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港区の病院に到着した三人は、左戸井の病室へと一直線に向かう。
普段なら口論か茶飲み話かわからぬやり取りが行われているところだが、
三人とも混み合ったロビーを抜け、エレベーターに乗りこむまで、一言も発しなかった。
車椅子の支我がいるので、奥の壁を向いて三人は立っている。
壁には車椅子の利用者が後方確認しやすいよう、鏡が張られていて、
龍介達は、お互いの顔色の悪さを確認させられることになった。
「左戸井さん……大丈夫よね」
「行くのは病室なんだから、大丈夫だろ」
あえて明るく言った龍介は、さゆりが震えているのに気づいた。
顔を動かさぬまま、鏡に映る彼女の方を見る。
さゆりは不安を隠そうともせず、睫毛を伏せた。
「怖い……のよ。もし、もしまた……誰かの死を見なければならないとしたら」
龍介はいつも何かというと突っかかってくる彼女の、思いがけず見せた弱さを笑う気にはなれなかった。
年が近い少女の飛び降りを見て一切記憶に残さないというのも別の意味で人間性を疑うし、
実際、一度だけで充分だと龍介も思うのだ。
鏡の反射のせいか、青白く見えるさゆりの顔のやや下方を見ながら龍介は、
少しだけ彼女を思いやりつつ言った。
「それなら、まず俺と支我が見てくるよ。で、死んでたら合図するからお前は入ってくるな」
龍介はいたって真面目に提案したつもりなのだが、
さゆりはカレーの中にあんこが入っていたような顔をした。
「そんなの合図された方がもっと嫌じゃない! もういいわ、覚悟はできたから行きましょう」
ずいぶん簡単な覚悟だと思ったが、沈んでいるよりはずっといい。
到着したエレベーターから下りた龍介は、先頭に立って病室に向かった。
扉に掲げられた名札で部屋を確認すると、扉をノックする。
ところが反応はなく、眉をしかめた龍介はもう一度ノックするが、やはり返事はなかった。
さゆりが制服の裾をつまむのが伝わってきて、まさか、と思いつつ思いきって扉を開けた。
白を基調、というより白一色の部屋に、人影はなかった。
「まさか……」
龍介の左耳に支我の呟きが流れこみ、右の腰のあたりからは、
さゆりが一層強く裾を掴むのが伝わってきた。
軽く呼吸を整えつつ、龍介は部屋を見渡す。
左戸井の荷物らしきものは何もなく、雑誌が数冊、ベッドサイドのテーブルに置いてあるだけだ。
食料と水を残しながら、乗員が失踪したメアリー・セレスト号事件のようだ――
最近得た知識を思いだした龍介は、頭を振って不吉な想像を慌てて追い払った。
「ね、ねえ、どういうことなの」
「部屋が違う……ということはないよな」
さゆりに答える支我からも、常の明快さは失われている。
運転時と打ち上げでビールを頼むとき以外に存在感はないし、
たまに存在感を見せるのはいびきがうるさい時だけという、
まったくもって夕隙社における存在理由が不明な左戸井ではあるが、
どのようなものであっても身近な人間には違いない。
まだ近しい人間の死など、ほとんど見たことがない若者達にとって、
現実を受け入れるのはいささか困難だった。
さゆりが強く裾を掴むため、襟が引っ張られるのも厭わず、龍介は立ちすくむ。
五感の機能も一時低下していたようで、そのため、開いたままのドアから誰かが入ってきても、
声をかけられるまで気づかなかった。
「おいおい、人の病室で何ぼーっと立ってんだ」
三人は一斉に振り向く。
彼らの前には、この部屋の入院患者である、左戸井法酔その人が立っていた。
左足は包帯で覆われ、首にギプスを巻き、顔にもガーゼが当ててあるが、死にそうといった風情はない。
「左戸井さん……!」
「ほれ、通してくれ」
歩きにくそうに杖をついて龍介達の前を通り過ぎた左戸井は、ベッドの端に腰掛けると、
まだ声も出ない龍介達を眺めてにやりと笑った。
「何だよ、幽霊でも出たような目つきしやがって」
やる気のない、気怠げな声はまさしく左戸井のものだ。
揃って彼を見つめた暮綯學園三人組は、同時に大きなため息をついた。
肩から力が抜けるのを龍介は感じたが、それ以上に、
掴まれている裾から、さゆりが脱力するのが伝わってきて、なんとなく可笑しくなる。
もっとも、それで終わらないのはさすがと言うべきか、
自失から我に返ると、深舟さゆりはさっそく反撃した。
「元気そうじゃない」
「元気じゃねぇよ。身体中打ち身で痛くって昼寝もできやしねぇ」
左戸井はわざとらしくあくびをする。
体力が落ちているため寝る、というのならまだしも、左戸井の場合は本当にただ眠いだけのようで、
さゆりなどは心配して損したと本気で思っているようだ。
龍介も同様ではあるが、とにかく無事だったのだから、という安堵が大きかった。
「編集長は来ていないんですか?」
龍介とさゆりと同様に緊張し、脱力しながら、素早く平静を回復した支我が問いかける。
「千鶴なら下で事情聴取を受けてるぜ」
「事情聴取……警察に?」
「何つっても百キロを軽く超えたスピードで派手に事故ったからな。
当然お咎めはあるだろうし、霊車に追いかけられて事故りましたなんて話、警察が信じるわきゃねぇだろ?
上手いこと誤魔化してくれてると良いんだがな」
スピード違反は自業自得だとしても、聞き慣れない言葉が含まれているのを、
霊退治を生業とする三人は聞き逃さなかった。
「霊車って……車の霊? そんなのあるわけないでしょ?」
「車の霊じゃねぇよ。霊の車だっての」
「どう違うっていうのよ」
からかわれていると思ったのか、さゆりの声が尖る。
それでも、自分に対するときはもっととげとげしいのに、とこっそり龍介は思った。
左戸井はパジャマのあちこちをやたらに触っている。
それが煙草を探す動作であると、非喫煙者の三人は気づかなかった。
見つからない愛用の品に舌打ちしつつ、左戸井は話を始めた。
「横に並ばれたんでどんな野郎が運転してるかと思ったら、誰も居ねえ。
しかも俺が高速を降りようとするとブロックしてきやがって、
そいつと勝負するしかねえ状況に追いこまれた」
左戸井は肩をすくめる。
その拍子にどこか痛めたところが疼いたのか、軽く顔をしかめた。
「俺も結構粘ったんだがな、なんせドライバーは車自身だ、操作は速く、確実ときやがる」
左戸井の声に悔しさが滲む。
飄々としている彼が感情を表に出すのは珍しいことで、龍介達は無言で聞きいった。
「霊っていうのは魂を持つ存在が死んで、この世に迷い出てる存在じゃないの?」
「ああ、そうだ。ただし、例外がある。物質霊って奴さ」
「物質霊?」
「……そいつは、後ろでおっかない顔してる奴に説明してもらいな」
龍介達が振り向くと、左戸井も含めた彼らの上司である、伏頼千鶴が立っていた。
左戸井とは異なり、腰に両腕を当てた堂々たる立ち姿だ。
彼女の頭からは、二万ccを超える排気量でアメリカ大陸を横断するトラックが
吹きあげる排気煙のように、怒りの湯気が立っていた。
「来て早々、ナースセンターで文句言われたわよッ!! この部屋の入院患者にお尻触られたって、
何で私がしてもいないセクハラで謝んないといけないのよッ!!」
「そりゃ誤解だ。アレだろ? 看護士のシホちゃんだろ? 出身が北海道っていうからよ、
そりゃ奇遇だねって盛りあがったんだよ。で、話の流れでちょいと腰に手を回してみただけだぜ。
誤解もいいとこだっての」
それをセクハラと言うのではないかと思う龍介の横でさゆりが、
こちらは千鶴ほどの迫力はないものの、やはり怒りで顔を赤くしている。
さらにその横の支我が、彼に珍しくややうんざりしたように訊ねた。
「……左戸井さん、北海道の出身でしたっけ?」
「いや、大阪だけど?」
平然と答えて夕隙社随一の理論派を沈黙させた左戸井は、悪びれた様子もなく言った。
「しかしシホちゃんはダメだったかぁ。ま、しょうがねえ。
もうひとりイイ子がいるからそっちにすっか。おう東摩、お前連絡先聞いといてくれよ」
自分自身にだって彼女がいないのに、何だって他人のナンパに手を貸さねばならないのか。
支我に十秒ほど遅れて龍介もうんざりしたが、何より隣でさゆりが怒りを膨張させているのが
はっきり判ったので、危険を回避することにした。
「それで、物質霊ってどんなのですか?」
ナンパの命令を無視する堅物に呆れたのか、それとも勉強熱心な若手にうんざりしたのか、
左戸井は答える代わりにあくびをする。
大人の沽券に関わると思ったのか、だらしのない男を視線で一撫でして、千鶴が物質霊について説明した。
「物質霊っていうのは、一言で言えば命なき物体を動かす霊のことよ」
「命なき物体?」
「そう。亡くなった持ち主の想いや、時には霊そのものが物質に宿った状態のことをさすの。
今回左戸井が遭遇したのはこのタイプの可能性があるわね。
物に宿る想いや霊は多種多様よ。愛情や愛着の末といったものもあれば、
生前果たせなかった願い、怒りや怨みのこもったものまで様々。
そういったものが宿ってしまった物質は、霊的な存在として、いわば命を吹きこまれた状態といえるわ」
長くなりそうなので龍介とさゆりは部屋にあった見舞客用の椅子を取りだして座った。
車椅子の支我を含めた三人は神妙に話を聞くが、話を振った当人である左戸井は興味なさそうに
窓から外を見たりしている。
彼に話を聞かせたところで無益なのは自明なので、千鶴は聴講生を三人に絞って講義を続けた。
「例えば一九〇四年、フロリダ州キーウエストのオット家に仕えていた、ハイチ出身の使用人が、
その家の四歳になるロバート・ユージーンに贈ったとされる人形が有名かしら。
ロバートは人形をとても気に入って、自分と同じロバートという名前を人形につけると、
楽しげに話しかけて一日中一緒に過ごすようになった。
すると奇妙なことに、部屋がめちゃくちゃに荒らされたり、花瓶が粉々に割れるといった
酷い現象が度々起きるようになった。ロバートはそれを、人形のロバートがやったと言っていたそうよ。
にも関わらずロバートは人形を手放さず、成人して結婚しても変わらずに人形を片時も離さず
傍に置いたという話よ」
薄気味悪そうにさゆりが眉をひそめる。
慣れている支我が無反応なのは良いとして、龍介も無反応なのは、
やはり日本人男子にとって人形というのはなじみが薄いからだろう。
もちろん、これは怪談を聞いて楽しむ会ではないので、千鶴は三人の反応には構わずに話を進めた。
「ロバートの妻アンは人形を嫌ったため、ロバートも一度は屋根裏に人形をしまったものの、
『ロバートが屋根裏部屋だと眺めが悪い』と言って、外が見える眺めのいい寝室を人形のための部屋に
してしまうほどだったの。当然、外からは常に窓際に置かれている、その人形が見えたのだけれど、
外を歩く人々によって、人形が恐ろしい形相になったり動いたりするのが何度も目撃されたというわ。
一九七二年にロバートは亡くなって、人形は寝室に置かれたままだったんだけど、
アンも亡くなって家は売りに出された」
オカルト業界的には有名な事件ではあるものの、年号まで諳んじているあたり、
やはり千鶴はただ者ではない。
おまけに話術も巧みで、すっかり三人は聞きいっていて、彼女は一息ついて話を続けた。
「で、その家を買った家族に十歳の少女がいて、ロバートを見つける。
ほどなくして、人形が勝手に動き回ったり家族に襲いかかるようになった。
人形はイースト・マーテロー博物館に引き取ってもらったけど、
そこでも未だ現役で人形が動いた、表情が変わった、声が聞こえたって観光客が後を絶たないそうよ」
千鶴が話を終えると、うそ寒そうに肩をすくめていたさゆりが、お茶を入れるために席を立つ。
ポットから湯が出る音になんとなく安堵しつつ、彼女は訊ねた。
「現役って……でも、人形に魂が宿るなんていうけど、
それってただの観念的な話ばかりじゃないってこと……?」
「そういうことかしらね。あんたたち、付喪神って言葉を知ってる?」
知っていたのは支我だけで、龍介とさゆりは揃って首を振る。
お茶を飲んで一息ついた千鶴は、若い編集部員にオカルト知識を教示した。
「付喪神っていうのは、長い間使われた物に魂が宿った存在のことよ。
人格や意志を持たない物が意志を持ち、動きだすというのは古来から民衆の間で語られてきた。
私達は生ける者だけが魂を持つと思いがちだけど、物にも魂が宿りうるのだということは
理解しておく必要があるわね。――で、今回左戸井を襲った車の霊もそういった物の霊、
つまり物質霊に他ならないわ」
三人とも真面目に聞いてはいるが、物に魂が宿るなどありえるのだろうかという顔をしている。
まして人形ならともかく、車などにそれほど思い入れができるのか、
免許を持たない二人には全く理解できないのだ。
「何にしても、車を襲うなんて危険な霊、さっさと除霊しないと」
霊といえば退治、という単純な結論を導く部下を、千鶴はたしなめた。
「意気込みは結構だけどね、東摩。問題点があることを忘れてはいけないわよ。それもたくさん」
「問題点……?」
「そう。一つは、ウチで運転できるのは左戸井しかいないって点。
二つ目に、ウチの車は壊れて使えないという点。
次に、走ってる車なんてどうやって除霊するのかという点。
最後は、これが一番重要だけど、依頼人がいないって点よ」
ぐうの音も出ずに龍介はうつむいてしまう。
この素直な反応は実に可愛らしいが、あまりすぐにへこたれるようでも困る。
独力、それが無理なら三人で、とにかく困難に立ち止まらずに打開策を模索する
習慣を身につけて欲しいと考える千鶴は、あえて厳しい態度を取ったのだ。
ところが、そんな千鶴の思惑は、台無しにされてしまった。
「三つ目の問題からだが、奴はただ俺を事故らせようとしたんじゃなくて、
バトルを仕掛けてきた節がある。根拠は、高速を下りようとすると妨害してきたのと、
幅寄せはしてきてもぶつけてはこなかったってところだ。つまり、バトルが奴の未練。
ぐうの音も出ないくらいブッちぎってやれば、諦めて成仏するだろうよ」
「本当かしら……」
どういう風の吹き回しか、熱弁を振るったのは左戸井だった。
苦虫をかみつぶした表情をする千鶴に構わず、懐疑的なさゆりにも強く主張する。
「その場で成仏はしなくても、意気消沈はするだろうさ。そうしたら、そこをブッ叩けばいい」
「車はどうするの」
小千鶴、といった趣のさゆりに、左戸井は薄い笑いを浮かべた。
「一つ目と二つ目は、俺にアテがある。大田区の『松竹梅』って名前のバーだ。
店の奴に俺の名前を出せば通じるから行ってみな」
「バーなんかに運転手が居るの?」
「ああ、通り名はツインエンジェル――腕は確かだ」
「ツインエンジェル……なんか漫画みたい」
夜の高速を疾走する、美少女の天使――モデルと見紛う露出過多のスタイルに、
卓越した運転技術を持つ彼女達がスキール音を残して去るとき、
負けた相手はテールライトに天使を見る――
そんな妄想をする龍介に、誰も気づかなかった。
「左戸井さん、そのバーに行くのはいいですが、事情はどう説明します?
霊の車だなんて言って信じてもらえるとは……」
支我の懸念を左戸井は一笑に付した。
「あァ、そいつは心配すんな」
「心配するなって、まさか……」
「ああ。そういうこった。バーが開くのは十九時だ。まだ時間があるから、その前にここに行ってみな」
「これは……?」
「チューニングショップの住所だ。その店は最高速狙いの連中が集まるらしいから、
湾岸線のことにも詳しいだろうよ」
飲酒と喫煙、それにいびきを掻く以外に使われないはずの左戸井の口が、
極めて役に立っているところを目の当たりにした三人は、
あっけにとられたまま店の住所が記されたメモを受け取った。
「でも、一番肝心な依頼人はどうするのよ」
利益にならなければ動かない。
小なりといえども企業の鉄則を千鶴の次に理解しているさゆりの指摘にも、
凄まじい覚醒をしたように見える左戸井は動じなかった。
「それは千鶴がなんとかするだろ。例えば、他に襲われた車がいるなら、
道路公団にかけあって依頼させるとか」
「お上がそんな簡単にお金を出すわけないでしょう?」
「そこを出させるのがお前の手腕じゃねえか」
持ちあげているのか、それとも丸めこもうとしているだけなのか、三人には判別がつかない。
判ったのは千鶴が額を右手で押さえつつ頭を振りながら、左戸井の提案を呑み、
龍介達に彼の指示通りに動くよう命じたことだけだった。
下りのエレベーターに乗りこむや否や、さゆりが二人に問いかけた。
「編集長って左戸井さんに何か弱みでも握られてるのかしら」
「弱みって、どんな」
「知らないわよ。あんた考えてみなさいよ」
鏡に向かってしかめ面をした龍介は、三秒後に口を開いた。
「……実は、編集長が左戸井さんに惚れてるとか」
「編集長があんな駄目な男の人を好きになるわけないでしょ」
「だからだよ。なまじ仕事ができるもんだから、駄目な男に引っかかっちまうんだよ」
「駄目にも限度ってもんがあるでしょ」
その言い様はあんまりだと龍介は思ったが、さて庇うとなるとどうやれば良いか、
見当がつかなかった。
龍介が腕を組んで左戸井の弁護を考えているうちに、話題は別の方へと進む。
「ところで、あんた免許は取らないの?」
「そりゃいつかは取るだろうけど、高校生って免許取れたっけ?」
龍介が鏡の支我を見て言うと、すぐに答えが返ってきた。
「暮綯學園は在学中は取得禁止になっているな」
「だろ? 別にそんなに焦って取る必要もないと思うし」
なぜだ、と言外に問うと、さゆりは小さく肩をすくめた。
「別に、あんたが免許を取れば左戸井さんの存在意義が減るって思ったのよ」
「追い出したいのか?」
「そういうわけじゃないけど、あんた不思議に思わないの?
あの人私達を現場に運ぶ以外何もしないし、勤務時間中にだってパチンコ行ったり寝たりしてるのよ。
優遇されすぎじゃない?」
再び話題が戻ってきたが、左戸井を庇う方法が見つかったわけでもなく、
龍介は肩をすくめるしかなかった。
二人の会話を間で聞いていた支我が、喉で小さく笑いながら口を挟む。
「左戸井さんは社長と一緒に夕隙社を起ちあげた、創設者の一人だそうだからな。
追い出すとかそういうのは難しいと思うぞ」
「そうなの!? でも創設者って風には見えないけど。っていうか、あの人がパチンコに出かけてるのと
ビールを呑んでるのと寝ている以外のことをしているところを見たことがないんだけど」
「やっぱ編集長が惚れてるんじゃね?」
「あんたみたいなのはそういう願望があるんでしょうけど」
陳腐な、しかしそれだけに世の中の事象の二十五パーセントほどは原因になっていそうな
結論は、さゆりのお気に召さなかったようである。
腕を組み、鼻を鳴らして龍介とは反対側の方を向いてしまった。
勢いよく舞った黒髪が元の位置に落ちついたとき、チャイムが鳴り、
エレベーターは三人を険悪な空気が生じた密室から解放したのだった。
左戸井が示したチューニングショップの第一印象は、夕隙社といい勝負だった。
建物はビルではなく、築年数もそれなりのようだが単独の店舗で、
三台ほどが収まっているガレージも併設されている。
さらに敷地内に置かれている、おそらく改造車が数台あって、地面を揺らすような爆音が鳴っていた。
敷地に入る前から轟く爆音に、すでに不機嫌そうにしていたさゆりは、
爆音の震源地に到達した時点で、犠牲者に襲いかかる呪われた人形のような顔をしている。
話を聞く気など毛頭ないらしく、龍介と支我が店長を探す羽目になった。
四十代と思われる店長は、学生服の三人を客ではないと見て取って落胆したが、
雑誌の取材と聞いて表情を一変させた。
さらにその雑誌がオカルト関係と聞いて再び落胆したが、
とにかく雑誌の取材というのは嬉しいらしく、龍介達を追い返したりはしなかった。
「こんど雑誌で都市伝説の特集をすることになりまして、巷で噂されている、
湾岸線に出没する幻の黒いセダンについてご存じのことはありませんか?」
「黒いセダン……ああ、あの人のことかな」
「ご存じなんですか!?」
いきなり核心に触れられるとは思っていなかったので半分は本気だったが、残りは演技だ。
取材対象の自尊心をくすぐるのは、大体において有効であると龍介は学びつつあった。
「多分ね。黒いセダンだけなら他にも居るだろうけど、湾岸線で速いってなると、
やっぱりウチのお客さんじゃないかな」
店長は控えめながら得意げになっている。
ああいうのは運転手の腕前で決まるのではないのかと、
レースはゲームでしかしたことのない龍介は思うのだが、
現実世界では改造にかけた金額がかなり物を言う。
さらに、改造にも上手下手があるので、非合法といえども速いというのはステータスになるのだろう。
「ええ、僕たちも湾岸線最速ならこの店だって教えられて来たんです。
それで、その人はどんな方ですか? できたらインタビューをさせてもらえるとありがたいのですが」
「うーん……それは難しいなあ。愛想は良くない人だし、前は二ヶ月に一度は顔を出してたんだけど、
ここんとこ来てないんだよね」
店長の情報は、左戸井の情報と矛盾しない。
彼が見た黒いセダンには、運転手はいなかったのだ。
龍介と支我がさりげなく視線を交わしていると、店の中でコーヒーを飲んでいた男が話に入ってきた。
頭髪は緑色で両耳にピアスを開け、服もボーダー系の派手なものだが、
初対面の龍介や支我にも気さくに話しかけてくる。
もっとも、彼の好意の半分ほどにはさゆりへの興味が混じっているようで、
彼の視線はもっぱら彼女に注がれていた。
「あれ? 俺昨日見たよ? 相変わらずワンボックスばっかり煽ってて、感じ良くなかったけど」
「ワンボックスばっかり? どういうことですか?」
異性からの興味を利用する術を、さゆりも最近は学んでいる。
愛想笑いはまだ浮かべられないものの、龍介に代わって質問するくらいは空気を読んだ。
「ああ、何故かは知らないけど他の速い車には目もくれずに、ワンボックスにばっかり絡むんだ。
そりゃ俺たちだってワンボックスは邪魔だけど、あいつは異常だよ。
左右に回りこんだり接触ぎりぎりまで寄せたりして、ほら、
ワンボックスは運転が上手くない奴が多いから、事故ったりしちゃうだろ?
実際もう何件か事故も起こってて、その度に取り締まりがあるし、カンベンして欲しいよ全く」
「昨日見たって本当かい? 店変えられちゃったのかなあ、
特に文句は言われてなかったはずだけど、お得意さんだったのにまいったなあ」
店長が嘆いたところで三人は辞去することにした。
「良かったら今度は俺の取材に来てよ。なんなら湾岸線最速ラップの同乗体験なんてどう?」
客の提案を丁重に受け流しつつ、さゆりは最後に店を出る。
先に出ていた龍介達に追いついたところで、彼女の忍耐は限界を迎えたようだった。
「まだ耳鳴りがしてるわ。まったく、あんな音出して何が楽しいのかしら」
音を出すために改造しているわけではないだろうと龍介は思ったが、
見えている地雷を踏みに行く必要もないので沈黙をたもった。
「それに最高速だなんて言っても、結局やってることはスピード違反なんでしょ?
速くどこかに行きたいなら、電車にでも乗ればいいのに」
車の改造という趣味に一ミリも興味を持たないさゆりの舌鋒は容赦がなく、
店に居た若者も、さゆりを隣に乗せて湾岸線を走る可能性は間違いなくゼロだろう。
この点に関しては龍介もさゆりと意見を同じくし、他人に迷惑をかけてまで
スピードを出そうとする輩の気など全くしれないと思っているので、素直に頷いた。
するとさゆりはタコがお手をしたかのような顔をする。
「なんだよ、その顔は」
「別に、東摩君にも常識はあるんだなって思っただけよ」
「……」
やはり深舟さゆりとは不倶戴天、明日世界が終わろうとも和解はありえないとの思いを
新たにする龍介だった。
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