<<話選択へ
次のページへ>>

(1/5ページ)

 草木も眠る時間、午前二時。
左戸井法酔は人にあらざる速度で疾走していた。
人の働く時間は眠り、人の眠る時間も眠るを主義にするこの男が、
彼と仕事場を同じくする高校生達が見れば等しく驚愕するであろう、口元に薄い笑みを浮かべて、
トラックさえほとんど見あたらないこの時間にハンドルを握っているのには、もちろん理由がある。
 首都高速湾岸線。
千葉から横浜までを繋ぐこの有料道路は、直線が長く、改造を施した車が最高速を競う格好のステージだ。
週末の深夜ともなれば、スピードがもたらす麻薬的な快感を求めて若者達が集う。
そして法酔もまた、スピードに憑かれた一人だった。
 大きく左にステアリングを切り、コーナーに侵入する。
タイヤが摩擦に耐えかねてスキール音を鳴らし、車体が外へと孕んでいく。
明らかなオーバースピードであり、破綻はすぐそこに迫っていた。
「……フン」
 だが、左戸井は慌てた様子もなくステアリングを軽く修正する。
右前方からガードレールが、死神が振り下ろす鎌のように左戸井の車を捕らえようと襲ってきた。
怖れる色もなく、眠たげな目をさらに細めて、時速百五十キロで流れる前方を注視していた左戸井は、
一気にアクセルを踏みこんだ。
収まりつつあった挙動が再び暴れ、右後部が流れる。
 あと数センチというところで獲物を捕らえそこねたガードレールは、憤慨に反射材を光らせる。
嘲るようにテールランプを揺らした左戸井の車は、それを見ることなく闇の地平へと消えていった。
 ギアを五速に入れた左戸井は、ご満悦の表情で煙草に火を点けた。
煙草の臭いが残っていると、後でガキ共がうるさいだろうが、糞喰らえだ。
ジャジャ馬をねじ伏せる喜びは、まだ免許も取れないような奴等には決して解るまい。
 夕隙社の車――というより運転できる人間が彼一人なので、実質左戸井の専用車だ――は、
とっくにスクラップになっていておかしくない老兵だ。
当然性能も一線級ではとてもなく、形が気に入って乗っている愛好家以外は、
車好きの興味を惹くこともない。
格安、というよりほとんど捨て値で入手したこの車に、
左戸井は外見以外はほとんど別物といえる大改造を行ったのだ。
タイヤ、サスペンションは言うに及ばず、エンジンまで換装した車両は、ひどく癖のある車両と化した。
手足と五感の全てを総動員していなければ、真の性能どころかたちまちドライバーを裏切るような
危険な車を、左戸井はむしろ喜んで乗った。
 とはいえ、夕隙社の裏の稼業であるゴースト退治の時は、
高校生の連中が居るのでそう無茶な運転はできない。
機材を壊せば千鶴が怒るし、最近加入した深舟さゆりとかいう女など、
少しテールを滑らせただけで烈火のごとく怒りだし、左戸井のアイデンティティまで非難してきた。
煙草も吸えない年齢の女に何を言われても堪える左戸井ではないが、頭に響く声は勘弁だ。
というわけで、左戸井がこの車を満喫できるのは、
月の一度の横浜へ原稿を取りに行く機会だけなのだった。
 半分ほど吸った煙草を灰皿に押しつけた左戸井は、不意に目を細めた。
バックミラーに光が灯ったのだ。
この時間、バックミラーに眩しさを感じる距離まで近づく車は一種類しかいない。
つまり、敵だ。
左戸井はギアを一段落として加速態勢に入った。
ラジオすら点けていない車内に、排気音が響く。
心臓の鼓動にも似た、排気干渉が引き起こす脈動音は左戸井のお気に入りだ。
心とシンクロするようなこの音が限界を迎えるとき、ほとんどの車は視界から消える。
今日もまた、名も知らぬ車を敗北者の列に加えるべく、左戸井は右足に命令を下した。
 だが、バックミラーの輝きは消えなかった。
一度は小さくなった光は、徐々に大きさを取り戻し、一定のところで成長を止めると、その大きさを保つ。
他の車線は空いており、相手の意図は明らかだった。
「なんだよ……ったく。金魚のフンみてぇにぴったり貼りついてきやがる」
 目を皿のようにして走る、といった領域に左戸井は棲んでおらず、
より速い車が居ても追いかけようといった若さもない。
あくまでも、自分が楽しんで走れれば、それで良かったのだ。
だが、こうもあからさまに挑発あおられては面白くなかった。
シートに深く座りなおした左戸井は、両手でステアリングを握り直した。
 追う者と追われる者、あるいは先頭か二番手か。
勝利など意味のない場所で、一夜の称号を求めて二つの鉄の塊は疾走する。
昼間の渋滞が嘘のように車の少ない時間ではあるが、皆無というわけではなく、
暴走などに興味のないトラックが、悠然と巨体を誇示して走っている。
それらの間を、彼らが気づく暇さえ与えずすり抜け、
テールランプに向かって運転手が舌打ちを放った時には、すでに別のトラックを躱し、
車体を沈めて猛然と加速するのだった。
 外見を舐めてかかってきた車は、十分も経たないうちに左戸井のテールランプを見失う。
左戸井の車の性能を見抜き、かつ抜き去るだけの性能と技量を持ち合わせた、
そう多くはないドライバーは、彼を抜き去るときでも彼に敬意を払う。
だが、今夜の敵はそのどちらでもなかった。
「ん? 電話か?」
 排気音と暗黒の世界に没入していた左戸井は、電話の音に我に返ると、
舌打ちをしながら通話ボタンを押した。
「こちら左戸井、どーぞ」
「どーぞ、じゃないわよッ。あんた今どこに居るのよ」
 携帯電話が紡ぐ、魔法を解く十二時の鐘の音は、伏頼千鶴という名の女が鳴らすものだった。
車がカボチャにこそなりはしないが、急速に熱気が醒めていくのを左戸井は感じた。
だが、相手の闘志は未だ衰えていないようで、ヘッドライトの光が目障りにミラーに反射する。
「車ん中だよ。湾岸線でちょっと性質の悪い霊に絡まれてる最中だ。
しつこい野郎でよ、もう一時間くらい絡まれっぱなしだぜ」
「何でそんなことになってんのよ!?」
「知らねーよ!」
 いつになくやる気のある左戸井の声に気づいたのか、千鶴の口調が変わった。
「原稿は受け取ったんでしょうね?」
「ああ、ちゃんと助手席でおねんねしてるぜ。もうちょっと遊んだら編集部そっちに行くからよ、
一服して待ってな」
「遊んでる場合じゃないでしょうがッ! で、どんな霊なのよ」
「どんなって――っとッ、分岐が来たな。こいつがただのボロじゃねえところを見せてやるぜ」
 左戸井は携帯を切る手間すら惜しみ、通話を繋いだまま助手席に放った。
タイミングは一瞬、確実に成功させなければならない。
 相手の車が左戸井の後ろから左に回り、並走しようとする。
向こうのノーズが並んだときが、勝負だ。
あと三秒。
二秒。
一秒。
 左戸井がフルブレーキをかけようとした刹那だった。
左戸井の運転を読んでいたかのように、併走していた車が減速したのだ。
二台の車はノーズをダイブさせて一気にスピードを落とす。
激しいスキール音が深夜の空気を裂いた。
 左戸井の車はその加速性能に比すればブレーキの強化が若干足りない。
サーキットの一秒を削るわけではないから、普段はそれで良かったのだが、この夜はそれが災いした。
サイドミラーが触れそうな距離まで接近してきた霊の車に分岐方向への車線を塞がれ、
左戸井の車は逃げ道を失う。
さらにブレーキを踏み続けるか、一転、加速してコースを逸れるか。
瞬間的に左戸井は決断し、アクセルを踏みこむと同時にわずかにステアリングを修正した。
 急減速から急加速に転じ、不安定になっていた重心が、一気に崩れる。
左戸井がマズい、と思ったときには、車体の後部が側壁に接触していた。
車は激しくスピンし、さらに回転方向を変えて二度、三度と横転する。
死の舞踏は五十メートル近くも続いてから、ようやく終わった。
 天地を九十度変えた車の中で、唯一無事だった携帯から、受話器の向こうの異変を察した千鶴が叫ぶ。
「左戸井ッ!? もしもし? 何が起こったのよ? 左戸井!?」
 答える声のないまま、路上に墓標のように転がる車の横を、無人の車が走り抜けていく。
そのテールランプは、鎮魂歌を歌っているかのように揺れていた。

 東摩龍介の一日は、放課後から始まるといって良かった。
受験まであと一年を切った高校三年生としてはそんな悠長なことをいっていられないはずなのだが、
この暮綯學園に転校してきた初日から始めたアルバイトがことのほか面白く、
意識は自然とそちらに傾いてしまうのだ。
 アルバイトという身分は不安定ではあるのだが、まだそれを実感できる年齢ではないし、
時給は世間一般の高校生と較べてもずいぶんと良く、目下の所お金に困っているわけでもない。
卒業さえしてしまえば、しばらくアルバイトを続けても良いとさえ考える龍介だった。
 そんな事情だから、学校が終わって部活だの予備校だのといった単語が混じる、
同級生達の会話を聞いても緊迫感というものが龍介にはない。
うららかな陽気ということもあって、机に片肘をついて頬を乗せ、彼らの話を聞くでもなしに聞いて、
横着にもその姿勢のままあくびをしようとした時だった。
「何同級生の臭いを嗅ごうとしてんのよ」
 後方から浴びせられた、挨拶にしてはキツすぎる同級生の第一声に、龍介は心ならずも動転した。
横滑りし、壁に激突しそうになる寸前に体勢を立て直し、バトルを仕掛けてきた相手に反撃する。
「かッ、嗅ごうとなんてしてるわけないだろ。いきなり失礼だぞ、お前」
「鼻が動いてたわよ。それに、東摩君にお前なんて呼ばれる筋合いはないわ」
「ギギギ……!!」
 龍介の歯が激しいスキール音を立てる。
世の中に不倶戴天の敵というものが存在するならば、深舟さゆりこそがそうであるに違いなかった。
以前の学校で龍介は女子生徒からの好感度が特別高いというわけでもなかったが、
敵視されたり無視されたりといったこともない。
この暮綯學園でも同様で、深舟さゆりだけが事あるごとに龍介を挑発あおってくるのだ。
理由は不明だ――しかし、バトルを仕掛けるのは常に彼女の方からなのだから、
悪いのは向こうに決まっている。
それこそ争いを避けるために無視をすることだってできるはずなのに、
そこが不可解であり、不愉快でもあった。
「何よ。あんまりじろじろ見ないでくれるかしら? いやらしい」
 龍介の眼球は怒りで曇り、単なるガラス球と化していたのだが、
さゆりにはその輝きが不埒なものに映ったらしい。
 さゆりのとどめの一言でレブリミッターを振りきった怒りを、龍介がまさに叩きつけようとする寸前、
冷静な声が留めた。
「霊も生者も本能には逆らえないってことだな」
「俺は別にこんな奴に本能なんて抱いてないぞ」
 手ずから車椅子を押してやって来た支我に、まださゆりに対する怒りを鎮めきれていない龍介は
ぶっきらぼうに応じた。
その程度で気分を害する支我ではなく、恒例となりつつある龍介とさゆりの、
出勤前のかけあいを愉快そうに見ている。
 大きな眼を細めて龍介を一瞥したさゆりは、未だ遠く及ばないオカルト関係の知識について、
先達に質問した。
「霊に本能なんてあるの? 睡眠や食事は必要ないでしょ?」
「色情霊っていうのが居るのさ。好みの異性を襲ったり、取り憑いたりするとされている。
取り憑かれると欲望の赴くままに行動し、中には衰弱死してしまうケースもあるそうだ」
「何よそれ、そんなの許せないわ」
「なんで俺を見るんだよ。霊の話だろ」
 視線を移されて憤慨した龍介に、さゆりは当然のように言い放った。
「そんなの、生きてる間にいやらしいことばっかり考えてた人間がなるに決まってるからでしょ。
災いは元から断たなきゃ駄目っていうじゃない」
「おッ、俺なんかより左戸井さんの方がよっぽどいやらしいだろ。
あの人この間急に俺の机に来てハサミ貸せって言ってきて、何切るんですかって訊いたら
ヘ……『袋閉じ』って嬉しそうに答えたんだぞ」
「左戸井さんがいやらしいのは最初からだけど、あんた今変なところで『へ』って言いかけたわよね」
「い、言ってないよ」
 龍介の甘いライン取りをさゆりは見逃さなかった。
細い顎を上向け、勝ち誇って言う。
「知ってる? あんた嘘吐くとき丁寧な言葉遣いになるの」
「……!!」
 鮮やかなオーバーテイクに龍介はぐうの音も出ない。
 一対一の心理戦においては、さゆりの方が一枚上手のようだ。
自分ですら知らなかった龍介の癖を把握しているさゆりに、支我は感心した。
「まあ、どうせロクでもないことでしょうから言わなくていいけど」
 手を添えておほほ、と笑い出しそうなさゆりの態度に、龍介はつい大声で反論してしまった。
「言ったのは俺じゃねえって! 左戸井さんがヘアヌード袋閉じって言ったんだよ」
 教室内が一瞬で静まりかえり、幾人かがぎょっとして振り向き、
酷い交通事故でも見るような目つきで三人を見た。
発言者である龍介は顔を赤くしたが、隣で事故に巻きこまれたさゆりは彼よりも濃く、
耳まで赤くしてうつむいた。
そのまま発した掠れた声が、こぼれたガソリンに飛ぶ火花を思わせる。
「いい? 東摩君。あなたが馬鹿なのは勝手だけれど、私達を巻きこまないで欲しいの。わかる?」
「ご、ごめん」
 さすがに龍介は本心から謝ったが、さゆりは事故現場への立ち入りを規制する警官のように頑なだった。
「わかったのなら私達が出ていって五分してから教室を出てきて。いい?」
「な、なんでだよ」
「同じ方向に歩いていったら仲間だと思われるからに決まってるじゃないッ!」
 これには堪えた龍介は、助けを求めてもう一人の同僚を見た。
「じゃあな、東摩。また後でな」
 さらりと言ってのけた支我に、龍介はがっくりと肩を落とすのだった。
 言いつけ通りに五分待ってから龍介は教室を出た。
教室内のひそひそ声が全て自分の噂話に聞こえて、いたたまれない気分になったが、
それを打ち消して回るほどクラスの人間とは仲が良くないので、
レース開始直後にリタイヤしたレーサーの気分を辛抱して甘受したのだ。
それに、五分を待たずに外に出て、万が一さゆりが待っていたら、
より恐ろしい運命が待っていると思ったのだ。
 ところが、結局どちらでも運命は変わらなかった。
廊下を出たところで、支我とさゆりが待っていたのだ。
なんだかんだ言ってもこれが友情というやつなのか、と感激しかけたのも束の間、
龍介の顔を見るなり、さゆりは鬼一歩手前の形相で怒鳴りつけたのだ。
「なんであんたはさっさと来ないのよッ!」
 その主張はいくらなんでも理不尽に聞こえ、龍介は反撃した。
「後から来いって言ったのはお前だろ」
 人は本気で怒ると喉から赤くなるのだと龍介は知った。
いっそ引っぱたかれた方がマシだったかもしれず、
首が変な方向に曲がった霊を視たときよりも怯えた。
 しかし、傍らの支我はさゆりを止めるでもなく、
龍介をたしなめるでもなく、極めて沈痛な表情で告げた。
「左戸井さんが昨夜、原稿を運んでいる途中に霊に襲われて事故ったそうだ。現在入院中だと」
「なっ……なんだよそれ……!」
 龍介は蒼白になって立ち尽くす。
その放心ぶりは、支我などにとってもいささか過剰にも思われた。
もちろん、龍介が他人に無関心な性格ではないのは、
霊をむやみに退治しようとはしないことからも明らかだ。
効率が悪いとしばしば千鶴からは苦言を呈されているものの、
現在では龍介が霊を説得し、成仏させることが基本方針となっている。
それは口先だけの態度でできることではなく、だからこそ支我も彼を評価しているのだ。
 だが、今の龍介は、単に知り合いが事故に遭ったという以上に、怯えてさえいるように見えた。
「ちょっと、顔が真っ青よ。大丈夫なの?」
 さゆりも龍介の異変に気づいたようで、ぶっきらぼうながら気遣っている。
 深呼吸を二度した龍介は、さゆりに頷いてみせた。
「あ、ああ……大丈夫。それで、左戸井さんの容態は?」
「詳しいことはわからないが、とにかく俺たちも病院に行こう」
 龍介は早足で歩きだす。
その足どりに危なげなところはなく、支我とさゆりもそれ以上は龍介に注意を払う余裕もなく、
急いで左戸井の入院している病院へと向かうのだった。



<<話選択へ
次のページへ>>