがぶ飲みして、横になってしまいたいくらいだった。
だが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
あと少し、気合いで持ちこたえようとする龍介に、ていが気遣わしげに呼びかけた。
「東摩様、こちらを向いてください」
龍介が言われたとおりにすると、ていは何事か唱えはじめた。
疲労が限界に達している龍介は、長引くようだと困るなあとぼんやり考えていたが、
幸いなことに儀式はすぐに終わり、さらに霊験あらたかだった。
少しではあるが身体が軽くなったように感じられたのだ。
「簡易的なものですがお清めをしておきました。もし具合が良くならないようでしたら、
本格的な祈祷をしますから、すぐに連絡をしてください」
「ありがとう……悪いね、迷惑をかけて」
「いえ、ですがどうかお体を大切になさってください」
真剣な面持ちのていに、龍介も神妙にうなずいた。
今まで霊と接触したことは何度かあったが、今回は相当効いた。
悪霊というのがどれほど危険な存在か、支我に何度も言われていたことがようやく身に染みたわけで、
いずれあるだろう彼からの説教も甘受しなければならなそうだった。
「とにかく終わった。これでもう、親子さん達のところに霊が現れることはないだろ」
編集長への謝罪やら支我と、一応さゆりへの礼やら、後始末は残っているものの、
まずは一件落着といえるだろう。
「編集長、怒ってるかしら」
不吉なことをさゆりが言った途端、支我のスマートフォンが鳴った。
「はい……はい。ええ、今から戻ります」
電話の主が誰なのかは明らかで、さゆりが小声で囁いた。
「凄いタイミングね……神がかってるわ」
「神っていうか、悪魔じゃないか」
「言えてるわね」
さゆりは同意してから不意に顔をしかめた。
龍介に同意するなどあってはならないことだと思ったのだ。
「なんだよ、変な顔して」
「なんでもないわよ!」
理不尽に怒鳴られた龍介が目を白黒させていると、千鶴との通話を終えた支我が声をかけた。
「さあ、帰ろう。東摩も今日のうちに頭を下げた方がいいと思うが、行けるか?」
「行くよ」
「私も参ります」
支我は一瞬迷ったが、ていもれっきとした夕隙社の一員であると考えなおして頷いた。
「ずいぶん遅い食事だったわね」
戻ってきた四人を出迎えたのは千鶴の嫌味だった。
「ええ、ちょっと行列ができてて」
常人なら萎縮してしまいそうなプレッシャーにも、平然と耐えて支我が言う。
彼とさゆりを睨んだ千鶴は、二人の後ろでさりげなさそうに立っている龍介に、
ことさら険しい視線を射こんだ。
「で、そっちのあんたはなんで居るの」
「い、いやあ、そこでたまたま会って」
「へえ、たまたまね。若いモンの流行り言葉なんて知らないけど、
最近じゃ夜に浅草の公園で出くわすのをたまたまって言うのね」
「うッ……」
千鶴の手にはスマートフォンが握られている。
GPSを用いた居場所確認アプリは、そもそも部下の居場所を把握する必要があって
萌市に導入させたのだから、千鶴が使っていないわけがなかった。
色々考えていた言い訳の数々を先制の一撃で粉砕されて龍介は窮地に陥る。
自分たちの服務規程違反も龍介ひとりに押しつけられるとあってか、支我とさゆりからの助け船はない。
こうなったらひたすら謝りたおすしかない、と覚悟を決めた龍介に、
千鶴は長く、強く煙草の煙を吐きだして言った。
「で? 依頼は解決したの?」
「え、ええ、そりゃもう」
「よろしい。それなら東摩は今日中に報告書を仕上げて提出すること。一人で書き上げるのよ、いいわね」
罰なのか温情なのか良く分からないまま、千鶴の迫力に圧倒されて龍介はひたすら首を縦に振った。
「あ、あの、私も」
「曳目。あんたは『現役巫女が行くパワースポット』の原稿をさっさと上げなさい」
「は、はい」
二人はそれぞれの机に飛んでいき、仕事を始める。
残った二人もさりげなく机に向かおうとするが、千鶴が見逃すはずがなかった。
「支我。あんたは龍介の原稿をチェックしなさい。ヌルい原稿を通したら許さないわよ。
深舟は曳目に原稿の書き方を教えること。今号からさっそく連載始めるからそのつもりで」
鼻息も荒い千鶴には、さしもの支我も逆らうことができず、
こうなったら龍介がまともな報告書を一秒でも早く書きあげてくれることを祈るしかなかった。
さゆりは唯一反論しようと試みたが、絶妙のタイミングで睨みを効かせた千鶴に機先を制され、
こちらもていが普通の文章を書けるよう、三分の一ほど欠けた月に願うのだった。
警視庁捜査一課の田宮は、東摩龍介と名乗る少年が面会を求めていると言われても、
すぐには思い当たらなかった。
疑問が氷解したのはロビーで待っていた彼の顔を見てからだ。
田宮は元来表情豊かな男ではないが、龍介を見る彼は、仏頂面と言うのが相応しい無表情だった。
「……君か」
田宮はある事件で彼の助力を得たことがある。
容疑者が幽体離脱して殺人を犯すという、日本の警察史上初めての事件は、
霊退治を専門に行っているという彼ら夕隙社の助力を得てなんとか解決したものの、
捜査報告書はこれまでの刑事人生で最も作成するのが困難で、
彼もこの事件に関してだけは一刻も早く忘れてしまいたいと思っていた。
ゆえに事件の記憶を呼び起こされる龍介は、彼にとって好ましいものではなかった。
「どうしたのかな?」
田宮の声はあと数ミリで非好意的の線を越える、ぎりぎりのものだった。
それでも張った綱は一応張力を保っていたのだが、
龍介の一声は田宮の努力をたやすく線の向こう側へと押しやった。
「田宮さんに捜査して欲しい事件があるんです」
「勘違いしてはいけない。君には確かに世話になったが、警察が一個人の依頼で軽々と動けるはずがない。
君ももう大人なんだから、それくらい解るだろう?」
龍介の語尾を切断するように田宮は答えた。
彼は煙草を吸わないが、吸ったとしたら思い切り煙を吐きだしたかもしれない。
警視庁捜査一課の刑事に直接捜査を依頼するなど、龍介の頼みは非常識の極みだった。
彼と多少なりとも面識がある田宮ですら瞬間的に怒りを覚えたほどだったから、
万が一他の刑事に聞かれでもしたら、無事には帰れないかもしれない。
彼のためにもなるべく早く帰らせようと、田宮ははっきり冷たい、
容疑者に対するのと同じ眼光を龍介に向けた。
しかし、彼はわずかに怯んだものの、引き下がらなかった。
「一年前に台東区で子供が行方不明になって、遺体となって発見された事件がありました。
遺体の発見から数ヶ月後、おそらくは事件を苦にして母親は自殺。
子供を誘拐した犯人は、まだ捕まっていません」
誘拐殺人と聞いて、初めて田宮の眉が視認できる程度に動いた。
刑事といえど世に起こる事件、いや、東京都二十三区内に限ってさえ全ての事件を把握するなど不可能だ。
それが田宮が直接関わるような強行犯――殺人や強盗といった凶悪犯罪でもだ。
だが、誘拐殺人、それも子供の誘拐となると極めて重大な犯罪だ。
時間を要したものの、田宮は龍介が口にした事件を思いだすことができた。
「……確か、容疑者も特定できていない事件だったな。
身代金目的ではなかったため、犯人からの接触はなく、
わいせつ目的でもなかったため、遺体からDNAも採取できなかった」
他県の山中で発見された遺体は、死後半年以上が経過しており、身元の特定に時間がかかった。
遺体の損傷から、死ぬ前におそらく車で撥ねられ、その後遺棄されたと推測されたが、
捜査はそこまでで、全てが捜査に悪い方向に働いていて、
容疑者を絞りこむことさえできない状態のはずだった。
当然、現在も捜査が行われているはずだが、規模は縮小されているだろうし、
これから捜査が進展する見込みも薄いといわざるを得なかった。
事件とは全く関わりがなさそうな龍介が、なぜこんな事件を知っているのか。
少しだけ興味が湧いた田宮は、仏頂面を保ちつつ、返しかけた踵を戻した。
「その事件と君にどんな関係が?」
田宮の疑問に龍介は一冊のファイルを取りだした。
「俺達は母親の方の除霊を依頼されて、その解決のために子供の霊にも接触しました。
その時に得た手がかりです」
ファイルを受け取った田宮は素早く中身をチェックする。
彼の顔色が変わるのに時間は要さなかった。
そこには犯人の人相および体格、そして車の色と車種、
それに断片的ながら通行した場所までが記載されていたのだ。
これらが事実なら、犯人逮捕に大きく前進することができる――事実なら。
「君達の能力は理解しているつもりだが、これを元に俺たちが動くことはできない」
田宮の返答は相変わらず冷たかった。
ただ、今度はわずかに苦渋が滲んでいた。
警察という機構は管轄――つまり、縄張りを荒らされることを嫌う。
浅草警察署は特に歴史を誇る警察署であり、それはともすれば排他意識にも繋がる。
そんなところに捜査の情報など持ちこんでも、無視されるだけならマシというところで、
下手をすれば今後様々な妨害が宮田のみならず、捜査一課にまで及ぶかもしれないのだ。
しかも、この情報の出所を問われたら答えに窮する。
まさか知り合いが霊から得た、などとは口が裂けても言えないのだ。
もしも口にすれば最後、田宮は即座に捜査一課を外され、閑職に回されて刑事人生を終えるだろう。
いや、刑事として定年まで勤めあげることも許されないかもしれない。
警察という組織が冷徹で、そして臆病であることを、二十年以上組織に属して田宮は良く知っていた。
「そう、ですか」
龍介の返事には深い諦念があった。
彼が持ってきた情報は、入手の経緯はどうであれ間違いなく真実だ。
そして情報の果てにあるものは正義だ。
もう彼もあれくらいの年齢ならば、悪の全てが裁かれることなどなく、
警察などしょせん目に見える範囲の悪を、社会に淀みができないように
毎日掃除を続けるだけの組織に過ぎないと識っているだろう。
だが、だからといって大きな悪を放置して良いはずがない。
ひき逃げした後、まだ息のあった被害者を半日近くも放置し、死に至らしめ、遺体を遺棄した。
これは誰に聞いても許されざる罪だ。
何の咎もなく命を奪われた幼い子供に対する、どのような瑕疵もない純粋な正義感を、
代行するはずの国の機関が否定した。
現実を見ろというのはたやすい。
しかし現実というものがあやふやであることも、田宮は知ったばかりだった。
幽体離脱による殺人という、関わった者全てにとって悪夢でしかなかった事件は、
映画や小説の中の作り事としか思っていなかった世界が、
実は現実と隣り合わせに存在するのだと田宮に知らしめたのだ
田宮は目を閉じて熟考した。
手柄になるかどうかなどではなく、立件できるかどうかである。
おそらくは処分されているであろう車が、万が一見つけられれば――
田宮は目を開けた。
「わかった――受け取ろう。だが、君の期待するような結果にはならないかもしれない」
「はい。ありがとうございます……よろしくお願いします」
龍介は田宮が驚くほど深く頭を下げ、しばらくの間上げなかった。
礼儀一つで心を揺さぶられるほど、刑事という職業は甘くない。
しかし、顔を上げ、まっすぐ田宮を見た後もう一度、今度は小さく頭を下げてから帰っていく龍介の
背中を見ながら、田宮は、自分が刑事になったばかりの頃を思いだしていた。
この街から犯罪を一つでも減らす――そんな青臭いことを本気で考えた時期が、彼にもあったのだ。
受け取った書類を脇に抱え、田宮は歩きだした。
まず、この人相書きの男が警視庁のデータベースに登録されているか当たるところから始めるのだ。
龍介には気を持たせるようなことを言わなかったが、
田宮はなんとしても容疑者に辿りついてみせると決心していた。
警察署を出たところで、スマートフォンが鳴った。
「あんた今どこに居るのよ」
「どこって、警察署だよ」
「ああ、ついに年貢の納め時ってわけね。短い間だったけど、一年くらいは覚えておいてあげるわ、一応」
「ありがとよ」
さゆりの反応は予想内だったので、龍介も混ぜっ返しはしなかった。
「まあいいわ。それより今から私達浅草に行くから、あんたも合流しなさい」
「浅草に?」
まだ何かあっただろうかと訝る龍介に、さゆりは意外なことを言った。
「ええ、あんたの報告書を読んだ編集長が、花代を出してくれたのよ」
言っている当人も狐につままれているようだ。
だが、いずれにしても善いことには違いない。
ていによれば、生者の祈りも霊を成仏させるのに極めて有効なのだという。
「わかった、一時間以内に行くよ」
優しい口調で龍介が応じると、さゆりは鼻白んだのか、そのまま通話を終えてしまった。
唐突に何も言わなくなったスマートフォンを、不思議そうに数秒見つめていた龍介は、
気を取り直して歩を速めるのだった。
<<話選択へ
<<前のページへ