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 放課後、龍介はていと合流した。
今度は織部神社ではなく、直接浅草で待ち合わせだ。
駅の入り口に、余裕を持って十分前に龍介が到着すると、ていはもう来ていた。
「こんにちは。あれから何もありませんでしたか」
「ああ、大丈夫。それより、あのお母さん達、依頼してくれたんだって?」
「はい、昨夜のことをお話すると、盛り塩も黒くなっていたそうで、すぐに除霊して欲しいと。
他の方々も同意していただけました」
 これで形が整ったことになる。
龍介は頷いたが、ここで、つい余計な好奇心が顔を出した。
「ちなみに……織部神社だと料金は幾らなの?」
 ていが教えてくれた金額は、夕隙社の二十分の一程度だった。
 龍介は必ずしも金のために除霊しているわけではないにしても、
この金額ではやはり会社としてはやっていけないだろう。
龍介個人の報酬はもとより、萌市が開発する様々な機材の開発・維持費や、札や塩などの費用を考えると、
夕隙社の料金は暴利を貪っているとも言えないのだ。
 腕を組んで唸る龍介に勘違いしたらしく、ていが慌てて言った。
「あッ、東摩様にもお礼はお支払いしますから」
「いいよ、そんなつもりで引き受けたんじゃないから」
 どんなつもりかと問われると答えにくいのだが、とにかく龍介は断った。
ていのバイト代が減ってしまうのは気の毒だし、正直にいってこれくらいの額ならそれほど執着もない。
しかし彼女はなお食い下がろうとするので、龍介は強引に話題を変え、
今日彼女を呼びだした理由を説明した。
「一緒に来て欲しい場所があるんだ」
「はい……?」
 頷きつつも首を傾げるていに、手間は取らせないから、とだけ告げた龍介は、先に立って歩きはじめた。
 龍介がていを連れてきたのは、昨夜のファミリーレストラン近くの歩道橋だった。
 端の中間地点に立った龍介は、車道を見下ろしてひとり頷いた。
「ああ……やっぱりここだ」
 ていの方に向き直って、戸惑っている彼女に説明する。
「昨日霊にぶつかられたとき、ここの風景が見えたんだ」
「それは……」
 何かを予感したていの声が低くなる。
続ける龍介の声も低く、そして乾いていた。
「ああ。昨日の霊は、ここから飛び降りたんだ」
 二人は揃って橋の向こうを見やった。
ビルがそびえ、車が走り、様々な音が絶えず鳴り続けている。
だが、霊となった女性は、これら人の生きる世界から、一人去らなければならなかったのだ。
龍介には記憶が焼きついている。
足が歩道橋を離れた瞬間、全ての音が消え、意識が途絶するまでの一瞬に、膨大な想いが脳裏を駆け巡る。
それは、走馬燈というものなのかもしれない。
彼女の想いの全てまでを、龍介は感じ取ることができなかったが、その中でひとつ、
きわめて強い謝罪の感情だけは伝わってきた。
「飛び降りる寸前にね、あのファミレスが目に入ったんだ。だからここだって判った」
 ぼやけた景色の中で、なぜあの店だけがくっきりと映ったのか。
それはおそらく、彼女の未練に関係があると龍介は思った。
 彼女がなぜ自殺という辛い人生の終わらせ方を選ばなければならなかったのか、
そしてなぜ死した後も霊となって生者を脅かしているのか。
彼女と接触して得た小さな手がかりから、なんとか彼女を成仏させる方法を見つけてやりたかった。
「もしかしたら店員が何か知っているかもしれないし、聞きに行ってみよう」
「はい。でもその前に、手を合わせていいですか?」
「……もちろん」
 龍介とていは静かに手を合わせた。
傾き始めた太陽が、薄いオレンジの輝きを二人に投げかけていた。
 二日続けて同じファミレスに来た二人だが、時間帯が違うので、店員は昨夜とは違っていた。
ていはやはり水だけで良いと言ったので、龍介も最初からサラダとスープのみにする。
注文を運んできた店員に、歩道橋で事故がなかったか訊ねると、
店長らしき年配の男性は軽く眉をひそめた。
「そんなことを訊いて、どうするのかな」
 彼の応対は当然で、話してくれるよう食い下がるべきか龍介はためらう。
すると、ていが代わって答えた。
「安らかに眠って欲しいと思っています。少しでもそのお力添えができたらと」
 同じことを龍介が言っても、信用されなかったかもしれない。
だが、真摯に答えるていに、店員はわずかに目を見開いた。
「君達、さっき歩道橋で手を合わせてたよね。
興味本位や悪ふざけじゃないみたいだから、教えてあげるよ」
 小さく息をついた店員は、二人に語り始めた。
「二ヶ月くらい前だったかな、あの歩道橋から女性が飛び降りたんだ。
新聞の記事だと今から約一年前に女性の子供が行方不明になって、九ヶ月後に遺体で見つかった。
警察はそれを苦にしての自殺とみているってね。
二人はウチに何度か食べに来てくれてるし、子供を捜していますってチラシも持ってきてたから、
遺体が見つかったって聞いたときは気の毒でね」
 店員は歩道橋を見やる。
「それから、夜になるとあの歩道橋から白い人が落ちてくるって噂になってね。
それを見ようとウチに陣取る連中まで出てきたんだよ。
ウチも売り上げにはなるから、強くは言えないんだけどね」
 彼の口調からは、靴底にガムがへばりついているような苦々しさがある。
これが何十年か前に死んだ人の霊ならば、また気持ちも異なるのだろうが、
冒涜とまではいかないまでも、死を茶化していると心のどこかで感じているのだろう。
「そうだったんですか……」
「だから君達が彼女を成仏させてあげられるのなら、僕からもお願いするよ」
 龍介は礼を言い、店を出ることにした。
会計を済ませる際に、ていが訊ねる。
「この近くにお花屋さんはありますか?」
 店員は表情を和らげて、ていに花屋の場所を教えてくれた。
 ファミリーレストランを出た二人は、まず花屋に行って花束を買った。
歩道橋に行って花を供え、手を合わせる。
 顔を上げた龍介は、判明した事実を整理した。
「事情はなんとなくわかったけど、あの霊……母親の霊は、どうして親子の家に出るんだろう。
恨みじゃないとは思うけど」
「多分ですが……うらやましいんじゃないでしょうか。幸福そうな母子が。
だから霊が出る家の子供達も、恨みがないから必ずしも怖がっているわけではないのでは」
「我が子を救えず自殺という途を選んでしまった無念と、犯人への恨めしさから成仏はできない。
筋は通ってる……でも、子供も母親も亡くなってしまったのなら、霊となって出会ってはいないのかな?」
 霊同士なら出会えるのではないかという素朴な疑問だったのだが、
ていは龍介が驚くほど暗い表情で答えた。
「……神道では人の魂は死後、傍で子孫を見守り、やがて消滅するという教えです。
でも、自殺してしまうと長く成仏できないと言われていて、
もしかしたら母親の霊は子供に対する未練に囚われてしまっているのかもしれません」
 他の宗教でも死後の世界についてはそれぞれ異なる教えがあるが、
自殺については否定的な、つまり死んだ後も苦しみが続くと教えている宗教が多い。
それだけ現世……今生きているこの人生を大切にせよということなのだろうが、
もしかしたら、死後の世界に関する何らかの真理があるのかもしれなかった。
「そっか……親子を会わせてあげれば解決すると思ったんだけど、そんなに簡単にはいかないか」
 何か別の方法を考えなくてはならないが、そう名案が思い浮かぶものではない。
 ところが、呟いた龍介に、ていは意外にも首を振った。
「いえ、できるかもしれません」
「え?」
「子供の霊がまだ留まっていれば……喚びだすことができるかもしれません」
 そんなことが可能なのかと訊ねる龍介に、ていは頷く。
「ただ、特定の霊を喚ぶというのはとても難しいんです。
少しでも成功率を高くするには、生前の名前や写真、遺品などが必要になります」
 霊を喚ぶという儀式は、いわゆるコックリさんや、西洋でもウィジャボードを用いた降霊術など
古くから世界各地に存在している。
ただしこれらは近くに居る霊を喚ぶといった場合がほとんどで、
特定の誰かを喚ぶとなると、イタコのように専門的な修行と才能が必要になってくるのだ。
ていにそのような降霊術ができるとは驚きだが、彼女はできないことをできるとは言わないだろう。
龍介は賭けてみる気になった。
「母親がチラシを配ったってファミレスの人が言ってたな。まだ残ってないか聞きに行こう」
「はい」
 ていはなぜか嬉しそうに頷いた。
不思議がる龍介に気づくと、顔を赤らめる。
「あ、すみません、不謹慎だったかもしれません。でも、東摩様は力づくで除霊しようとはしない、
それが嬉しかったんです」
「ああ……納得して成仏してもらえるんなら、それに越したことはないと思うんだ。
そういう霊ばっかりじゃないだろうけど、だからこそ、可能性があるならそれを試してからでも
遅くはないんじゃないかって」
「はい……はい!」
 我が意を得たとばかりにていは大きく頷いた。
「私も、霊の事情を聞かずに一方的に祓うのには疑問を感じていたんです。
東摩様の考えは私の疑問に灯りをともしてくださいました」
 ていは瞳を輝かせて、龍介に詰め寄らんばかりだ。
夕日が照らす少女の横顔にどぎまぎしつつも、安易に感動する彼女に危うさを感じたりもする。
練りに練った思索の発露というわけでも、断固たる決意を披露したというわけでもなく、
単に今回の方針を口にした程度だったのだからなおさらだ。
「そんな大げさなものじゃないけど、役に立てたんなら嬉しいよ」
 照れ隠しでそう話を打ち切った龍介は、ファミレスへと率先して向かった。
 ファミレスに入ってすぐに龍介は先ほどの店員を探した。
彼もすぐに気がつき、近づいてきたので、チラシが残っていたら分けて欲しいと龍介が言うと、
理由を訊ねたりはせずにすぐに持ってきてくれた。
「君達は本気なんだね。どうやったら成仏させてあげられるのか、僕には見当もつかないけど、頼んだよ」
「ご期待に沿えるよう頑張ります」
 ていが深く頭を下げ、龍介も倣った。
 チラシには誘拐された男の子の名前と顔写真が記載されていた。
快活そうな男の子で、こんな子を殺した犯人に龍介は怒りを禁じ得ない。
チラシをクリアファイルに入れ、鞄にしまうと、独り言ぎみに呟いた。
「あとは遺品が手に入ったらいいんだけど、さすがに無理だよな」
「はい……」
 妻と息子を亡くした夫に、遺品を分けて欲しいなどと頼めるわけがない。
今回は夫から依頼があったのではなく、妻が幽霊となって他者に害をなそうとしているなどと、
言えるわけがなかった。
「それと……」
「はい?」
「ああ、いや、なんでもない」
 説明しようとして龍介は止めた。
代わりにこっそりメールを一通作成し、送信する。
後始末が大変な予感に見舞われたが、仕方がないだろう。
こうして龍介とていは、子供の霊を喚びだす手はずを整えた。
 すっかり陽が沈んだ時刻、二人は隅田川沿いの公園に来ていた。
霊を喚ぶには、喚びたい霊にゆかりがある場所が最も適しているのだが、
そこが使えない場合は、なるべく人気の少ない、静かな場所が良いのだという。
ていの要望に応じて龍介が辺りを検索した結果、ここが良いのではと連れてきたのだ。
 夜になったとはいえ、百メートルも移動すれば多くの灯りが点いているが、
川沿いの公園とあって辺りはかなり暗い。
人影は皆無で、問題はなさそうだ。
 公園内でさらに人の来なさそうな場所を探そうとする龍介の前に、二人分の人影が現れた。
制服を着た、高校生の二人連れは、龍介とていに気づくとそれぞれ挨拶した。
「よォ、東摩」
「支我……来てくれたのか!」
 思わぬ援軍に声をうわずらせる龍介に、冷や水が浴びせかけられる。
「助けを頼んでおいて私への挨拶は後回しって、舐めてんの?」
「いや、そういうわけじゃ……にしても、良くここが判ったな」
 強引に話題を変える龍介を睨みつけていたさゆりは、賞賛にも浮かれたりはしなかった。
「何言ってんの、私達のスマホにはオタクが作った位置確認アプリが入ってるでしょ」
「あ、そうだっけ」
 夕隙社で働き始めた頃にそんな話を聞いた気もするが、
基本的に龍介は支我とさゆりと一緒に行動するし、支我がいれば地図に関してはお任せなので、
すっかり忘れていたのだ。
「そういや、お前がずいぶん入れるの嫌がってたな……あれ? お前入れたんだっけ?」
「私のことはこの際いいのよッ!」
 さゆりは龍介に一喝した。
 霊を喚びだすが、興奮している可能性もあるので鈴の力を貸して欲しいという龍介からの
メールを受け取ったさゆりはすぐに支我に見せた。
行くにせよ行かないにせよ、共犯関係にあった方が良いと考えたのだ。
どちらかといえば面倒ごとに巻きこまれたくはない――さゆりはそう考えていたが、
支我はあっさりと支援に行くと決断した。
「霊を喚ぶところなんて、滅多に見られるものじゃないからな」
 彼が龍介よりも古株のオカルト雑誌編集アルバイトであることを、さゆりは忘れていたのだ。
 とにかく行くことは決まったので、食事に行くという名目で編集部を抜け出し、
浅草まで来たというわけだった。
「まったく、結局一人の手に負えないで助けを呼ぶのね」
「この借りはいつか返すよ」
「当たり前でしょッ!! 私達が抜けてくるとき、編集長何も言わなかったけど、
あれ絶対気づいてるわよ。何かあったら全部あんたのせいよ」
「……ま、まあその時はその時だよ」
 さゆりに来てもらったのは、昨夜、龍介を見つけるなり襲ってきた母親の霊は、
喚びだせても説得を聞き入れてくれるかどうか怪しい。
除霊してしまうわけにもいかないので、なんとか鎮まってもらう方法を考えた龍介の策だった。
 行き当たりばったりな男をひと睨みしておいてから、さゆりはていの方を向いた。
「霊を喚びだすなんて……本当にできるの?」
 能力を疑っていると取られかねない、不躾な質問にもていは怒らなかった。
「実際に喚ぶのは初めてですが、大丈夫だと思います」
 おとなしいだけだと思っていたていの、意外な意志の強さに今度はさゆりが黙る番だった。
「まあ……気をつけてね。今回は夕隙社の道具がほとんど使えなくて、援護にも限りがあるから」
「はい。深舟様こそ、充分にお気をつけてください」
 のれんに腕押しといった感じだろうか、どこまでも穏やかなていに、
さゆりもこれ以上絡んでも意味がないと思ったようだ。
消化不良ぎみな顔をしたとはいえ、龍介相手になら必ず最後に投げつける
嫌味を言わずに会話を打ち切ったのは、傍で聞いていた龍介を驚かせずにはおかなかった。
「……何間抜けな顔してるのよ」
「悪かったな、いつもの顔だよ」
「あら、そうだったかしら」
 一瞬でも油断したことを後悔させる、鮮やかな口撃だった。
 龍介もさゆりも単独なら充分に期待通りの働きをしてくれるが、
二人揃うと途端に上手くいかなくなる。
プラスとプラスなら掛けてもマイナスにはならないはずなのだが、
と考えつつ支我は話を進めることにした。
「大体の事情は東摩からのメールで把握しているが、もう一度流れを教えてくれないか」
 支我に請われて龍介は、今日得た情報も含めて説明した。
「なるほど、母親の霊が持つ怨みをなくすために、子供の霊を喚ぶというわけか……
しかし、良くそこまで判ったな」
 感心する支我に、それらの情報を得るきっかけとなった霊との接触については話せなかった。
霊との接触については気をつけるように何度も言われているのに、
不注意から接触してしまったと言えば彼が良い顔をしないのは判りきっているからだ。
 龍介が支我に全てを話さなかったことに気づいたていは、ほんのわずか物言いたげな顔をしたが、
慎ましく何も言わなかった。
「それで、霊を喚ぶのはすぐに始められるのか?」
「はい」
「よし、それなら始めてくれ」
 予定通りではあるのだが、支我が仕切ると自然と場が引き締まる。
龍介が感心していると、さゆりに声のナイフで刺された。
「何ぼさっとしてるのよ」
「しょうがないだろ、霊が出るまでやれることがないんだから」
「なら、周りのゴミでも拾ってきなさいよ」
「なんで今ゴミ拾いする必要があるんだよ!」
「心が汚れた人間が居ると霊も出てこないかもしれないじゃない」
 昨日からおおよそ二十四時間の心の安らぎは、
間違いなくさゆりが居ないことによってもたらされたのだと龍介は確信し、
お前こそ居なくなれば場が静かになる、と声を荒げて言おうとした。
「二人とも、始まるぞ」
 一瞬の空白に、合いの手のように差しこまれる支我の忠告に、不本意ながら沈黙する龍介だった。
 準備、というほどのものではない。
すでに巫女装束をまとっているていは、弓を持って龍介達の前に立っただけだ。
それでも、雑音など許されない雰囲気になったのが龍介にも伝わってくる。
龍介に背を向けたていは、二礼二拍手一礼すると、呪詞を唱えはじめた。
「天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄 天の神地の外 家の内には井の神 庭の神 竃の神」
 低く、ゆっくりとした呪言は、龍介達には何を言っているのかさえ理解できない。
唾さえ呑むのをはばかられる静寂の中、ていが打ち鳴らす弓の音だけが響いた。
「神の御数は八百万 過去の仏 未来の仏 弥陀薬師弥勒阿 観音勢至普賢菩薩 知恵文殊 
三国伝来仏法流布 聖徳太子の御本地は霊山浄土三界の 救主世尊の御事なり 此の御教への梓弓 
釈迦の子神子が弦音に 引かれ誘はれ寄り来り 逢ひたさ見たさに寄り来たよ」
 今のところ周りの空間に変化の兆しはない。
ノートパソコンに目を落としながら、支我が解説する。
「巫女による降霊は、すぐに霊を降ろすのではなく、まず神々を場に招くことから始まる。
降霊の場を安定させるためだ。弓と呪詞との組み合わせで、周囲の邪霊を祓う。
そうした上で、神霊の力を借りて目的の霊を絞りこむんだ。
古来より受け継がれ、洗練されてきた結果だろう」
 場に変化が生じはじめたのを、龍介達も認識した。
霊が現れる前と似ているが、ただ寒いのではなく、空気が澄んでいく感じだ。
怖れはない――むしろ、心身が引き締まるのを龍介は感じた。
「各納受をたれ、只今よりきたる所の亡者の冥路の語、まさしく聞せたまへ……」
 語尾が低く、弱く消えていく。
弦が打ち鳴らされ、一転した調子でていは呪言を唱えた。
「母の手より別たれし、いまだ幼き御霊よ。此の梓弓、弦音に引かれ請はれ寄り来たり、
逢ひたさ見たさに寄り来たれよ……!」
 ひときわ長く詠まれた、よの音が消えた直後、龍介は寒気を覚えた。
前方に目を凝らすと、龍介の腰の高さほどの大きさの、白いもやが発生していた。
もやは徐々に人の形を取りはじめ、子供の姿になる。
「僕を呼んだのは、お兄ちゃん達……?」
 チラシには六歳と記してあったが、幼児の時期は卒業したらしく、受け答えはしっかりしている。
こんな年端もいかぬ子が死なねばならなかった無念を思うと、龍介の口は重くならざるを得ない。
「ああ……君は、翔太君だね?」
「うん……お兄ちゃん達は、誰?」
「俺達は……」
 龍介は口ごもった。
彼に、もう自分は死んで幽霊になっているのだと告げるのは、あまりに残酷だと思われたのだ。
まして、これから彼にはさらに残酷なことを告げねばならないのだ。
「私達は、あなたのお母さんに頼まれたの。あなたと逢わせて欲しいって」
 口ごもる龍介に代わってていが説明する。
彼女の説明は真実ではなかったが、そう信じさせるだけの真摯さがあった。
「嘘……だよ。だって僕、おうちに帰ったもの。でもお父さんもお母さんも、誰もいなかったもの」
 ていに悪意などないのは間違いなかったが、子供の霊は不信を強めている。
動揺し、言葉を失っているていに代わって、龍介が語りかけた。
「君は……その……家の中には入れたのか?」
 これが良い質問などとは到底思えなかったが、これ以上彼の不信を招いて彼が消えでもしたら、
母親の霊を浄める手だてが失われてしまう。
それだけは避けたかった。
「うん……僕、死んでるんだよね……?」
 ていが息を呑み、さゆりも緊張を強めている。
子供はまだ小学校に入るか入らないかという年齢なのに、過酷な現実を理解していた。
むしろ慄えたのは龍介の方で、子供が告げた過酷な事実に拳が震え、
返事をするのはそれが収まるまで待たねばならなかった。
「ああ。君は悪い奴に殺されてしまった。それで……それで、君のお母さんも、
君がいなくなってしまったのが寂しくて、それで……死んでしまったんだ」
 どうしても、母親が自殺したとは言えなかった。
子供の顔をまともに見られず、龍介はうつむく。
すると子供の霊が近づいてきた。
「東摩、気をつけろ」
 支我の警告も耳に入らず、龍介は無防備に立ち尽くす。
彼と彼の母親の死に龍介は一切関係がないが、彼に殴られても仕方がないとさえ思っていた。
「お兄ちゃん……泣いてるの? どうして?」
 龍介は答えなかった。
さゆりとていが見ているのにも構わず、乱暴に腕で目を擦り、鼻を啜る。
それから膝をつき、彼と目の高さを合わせて言った。
「君のお母さんは今、あっちこっち君を捜し回っている。
俺たちは、翔太君とお母さんを会わせてあげたいんだ」
「お母さんに会わせてくれるの?」
「ああ」
 力強く答える龍介に、子供の霊はこっくりと頷いた。
「うん……わかった」
「今からお母さんを喚ぶから、俺のそばに居てくれるか?」
 少年の……翔太の霊は素直に従った。
 龍介がていを見ると、彼女は静かに頷いたが、浅い呼吸を繰り返している。
 彼女と龍介の中間の位置にいたさゆりが声をかけた。
「曳目さん、大丈夫? 疲れているみたいだけど」
「ええ……大丈夫です」
 明らかに大丈夫ではないようにさゆりには見えるが、彼女の気迫に圧されて引き下がった。
再び集中をはじめたていの傍から離れると、支我が小声で言った。
「場を浄めて霊を喚びだすというのは極めて高度な集中力を必要とするんだろう。
まして、二体続けてではな」
「それは、そうでしょうけど」
 ていは子供の霊に過剰に思い入れているのではないだろうか。
概要を聞いて、さゆりも確かに同情はしたが、それで自分の命を危険にさらしては本末転倒だ。
龍介も同様に考えているのは明らかなのがまた腹立たしく、夕隙社の一員として、
あとで二人に説教する必要がある、とさゆりは考えた。



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